外国の人が日本語を学ぶときに?となるポイントの一つに両義語があります。
両義語とは、一つの表現で正反対の意味を併せ持つ言葉のことです。
話し言葉でも文字でも全く一緒ですから、一つの意味しか知らない場合は何を言っているのか全く
分からなくなります。
言葉としての両義語の代表が「いい加減」でしょう。
「ちょうどいい(良い)加減です。」と使われるときと、「いい加減な奴だ。」と使われるときはまったく
逆の意味になりますね。
これを日本語に慣れない外国人に使い分けろと言っても無理な話です。
それをもって曖昧な言語だといわれても、「じゃあ、使うな。」くらいしか言いようがありません。
この「いい加減」と同じように両極端の意味を併せ持つ言葉は「いい」、「ない」、「よろしい」、「けっこ
う」、「適当」などそこそこ頻繁に出てきますので、余計に厄介です。
「けっこう」に至っては両極端の意味だけではなく、それこそいろいろな場面でけっこう使われるの
で、ひとつの意味しか知らないと?となってしまいます。
ちなみに、「けっこう(結構)」の語源は漢語で建物の構造・組立や文章の構成を表す名詞です。
これが日本に入って、計画、目論見、準備、支度という意味の名詞として使われました。
やがて、その準備や計画を立派だとかよろしいとかする使い方が生まれます。
さらに派生して、丁寧だとか見事だとかという意味で使われるようになります。
もともとの意味は現代ではもう消えていますよね。
言葉は生きていますので、日々変化にさらされています。
言語学や古典文学でもやらない限りは、昔の言葉の意味は覚えても使う機会はありません。
変わっていくのが当たり前であり、正しい言葉という定義はないのです。
つまりは正しい日本語も存在しないのです。
楽興教育の指針となる文部省や文化庁の答申や資料はありますが、頻繁に見直さないと現実と
かけ離れたものになります。
その手のものはあくまでも実際の使われ方の追認でしかなく、できた時点ですでに過去の記録でし
かないのです。
日本語の素晴らしさの一つに、表現の仕方の豊富さがあります。
精確に伝える必要がある場合はとことん精確に表現することができるのです。
正確ではないのです。
正しいものなどないのですから、精密に確実に伝えるためにどう表現したらいいのかを考えればい
いのです。
この精確という表現は20年以上前に、当時MITの主任研究員でいらした木村・フォンブラウン・ジ
ュンザブロウ先生のワークショップで仕入れた言葉です。
事実を精確に表現することに大変こだわっていたことを思い出します。
一番精確にものを表現するにはそのものを確定させる固有の名詞を使うことですね。
手っ取り早いのは品番・型番です。
作っているところと品番・型番がわかれば、物を間違えようがありません。
次の手段は数字で表現することですね、何の素材が何%で重量が何gで寸法が何cmでという具
合ですね。
特に形状については一般的に知れ渡ったものを例えに使うといいですね。
富士山のような形、たばこのような形、テトラポットを小さくしたような、自動車のハンドルのようなと
いう具合でしょうか。
相手の日本語の理解度の合わせて、表現をより精確にしてあげることは誰でもできます。
おじいさんが孫と会話しているときは自然とそうなっているはずです。
「いい加減」の使い方も少し気を使ってあげれば「まさにちょうどいい加減だね。」や「そんないい加
減な奴では、」とできるはずですね。
それでもだめなら言い換える言葉いくらでもあります。
それが日本語です。
分かってもらいたいから伝えるのですから、伝える側が分かってもらいやすいように表現を工夫す
る必要があります。
「以心伝心」や「一を聞いて十を知る」などの表現があるように、日本人は言葉少なくして相手の言
っていることを理解することを美徳とするところがあるようです。
聞いている方は、聞き返したり、確認することが失礼にあたると感じていることもあるようです。
そのためにも、発信側が気を使いすぎるくらい使ってちょうどいいのではないでしょうか。
そのためのツールは十分すぎるくらいに整っているのですから。
あまりに丁寧すぎて、「バカにしているのか。」と思われないように、ちょうどいい加減が大事だと思
います。