2013年5月20日月曜日

音読のすすめ

日本語はすべて母音で終わります。

ですからきちんと発音すると、とても大きな感じがして美しく響きます。

外国の人は自国語と比べて、そのように感じるようです。

そして強弱のアクセントがほとんどなくてリズムも等しいですから、聞いているとタッタッタッタという感じになります。


私が小学校のころは国語の時間は皆で声を揃えて教科書を読むという授業がありました。

新しい章にはいると「では、〇〇さん読んでみてください。」とさされて、教科書の文章を声を出して読みました。

私なんかは赤面症がありましたので読んでいるうちに真っ赤になってきて、それが自分でもわかるものですから恥ずかしさからますます声が小さくなってしまいました。

むかしの先生は優しかったですね。

「はい、ありがとう。よく読んでくれましたね。」と言って、間違えて読んだところもその場ではあえて指摘しませんでした。

今度は先生が正しく読んでみせて、みんなでそれをまねて斉読ですね。

私が間違えて読んだところにくると「ここは、こう読んだほうがいいですね。はい、皆で読んでみましょう。」といって間違えを優しく修正してくれました。


朗読の授業もありました。

こういうことを何回も繰り返してやるわけですから、子供たちは日本語の発音を自然にしっかり身に着けていきます。


いま小学校の国語の時間を見るとそんな授業はほとんどありません。

教科書の文章自体が腑抜けたものが多くて、井上ひさし先生をして「僕の文章ですら載るのですからどうかしてます。」と言われています。(もちろん謙遜ですが・・・)

気の抜けたエッセイのようなものが多く、音読しても面白くないのです。

日本人が長いこと伝えてきた素晴らしい音を持った日本語、たとえば「祇園精舎の鐘の声・・」「春はあけぼの・・」「最上川・・」でもいいから、そういう文章を先生が読み子供たちにも読ませることがとても大切なことだと思います。

そういった授業とともに駄洒落(語呂合わせ)についても授業でやってもよい日本語の文化ではないでしょうか。

なぞかけはかなりレベルの高い言葉文化だと思います。


電車の中で聞いていると若い人の言葉・・・発音・・・がわからないことがあります。

日本語をしゃべっていることは分かるのですが。

決して、若い人の言葉が悪いといっているのではありません。

彼らには彼らの立場や理由があってそういう発音になっているわけですから・・・

じゃ、そのままでいいのかというとそれではやはり困るわけです。

もし、10歳の孫と70歳のおじいさんとの間で会話が成り立たなくなったとしたら、恐ろしいことではありませんか?

若い人にとってむかしの「やまとことば」は外来語と同じように受け取られるかもしれません。

むかしの言葉が全く新しい言葉として受け取られるかもしれません。

しかし、母語として日本語を持っている限り、理屈では分からなくとも感覚では理解できるはずです。

世代を超えたコミュニケーションは、世の中の変化が激しい現代でこそ本当に大切なものになってきています。

世代を超えた接触ができる機会がますます減ってきています。

双方の歩み寄りは必要ですが、大きな影響が出ないうちに少しずつでも気づいた者から発信し行動することが必要でしょうね。