卒業後は幼児や親とのコミュニケーションを含めて、文書や記録などでも様々な環境で、日本語を駆使しなければならない立場になる学生たちです。
日々の講義の中に「国語学概論」が必修であるため、他の学部に比べると比較的国語には触れることの多い学生と言えると思われます。
母数は100を切るような数で少ないですが、傾向は読み取れるのではないかと思います。
好き(好き、大好き)の多いのは理解するための領域としての「読む」ことです。
好きと大好きを合わせると75%を越えています。
国語の印象深い授業として挙げられたのが、文学作品の教材でした。
これをきっかけに文学作品を読むようになった学生がほとんどでした。
作品名や文章の一部もほとんどの学生が覚えていました。
時間をかけて読み取りをしたり、音読をしたりした授業は感動を伴って鮮明に記憶に残っているようです。
反対に「書く」という言語表現についてはきわめて印象が薄いことが判明しました。
嫌いと大嫌いを合わせると40%を越えています。
詩から意見文、読書感想文や実用的文章と多岐にわたって、指導時間数はかなりあります。
印象としては行事作文を書かされたという思いが強いようです。
夏休みの宿題日記や遠足の後の感想文は楽しく書いた思いはなく、しかたなく書いたという思いで辛かった印象の方が強いようです。
読書感想文については、そのために無理に本を読むことが嫌になり、読書そのもが嫌いになった例がいくつかありました。
「書写」は学生たちの感覚としては美術や工作と同じような感覚で、国語科としての他の領域とは違った感覚を持っていたようです。
授業というよりは行事に近い感覚だったと答えた学生もいたようです。
「聞く、話す」についてはほとんど学習した実感はありませんでした。
小学校の授業内容と言っても、学生の記憶に残っているのは中学年以降のものについてです。
コミュニケーションの基本である「話す、聞く」については学習した実感はなく、また表現することの基本である「書く」については40%を越える者が嫌いだということです。
また、国語の学習で何を学んだのかを確認してみると、その答えはきわめて曖昧なところをウロウロするそうです。
「すらすらと本を読めること、登場人物の気持ちを考えること、字を上手に書けること、漢字を覚えること…」それが小学校の学習だと疑わなかったようです。
教科として指導すべき「国語の力」を系統的、構造的におさえているのが学習指導要領です。
国語の教科書は、それらを骨格として教材を編纂したものです。
国語科の授業で「読めること、書けること、聞き・話せること」が学年相応に行われるだけでなく、他教科の学習や生活の中で活用できてこそ本物の国語の力となります。
小学校では、意図的に「国語科」と他教科や生活と結びつける指導が必須ですし、他教科の教科書は「国語科」の進捗に合わせた表現になっていなければなりません。
同じ学生たちに小学校指導要領と中学校指導要領を提示して比較させたところ、その目標や指導事項の根幹は変わらないことに目を疑っていたそうです。
学生たちとともに言語能力の基礎基本は小学校六年間の国語科教育にあることが確認できたわけです。
幼児期に獲得した母語を駆使して、小学校の低学年から学習言語を学びます。
中学年くらいで基本的な学習言語の習得が完了すると、国語学習以外のところで様々な言語活動をしなければなりません。
学習言語は学校教育で学ぶための言語にしか過ぎず、社会生活を営む上で必要な言語はそれ以外にたくさんあるからです。
主に読書によって、個人的な好奇心と努力によって学習するしかないのです。
学校教育でサポートできるのは読書のための環境つくりまでです。
感想文を書くために義務でやった読書は、読書嫌いを作りかねません。
学習言語以外に社会生活で必要な言語の習得や、身につけた言語の使い方(コミュニケーションの方法)を学習しなければいけません。
国語学習だけでは私たちは日本語を使いこなしてコミュニケーションすることは難しいようです。
しかもせっかく学習指導を受けてきても「書く」「聞く・話す」においては40%くらいが、嫌いと否定的な回答をしていることで身についていないことがよくわかります。
もっと楽しく、しかも本当に必要なことをしっかり身につけるためのやり方があるのではないかと思いますが・・・。