2013年8月11日日曜日

残す言葉

先回の伝える言葉に続いて今回は残す言葉について考えてみます。

伝える言葉の基本が話し言葉であったのに対して、残す言葉の基本は書き言葉(文字)です。

日本語は表記文字をたくさん持っています。

ひらがな、カタカナ、漢字、アルファベットなど、最近では絵文字や記号文字も文字として考えなければいけないかもしれないですね。


最近では文字を残す場合に手書きするよりも、パソコンで入力してデータとして残すことの方が多いのではないでしょうか。

便利なものができたものです。

入力してキーを一つ押せば勝手に漢字に変換してくれます。

ワープロやパソコンの普及する前よりも、文章に含まれる漢字の割合が増えているとの統計もあります。

自分ではうろ覚えや、間違って覚えていた漢字でも正確に変換してくれますので、手書きでは自信を持って漢字を使えなかった文字まで漢字を使うようになります。

気持ちの中にどうしても漢字の方がひらがなに比べてレベルが上という感覚があります。

これは日本語を使う以上、どうしても持ってしまう感覚ですので仕方ありません。

ちゃんとかける漢字は減っているのに、ますます漢字の使用率が増えています。


漢字、かなの割合やそれによる読み易さのことを語感ということがあります。

語感がいいとか悪いとかという使い方をします。

残す言葉で大切なことはこの語感です。

でも、語感は一人ひとり異なります。

宮内庁で歴史的な記録を残している人は漢字ばかりの文を語感がいいと感じるかもしれません。

幼稚園の保母さんはひらがなのたくさんある文を語感がいいと感じるかもしれません。

語感を決めているのは漢字とかなのバランスです。

もっと言ってしまえば、漢字の配分と使い方ともいえるでしょう。


漢字は一文字ずつに意味がありますし、字を重ねることによってより精確な表現が可能になります。

その代わりに音読みが多くなりますが、文字として見せるときには音のことは考えなくていいので楽です。

漢字をどの程度使うのがいいかは残す言葉の目的によって考えられると思います。

公式な正確さを求められる契約書や論文においてはその特徴を生かすために、漢字の使用率がかなりになると思われます。

文として読むことよりも、書かれていることの正確さが求められるからです。

ひらがなによる曖昧な表現では、目的が達せられないのです。


日本語を論理を展開するのに大変優れた言語であると評価したヨーロッパの学者がいましたが、彼は日本語の一面しか見ていないことになります。

よほど素晴らしい日本語使いが書いたものを見たのでしょう。

また、外国語に翻訳されることを前提にしている場合は、漢字を多く用いて表現を正確にしておいた方が間違った翻訳をされる可能性が低くなります。


一方、散文や小説で文章そのものを読んでもらうために残す言葉は、そのための語感がとても重要になります。

ひらがなの持つ情緒性とおおらかさ、漢字のもつ精確性と厳しさを場面によって使いこなさなければ語感のいい文章にはなりません。

素晴らしい日本語使いは、同じ言葉であっても使用する場面の緊張感や雰囲気によって漢字とひらがなを使い分けしたりします。

漢字だらけの小説は読む気にならないものです。


反対にビジネスの理論書になりますと、ひらがなだらけですと信頼性がありません。

テクニックとして物語的な部分を盛り込んで、その部分では読み易い表現を使って疲れさせない見せ方をすることもあります。

小説や散文が翻訳されると原作の雰囲気を維持することは不可能になります。

翻訳者による違った作品になると言っていいと思います。


残す言葉はそのものの残す目的によって、また読む対象者によって使い分けがされないといけません。

特に極端な場合は除いては、今までよりもほんの少しだけ漢字の使い方を注意してみるだけでいいと思います。

大概の場合、漢字の使い過ぎの方が多いようですので、特に私的な文については漢字を減らしてみることはいいことだと思います。

思い切ってひらがなにしてみると意外と好印象になることってありますよ。