外国人にはまったく理解できない話だと思いますし、京都以外の人には通用しない話かもしれません。
京都人のプライドの高さを物語ったものなのですが、別の見方をすれば世界から見た日本人を見事に表しているのではないかと思います。
京都独特の言い回しに、「ちょっとお茶漬けでも、いかがですか。」というものがあります。
わかりやすい言葉で言えば社交辞令です。
実際にはお茶漬けなどないのですが、長居をした客に対してもう帰って欲しいと思う時に使う言葉です。
「すっかり長居をしてしまって、失礼しました。」と早々に引き上げるべきだそうです。
そもそも、茶漬けの話をされる前に切り上げるのが礼儀だということのようです。
「それでは、せっかくですから一杯いただきます。」などとやったら大変です。
もともと、用意などしてないのですから。
それでも落語では、京都人のプライドの高さをいじっていますので、ここで茶漬けを出さないと京都人の恥だとばかりに何とかするという話になります。
間の悪いときに長居をされると本当に困ったものです。
特に、決まった約束があるわけではないのですが、のんびりとしたいと思った時にやってきて長居をする、しかも多少は気を使わなければいけない客というものは本当に困ったものです。
すぐにでも帰って欲しいのですが、取り立てて約束や予定があるわけでもないのですから少し相手をしたら居すわられてしまった。
忙しいふりをすることが身についてしまっている人たちには、平気で「予定がありますので、この辺で。」と言えるのかもしれませんね。
直接の言葉になっていなくとも、些細なことから相手の思っていることを感じ取ることは日本人の文化が根底に持っているものです。
気づかない相手に対しては、間接的な表現で気づいてもらえるようにする工夫が至るところでなされています。
外国人、特に欧米人には到底理解できないことです。
交渉の場面においても同じことが言えます。
「もう少し、勉強できませんかね。」などはまだ直接的な表現の方ではないでしょうか。
英語にした時に、まさか「study」や「learn」は使えませんよね。
実は、日本人の「おもてなし」の本質がここにあるのではないかとする説があります。
腹の底にある思いを見せずに、言葉や態度では見事に「おもてなし」をしつつ、相手にそれとは気づかせずに自分の思いを実現してしまうことです。
相手は「おもてなし」をしてくれたと感じていますので、結果として気持ちよくこちらの思いの実現に協力することになります。
これこそが成功者への第一歩目の条件ではないでしょうか。
何を持って成功とするのかは、個人によって違ってくることです。
しかし、必ずそれを実現しようと常に目的意識を持っている人は、あらゆる場面でその機会を利用します。
まともに表現して、理解してしてもらいながら仲間を増やすことことは、単に競争相手を増やすことにつながることをわかっているからです。
そこで小さな成功を手に入れることが一番大切であることを、成功者たちはよくわかっています。
そこでの小さな諦めや妥協が、行く手を遮ってしまうことをわかっているのです。
心からの「おもてなし」できる相手は、自分の成功への道に対して大きな利用価値のある人しかいません。
性格や行動が自分と合わない人であっても、成功の目的に対して協力してくれるのであれば、目いっぱいの「おもてなし」ができるのです。
相手によっては、直接的に会話した方がいい結果をもたらすこともありますが、そこは臨機応変です。
最高の技は、「おもてなし」によって喜んでもらいながらも、知らないうちに相手に自分の成功への道を協力させてしまうことです。
これを研究した外国人がいました。
その結果生まれた交渉術が「Win-win」のネゴシエーションだと言われています。
本気で両者の利益のことなんか考えているわけではないのです。
相手の腹を探り、何を欲しているのかのあたりをつけ、自分たちの最大利益のために、相手の利益になると思われる喜ぶネタを気持ちだけ提供することです。
日本人は、海外の理論に対してとても素直に受け入れてしまう傾向があります。
常に海外の先進文明を取り込んで発展してきた、借り物によって彼らを顧客としてきたからだと思われます。
しかし、言語やその裏付けとして持っている文化が異なりますので、実践の段階では必ずと言っていいほどギャップが生じてきます。
日本が経済発展をして購買力を付けていったときに、その市場に魅力を感じたアメリカはかなり日本の文化を研究しました。
その結果できてきた新しい理論は、日本色の強いものになっていますが、彼らの文化になじむよう構成されていますので実践面ではやはりギャップが出ます。
それでも、私たちにとっては以前より理解しやすいものになってきていることは間違いないようです。
その結果、日本の文化にのめりこんでしまい日本人になりたがった人もたくさんいました。
既に、海外に丸ごと学ぶべき先進文化は存在しません。
細かな分野での進化発展は、大勢を動かす力はありません。
西洋文化の根源である「yes no」二元論はとっくに限界にきていることは、彼ら自身が一番よくわかっています。
しかし、彼らの言語は二元論的な表現に適するものになっているのです。
対して、日本語は「yes no」の両極端ではない無限に存在する中間領域を表現することを得意としている言語です。
言語は文化そのものです。
日本語を研究することによって、アメリカは様々な論理や技術を生み出してきました。
そのほとんどが二元論からの脱却です。
歴史の浅い国だからこそできる技かもしれません。
ヨーロッパの国境線の固定された伝統国では、なかなかそうはいきません。
自分たちの持っている文化やその象徴である言語の素晴らしさに気づかないうちに、どんどん消滅していってしまう前にやっておくことがあるのではないでしょうか。
「京の茶漬け」を世界の前で堂々と振る舞えるようになってみたいですね。
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