2015年5月27日水曜日

事実を表現することが苦手な日本語

正確な表現が求められる原著論文においては、事実と意見の明確な書き分けが必要になるようです。
(参照:原著論文と日本語

学生たちはこの書き分けが非常に下手であると、「理科系の作文技術」の著者である木下是男先生は指摘しています。

これは学生に限ったことではなく、日本語の母語話の全体について言えることではないでしょうか。


原著論文は、最後には英語の論文にすることを意識しているために、英語表現をしたときに英語としての「ふさわしさ」を持ったものとして仕上げなければなりません。

英語においては、小学校からの教育のなかで、事実と意見の区別とその曖昧さに対する排除について徹底的に鍛えられてきます。

与えられた文章から事実のみを抜き出したり、事実として「ふさわしい」表現であるかどうかの確認をくどいほど経験させられているそうです。

それだけに事実に対しての重みと、意見に対しての扱いが厳しく見られることになるようです。


日本語では、この点がかなり曖昧になっています。

事実だと思って読み進めていたら、最後に「と思われる。」と来ることが多く見かけられます。

日本語においては、主語が明確に表記されていない場合の主体は、「わたし」すなわち著者であることがほとんどですので、「と思われる。」と思っているのは著者そのものに他なりません。

書かれている通りに解釈するとしたら、そのことは作者の意見ということになります。

しかし、日本語の感覚に慣れてしまっている私たちは、おそらく事実なのだろうなと受け取ってしまうこともとても多いことではないでしょうか。


これば、文の構図からも説明ができることです。

結論が最後にくる日本語は、最後の文末を確認するまでは事実なのか意見なのかの判断がつきません。

英語の場合には文の始まりで意見であることが確認できるものとなっています。


英語において、意見とは自らの主張でありその主張をしっかりと理解してもらうことが説得するということになります。

そのために必要なものが論理です。

論理を少しでも漏れのない説得力のあるものとするためには、事実による論理の積み重ねが必要になります。

事実だけによって組み立てられた論理の強さには大きな説得力があります。


しかしそ、れだからと言って結果としての意見や主張が正しいものとは限りません。

「風が吹けば桶屋が儲かる」は、積み上げられた一つずつは事実だったとしても、結論としての意見には「?」となるものの典型です。

それでも、一つずつの論理の展開には、事実としての説得力があるものとなっているために、それもありかな的な微妙な納得感がある話しとなっています。


日本語が事実と意見をはっきりと区別して伝えることが苦手な理由として、事実を事実として表現することの稚拙さが挙げられます。

どんなに間違いのない事実であっても、事実として断定して表現することに対しての抵抗感があります。

この抵抗感はどこから来ているのでしょうか。


三平方の定理があります。

「直角三角形において、最長辺の長さの二乗は他の二辺の長さの二乗の和に等しい」と言うものです。

これは事実ですが、定理としては覚えていますがその証明方法としての論理はすっかり忘れています。

事実は、それが事実であることの証明を忘れたりできなくとも結果としての事実として存在する物になります。


三平方の定理においては、「直角三角形において」と前提条件が定められています。

物事を流動的にとらえることが得意な日本語では、前提条件を定めることが苦手になっています。

自分を固定して周りの環境を変化させることを得意とする英語に対して、変化し続ける環境に自分を適応させていこうとする日本語の特徴でもあります。

自分で前提条件を定めることが難しくなっているのです。


事実を表現していながらもどうしても使ってしまう「のようです。」「と考えられます。」「と言われています。」「ということができると思われます。」などの言葉があります。

どうしても読者(聞き手)に判断を少しでも残しておきたいのが日本語の特徴でもあります。

したがって、「れる」「られる」の受動態的な表現が多くなってしまいます。

文字だけ追っていると、事実ではなく推論と思われることも多くなってしまいます。


国会の答弁などでは、このあたりのことが意図を持って使われている場面をしばしば見ることができます。

断定的な言葉が並んだあとで、「ということを検討してみたいと存じます。」などと結ばれたりしたら、検討するのかしないのかすら分からなくなってしまいます。


日本語は自然な流れに任せてしまうと、感想的な表現になりがちです。

意識をして事実を事実として表現することを行なう必要があります。

そのための表現方法を習得する機会は決して多くありません。

そのひとつが原著論文ですが、一般には原著論文に触れる機会もなかなかありません。


せめて、「理科系の作文技術」によって磨きたいものです。

理科系の作文技術は外国語で表現することと思えと、木下是男先生も書かれています。

日本語そのものが、事実を表現しにくい言語となっているのですね。


いよいよ明日になりました。