明日は終戦記念日ですね。
小学校の4年生の担任の先生が社会科の先生で、戦争の話をよく聞かされました。
小学校の隣に氷川神社があり乃木希典大将の自筆の大きな碑があったこともあって、特に日露戦争の話しが記憶に残っています。
バルチック艦隊との日本海決戦の話しは、人にできるくらいに鮮明に残っています。
私の父は、徴兵検査に落ちて兵役に行くことができませんでした。
仲の良かった同級生が、志願兵として予科練へ行き終戦が数日遅ければ特攻していたことなどもあり、どんなに聞いても戦争の話しは一切しませんでした。
その父の友人の海軍予備校時代の写真の背景が、私の母校(高校)の校舎だと気づいた時は、不思議な縁を感じざるを得ませんでした。
夏休みの宿題で戦争のことを聞いて感想文を書いていくときにも、父には聞けなくて友達のお父さんに話を聞かせてもらったことを覚えています。
終戦記念日と言いますが、日本にとっては敗戦記念日ですよね。
第2次世界大戦の終戦は世界史的には9月2日となっています。
東京湾上の戦艦ミズーリの甲板で重光外相が降伏文書にサインをした日です。
8月15日は連合国による降伏勧告であるポツダム宣言を受け入れ、天皇による降伏受けれの玉音放送が行われた日です。
この日に関連して記憶に残しておきたいものがあります。
戦後の日本統治について戦勝国によって行われたサンフランシスコ講和会議においてなされたセイロン(スリランカ)のジャヤワルデネ代表の演説です。
記録によれば1951年9月6日の演説となっています。
戦勝国であるロシアからは、日本に平和や自由を与えることは許さないとして、米、英、中、露による日本の分割統治が提案されていました。
これに真っ向から反対したのが、英連邦内自治領セイロン(現スリランカ)代表でした。
参加国の中で最も弱小の島国でした。
同じアジアの仏教国という立場を述べ、参加国に寛容の精神を求めました。
日本に対するいかなる制裁にも反対し、独立を認めて国際社会の一員として迎えるべきだと説きました。
この演説が共感を呼び、日本の独立と自由を保障する修正案が提出されました。
皮肉にもその内容は、当時のロシアそのものが求めていた自由にほかなりませんでした。
セイロンは戦後、日本と友好条約を締結した最初の国です。
訳文にはわかりにくいところや誤字もありますが、スリランカ大使館(東京)の資料をご覧ください。
では勝ち負けについての言葉について少し。
敗戦(ハイセン)とは言いますが、勝戦(ショウセン)とは言いません。
負戦(まけいくさ)とも勝戦(かちいくさ)とも言います。
戦勝(センショウ)とは言いますが、言葉としての戦敗(センパイ)はありますがまず使いません。
敗れるは破れると同じ語源ですね。
本来の勝ち負けは勝敗の方が意味が合うようです。
負は「負う(おう)」の意味が大きくあり、「負ける」は相手よりも劣った立場を受け入れる(負う)と言
い換えることが示されています。