2015年5月2日土曜日

言語環境の意識の仕方(1)

日本語の持っている感覚の大きな要素として、言語が使われる環境について意識することが挙げられます。

この環境を意識しないで、勝手に自分の言葉だけで発信すると、いわゆる空気が読めないことが起こります。

また、意識ができたところでその環境に馴染まない言葉が使われると、同じように空気が読めないという指摘を受けることにもなります。


日本語の持っている表現の豊かさは、環境によって使い分けしなければならない表現の多さにもつながっており、言語環境の微妙な変化にも適応していく調整力を持っていなければ、空気が読めない状況を簡単に作ってしまうことにつながります。

正しい日本語という表現は、正しいとされる基準や規則が明確になっている場合にのみ通用するものであり、表現の自由さや文法としての自由さがとても大きな日本語全体には適さない言い方となっています。

あえて、正しいという表現が使える場面としては、文法や語彙に対してそれなりの規則を定めている国語としての用法に限った場合にのみ、正しい国語として言うことができるものではないでしょうか。


同じことを表現するにしても、表現する環境によって言葉も言い方も「ふさわしい」ものを選ぶことが必要なのが日本語のむずかしさではないでしょうか。

このことが、他の言語話者が日本語を学習するときに論理的な文法の理解では対応できない原因となっているのではないでしょうか。

まさしくそれぞれの場面において、その環境に「ふさわしい」表現を使いこなせることが求められることになります。


その表現のもとになる言語として、日本語の共通語である国語とそれ以外の言語である方言を含めた日本語があります。

共通語に対して、国語以外の言語を俗語と呼ぶことがあります。

このブログで何度も登場している母語や生活語も俗語と言うことになります。


人が属している環境は一つではありません。

属している環境ごとに言語環境が異なるということができます。

この異なる言語環境のことを言語共同体という言い方をすることがあります。

その共同体においては共通語であったとしても、他の共同体とは共通語としての機能を果たさない言語を持っていることが多くなります。

共通語としての国語と方言の様な関係になると思われます。

極端な例として世界的に見れば、世界の共通語である英語と日本語のような関係になるのではないでしょうか。


さらに厄介なことに、言葉自体が異なっていればその違いについても簡単に認識できますが、形は全く同じなのに使われてる意味が異なる言葉がたくさん存在していることです。

例えば、「それは、こわいですね。」と言った時に、怖いという意味で国語で理解している場合と、固いという俗語としての理解をしている場合が生じてくることになります。


はたまた、全く同じものに対しての呼び方の違いもあります。

傷を保護するガーゼ付のばんそうこうのことを、バンドエイドと呼ぶところもあれば、サビオと言うところもありますし、リバテープと言うところもあります。

更には単にばんそうこうと呼ぶところもあります。

私などは、ばんそうこうと言われるとガーゼのついていない、湿布を止めるような白いテープを思い浮かべますが、いわゆるバンドエイドのことを指すこともあるようです。


どれが良いとか悪いとかではありません。

環境によって使い分けが必要になってくるのです。

共通語としてはばんそうこうかもしれませんが、バンドエイドをイメージして使っている場合にはその段階で既に誤解が生じるものとなってしまっています。


大きな意味での言語環境は、二つの要素で考えることができると思われます。

一つは聞き手との親しさの度合いです、親疎関係と言ったらいいのかもしれません。

もう一つはさまざまな意味での上下関係です。


この二つの要素を軸としたときに、その言語環境での「ふさわしい」表現が決まってくるのではないでしょうか。

言い方を変えれば、敬語の使い方の度合いと言ってもいいかもしれません。

日本語の敬語のむずかしさは、いたるところで指摘をされていますが、そのむずかしさの一番の原因は決まったルールがないことにあるのではないでしょうか。


行き過ぎれば嫌味にもなりますし突き放した感じにもなります。

足りなければ失礼にもなりますし無礼にもなるかもしれません。

それは、言語環境において聞き手のとの関係において「ふさわしい」ものとなっているかどうかによって判断されるものとなります。


しかも判断するのは聞き手の方です。

そのうえ、話している間にも親疎関係や上下関係が部妙に変化していくのです。

見知らぬ相手と慣れない環境で話をする場合の緊張感は、この二つの要素である親疎関係と上下関係がつかめていないから起こることです。

どんな表現をしていいのかの判断ができないから緊張するのです。


一番遠い親疎関係である、初対面の人と一番離れている上下関係にある場合には、共通語の標準語で一番丁寧な言葉を探すことになります。

面識のなかった人との緊張感を持った会話のなかで、共通の話題が見つかったりしたときは、一気に親疎関係が近くなってきますので、表現そのものが変わってくることになります。

それまでは、服装や態度などで親疎関係と上下関係を探っている状況と言えるでしょう。

その場合の言語としては共通語にならざるを得ないのではないでしょうか。

どうしても冷たくかしこまったものとならざるを得ないことになります。


本質的な日本語の感覚を持っているのは、それぞれの俗語で持っているものです。

母語はまさしく俗語です。

共通語での会話は、俗語が使える環境へ導くためのアプローチと言えるかもしれません。


同じ言語共同体に属していることは、俗語での会話が成り立つことになります。

複数の言語共同体に属していますので、すべての言語が共通していることはありえないと思われますが、共通語によってそれをカバーしていくことや察することが可能になっていくのではないでしょうか。


敬語は無段階に存在していることになります。

しかも「ふさわしい」表現は瞬時に変化していきます。

上下関係を縮めることは簡単ではなくとも、親疎関係を変化させることは可能です。

それは、たった一言で変化することすらあります。


千変万化する言語環境を分類することができない以上、「ふさわしい」表現を規定することも不可能ではないでしょうか。

これは感覚でおこなうしかないことではないでしょうか。

日本語の持っている基本的な感覚に、環境に対して「ふさわしい」表現を選択する感覚を持っていないと使いこなせないことがあるようです。


親疎関係や上下関係で一番変化するのが一人称です。

日本語の持っている一人称の豊富さは他の言語の及びもしないところにあります。

また、省略することが「ふさわしい」場面もたくさんあります。


こんな言語を使いこなしている日本語話者の感覚とは、どのようになっているのでしょうね。


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