義務教育において必須の教科として教わっているわけですから、当たり前のことであるともいえます。
その英語は、世界の共通語・公用語としての地位を不動のものとしているわけですから、自国の精神文化の伝統を継承する母語としての日本語と世界公用語としての英語を持つことは、世界の中の日本を考えた時の自然な姿であると思われます。
問題は、母語としての日本語とコミュニケーションの道具としての英語の関係を明確にしておくことではないでしょうか。
(参照:日本語 vs 英語)
幼児期に生涯の知的活動のための唯一の道具として決まってしまう母語は、まさしくその人の知的活動の能力と限界を決めているものです。
どんなに他の言語を習得したところで、母語による知的活動には遠く及びません。
バイリンガルとしての第二言語の存在は、あくまでも母語による知的活動の結果を、第二言語に翻訳している活動にすぎません。
使い込まれた第二言語でも、簡単な知的活動には使えるようになりますが、個人の限界に挑戦するような知的活動では母語しか使われないことがわかっています。
第二言語の能力は、母語から第二言語への翻訳能力以外の何物でもありません。
したがって、どんなに優れたバイリンガルであっても、その基本はその人の母語の性能にあります。
性能の悪い母語の上には、性能の悪い第二言語しか存在できないのです。
そもそも第二言語そのものの習得や理解が、母語によってなされているわけですから、すべての基本は母語による知的活動にあるということができます。
日本語と英語を対比することは、母語としての日本語と世界公用語としての英語という位置付けになります。
つまりは、英語を理解することも母語による日本語によって行なっていることになります。
そのためには、母語による知的活動が、コミュニケーションの道具としての英語を理解できるレベルにはなっていないといけないということです。
母語としての習得段階である、生まれてから幼児期までは、ほとんど知的活動ができていない状態です。
この時期に、五感のすべてを使って感覚的に身につける言語である母語によって、知的活動のための各器官の機能が母語を使うために適した形で発達していきます。
具体的な言葉だけでなく、その言葉が使われる場面や状況や使い方までもが、言語感覚として刷り込まれていって母語となっていきます。
母語の大部分は母親や家族からの伝承言語となっていますので、同じ日本語ではあってもかなり個人的な言語となっています。
母親が多言語を使っていたり、国際結婚で家庭の中に多言語が飛び交っていたりすると、子どもの母語が多言語が混ざり合った世の中に存在しない言語になることがあります。
言語感覚で生涯苦しむことになりますので注意したいことです。
幼児期はあらゆる感覚で母語を身につけていきますが、5歳頃までで母語の習得が完了し、以降の義務教育では知識やルールを習得するために共通理解ができるための言語として国語を身につけます。
日本語は、中学を卒業しても習った漢字では新聞を理解できないほど、身につけて使うことにおいては難しい言語です。
母語としての英語は、小学校の低学年で基本的な言語の習得は完了しており、それ以降は言語を使った技術の習得の段階になっています。
私たちが、必死に日本語の読み書きをやっているときに、英語では議論の仕方やディベート・プレゼンをやっているのです。
言語としての「大きさ」という表現が適切なのかどうかわかりませんが、日本語は英語よりも言語としてははるかに「大きな」ものです。
日本語をしっかりと使うことができる日本人が、簡単に英語を使えるようになるのはきちんと理由があるのです。
言語は、その言語によって培われてきた精神文化そのものです。
しかし、母語だけを使っていたのではなかなかそのことに気がつきませんし、自分たちの特徴もわかりません。
比較するものがあって初めて、自分たちの違いに目が向けられるものです。
英語を学習する意義は、こんなところにもあると思われます。
英語を学習することによって、あらためて自分たちの持っている母語の特徴に目を向けることができるのではないでしょうか。
日本語は世界の言語の中でも、様々な面できわめて特徴的な言語です。
(参照:気づかなかった日本語の特徴)
でも、それは他の言語との比較の上でしか感じることができません。
比較するのは、世界の公用語としての英語が一番適しているのではないでしょうか。
世界の中における日本の特徴として捉えることが可能だからです。
私たちは、もはや英語から逃れることは不可能です。
しかし、英語倒れになることは、母語として日本語持っているアイデンティティを失うことにもつながります。
普通に生活していても英語に触れる機会は山ほどあります。
その時にはもう一度日本語を見直してみるいい機会ではないでしょうか。
特に、感覚的にニュアンス的にとらえたらいいと思います。
使っている人によって全く異なっていることがよくわかると思います。
更には、その英語を説明している日本語そのものに対する感覚が、人によって異なっていることもよくあることです。
世代の離れた人たちの日本語が外国語のように聞こえることはありませんか。
母語で知的活動を行ない、その結果を母語で表現することが、一番質の高い知的活動になります。
日本語は、世界に対しては全く理解してもらえない言語です。
世界に理解してもらうためには、英語への翻訳が必要になるのです。
日本語を母語に持つ人が、無理やり英語で知的活動を行なっても日本語でおこなう知的活動の比ではありません。
結果として、日本語で行った知的活動を、英語で表現する翻訳活動をすることになるのです。
この翻訳活動も知的活動の一つです。
つまりは、英語への翻訳は母語によって理解されている日本語よってなされていることになるのです。
私たちは、英語を日本語で理解しているのです。
言語としての英語を身につけるためのコツはあります。
それは、英語が口頭言語という性格を持つところから来ます。
日本語のように読み書きでは、英語は使えるようになりません。
音による伝達手段が英語の基本です。
日本語の持っている音域と英語の使われている音域は、大きく異なります。
聞き取りができないのは当たり前なのです。
英語習得のコツは、英語の使われている音域を聞き取れるように慣れることなのです。
知的活動のための母語としての日本語は、英語までを取り込んで存在しているのです。
こんな大きな言語はありません。
母語としての日本語をしっかり使いこなしていきたいですね。
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