言語の性格というものが存在しています。
しかし、生涯一言語だけで生活をしていく場合には意識をすることもないし全く関係のないことになります。
他の言語や他の言語を使う人に出会わない限り、考える必要もないことになります。
それでも、現代では一般人であっても英語に触れずに生きていくことは不可能と言えるのではないでしょうか。
ましてや、世界と接触することが避けられない人にとっては英語と触れずに生活をしていくことは不可能となっています。
一般人にとっても、ネットの世界の基本は英語であり、日本語だけを持ってネットを泳いでいても理解できないことがたくさん出てきてしまいます。
また、日本以外の世界から見ると日本語は極めて特殊な言語であり、他の言語との共通性がきわめて少ない言語なっています。
また、彼らにとっては日本語と全く触れることなく日々の生活を送っていくことに対して何の不自由も感じることはないでしょう。
日本語を母語とする者にとっては、英語を理解していないことは不自由この上ない環境となってきていると思われます。
個人においても世界と触れる機会は、増えることがあっても減っていくことはない状況となっています。
日本語だけで生きていくことはますます難しくなっていると言えるでしょう。
更には、世界の共通語が英語となっており、世界を理解するための一番の近道は英語を使いこなせることとなっています。
そのために、英語を母語としない国の義務教育においては必ずと言っていいほど英語が重要視されてきているのです。
日本語も英語も言語ですが、言語はその言語を使用する人において想像以上の影響力を持っています。
母語として持っている言語の性格によって、その言語を使っている民族そのものの性格が決められてしまっていることになっています。
言語が生まれて継承されてきた精神文化的な環境を考えてみれば当たり前のことなのですが、あまりに身近すぎて意識して考え見る機会になかなか恵まれないものとなっています。
また、単独言語の性格だけを取り上げてみてもあまり意味のあることとはなりません。
比較対照する言語があって両者の対比によって初めて意味のあるものとなるのではないでしょうか。
その意味では、日本語と英語はあらゆる要素において対極的な性格となっています。
(参照:日本語 vs 英語)
日本語を母語とする者であっても、英語で表現するときには英語の性格が前面に出てきます。
したがって、日本語の持っている感覚で行なった知的活動を英語で表現する場合には言語そのものが持っている性格や感覚を考慮に入れなければならないのです。
単なる単語の置き換えによる直訳では感覚的に異なったものとなってしまう場合が多くなってくるのです。
学校教育における英語の授業で決定的にかけているのがこの言語そのものが持っている性格や感覚について理解することです。
国語教育において、日本語の性格や感覚について理解することをやっていないわけですから、英語習得時にやることによってその対比としての日本語の理解をさらに深めることができると思われます。
英語教育は言語が持っている性格や基本的な感覚について学ぶいい機会だと思います。
この違いは基本的な概念を理解することにおいて大きな開きとなって存在しています。
当たり前だと思っている言葉に対する感覚が大きく違っていることに気がつきにくい状況を生み出しているのです。
戦争や平和、憲法などについての感覚が言語によって全く違うのを理解しておかないと、すべてがズレてくることになるのです。
戦争とwar、平和とpeace、憲法とthe constitution、はそれぞれの言語においてかなり違った感覚でとらえられているのです。
言語が違うということは、感覚が違うということにつながるものです。
同じ言語を使っている者同士であっても、正確さが求められる場合では使用する言葉の定義から確認していくことが必要になります。
感覚の異なる言語でああれば、なおさら重要な行為となっているはずです。
しかし、あまりに一般的になっている言葉についてはこれを行なわずに進めてしまうことが少なくありません。
結果として、微妙なズレを抱えたまま進めていってしまうので、言葉が使われていく度にズレが大きくなっていくことになります。
一般的な言葉であればああるほど、一人ずつの解釈は微妙なズレを含んでいます。
その確認と修正をすることになしに進められる知的活動は、先に進めば進むほど抽象的なものにならざるを得なくなるのです。
微妙なズレのうちは具体的な修正と共有で対処できますが、大きなずれになってくるともはや具体的なことが多すぎて修正では間に合わなくなります。
そうなると、抽象度の高い表現によってズレを包括してまうようになってしまうのです。
したがって、議論が進むほどどんどん抽象化していきますので総論として同意しやすくなっていくのです。
そこにおける具体的なことについての感覚はそれぞれが異なった感覚になっていますので、それぞれのなかで対処するという大人の結論となってしまうのです。
言語の性格を知ることは、同じ言語同士の活動においても役に立つことが多くなります。
陥りやすい傾向があらかじめ分かっているからです。
日本語の性格は英語と比較してこそ実用的なものとなるのではないでしょうか。
毎日のようにテレビ中継されながらも、ますます恥の上塗りをしている国会における三文芝居のやり取りは、日本語の最低の実用例として取り上げるべきものではないでしょうか。
反面教師として見ていることで初めて価値を生み出すものだと思います。
言語の性格を知って、その感覚をうまく使っていきたいですね。