2015年5月10日日曜日

予測と言語理解

本を読んだ時に、読み進むうちに話の内容がほとんど予測できてしまうことがないでしょうか。

本を最後まで読み切らない人は、予測の段階で終わらせてしまっていることが多いことになります。

明らかに予測通りに展開し完結していく内容は、小説としては決して面白いものではありませんが、内容を相手に理解してもらう目的においては成功しているということができます。


どんな言語においても、書いてある文章であっても話している内容であっても、必ず次の内容に対しての予測が行なわれていることが分かっています。

その予測が、次から始まる一つひとつの言葉によって確認されていくことによって、理解が深まっていくものとなっているようです。

ところが、話にしても文章にしても、予測通りに進んでいく内容は決して面白いものではなく、その先を知ろうとする興味を削ぐものとなってしまいます。

話しの後半や物語の後半になるほど、予測が外れにくくなるのは、入っている情報の多さによって、予測を外すことの方が難しくなっている状態だからです。


面白い内容と言うのは、聞き手や読み手が予測していることを裏切ることになります。

あっと驚く結末やどんでん返しは、読み手や聞き手の興味を引き付け内容の印象を強烈なものとします。

娯楽性の強いものであれば、そのためだけの展開のあるかもしれませんが、内容を理解してもらおうとすると逆効果になってしまうこともよくあることです。


特に記録に残って振り返ることが難しい講演などでは、聞き手の興味を引き付けた内容が伝えたいことの対比として取り上げた否定的な場合などは、伝えたい意図が伝わらないことまで起こってきます。

そういった意味では、伝えたいことの内容とそこに至る論理の展開は、常に伝えたいことの確認を行いながらする必要があることになります。


ここでは、一橋大学の石黒先生の研究を参考に、予測の内容について取り上げてみたいと思います。

この予測を、する方ではなく予測される側から言語や文章を考えてみることは、とても役に立つことになります。

それでは、予測をするための根拠となる当該文と予測を確認する接続文との関係を見てみましょう。

六つの関係性に分類できるのではないでしょうか。


その六つについて例を挙げながら見てみます。

まずは、ここに書いた「六つの関係性に分類できるのではないでしょうか。」という当該文からは、次にその六つについての「要素の説明」が予測されるのではないでしょうか。

また、「日本語と英語では、言語の持っている基本的な感覚が異なっている。」という文からは、その次にはそれぞれの言語が持っている感覚についての「比較の説明」が予測できると思います。

「雨が近くなってくると空気が重くなる。」という文からは、なぜ空気が重く感じるのかという「理由の説明」を予測することができます。

「彼は、とにかくその電車に乗ってみた。」という文からは、その電車に乗った後にどうなったのかという「結果の説明」を予測することができます。

「けっして、すべての場合がこれに当てはまるということではない。」という文からは、その反対の内容が展開させそうである「逆接の説明」を予測することができます。

「日本語を使いこなせることによるメリットは、単なるコミュニケーションの領域にとどまらない。」という文からは、それと並び立つものである「並立の説明」が行なわれることを予測することができます。


これら六つの予測である、「要素」(石黒先生は成分という)、「比較」(文の説明という)、「理由」、「結果」(順接という)、「逆接」、「並列」の予測は、特に意識しなくとも自然に行っていることです。

全く予測をなしに文章や話を理解しようとすると、それはそれで大変難しいことになると思われます。

また、予測と違った展開が行なわれたときの修正能力も、理解するためには大きな要素となります。

接続が始まった段階の初期で、予測と違った内容であることを確認できればほとんど問題ありませんが、予測とあっているのか違っているのかを判断できない場合には、どうしても予測を優先してしまうことが多くなります。


予測を助ける表現は、文章や話のいたるところにちりばめられています。

同じ表現がされていても、その言い方ひとつでも予測が変わることもあります。

そのための大きな要素が、接続詞と最後の語尾の使い方ではないでしょうか。


予測がしやすい文章や話は、理解はしやすいのですが先読みができやすくその予測の通りに展開していくことになりますので、その次を読もうとしたり聞こうとする姿勢が薄れることになります。

有名な演劇本は、何度も同じ内容で上演されていますがいつも多くの人が何度も訪れています。

そこには書き物という何度見ても全く変わらないものでありながら、人が演じることによって全く同じものが二度とできない面白さがあるためと思われます。

同じ映画をDVDで何度も見ても、見れば見るほど予測通りにしか展開されませんが、演劇については小さな予測の裏切りがいたるところに出てくるのです。


演劇や落語は、記録された映像よりも生の舞台を何度も見たほうが面白いのは、小さな予測の裏切りがいたるところに見られるからです。

予期せぬ予測の裏切りのないものには飽きが来ます。

完全に内容が予測でき、その通りに展開する内容には一度経験すれば振り返ることもないでしょう。


理解をしてもらうためには、予測を大きく裏切らないことが必要ですが、予測通りにばかり展開してしまっては興味そのものを失わせてしまうことになります。

予測を裏切ってばかりいては、内容が分かり難いものとなってしまい、これもまた興味を失わせることになってしまいます。

興味を持って理解してもらうためには、適度な予測のしやすと適度な予測への裏切りが必要になってくることになります。


予測の内容の分類はある程度できると思います。

意識せずにやっていることですので、意識するだけでもその効果は大きなものとなるでしょう。

しかし、万人が同じ予測するとは限りません。

一人ひとりの育ってきた言語環境が異なる以上、一人ひとりの予測も微妙に異なると思った方がいいと思います。


それでも、接続詞と語尾の使い方でかなりの確率で同じ分るに予測に導くことが可能となります。

伝えたい内容や目的によって、予測を生かした方がいいのか、裏切ったほうがいいのかは異なると思われますが、いずれかの一方的なものではないと思われます。

基本的には、すべての人が予測をしながら展開を読んでいるわけですから、どのような予測の裏切りをちりばめるかが文章や話の技術と言えるのではないでしょうか。

ここでも日本語は数えきれないほどの表現がありそうですね。

上手に予測を裏切って、理解を深め興味を持ってもらって伝えたいですね。