今までは、日本語の中でも特に仮名の誕生についての信頼できる資料が見当たらなかったために大雑把な推測をしてきました。
ここにきて岡田英弘氏の「日本史の誕生」(弓立社)に出会い、その歴史背景を中心にした言語文化論に多大なる納得感を持つようになりました。
特に、日本語の誕生においても自然発生的にはあり得ないと考えていた私にとって、とても心強いサポートに出会った気がしました。
数回に分けて日本語誕生の舞台と、その必然性についてみていきたいと思います。
まずは日本語誕生前の日本(倭国)の状況を主に韓半島(朝鮮半島)との関係においてとらえておきたいと思います。
日本列島と原住民として倭人が中国の記録に姿を現すのは紀元前一世紀頃のことです。
これは紀元前108年に漢が韓半島を征服して、日本列島への貿易ルートを押さえた中国商人が日本列島に進出してきて沿岸の港町の発達を促したことによります。
その後、184年から半世紀にわたった中国の戦乱を避けて、多数の華僑が韓半島の南部に流入して数々の都市を作りました。
華僑は日本列島の商権を握りました。
倭人の諸国にそれぞれあった市場はかれらの支配下にあったといわれています。
邪馬台国もその一つであったといわれています。
304年に起こった五胡十六国の乱で中国が再び戦乱の渦となると、韓半島北部の中国人植民地は高句麗の手に落ちます。
間もなく韓半島においては高句麗から百済が独立し、さらにその百済から新羅が独立します。
日本列島の西部には秦王国という中国人の大入植地があったことが『隋書』に伝えられています。
後の『日本書紀』や『新撰姓氏録』によって見ても、かつて倭国の中心部であった摂津・河内・和泉・大和・山城の平野部の主な集落は、ほとんど秦人(はたびと)・漢人(あやひと)・高句麗人(こまびと)・百済人(くだらひと)・新羅人(しらぎびと)など、いわゆる帰化人によるものでした。
つまり、原住民の倭人は辺境にに追いやられている状況だったといえます。
七世紀までに韓半島から日本列島に流入した人々は、それぞれグループごとに中国語の方言を話していたと考えられています。
しかし、方言とはいっても語彙や文法では大きな差があり、互いの間では話が通じなかったと思われます。
現代の福建人・潮州人・客家人・広東人・海南人がたがいに話しが通じないのと同じように、秦人・漢人・高句麗人・百済人・新羅人の間ではたがいに話が通じなかっただろうと思われます。
商売の契約や記帳には文字が必要です。
また、最低限度のコミュニケーションには、何らかの共通語が必要になります。
七世紀までの日本列島で共通語の役割をしたものは、漢字で綴った文語に近い言語である百済語だったのではないかと思われます。
660年に唐が百済を滅ぼします。
倭国からの百済救援軍は、663年に白村江口で全滅します。
ついで、668年に唐は高句麗をも滅ぼします。
間もなく、唐は韓半島から撤退し、三十八度線以南は新羅に統一されます。
この新しい王国は、高句麗人・百済人・新羅人・倭人・中国人(唐人)の統一体です。
日本列島の雑多な種族たちは、新羅に隷属されて独立と自由を失わないために、倭国王家の天智天皇の下に集結して日本国を作りあげます。
新羅と対抗して独立を維持するためには新羅の公用語である中国語以外に大急ぎで新しい国語を発明しなければならなかったのです。