2014年3月29日土曜日

受験が終わって

5歳までにどう育ってきたかがその後の人生を大きく左右することになる。


人にかかわるあらゆる分野の研究において言われていることです。

物理的な人間の構造については、医学の発達などによってかなり解明されてきていますが、その機能・メカニズムについてはいまだにほとんどわかっていないのが現状です。

現象として現れてくる様々なことはかなり研究がなされてきていますが、なぜそのような現象が起きるかというメカニズムについては解明されていないことがほとんどです。

その中の一つに「5歳までに・・・」があります。



特に人間の知的活動においては、一番わかりやすい目安として学校の成績やその結果としての入学試験を通過して入った学校が取り上げられます。

東京大学理科三類を頂点とする日本の大学の入学難易度は、あたかも全人格的な人間の評価を決めてしまっている側面も否定しきれるものではありません。

個人の知的能力よりも、大学入学試験対策の技術力を身につけないと選択肢が狭められることになります。

最終学歴としての出身校・学部・研究分野は生涯ついて回ることとなり、ことあるたびに評価・比較の基準とされることになりますので仕方のないことであると同時に、ある面の評価軸としては的を得ていることなのかもしれません。



ここでも見事にパレートの現象が現れており、70万人弱の大学受験者数に対して合格者数は以下のようになっています。
 難関国公立10校     2万人
 他、国公立       10万人
 早慶           3万人

このクラスでは、上位者はかなりの複数合格となっているため、実質の合格者数は受験者数に対して20%程度と考えられます。

一般に言われる一流校ということになるでしょうか。

さらにこの中での国公立難関10校の中での一部、約1万人強が超一流校と言われるところです。

あらゆる分野で現実の日本を動かす人材を大量に排出している大学と言えます。

某予備校の偏差値ランクによる区分ですので異論は山ほどありますが、一部の現実ではあることは間違いないことだと思います。

良い悪いは別として、これは日本における人生の大きな分岐点となっていることは現実です。


よりレベルの高い(難易度の高い)、社会的な受けの良い大学へ行っているほど、その後の進路について選択肢が多いことは間違いありません。

大学(大学院)を頂点とした学校への進学においても、学内成績を含めた受験技術の巧拙によって大きく結果が左右されてしまいます。

より高い技術を持っている者ほど、選択肢が多いことになります。


受験技術は一種の知的能力活動の現れですが、もちろん知的能力のすべてがこれで評価できるものではありません。

しかし、現実社会ではあたかも個人の能力のすべてがそこに現れているかのような扱いを受けることが多くあります。

この技術をに身につけるためには、持っている知的能力のかなりの部分を動員しなければなりませんし、結果は露骨に数字で評価されるものを勝ち取っていかなければなりません。



毎年、超一流校に生徒のほとんどを送り込む高校の先生や、超一流校向けの受験対策を指導している予備校の先生たちが指摘することが 「5歳までに・・・」です。

もちろんその先生たち自身のほとんどが超一流校を出ているわけですから、自身の経験ともリンクしていることです。


大した負担も感じることなく、趣味やスポーツにもしっかりと集中しながらも楽々と超一流校を受かっていく受験技術を身につけていく者が毎年必ず何人かいるそうです。

決して英才教育を受けていたり、いわゆる天才とは全く違った普通の生徒だそうです。

小学校のころはほとんど勉強らしいことをしたことがなく、ましてや幼児期や幼稚園の時には習い事などしたことがない子がほとんどだそうです。


そんな彼らを追跡した内容が残っています。

共通性が見られることは、親がほとんど余分な手をかけていないことだそうです。

幼児期は常に母親や祖母がそばにいて、幼稚園に行くまでに保育園等に預けられたようなことは一度もなかったとのことです。

毎日そばにいて一緒に行動しながら、母親の愛情を一杯に感じながら幼児期を過ごしています。

母親との関係は、どちらかと言えばマザコンとも呼べるくらいの関係であり、ほとんど何の拘束もなく育っています。


特に父親は、黙って見ているいるだけであったり、仕事で夜しか会えなかったりであり、小学校の中学年以降くらいからしか父親の影響が見られないようです。

父親の存在は、何かを一緒に調べたり一緒に遊んだりする存在でありながら、母親からは尊敬できる立派な社会人であることを常に伝えられて育っています。

結果として、尊敬する人物の中にはほとんどの場合は父親が含まれてきているようです。


母親からは、人の迷惑にかかわることに対してのしつけは受けていますが、それ以外はやりたい放題だったようです。

小学校はほとんど勉強らしい勉強をしておらずに、授業を楽しんできています。

担任の先生がうまく指導していたことがうかがえるようです。

結果としての成績はあらゆる教科において、トップではなくとも常に上位にいたことがわかっています。

成績に対して親は細かいことは言わなかった子がほとんどです。

クラスで目立った活動をして学級委員などをなどをやった子も見られますが、ほとんどは好きなこと夢中になっている子が多かったようです。


注目した点は、小学校でほとんど勉強せずに学校を楽しみながら常に成績上位を維持していたことです。

ほとんどの子どもが自分でも勉強をした経験がなく、中学受験のために5年生から塾に行き始めた子が一番早かったようです。

幼児期の母親の影響が大きなことは見えてきているようですが、何もせずにとにかく一緒にいることくらいしか具体的な共通点は見られなかったようです。

なにもぜずに授業を楽しんでいるだけで、常に上位の成績を維持した小学校時代のもとが幼児期に造られていたことになります。

しかも、特別に何かをやらなかったことが共通しているところです。


どうやら、何かをやって身につけさせようとすること自体が良くない結果を与えるのではないでしょうか。

なにかをやったり、教え込んだりするから、本来自然に愛情のなかで身につけていけるものに欠落が出るのではないでしょうか。

これだけのことで判断するのは早急ですが、他のさまざまな現象からからも導き出せることのようです。



受験の弊害だけを見ても気が重くなるだけですので、受験が終わった機にこんなことも改めて考えてみることもいいのではないでしょうか。

今回は知的な活動のみに焦点を当ててしまいましたが、スポーツの分野でも同じことが言えるのではないでしょうか。

健康や趣味のためのスポーツならば別ですが、スポーツのための学校は一種の職業訓練校ということができるのではないでしょうか。

プロとしての道もあれば、体育教員や協会職員などもあるでしょう。

個人としての実績がより明確になっている分だけ、単なる知的活動よりもわかりやすいかもしれないですね。


幼児期にはどうしても親の欲目などのために子どもに対して過剰な対応をしてしまいがちです。

ことに、仕事を持っている母親は、子どもを預けることに少なからず心苦しさを感じています。

その反動ではないでしょうが、単に預けることだけではなくなにがしかの教え込みをしたがります。

子どもは本来は本能的に自立するための機能を育て上げる能力持って生まれてきています。

まずは、余分なことをやらせたり教え込んだりして邪魔をしないことが一番大切なようですね。