2016年11月2日水曜日

教わらなかった、日本語の使い方

あらゆる場面で言語間の垣根が崩れ始めていると思われます。

日本語の「ありがとう」に当たる言葉を5ヶ国語以上で言える人もかなりいるのではないでしょうか。

2020年の2度目のオリンピックを前にして近年特にインバウンド(来邦者)に注目が集まっています。


東京駅近辺を歩いていても話しかけられる言語は英語だけではなくなってきているのが現状であり、私の住んでいる埼玉県南部でも毎日のように英語以外の言語が飛び交っています。

相手に合わせることを基本的な感覚として軸にしている日本の感覚では、自分のことを伝えることよりも相手のことを理解することに意識が行ってしまうのは仕方のないことです。

同じ環境で中国語を母語とするメンバーがいると自己主張の強さに圧倒される経験は多くの人が味わっているのではないでしょうか。

欧米の言語を母語とする人たちの自己主張には慣れているものの、見た目にも日本人と区別のつかないような彼らの強烈な自己主張はそのギャップにも強烈さを感じる原因があると思われます。


日本語を母語とする者だけの中では通用していた暗黙の基本的な言語感覚が彼らとの間では通用しないものとなっているのです。

私たちが教わってきた日本語の使い方は、日本語を母語として持っている人たちの中でしか通用しないものです。

言語が異なれば、それぞれの言語が持っている基本的な感覚が異なるのは当然のことです。

言語が持っている基本的な感覚は、その言語を母語とする人たちの天性の感覚ともいうべきものとして存在しており、そこにはその言語が持っている歴史的な精神文化が反映されたものとなっています。


世界の言語環境の中で、日本語の環境は他の言語とは大きく異なった環境の中で継承されてきたものです。
(参照:日本語の感覚を確かめる

この言語の持つ基本的な感覚は実際に表現することはとても難しいものになります。

日本語を母語とする者同士の間では言葉にする前の当たり前の感覚として意識することすらないものですので、言葉で表現すること自体がほとんど行われていないからです。

他の言語との関係において比較言語学などの分野において専門的に扱わなければ必要としないものではないでしょうか。

まさしく、学校教育の日本語の環境では触れる必要のなかったものになります。


実際のこの感覚は、母語としての日本語を身に着けていく間に自然に身につくものであり、どんな日本語を母語として持っているかによって人によって微妙に異なっているものでもあります。

しかし、その異なり方は他の言語との接点においては問題にならない程度のものであり日本語の持つ感覚として一括りにしてしまってもまったくかなわない程度のものとなっています。


日本語の持っている相手を理解しようとする強い感覚は、自己主張の強い言語との接点においては苦労をすることになります。

一方的に自己主張を繰り返されても、それを理解できないのは自分の理解力がないからだと思ってしまいがちになるからです。

自己主張の意識の強い感覚を持った言語の話者のほうは、「こいつは俺の言っていることが分からないな。」と簡単に切り替えることができることに比べるととても面倒くさい感覚になります。

しかも、それが言語が持っている基本的な感覚だと知らないと「相手の言っていることが分からない自分が悪い。」という罪悪感すら持ってしまうことになりかねません。

さらには、そんな思いをしたくないために外国語を学ぼうとしたりしてしまうことにもなります。


私たちは、日本語を母語とする環境の中での日本語の使い方しか教わってきていないのです。

他の言語との接点では日本語の使い方が違ってこなければならないことになります。

それは、具体的な日本語としての言葉や用法を変えるということではありません。

日本語が持っている基本的な感覚を相手の言語の感覚に振り回されないようにするということになるのです。


日本語が世界で一番自己主張の強い感覚を持った言語であれば、何も問題はありません。

どんな言語と触れ合ったとしても日本語の感覚でそのまま感じていれば何のストレスもないからです。

ところが日本語の持っている基本的な感覚は相手を理解することが自分を理解させることよりもずっと強いものとなっているのです。

言語の持っている基本的な感覚はそれに従わないと大きなストレスを感じることになります。

さらにその感覚に対してある程度の納得が得られないと同じようにストレスを感じるものとなっています。


つまりは、日本語の持っている基本的な感覚を裸のままで他の言語と触れ合うとストレスをためることになってしまうのです。

日本語の持っている基本的な感覚は先進文明との接点が少ない原住民の言語感覚に近いものがあります。

それは、自然との融合であり自然の中で生かされている自分を感覚として持っているものであり、自然すらもコントロールしようとする自己主張の強い感覚とは異なるものとなっています。

それは、歴史や精神文化的に生きていくための脅威が他国や人による侵略よりも自然による災害のほうが強かったからではないでしょうか。
(参照:日本語の感覚に迫る


相手の持っている母語によって日本語の持っている基本的な感覚が受ける影響も変わってきます。

これに対処するための日本語の使い方など教わった記憶がありません。

日本語だけの環境のおける日本語の使い方とは異なったものが必要になります。

意識しないうちにストレスから自分を守るためにも相手の持っている母語の感覚を知っておくことは大切になります。


細かく言えば英語や中国語であっても一人ひとりの母語は微妙に異なっているのですが、日本語の感覚に与える影響としては大括りで構わないと思います。

少なくとも日本語語が持っている基本的な感覚である相手を理解しようとする感覚に対してストレスを与えるような強い自己主張的な感覚があるのかどうかを知っておくっことは大切だと思います。

そのうえで、それに対応できる日本語の使い方で思考の上からストレスを感じないで済むようにしたいものです。


日本語による表現の豊かさは話し言葉においても文章においても簡単に外国語に翻訳できるものではありません。

直訳的に翻訳されてもかまわないような日本語の使い方も身に着けておく必要があります。

ネットの世界では勝手に翻訳されて読まれています。

日本語話者同士の中でも問題になるような表現もありますが、知らないうちに翻訳されたものは勝手に知らないうちに独り歩きをしていきます。

気を付けて発信していきたいですね。



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