最近、若い人たちの間でも短歌がブームになっているとニュースでやっていました。
日本語の感覚を磨くにはとても良い方法だと思います。
日本語としての表現技術は和歌(主に短歌)によって磨かれてきたので、短歌を詠んだり考えたりすることはその歴史技術に触れることになります。
古くは文字をもたなかった「古代やまとことば」の時代にも歌が詠まれてきました。
色々な形式の歌が残されていますが、その基本は五七五七七の短歌形式となっています。
仮名という文字の表記形式が整ってからは記録として残されることでその技術が継承されていくことになります。
漢字は「やまとことば」の文明にはなかった先進文明の技術感覚を日本語に付け加えてきました。
仮名だけで表記される短歌は外来語としての漢語を排除した純粋の日本語文化による感性で作られてきた世界なのです。
いかに漢字による表現が尊ばれようとも、どんなに身分のある人が詠もうとも、和歌の表記は全てが仮名で行なわれてきたのです。
漢字に触れることができなかった人まで和歌を詠むことはできたのです。
「万葉集」を受け継ぐことを意識して編纂された最初の勅撰和歌集である「古今和歌集」以降、二十一代にわたって残された勅撰和歌集には音と文字による日本語表現の技術進歩の歴史を見ることができます。
少なからず物を書くことを真剣に行なったことのあるものにとって、五音七音の日本語の響きや語呂の良さは技術を通り越した感覚として受け入れやすいものとなっているはずです。
語呂合わせなどの表現技術や言葉遊びなども短歌の舞台で磨かれてきたのでものです。
(参照:沓冠(くつかむり)の技術を見る)
わたしのように曲を作るものにとっても歌詞については全く同じことが言えます。
作る側にとっての受け入れやすさは同時に受け取る側の理解のしやすさにもつながるものです。
名曲の歌詞に漢字の音読み熟語が使われていることがきわめて少ないのも日本語の感覚が共有されているからではないでしょうか。
SNSの普及によって文章を書く機会が増えています。
しかも「いいね」をたくさんもらおうとすると文に工夫が必要となります。
写真だけで訴えるメディアもありますがやはり一文が添えてあると伝わり方が違ってきます。
短い文章力を磨くためには短歌を詠むことがとても効果的です。
しかも一人よがりにならずに投稿して人目にさらされることで評価としての「いいね」を受けることになります。
SNSに投稿して「いいね」をもらうために短歌を読み始めるというなんとも想像を超えた繋がりが起こっているのす。
しかし、結果として短歌に結びついていることこそ本当に歓迎すべきことではないでしょうか。
漢字やアルファベットなどの先進文明を取り込んできたことで希薄になってきていた日本語独特の感性に、異なったアプローチからではありますが一番遠い存在と思われていた若い人たちが自ら取り組もうとしているのです。
しかも、何世紀にもわたり日本語文化の表現の基本技術を磨いてきた短歌という舞台を選んでいるのです。
中にはそのまま短歌を投稿していることもあるようです。
日本語表現の技術などと小難しいことを考えなくても、短歌という形式を踏襲するだけで自然に日本語の基本的な感覚に触れることになるのです。
五音七音でわかりやすい言葉をつなごうとすると音読み漢字の熟語が邪魔になってきます。
それは読んだ時や声に出した時に自然に感じられるものとなります。
もちろん、現代の流行り言葉やアルファベットを利用したりする場面も若い人たちは得意だと思いますが、その違和感は短歌に触れているだけで意識しなくとも感じられるものとなっているのです。
「やまとことば」に一番遠いと思われていた若い人たちが、自分たちで「やまとことば」を磨き上げた最高の舞台への参加をしてきているのです。
なんと素晴らしいことではありませんか。
願わくば良き師や良き手本に恵まれて欲しいものです。
普段では口にすることすら難しい想いも三十一文字にすることによって伝えやすくなります。
そんな効果を感じてる人も増えてきているようです。
季語を必要としない分だけ俳句よりも取っ付きやすのかもしれませんね。
古くて新しい日本語の道場が短歌ではないでしょうか。
若い人たちと一緒に楽しんでみませんか。
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