最近、幼児の母語教育の大切さを伝えるときに、幼児期の英語教育についての質問を受けることがとても多くなっています。
前にも触れたことはありますが、直近の状況を取り込みながら何回かに分けて改めて英語との付き合い方について触れていきたいと思います。
(参照:これからは日本語力・・・英語との付き合い方)
今の日本においては英語を学ぶことから逃れることはできません。
理科系でも文化系でも大学入試までずっと英語という科目がついてきます。
はたまた、就職活動においてもTOEICの高スコアは、特に書類審査においては相当のアドバンテージを持っていますし、筆記試験として英語を課している会社もあります。
こうなるといつから英語を学習したらよいか、どんな学習をしたらよいか、学校の学習で十分なのか、いろんな不安が起こってきます。
これに便乗した商売が結構儲かっていることも、いかに多くに人が不安を抱いているかの証でしょう。
結論から先に申しあげましょう。
英語を身につけ使いこなし、英語での思考ができるようになってしまうと、日本人の場合は本来持っていた思考能力が低下します。
英語が母語化してしまうと、日本語を母語としたばあいよりも思考能力が落ちるのです。
思考は母語でなされます。
では母語は何歳くらいまでに形成されるのでしょうか。
基本的な母語は5歳くらいまでに身に付きます。
そして母語を使って母語をより鍛錬しながら、人としての母語がほぼ固定されるのが10歳前後と言われています。
小学校における英語の学習の必修化が、5年生からであることはこのことに基づいているからだと言われています。
つまりはそれ以前には英語には触れないほうがいいということです。
触れ方もあるのですけれどそれについてはまたの機会にします。
今回はなぜ英語が身につくと思考力が落ちるかということを中心にしたいと思います。
日本語は和語と漢語を持ち、両者が組み合わさって豊かな語彙を提供しています。
和語(ひらがなことば)が日常語で漢語が高級語という違いは歴史的に明らかですが、もう一つ大きな違いがあります。
それは漢語のほとんどは名詞だということです。
ごく一部のもので漢字の音読みで動詞になっている、「講じる」、「牛耳る」、「論じる」などがありますが、基本はほとんどが名詞です。
「する」がついたり後ろに「な」がついたりして動詞や形容詞になったりはしますが、元の形は名詞です。
つまり、ひらがなである助詞はもちろんとして、動詞、形容詞、指示詞などは和語しかないのです。
漢字は数が多いうえに漢語は通常では漢字2字で表されるため、漢語の種類は多くて数えられないくらいです。
それでも覚えるのにさほど苦労をしないのは、一文字ずつに意味があるからです。
したがって微妙な違いを表すのに大変優れています。
例えば、和語では「開く」一つでも、漢語では開く物によって「開店」、「開場」、「開校」、「開港」、「開講」、「開山」などを使い分けできます。
最近多い英語由来の外来語もまた、ほとんどが名詞です。
日本語に入った英単語は、一般に漢語より意味が広いものばかりです。
例えば「オープン」という単語一つで先程の「開店」、「開場」などの全てを置き換えることが可能になってしまいます。
日本人は、意味が広い和語の隙間を、千年以上かけて意味が狭い漢語で埋めてきました。
このことが日本語の幅をぐっと広げたわけですが、今後英語由来の外来語を増やしても日本語は豊かにならなりません。
英単語は和語と同じく意味が広いからです。
むしろ漢語を押し潰していくので、幅は狭まるばかりになっていきます。
今まで区別していたものをしなくなる訳ですから思考がどんどん曖昧になっていくのです。
いくつもある漢語による微妙な違いを表現したものが、英語では一語になってしまうのです。
こんなデータがあります。
ネイティブ同士が会話している内容の90%を理解しようとしたときに、それぞれの言語でいくつくらいの言葉が分かれば理解できるかというデータです。
フランス語では2,000語、英語では3,000語だそうです。
日本語では何と10,000語が必要だそうです。
言語としての大きさがまるで違うんですね。
日本語を母語とする者はいつでも英語を使いこなすことができるようになるそうです。
英語を母語とする者は永久に日本語を使いこなすことはできないそうです。
当然ですよね、思考は母語でしかできないんですから、もともと区別のないものを分類して表現することなんかできる訳がないのです。
5歳を越えてしまえは母語の置き換えはできません。
2つの母語の候補を持って育ってきても、5歳までに一つにしないと残った母語の成長に問題が残るといわれています。
日本語を母語として持っている私たちは、英語の学習は最低限にしないと思考能力が落ちるかもしれないんですね。
でも、大丈夫ですよ。
中学校以降は母語が書き換えられることはありませんから、英語で思考することは生涯ありません。
母語である日本語で思考したことを第二言語としての英語へ翻訳するだけのことです。
きめ細かく思考されたものを結果として大雑把に表現するわけですから、使う言葉さえ覚えてしまえば訳ないことになりますね。
いくつから始めても、核になる言葉さえ覚えてしまえば英語が使えるようになるのはこういうわけなんですね。