2015年2月21日土曜日

既知との遭遇

日本語の特徴を生かした感覚的な「きき方」については、3回にわたって触れてきました。
(参照:日本語のききかた(1)~(3)

感覚に従った行動は、現代の教育や規範によって論理に従う行動にたいして劣るものとして扱われていると思われます。

したがって、高度な教育を受けている人ほど感覚に従った行動を採ることに対して抵抗があります。


感覚は感情とは異なるものです。

感情は喜怒哀楽であり、何かに対して感情を感じたことによって感覚として身についていくことがあります。

しかし、平常時の感情は一番安定を感じているときのものであり、一般的には感情として扱われることはりません。

したがって、感情は安定を崩したときに現れるものであり、安定からどちらかの方向へ振れた時に現れるものとなります。


感覚は感情に左右されることなく、平常時の安定しているときに自然に行なわれていることになります。

感情に従った行動は単なる我儘として扱われることになりますが、感覚に従った行動は自分独自の判断基準を示すことになるのです。


感覚の基本となっているものが、経験として積み重ねられた知識になります。

単なる論理としての知識ではなく、体験にもとずいた知識となります。


人は、親の経験や知識を受け継いで生まれてくることは出来ません。

生まれた時には、まったく真っ白な知識と経験で出てきますので、自分で生きていくことができません。

最初に触れるのが母親ですので、母親の庇護のもとに母親とのコミュニケーションをとれるように育っていきます。

その時に最初に身につけるのが、五感による感覚です。

次に来るのが、言語による感覚になります。


この幼児期に母親とのコミュニケーションのために身につけていくのが母語となります。

母親からの伝承言語となります。

母親の持っている個人的な言語が伝承されていくことになります。

言語は、それぞれ使われてきた継承されてきた文化歴史の感覚を持ったものです。

音も文字も表現もそのすべてに自然とその感覚が込められています。


母語としての言語が異なれば、感覚が異なって当たり前になります。

母語は個人的な言語の継承ですので、同じ日本語とは言っても個人では微妙に異なるものとなっているのです。

基本的な感覚は、母親から伝わる母語によって出来上がっているということができます。


この言語の持っている感覚の働きを抑えるものが、既存の知識になります。

知識が感覚にまで昇華されている場合は、既に知識としては存在していないと思われます。

感覚の働きを磨くきっかけとなるものが気づきと言われるものだと思われます。

気づきを邪魔するものが既存の知識であることが意外と知られていません。


既存の知識に関することに触れると、その記憶が呼び出されて自分のなかで蓄えられている知識との比較が行なわれます。

ほとんどの場合は、自分の知識との比較においてすでに知っていることとしての受け入れの拒否が起こることになります。

あるいは、自分の持っている知識と異なることによる反発が起きたりもします。

このような反応が起こると、気づきの機会を失うこととなります。

既存の知識が、新たな気づきの機会を失うことにつながるのです。


持っている知識が増えるほど、既知との遭遇が増えることになります。

自分の中ではすでに知っていることとしての意識がありますので、同意か拒否かという見方が中心になってしまうのです。

まずは、そのまま理解して受け入れるという行為ができなくなるのです。


知識は、新しい感覚を身につけていくためには欠かすことができないものです。

知識に体験が結びついてきたものが、感覚として結びついていく過程となります。

感覚となっているものは、ほとんど意識することなく働いています。


その絶対必要な知識が、新しい気づきのための邪魔にもなるのです。

既知との遭遇時の対処は、「それは知っているよ」となると、そう感じた周辺の情報が遮断されてしまいます。

ましてや、「そうじゃないだろう」となると、その周辺についても否定的な情報として受けてしまうことになります。


日本語の感覚は、絶対的な個がきわめて薄いものとなっています。

情報に触れた時に、比較的素直に理解しようとする感覚を持っている言語です。

学校教育のほとんどは、論理と知識の習得によって行われているために、知識の蓄積によって評価されるようになっています。

既知との遭遇において、自分が意識をしていないと、どうしても既存の知識を基準に見てしまうことが起きてしまうのです。


既知との遭遇時にどのように考えることができるかは、持っている言語の感覚によって大きく変わってきます。

日本語の感覚では、既知との遭遇の時に、相手を尊重し環境を理解し更に変化するものであるというものを持っています。

持っている母語の感覚に素直に従うことが大切ではないでしょうか。


既知との遭遇の時に、持っている母語によって対応が異なっているはずです。

それは母語が持っている感覚を知っていることによって、意識することができることになります。

日本語の感覚は、まだまだ深くて分からないものが沢山ありそうです。

いろいろなきっかけで見つけていきたいですね。




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