2014年3月2日日曜日

破るべきカラはどこにある?

「カラを破れ」、「既成概念を取り払え」、はよく聞く話ですが、そもそもの「カラ」や「既成概念」はどこで着いたものなのでしょうか?

それは悪いものなのでしょうか?




人は生きていく間にいろいろな経験をして、痛い目に会って自分のやり方を確立させていきます。

こうやったら失敗したと言う経験が、それを避けるための行動を刷り込んでいくようになります。

失敗の種類にもいろいろありますが、人のその後の行動までを変えてしまうものはそんなに多くはありません。


人は人の中で生きている限り、人の評価にさらされています。

人と関わり持っている限り、より良い評価の中で生きていきたいのが当たり前の感情になります。


人間の脳の判断基準が「快か不快か」であることは何度か触れてきました。

「快」と「不快」の間に位置することについては、ほとんど意識することはありませんが、極端にどちらかに寄った場合に強く意識されることになります。

人の評価は「快」か「不快」かに大きく触れる要因になります。

しかし、同じことについて「快か不快か」を感じる内容は経験によって書き換えられていきます。


「快か不快か」は自分自身が作る感情によって左右されます。

「快」の最たる感情は、嬉しい、楽しい、誇らしいなどですし、「不快」の最たる感情は、恥ずかしい、みっともない、悲しい、情けないなどになります。




その人が持っている「カラ」や「既成概念」は自分の中の強烈な「不快」によって作られています。

その「不快」を避けるための行動や思考がその人の「カラ」や「既成概念」となります。

「カラ」や「既成概念」は今の自分を作りりあげてきたものです。

それらがあるから、今の自分が出来上がっているのです。

良い面も悪い面も含めて、正確や行動パターンもすべてがこれによって作られています。


自分の気づかないうちに、強烈な「不快」を受けた経験に対して、二度とその経験をしないための思考や行動をとるようになっているのです。

誰でも必ず、そうなったことの原体験があるのです。

この原体験を見つけられるかどうかは、その後の生き方において大きな影響を持つことになります。

普通であればあれば二度と触れたくないことです。できれば忘れ去りたいことのはずです。


「不快」につながる原体験の多くは失敗です。

しかし、失敗と言う事実は存在しません。人が失敗だと規定して思っているだけです。

自分が想定したものに比べて結果が悪い方に違ったことを失敗と言っているだけで、自分の頭の中で作られたものです。

単に、結果が想定と違っただけでは簡単には失敗とは感じません。

そこに、他人の悪い評価が重なり、自分の感情の中に恥ずかしい、みっともない、情けない、などの感情が沸き起こった時に「失敗」という意識を強くすることになります。


事実は、単なる現象として原因があって結果が淡々と起こっているだけです。

私たちの「カラ」や「既成概念」にも原因となる原体験があります。

それは単なる事実であり、そのことだけでは人に影響を及ぼすことはありません。

その事実をどう受け止め、どう感じたかが「カラ」や「既成事実」のもとです。


もう一度この原体験と向き合うことができたときに、自分の「カラ」や「既成概念」について知ることができます。

それらは良いとか悪いとかではありません。

今の自分を作っているものですから、今の自分を変えたくなければ、知る必要も考える必要もありません。


成長することが変化することだと理解している人や、今の延長線上にいたくない自分を感じている人は、変化しようともがいています。

変化するためには、行動が変わらなければなりません。




原体験から「カラ」や既成概念」が作られたことと同じことをする必要があります。

原体験と同じ経験をしない様にとってきた行動の積み重ねが、習慣となって今の「カラ」や「既成概念」を作ってきたのです。

「カラ」や「既成概念」を取り払うためには、そのための行動をとり続けて習慣化することが必要になります。

常に意識して行動をしないと、すぐに戻ってしまいます。

中途半端な意識では変わることができない理由がここにあります。


原体験を意識せずには根本的な変化はあり得ません。

自分一人で原体験に向き合うことはとても辛いことです。

本当の仲間と一緒に、向き合える機会が持てた人だけができることだと思います。

一人では変われないのですね。

良いところも悪いところも含めて今の自分を作ってきた原点を見つけてみませんか?

本当の仲間と一緒に。