日本語が持っている基本的な特徴を表す言葉がいくつかあります。
一を聞いて十を知る、以心伝心、行間を読む、目は口ほどにものを言う、などはすべて言語以外の情報によってより確実な正確な理解を得ようとするものです。
日本語に阿木らず英語においてでも、ボディランゲージなどについては言語による理解を補完するものとして取り上げられています。
しかし、英語においては言語による情報がすべてとして扱われるために、いかに言語で理解し説得するかということが大変重要な能力となっています。
日本語では、言語によるコミュニケーションはすべてを伝えきれることができないことが前提となっています。
また、実際に表現されていることと発信者の意図が必ずしも一致しているとは限らないので、言語によるコミュニケーションよりもその場や環境の雰囲気を察知して発信者の真意を推測することが日常的となっています。
より言語における情報を重要視する英語話者からみると、発せられている言葉とは異なった意図があることに対して不信感すら感じるものとなっています。
そんな日本語は、当然文章として表現されたものに対しても、英語のように言語による表現を重視しその論理によって説得しようとするものとは異なった特徴を持つものとなっています。
英語を代表とする目標志向型の言語が論理性や正確性による説得を重要な目的とするように、状況対応型の言語である日本語は文章表現としての面白さや技術をより重視したものとなっています。
(参照:目標志向と状況対応)
自分の持っている情報を駆使して相手を説得するために対象者が理解しやすいように作り上げるのが英語の文章であることに対して、発信者の持っている表現の技術によってより魅力的な文章を発信するのが日本語ではないでしょうか。
もちろん、文章の目的によってそこで使用される言葉や表現技術が工夫されていくことになりますが、文化歴史的に見てみると英語は論理による説得のための技術が磨かれていった言語であり、日本語は文章を楽しむための技術が磨かれていった言語ではないかと思われます。
このことは、言語が持っている言葉や文法にも大きく影響して来るものとなります。
語彙や文法としての厳格な定義は、同じ文章を読んだ時の理解に対しての同質性を確保することができます。
語彙の曖昧さや文法としての自由さは、読む人によって理解のための自由度が大きなことを意味します。
日本文学は作者の言語に対する感性と読者の持っている言語的感性のぶつかりによって初めて成立しているものと言われる理由もここにあると思われます。
現代社会において求められる能力は、論理性を持った説得力です。
能力を表現し相手に伝えるものは言語です。
日本語が本来持っている特徴や傾向からすると苦手なものです。
これは、日本語という言語を持ちながらも英語社会の実現をしていかなければならなかった社会環境が大きく影響していることだと思われます。
結果として高ストレス社会を生んでしまっているのではないでしょうか。
日本語はあまりにも表現が豊かで文法(とくに語順)の自由度が高いために、発信者側においていろいろな表現が可能となっています。
しかしその表現に込めた意図は、同じ感覚を持って読んでくれた人にしか伝わりません。
一生懸命に表現の技術を磨いたとしても、結果は読み手の言語に対する感覚によって決まってしまうことになります。
もちろんある種の表現においては、大多数の人はこのような解釈をするであろうという標準的なものは存在しますが、表現技術を駆使すればするほど読み手による理解はより多彩になっていくことになります。
英語においても表現技術はあります。
それは義務教育のなかで徹底的に磨き上げられるものとなります。
その典型がパワーライティングと呼ばれる技術であり、あらゆる表現の論理性、説得性の基本となっているものです。
(参照:「書く」技術の紹介(パワー・ライティング))
更に具体的には、パラグラフによって論理が構成されていくことになります。
(参照:パラグラフという感覚)
世界に対して情報を発信していく時や自分の意見を主張するときに一番求められる技術であると思われますが、日本語の持っている特徴からはとても苦手になっている物でもあります。
明治期以降に外国の文化を積極的に取り込んできた日本は、とても多くの言語に触れてきました。
日本語の持っている語彙や表現が一気に膨らんできたのがこのころからです。
論理の英語に対して感性の日本語と言われるゆえんでもあります。
正確性の英語に対して曖昧さの日本語と言われるゆえんでもあります。
日本語で論理性や説得性を求められる時には、意識して外国語のように表現することがとても役に立ちます。
難しい言葉や表現は知りませんし、長い文章を書くチカラもありませんので、何がどうした的なわかり易い文が並ぶことになります。
そして、一段落一主題をキープしながら作り上げていくことによって、英語の技術を真似た日本語による文章が出来上がります。
思考を深くしようとするとどうしても母語である日本語に頼らざるを得ませんが、その思考を表現するときに英語として表現した場合の日本語に置き換えてみることはとてもわかり易い文章を作ることになります。
日本語が苦手とすることは、そのことを得意とする言語のチカラを借りることでかなり対応できるようになります。
しかもその言語に慣れていませんので、優しいわかり易い言葉しか使えません。
このことが、より多くの人に理解してもらえる文章を自然に作っていることになるのです。
日本語が基本的に持っている特徴を日本において学ぶ機会が激減しています。
古典に触れることも和歌に触れることも、一般的な生活をしているとほとんどないことが分かります。
日本語が一番得意とする豊かな表現と言葉の遊びを磨く機会は思ったよりも少ないことになります。
独特なリズムと表現を持った日本語ならではの表現を楽しむ余裕を常に持っていたいですね。
日本語を使っている限りにおいては、知的活動にしても精神的活動にしても必ずどこかで影響されているものですから。