先回は思考は母語でなされるということを書きました。
私の場合は、英語でレポートを書いても、元の思考は母語である日本語でされています。
その場合の英語はまさしく表現するための道具ということができるでしょうが、母語は道具ではありません。
思考そのものになります。
したがって、英語を学んで翻訳される語彙やニュアンスは増えたとしても、思考力そのものは変わらないわけですね。
母語が身に付き始めるのは3歳前後と言われています。
それ以前は母語の池に浸っている状態で、ほとんど条件反射での対応だそうです。
10歳前後までに母語の基本を身に着けていきます。
ちょうど脳が一気に発達する時期とほとんど一緒ですね。
母語を発しながら、会話をしながら、人の母語と比較しながら身に着けていくことになります。
会話と言ってもこのころは言葉を聞くだけであって、むしろ自分の母語を発して人の反応を確かめている状況です。
そして少しずつ複雑な思考をすることができるようになってきます。
小学生の中学年くらいの頃を思い出してください。
算数の文章題が苦手な子は、国語が苦手ではなかったですか?
国語が得意な子は感性や体力を別にしたすべての教科をそつなくこなしていませんでしたか?
この時期に母語の確立(母語の取得と、自分の母語と周りの言葉との違いの確認)が中途半端だと、小学校高学年から先に増えてくる思考することへの対応が遅れることになります。
今は、小学校高学年から英語の授業が始まります。
もちろんこなせる子もいると思いますが、母語の確立・思考力の醸成に一番大切な時期に思考方法の異なる他の言語を学ばせることに大変な不安を抱いています。
ひらがな、カタカナ、漢字、アルファベット・・・日本語にはいろいろな文字や言葉が使用されていますが、私たちは感性でそれを使いこなしています。
発音することにおいては非常にやさしい言語の部類に入る日本語は、書くことになった途端に世
界で最も難しい言語のひとつになってしまします。
日本語が公用語になりえない一つの原因でもあります。
言語にはおもに語彙と文法によって構成されています。
語彙はオープン系で他の言語との行き来が頻繁にされます。
文法はクローズド系で他の言語とまじりあうことはありません。
語彙としての他の言語の取り込みは増えていく一方でしょう。
反対に昔ながらの日本語ならではの語彙が減っていくことになるのでしょう。
文法は文化的な侵略を受け日本語が消えない限り、省略されていくことはあっても変わりません。
思考のための唯一のツールである母語・日本語についてもっといろんなことを学んでおけばよかったとしみじみ思っています。
あまりにも当たり前にそばにありすぎて、改めて考えてみることをしてきませんでした。
学ぶことに遅すぎることはないので、日本語についてのことにアンテナを張っていこうと思っています。
どんな切り口があるのか楽しみですが、きっといろいろな学びと気づきが蓄積されてきています。
特に他の言語と比較したときの日本語の特徴。
それこそが日本語を母語とする私たちの思考の特徴でもあるわけですね。
休日ブログを中心に残していきたいと思っています。