今日は話し言葉における「間」についてすこし・・・。
プロの役者や話し手が意識して作る「間」とは異なった、現代の日本語の言葉が持っている「間」について考えてみたいと思います。
私の尊敬する日本語使いの井上ひさし先生は次のようなことを言われています。
「私は芝居も書いていますが、芝居はやまとことばでないとだめなんです。
漢語ではお客さんの理解が一瞬遅れます。
演劇の場合、時間は止まることなくずーっと進行していきますから、お客さんがちょっとでも考え込むと、その考え込んだ間だけ、続くセリフが聞こえなくなります。
そうすると観客の意識に、ぶつぶつ穴があいてくるわけですね。
それを避けるために、なるべく漢語はやまとことばに言い換えています。」
「やまとことば」は漢語が入ってくる前に使われていた、人の生活の基本的な行為を表す言葉と思えばいいと思います。
ほとんどひらがなで表される言葉ですね。
漢語というのは完璧にマスターしているつもりでも、私たちの頭の中で何かが起きているようです。
おそらく0.1秒とかそのくらいなんでしょうが、置き換えとか通訳とかそういうことが起きているのではないかと思います。
芝居は常に言葉が流れていきますから、一瞬でも思考が途切れると(言葉を聞き漏らすと)素直に入っていけなくなります。
前後の脈絡や役者さんの動作でつながっているうちはいいのですが、こういうことが何回かあると頭は疲れますから拒否するようになります。
ですから漢語の多すぎる芝居はつまらない、面白くないのです。
これが外来語になるともっと顕著に出てくるようです。
「それ、きまりだろう、きみ」というとピタッとくるところを、「それ、規則だろう、きみ」というと一瞬「きまり」よりも理解が遅れます。
これが「それ、ルールだろう、きみ」となると観客は分かるのですが、頭の中で何かが動いている感じになるようです。
井上ひさし先生はこれを「頭の中で細胞一個分くらいが、ウッウッと動くような感じ」と表現されています。
この「間」ができてしまうと、影響を受けるのはその次の言葉です。
「間」のおかげで次の言葉の最初の部分を聞き逃すことになります。
聞いている人の思考が途切れないようにするためには、どうしても漢語を使う必要があるときには、そのあとに「間」をとります。
こんなことが頻繁に起きれば、穴だらけになってしまいます。
そうは言っても「やまとことば」だけで伝えることも無理がありますので、漢語や外来語が入って来ることは想定しておかなければなりません。
その場合は「間」をとることと同時に、耳以外の感覚を使ってもらえるようにすることです。
よくあるのは目です。
口で言葉を発しながらその言葉を板書したり、映像で流したり。
芝居であればのぼりや垂れ幕に書いてあったりで、目でもわかるようにすることです。
特に漢語については造語力がありますので、文字を見るととても理解しやすくなります。
場合によっては臭いや味や触れることなど、ほかの感覚によって補うこともできるでしょう。
一流の役者さんは自分で意識をしなくとも、観客の感じ取っている「間」をつかんでいます。
来ている観客の感じ取っている「間」に合わせて、セリフの「間」を調整しています。
毎回おんなじではないんですね。
日本の芸術は昔から「間」をとても大切にしてきました。
間合い、間がいい、間が悪い。これらはみんな「やまとことば」です。
漢語や外来語の前から伝わっているものが、これからさらに大切なものになっていくのかもしれませんね。