ちょっとしたことがわからなくて気になっても、そのことを聞くのが恥かしくて確認できなことってありませんか?
私は、昨日のテーマで取り上げた「ホットケーキとパンケーキの違い」が判らなかったのですが、確認することができませんでした。
周りの人は既に当たり前に知っていそうに感じて、いまさら聞くことが恥かしく感じたからです。
知らなかったからと言って大したことではないと思っていたのですが、パンケーキが流行って耳にするたびに気になるようになっていました。
大したことではないと思っているのですのでから、サクッと聞いてしまうこともできるでしょうし、どうでもいいこととして放棄して忘れてしまうこともできたはずです。
そのどちらもできずに、人に聞くこともできずにいました。
わざわざ、調べることでもないと感じていたので、ネットでの検索もしていませんでした。
すると、思い立った時に聞けばいいのですが、時間がたてばたつほど聞きにくくなっていることに気がつきました。
どうでもいいと思っていることなのに気になってしまい、いざ誰かに聞こうとすると、一般的には知っていて当たり前のことで恥かしくて聞けないという悪循環です。
この時の恥かしさはどこからきているのでしょうか。
自分の知らないことを知らないとはっきり言えることと、立場の関係なく知っている人に聞けることは、意識して取り組んできたことでもあり、ある程度習慣化できていることだと思っていました。
それでも「ホットケーキとパンケーキ」にはまだ、何かが引っ掛かっていたんですね。
「人が知っていることを自分が知らないことが恥かしいことである。」という感覚は、いつどのようにして身についた感覚なのでしょう。
もって生まれた感覚でないことは間違いありませんので、経験の中で染みついていった感覚だと言えます。
刷り込みになっているくらいですので、よほど強力な体験であるか、かなりの数の繰り返し体験であるはずです。
じっくりと考えてみると一番大きな要因は、学校のテストにあったようです。
定期テストはもちろんのこと、小さなころから受けてきた数々のテストです。
教わったり学んだりしたことがどの程度身についているのかを確認するのがテストです。
実際には、身についているかどうかよりも「記憶さてれいるかどうか。」、つまり知っているかどうかを試していることに他なりません。
小学校も低学年のころは100点満点を取ったテストがたくさんあったはずです。
先生からは、ちゃんと覚えていれば100点が取れることを、何度も何度も刷り込まれます。
学んだり教わったりしていないのではなく、知っていて当たり前のことを覚えていない自分が悪いことを指摘されます。
教わっていないことが出題されることもありますが、そのことを分からなくとも責められることはありません。
教わったこと、知っていなければならないこと、覚えていなければならないことを知っていないと責められます。
場面によっては、人の前で責められることもあります。
記憶していないことを責められます。
記憶していないことは知らないことと同じです。
人によっては保育園や幼稚園から始まるテストの連続が、「知らないことは恥かしいこと」という感覚を作ってきてしまっているのです。
しかも、教わっていて知っていて当たり前のこと、誰でもがテストにおいて正解するような事柄について知らないことは一段と恥かしいこととして感じるのです。
この知っていて当たり前のことが、学年を上がれば上がるほど、専門性が出てくれば来るほどハードルが上がっていきます。
小学生のころは、テレビの漫画を見逃してみんなと同じレベルで会話ができなかったことが、悔しかったり恥かしかったりしました。
高校や大学に行くと、及第点をとれないことが恥かしくなってきます。
及第点は、知っていなければならないこと覚えていなければならないことの合格ラインです。
及第点に及ばないということは、感覚として人として存在否定されているような感覚まで持つことがあります。
また、評価する側である周りは及第点の意義を認めされるために、及第点に及ばないことに対して何らかの罰を用意します。
そして、その罰を受けることを恥ずかしいこととして教育していきます。
優良点ではなく及第点ですので、優れている部分としてではなく欠落している部分として捉えられることになります。
単純にそのことについて記憶していないだけのことですが、それだけのことで人そのものに対しての評価が決められてしまうことになります。
すべてのことについて記憶を保持しておくことは誰にとっても困難ですので、ある程度の幅(バッファ)をもって評価の枠を作ることになります。
その限界値として作られるものが及第点です。
テストの問題にも、個別の問題におけるレベルが設定されます。
全体としての及第点もあれば、一問ごとに及第レベルであるかどうかの判断もあります。
学校にいて同じ内容の教育を受けて、その記憶の効果としてのテストであれば基準が明確になりますが、教わる環境や内容が変わってくれば及第のレベルが変わってくることになります。
また、評価する立場や人によってもそのレベルが変わってきます。
何らかの組織や団体に属している限り、必ず評価されるという環境に晒されることになります。
評価者が持つ基準における及第点をクリアすることが条件になります。
しばらく前までは及第に達するかどうかが一般的な評価の基準でしたが、近年では及第点をそろえることよりも、何らかの飛び抜けた能力を評価するようになってきました。
それでも社会的な常識という自分の頭のなかで勝手に決めた最低限の及第点を持っています。
会社に入った時に、日本経済新聞を読めと言われました。
朝礼では、新聞の経済面の記事が会話の中心になりました。
新しい知識とそれを記憶していることの比べっこです。
現実的に最新の情報を仕事に利用してした人を私はほとんど知りません、特に私の周りにはほとんどいませんでした。
しかし、それが社会人としての及第点だと教え込まれてきました、その輪に入れないことが恥かしいことだと教え込まれてきました。
人が決めた基準に対して、人が決めた見えない及第点に達していないことを怯えていたことが、「恥かしい」原因ではないでしょうか。
見えない人の評価がどうなるかもわからず、勝手に悪い評価をされてみじめな感覚になっている自分を想像しているのが「恥かしい」ではないのでしょうか。
つまり、人の悪い評価にさらされている自分の状況が「恥かしい」と感じる根源です。
人の評価が気にならなくなれば、人の基準が気にならなくなれば「知らないことを聞くこと」が恥かしくなくなるのでしょう。
でも、そこまで行ってしまうと、社会で人と交わって生きていくことに不都合が生まれそうですね。
自分で決めた基準である及第点に対して届いていないことで「恥かしい」と感じることはいいことだと思います。
おそらく及第点とは、人と交わる社会における最低限のルールとしての環境ではないでしょうか。
それは、社会の変化や付き合う相手によってによっても変化するものではないでしょうか。
人が決めた基準である及第点に対する評価を気にして、「知らないことを聞くこと」に恥かしさを感じることからは抜け出さなければいけないでしょう。
自分で決めた及第点に対して「知らないことを聞くこと」は恥かしさを感じながらも行動に移す勇気が必要でしょう。
自分で決めた及第点の柔軟さと環境対応能力が求められることですね。
何十年という間、他人の作った基準と評価のなかで生きてきた者にとっては、大きなパラダイム変化を経験する必要があるのでしょう。
個人として社会と触れて社会の中で生きていくということは、すべて自分で決めて働きかけをしていかなければならないということなのでしょうね。