主格を表す助詞(格助詞)としての「は」と「が」の存在は、母語としての日本語を持たない者にとっては何とも分かりにくいものとなっています。
また、この「は」と「が」については専門家の間でも様々な意見があり、まとまっていないのが現実です。
「既知と未知」や「対比と排他」などの使用法についての貴重な意見も存在しますが、あくまで部分的な使用法についての意見であり、なかなか包括的な納得感のある使用法には巡り合うことがない現状です。
例を見ながら考えていきたいと思います。
「既知と未知」については一番一般的に知られている用法です。
初めて登場したものには「が」が使われ、すでに登場し既知のものとして扱われる場合には「は」が使われます。
例:彼が吉田君です。彼は電話をかけます。
吉田君が初めて対象として登場する場面です。
いったん「彼が」という形で登場すれば、以降は「彼は」「吉田君は」という平常文として「は」の用法ができるようになります。
これとは別に既知となっている場合でも使われる「が」に「対比と排他」の「が」があります。
この場合は平常文として「は」を使うこともできますが、対象が他と比べて際立った物であることや唯一のものであることを強調する場合に「が」を使います。
例:山は遠くに見えます。 (一般的に山と言うものは遠くに見えるものです。)
山が遠くに見えます。 (遠くに見えるものは、沼でも小屋でもない他ならない山というものです)
以上の二つの使い方に共通する感覚から、「は」と「が」の包括的な使い方を説明した意欲的なものもあります。
それによれば、「が」かついた場合には「は」がついた場合に比べて、その次の内容をしっかり確認しないといけないという感覚になると言います。
実際に読んだり、聞いたりしてみると確かにそのような感覚になることが理解できます。
なぜ、そのように次の内容をしっかり確認しなければと感じるのかについてこのように説明しています。
「が」は受ける語を客体として扱うことになるため、なんの対象としての客体であるのかを確認するまでは不安が残ります。
「は」がついている場合は受ける語は絶対的な主体者であり、「〇〇は、」という形を見ただけで平常文としてある程度の安心感を持ってしまうようです。
会話で展開されている世界や文で語られている世界においては、一方的に主体からの見方だけで描かれるととても不安になるようです。
同様に客体だけの見方で表現され続けることも、不安定さを感じさせることになるようです。
会話にしても、文章にしても対象に関して触れている間が長いほど、同じ対象に対しては主体としてと客体としてのバランスを取ろうとする力が働くようです。
このようにして見てみると、「既知と未知」の「が」はまさしくそれまで主体としては存在しえなかった対象を客体としてとらえた「が」であり、ひとたび「が」で登場すればその対象は、次は主体としての扱いができるようになります。
また、「対比と排他」の「が」についてもまさしく客体としての対象を強調・限定することにほかなりません。
「は」と「が」についてきちんと論理立てて外国人にも分かるようにみていくと、試みたように大変難しいことになります。
しかし、母語としての日本語を持っている私たちはこんな難しい理屈がわからなくとも、感覚で「は」と「が」を使い分けることができます。
言葉は常に変化しています。
変化している最中では、理屈で説明できない使い分けもたくさん出てきます。
言葉は現実に使われているやり方にどんどん変わっていきます。
そこは理論よりもはるかに現実的です。
理屈よりも感覚のほうが実際の言葉を左右することが多いようです。
おかしな変化によって継承している言葉を崩さないためにも、2000年を超えて継承されている日本語の恩恵にあずかるためにも、母語としての感性を磨いておきたいですね。