人の思考が言語によってなされるのと同様に、文化を支えているのもまた言葉です。
ある種の文化が消えていくと、その文化を支えていた独特の言葉や使いかたが消えていってしまいます。
また日常生活の場がどんどん便利になっていき、昔ながらのしきたりややり方が消えていくとそれにまつわることばも消えていきます。
意図して文化的な活動や行動そのものを残す努力をしていかないと、言葉だけ残していくことは不可能だということができるでしょう。
書物の中だけで辞書的に言葉だけを残そうとしても、実際に言葉の使われた舞台がわからなければ死語となってしまいます。
やまとことばを日常生活で残すためには、やまとことばを使う場面を残さなければいけません。
「お米をとぐ」という場面があります。
やまとことばでしか表現できない内容です。
研米(ケンマイ)という言葉(漢語)はありません。
最近では無洗米が出回っています。
手間もかからず、水道代も減らせることからエコにも効果があるということで、急速に広がりを見せています。
無洗米を使ってしまえば「お米をとぐ」という行為そのものがなくなります。
お米のとぎ汁もなくなります。
お米のとぎ汁はフローリングの掃除には洗剤よりも効果があります、植木の水やりに使えば肥料
の削減ができます。
こういう副次的な「お米をとぐ」から派生する昔からの行為も消えていくことになります。
やがて「お米をとぐ」という言葉自体が消えていくことになります。
そして言葉の辞典としては「お米をとぐ」という言葉が残っても、行為そのものが忘れ去られると「お米をとぐ」ということがどういうことだったかがわからなくなります。
そうして言葉が消えていきます。
古代のやまとことばは神を敬う行為から始まったといわれています。
やがてその言葉の転用から日常生活の行為を表すようになったと思われます。
「ご飯をよそう」という言葉があります。
いま、どれだけの家庭で使われているかわかりませんが、この「よそう」が美しく「よそおう」を語源としていることをどれだけの人が知っているでしょうか。
そもそも「よそよそしい」とか「心もよそだ」などというように、「よそ」は自分と関係がないことを意味する言葉です。
だからこそ「化けて粧う」ことにもなるのですが、他者を意識して、少しでも自分を美しく見せたいという気持ちは尊いものです。
古代日本では飯を盛るのは女性に限られていました。
本来飯は神に捧げられるもので、女性が飯を盛るという神事に奉仕していたのです。
そこから「飯をよそう」という言葉になっています。
ご飯を茶碗に盛るという行為がなくならない限りは、もとの「よそう」の意味は分からなくとも「ご飯をpよそう」という言葉は残るのではないでしょうか。
文化を支えることばも、舞台がなければ登場できません。
舞台-----日常習慣の見直しから始めて、ことばの力を復権させることで、日本文化の美しい伝統を保つことがはじめて可能になるではないでしょうか。
幸いにも芸能文化の分野において、さまざまな場面でやまとこばは昔の姿を文化を支えることで残しています。
これらを日常生活からかけ離れた芸術として鑑賞のみの対象としてはいけないのです。
落語の世界が、歌舞伎の世界が、狂言の世界が、能の世界が、俳諧の世界が、謡の世界が、カルタ取りの世界がもっと日常生活と隣接していなければならないのです。
言葉だけを継承することは不可能です。
そこに行為が伴わなければ言葉は意味を持たないのです。
文化を支えるものが言葉である以上、その文化を行為として私たちの日常生活にとどめておくことが、やまとことばを少しでも長く繋ぐための舞台ではないでしょうか。
特殊な文化芸能の独特な言葉となった瞬間から一般的な言葉としての寿命は終わり、母親から母語として継承される範疇からは外れてしまいます。
やまとことばを母語としての感性として継承していくためには、母親が日常的に使っている言葉になっていることが必要なのです。
祖父母が同居していたり、近くに住んでいたりすることの多大なるメリットは、子育てのサポートだけではないのです。
日本人の独特な思考を継承するためにも、現実的な行為としての文化の継承を怠るわけにはいきません。
母語として継承する原型は家庭の日常生活の中にあるものですが、それは家庭内だけで作り上げるものでもありません。
やまとことばを繋ぐ舞台のステージは家庭の日常生活ですが、その家庭に文化的な習慣を伝え啓蒙するのはあらゆる場面で可能なのです。
お盆を迎えるこの時期にそれぞれの地域で行われるお盆行事を、その成り立ちから話してみることはまさしく文化の継承ではないでしょうか。
細かな成り立ちは分からなくてもいいのです。
話題にして行事を伝えていくことが大切だと思います。