『三国志』は最も日本人に馴染みのある中国の歴史書ではないでしょうか。
『三国志』の名前は知らなくとも、登場人物である劉備玄徳や諸葛孔明の名前を知っている人は多いと思います。
小説、ドラマ、映画、漫画などあらゆるメディアで素材として扱われていることも触れる機会の多さを提供していると思われます。
わたし自身も初めて触れた『三国志』は、横山光輝氏の漫画でした。
『三国志』は中国の正史二十四史の一つとされ、西晋の陳寿(233年-297年)が撰者であるとされています。
成立年は不詳となっていますが西晋の成立が280年であり、そこまでのことが書かれていますので陳寿が亡くなるまでの間に成立したものと思われます。
日本最古の歴史書と言われる『古事記』の成立が712年頃と言われていますので、扱われている内容ははるかに古いものとなっています。
もちろん日本(倭)においては文字などなかった時代の記録だと思われます。
歴史のテストで『三国志』を「三国誌」と書いて☓をもらった経験があります。
史書としての記憶はありましたので思わず「誌」を書いたのだと思います。
「志」も浮かんだのですが、正式な歴史書として「こころざし」の文字の意味はおかしいだろうと判断した記憶があります。
今にして思えば、漢字の持っている文字の意味に騙されたいい経験でした。
記録として残っている資料の中で初めて「日本」についてのまとまった記述があるものがこの『三国志』です。
「魏志倭人伝」と言えばわかり易いのかもしれませんね。
義務教育の中でも必ず聞いたことのある名前だと思います。
正しくは、『三国志』の中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条のことになりますが、略して「魏志倭人伝」として教えられた人も多いのではないかと思います。
私にとっても「魏志倭人伝」と『三国志』が結び付いたのは最近になってからのことであり、あの劉備玄徳、曹操孟徳、孫権が覇を競った物語(と思い込んでいました)のなかに、「魏志倭人伝」があるとは思ってもいませんでした。
『三国志』は約37万字にのぼる大作ではありますが、その中で「魏志倭人伝」は1,984字で記述されています。
現在では「魏志倭人伝」は全文が資料として整ったものとなっています。
その1,984字のなかで、そのうち倭人語と思われる語が地名31、官職名18、人名9、会話1で合計59の言葉が記されているそうです。
その中の会話の部分を現代文にしてみると以下のようになっているとのことです。
「・ ・(倭人は)身分の低いものが身分の高いものに道で会えば敬意を表し、受け答えするときは噫と言う。承諾を意味するもののようだ」
噫と言う字の読み方については「あい」「い」「おー」「おお」などと説が分かれているということですが、いずれにせよ弥生時代の会話の記録が残っているとは何とも素晴らしいことではないでしょうか。
その時代の日本(倭)において、中国の言葉とは異なった独自の倭語が存在していたことをうかがわせるものではないでしょうか。
そこにあるのは音だけの「ことば」だと思われます。
当時の日本では「ことば」を表記する手段を持っていないわけですから、複雑な音による「ことば」は存在していなかったと思われます。
一音、二音の「ことば」が原始日本語(倭語)の始まりだったのではないでしょうか。
単なる音から何かを意味するためのに使われた音が「ことば」であると思われます。
つまりは「ことば」として使われた音に意味があったものであると推測することが可能だと思います。
「音義説」という言葉があります。
日本語の仮名ひとつによって表される音(おん)には固有の意義があるとする、主に江戸時代中期以降に盛んに行われた説のことです。
音としての単音に意味があり、その意味を持つ音の組み合わせによって「ことば」ができてきたとすることが原点になっている考え方です。
かなの50音(いろは47音)それぞれに意味があるという事でいろいろな定義がなされたと言われています。
同じ音を使っている「ことば」から、一音ずつを抜き出してその意味を見つけていくという気の遠くなるような作業がなされてきました。
明治以降の新しいこ言葉がなかった時代とはいえ、江戸中期ともなれば一般にもかなりの言葉が使われていたことと思われます。
江戸時代の中期と言えば「魏志倭人伝」のころから見れば楽に1000年以上を経過していることになります。
その時代に使われていた言葉から類推するだけでも大変なことではなかったでしょうか。
現代の考え方では音義説を否定する考え方の方が主流のようです。
それでも50音の一音ずつに音としての意味があるとする考え方は「ことだま」の考え方の根底にあるものではないでしょうか。
一音ずつの関連性や類似性から見た時に、50音表の縦と横(行と段:子音と母音)のマトリクスに意味を与えようとする試みも理解できる気もしています。
原始の「ことば」の持っていた音が現在の50音と同じだけあったのかという疑問も出てきます。
遥かに少ない音によって「ことば」が伝えられていたと考える方が妥当な気がします。
「ことば」は「ことば」によって作られていきます。
江戸中期には原始の「ことば」によって作られた新しい「ことば」がすでにたくさんあったのではないでしょうか。
その間に一音ずつの意味が拡大したり変化したりしていったこともあったと思われます。
先回見てみたように、一音に一義が限定されていたとは思えません。
(参照:「ひらがな」に宿る日本語の感覚)
なぜならば、音の持っている感覚を利用していたのであり音に意味を当てはめたのではないからです。
「あ」という音には言い方によっては明るい開け放たれた心安らぐ感覚(安)もあれば似ているようだが疑うような感覚(亜)もあるからです。
一つの音にも陰陽二つの意味が持たされることも多いのではないのでしょうか。
「ことば」としての使われたかが増えてくるとできるだけ意味を限定することが行なわれていくことが起きると思われます。
音が増えていくことによってより具体的な意味を持たせる「ことば」が作られていくことになるのではないでしょうか。
この感覚は現代語の中にも残っていると思われます。
漢字の熟語の作られ方の中にも、おなじような意味の言葉を重ねたり反対の意味言葉を組み合わせて強調したり具体化したりした言葉がたくさんあります。
漠然とした動きを表す言葉には対象を限定する言葉をつけるとことによってより具体的な動きを表わそうとしたりしています。
敢えて現代50音に意味を求めようとすることはかなり無理のある行為になるのではないでしょうか。
現代50音の中にも原始の音から派生した新しい音が含まれていることと思います。
いつか、原始やまとことばの限られた音による「ことば」へのアプローチはしてみたいところです。
どんなに文字をうまく使いこなしてみても、理解しているのは音によって導かれる「ことば」によってであることはある程度分かってきています。
日本語の原点となってる音による「ことば」は決してそれほど多くはなかったと思われます。
全ての「ことば」の元となった音による「ことば」に対してのアプローチは、これもまた結論の見えない楽しい知的作業になるのではないでしょうか。
いつも頭のどこかにおいておきたいテーマですね。