したがって「気づき」は特別な環境や偶発的な触発に頼らなくとも、自分で意識して言語をコントロールすることで行なうことができるものではないかと思ってきました。
何となく気になっていた「気づき」のメカニズムについて、言語を軸に見ていくことによって言語の使い方から「気づき」を導くことが可能であることがわかりました。
意識した言語活動から「気づき」を引き出せるのではないかという方法を見ていきたいと思います。
ここでどうしても必要なのが「カテゴリー」という捉え方になります。
先回も確認した通りとても重要な概念の言葉として「カテゴリー」を扱っているのですが、未だに自分の基本語で説明でないものとなっています。
(参照:「カテゴリー」で気づいたこと)
感覚としてはなんとなく理解しているつもりなのですが、きちんとした日本語の基本語ではうまく説明しきれていない段階だと思います。
ここではそのまま「カテゴリー」として表現していきますので、私の考える「カテゴリー」がうまく伝わったとしたら嬉しいと思います。
「気づき」には二つのパターンがあると思われます。
一つは、自分では持っていなかったり知らなかったりした言葉によって刺激されて、今まで持っていなかった新しい「カテゴリー」が導き出されていく場合です。
この新しい「カテゴリー」には今まで持っていた言葉に対しても新しい「カテゴリー」としての視点からメンバーに加えられることが起きてくることになります。
もう一つは、今まで持っていた言葉に対してその言葉が持っていた「カテゴリー」とは異なった新しい「カテゴリー」が設定される場合です。
現実的にはその言葉が持っていた今までの意味とは異なった新しい意味を加えることになります。
一つの言葉がいくつかの意味を持っているということは、その言葉がその数だけの「カテゴリー」に属しているということになります。
たとえば「手」という言葉は体の一部を表すというカテゴリーに属している言葉でもありますし、「話し手」などという使われ方においては人を表す意味として使われてもいます。
また、「手をこまねく」などという使われ方においてはやり方や方法を表す意味でも使われています。
言葉が複数の意味を持っているということは、見た目や音が同じ言葉であったとしても複数の「カテゴリー」に属している言葉であることになります。
そして、言葉がどのカテゴリーに属しているのかは学習や経験によって同じ言葉に対しても一人ひとり異なったものとなっています。
もちろん国語として学習してきた言葉は意味においては非常に共通性が高いものとなっているわけになりますが、その同じ言葉が他のどんな「カテゴリー」に属しているのかは個人によって違ったものとなっていることになります。
言葉が属している「カテゴリー」はそのカテゴリーについている名前が基本語である場合もあれば具体的な名前のない概念的なものであることもあります。
さらに、言葉の持っているカテゴリーは視点によって多くの階層をなしているものでもあります。
「手」は体の一部のを表わす「カテゴリー」のメンバーですが同時に「指」や「掌」という言葉をメンバーとする「カテゴリー」としての名前でもあることになります。
また、体の一部を表す「カテゴリー」としては「手」は「肘」や「手首」という言葉と一緒に「腕」という「カテゴリー」のメンバーでもあることになります。
いちばん初めに「手」という言葉を覚えるのは体の一部の名称としての意味であり、具体的に目の前に指し示すことができる対象としての「手」だと思われます。
このカテゴリーにおける「手」の存在は日本語を母語とする人にとっては共通して持っているものとなっていると思われます。
自分のなかで「手」に対してこの「カテゴリー」のメンバーとしてしか意味を持っていない場合には、「その手は食わない」という表現に出会った場合には「?」となってしまいます。
体の一部としての「手」に対して食べるというありえない行動が伴ってくることになるからです。
ここでは「手」と同様に「食う」という基本語の存在も大きなものになっています。
人の基本的な動作を表す言葉としての「カテゴリー」としての「食う」しか持っていないと「その手は食わない」は理解が難しいものとなってしまいます。
ところが「その手」の「手」にやり方・作戦としての意味があることが分かると「食う」が実際に食べ物を口にする行為ではなく経験することであったり出くわすことであることが比較的容易に推測できます。
それは食べ物を口にするという意味が属する「カテゴリー」が経験する(やってみる)という意味が属する「カテゴリー」と感覚的にそれほど遠い存在ではないからになります。
体一部としての「カテゴリー」である「手」とやり方・作戦の「カテゴリー」としての「手」は、それに比べるとかなり遠いところにあるものと言えます。
学習をしたり経験をしたりして来ないと簡単には推測できないほど離れていると言えるのではないでしょうか。
言葉の持っている意味はその言葉の使われ方における意味としての「カテゴリー」によるものと言えると思います。
そしてこの「カテゴリー」の一般性は自然科学における分類としてのカテゴリーと共通性があり、歴史文化的により親しんできた重要と思われる領域ほど細分化されて一般化していると思われます。
隣り合う「カテゴリー」同士の区別が感覚として行なわれているにもかかわらず誰がやっても同じように判断されるのが母語を同じくしていると言うことではないでしょうか。
具体的な言葉が違っていたり新しい言葉が誕生してきてもその言葉の「カテゴリー」が共有できていることで理解ができていくのだと思われます。
「気づき」につながるためには新しいことばによる新しい「カテゴリー」の設定、あるいは今まで持っていた言葉に対する新しい「カテゴリー」の設定が行なわれる必要があります。
しかし、これだけでは単なる新しい「カテゴリー」ができただけのことです。
これが「気づき」につながるためには、この設定された新しい「カテゴリー」のメンバーとして今まで持っていた言葉たちが加わってくることが必要になります。
新しい「カテゴリー」から見直された今まで持っていた言葉には新しい「カテゴリー」の視点から見た新しい意味が与えられることになります。
そしてきっかけとなった言葉の共通性が設定されていくことになります。
自分が今まで持っていた言葉に対して新しい意味が与えられると同時にそこに集まったメンバーに共通の「カテゴリー」ができることで「気づき」になるのではないでしょうか。
自分の持っていない新しい言葉は誰かから与えられるか著書にでも出会う必要がありますが、今まで持っていた言葉に新しい視点から新しい使い方としての意味を与えることは誰でもできることです。
言い方を変えれば固定概念の打破と言うこともできるのかもしれません。
一つの言葉に勝手に新しい「カテゴリー」を設定することはゲーム的にやったり機械的に行なったりすることでも可能です。
これだけだとある種の思い付きに過ぎないかもしれません。
この新しい「カテゴリー」の視点から今まで持っていた言葉を見直してメンバーを集めることができるか、どんなメンバーが集まるのかが「気づき」につながるものだと思います。
自分の持っている言語感覚から素直に行なうことができた結果として集まったメンバーの言葉たちは今までの自分になかった視点と共通性を持ったものとなっていることになります。
自分の持っていたものと全く離れてしまったものにはどんなに新しい素晴らしいものであっても「気づき」にはつながりません。
新しく設定された「カテゴリー」の持つ視点が今まで持っていたものとつながった時に初めて「気づき」となると思われます。
そのためには日常的に使っている言葉や自分がこだわっている言葉に対して新しい「カテゴリー」を設定する習慣をつけておきたいものです。
それこそ駄洒落や語呂合わせやこじつけでもきっかけになるのではないでしょうか。
楽しんでやりたいですね。
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