代表的な言葉としては「ことだま」や「ことあげ」が挙げられます。
古事記や万葉集にも登場してくる言葉ですが、漢語調として書かれている「ことだま」や「ことあげ」には「言」と「事」が使い分けられています。
それぞれの使い分けを見てみると、以下のような使い分けではないかと推測することができます。
言霊(ことだま)=神に対して何かを伝える言葉に込められる思い
事霊(ことだま)=神によっておこされる事象に込められているもの
言挙げ(ことあげ)=神に対して主張や意見、つまりは意志や要望を述べること(=祝詞)
事挙げ(ことあげ)=神が起こす事象によって神の意志を示すこと
「言」は神に対して人が言葉を発することを表しており、「事」は神が行なうことを表していることになります。
今でこそ、一般的に人が声を発することを「言う」といっていますが、もともと人同士の間で「いう」という行為に使われていた言葉は、謂う、云う、曰く、などでした。
「言う」という言葉は伝える対象が神である場合についてのみ使うことができる、特別な意味を持った言葉であったと思われます。
したがって、「言挙げ」のように自分の意志や意見を表明することは、神に対してのにみなされる行為であるため、人に対して行うことは不遜であり人前ではやるべきことではないこととされてきました。
人は神に対して言葉で伝えることをし、神は自然現象としての事象で人に対して伝えると考えられていたと思われます。
そのために、日本人は自然の音を「ことば」として聞くことができる能力を持っているのではないでしょうか。
虫の声や風の音、水の流れる音などを「ことば」として聞くことができて表現することができます。
他の言語を母語として持っている場合には、これらの音は車の騒音や機械音などと同じように雑音として聞くことしかできません。
日本語と同じ様な感覚を持った言語としては、ポリネシア語があることが確認されているところです。
自然の中で生きてきて、文明との接点がきわめて少ない中で継承されてきた言語です。
世界の先端文明にある言語のなかで、このような感覚を持った言語は日本語だけだと言えるでしょう。
神に対する感覚も他の言語話者たちと比べると大きな違いがあります。
神という感覚は感じる事はあるが、実際の存在としての神は信じていない日本人に対して、彼らは神という存在そのものを信じていることが大きな違いとなっているのではないでしょうか。
(参照:日本語の向こうにあるモノ)
精神文化としては、自然との向き合い方と神との向き合い方が大きな影響を与えることになります。
その二つにおいて、日本人(日本語)の感覚は、他の民族・言語とは大きな違いを持っていることになります。
これは、際立った特徴であると同時に、彼らとのコミュニケーションにおいては大きなギャップとなって存在することになります。
気の遠くなるほどの長い間の自然現象を経験してきた旧大陸の安定した状況に比べると、新大陸である日本列島は火山活動を中心とした様々な自然現象がまだ活発に起こっている環境にあります。
海洋に囲まれた狭い島国である日本は、自然環境の変化をまともに受ける位置にあります。
四季という大きな気候の移り変わりの中で、地震や火山活動・台風など常に自然の脅威と隣り合わせにある環境です。
人知の及ばない自然の脅威に対しては、神という存在を意識して協力していくことを見つけてきたのではないでしょうか。
その感覚は、大きな自然災害があるたびにどこかで私たちの心によみがえってくるものだと思われます。
「ことだま」という言葉は、かなりの人に認知されている言葉だと思います。
その「ことだま」はほとんどの場合には、「言霊」として表記され国語辞典的な意味を持たされているものではないでしょうか。
「ことだま」を意識するのにあたっては、「ことあげ」との対象で意識しておきたいですね。
「言」と「事」は、きわめて日本らしい感覚だと思います。
ひらがなにすることによって見えてくるものはまだまだ沢山ありそうです。
やまとことばに込められた感性は、現代日本語にもきちんと継承されているのですね。
もらさずに受け止めていきたいものです。
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