私はつい最近まで、あらゆることに正解があるものと思っていました。
過去の成功事例や、定石、定番と言われるものはの正解のひとつであると思っていました。
なんらかの問題にあたった時に、それを解決するための正解がどこかに必ず存在すると思っていました。
自分でその正解が見つからなければ、どこかの誰かが持っていて、それを探しあてることが自分のすることだと思っていました。
そのために同種の過去の経験をたくさん持った人ほど指導的立場におり、スペシャリストして存在しているものと考えていました。
このことは学校教育や会社生活の試験・評価方法によって刷り込まれてきたことだと思いいます。
〇か☓かをつけなければ試験結果は出せません。
誰が見ても〇か☓か、合っているのか間違っているのかがわかることでないと評価ができません。
出題される問題が、当然のごとく正解があるものしか扱われないことになります。
しかも回答が文章になりますと、意見が入ってくるため〇か☓か判断が難しくなります。
むかしのテストや、数学の記述式テストでは部分点などとして判断することもありますね。
そのために、キーワードが使用されているかどうかが判断基準になったりしますね。
いずれにしても、生まれてこの方ずっと、
正解を探し続け、正解を選択するように躾けられていました。
正解を見つけることが当たり前となっており、正解はどこかに必ずあるものだと思い込んでいます。
いかに早く正解にたどり着くかが能力だと思っていました。
時間を売っているサラリーマンの時は、それで何の問題もありませんでした。
周りもみんな同じように正解を探していましたから、何の違和感もありませんでした。
そして、見つけた正解の通りにやっていればどんな結果になろうとも構わないのです。
正解を見つけてその通りにやることが評価なのです。
そこではむしろ、正解を見つけるほうに重きが置かれるのです。
正解を見つけたら、自分の役割は終わりで、実際やるのは別の人ということが非常に多いです。
そして評価は正解を見つけた人が独り占め。
こんなことを、ずっと見てきました。
だから、自分は一日でも早く正解を見つけるほうの立場になりたいと思って、様々な知識を身につけようとしました。
正解を見つけるためのノウハウばかり集めていました。
正解が見つけられる人間だという評価を得ようとしました。
こんなことが起こるようになりました。
ある問題が起こった時に、どう対処するかのミーティングが行われました。
関連部署からそれぞれの対策が出されました。
最後に二つの対策案に集約されましたが、対立してまとまりません。
どちらも自分たちの方が正解だと思っていますから、異なっている点での対立となってしまいました。
早く決めなければいけないために、さらなる上司を巻き込んでの検討となりました。
仕方なく採決の結果、一方の内容に決定して実施することになりました。
実施された結果が決めたメンバーに報告されることはありませんでした。
何の疑問も感じずに、まるでこれが仕事の流れであるかのように行われていきます。
過去のことには正解はあるでしょう。
それは、すでにやったという事実であることとしての正解です。
そのことをやったことが正解だったかどうかということではありません。
設問としては「その時に行ったことはなんですか?」に対しては正解があります。
過去にやった歴史的な事実ですから、そのことが設問に対する正解です。
では設問として「その時に行うべき正解はなんでしたか?」に正解があるでしょうか。
実際にやったこととその結果は分かってますが、それが正解だったかどうかは分かりません。
どうも正解という名の亡霊を追い求めているようですね。
情報があまりにたくさんあることによって、正解も見つけやすくなったと思い込んでいるようです。
(参照:多くの情報にさらされる危険)
これからやろうとすることややりたいことに対しての正解はないんですね。
自分が望む結果を手に入れるための正解を探すことは無駄な行為だったんですね。
正解があると思っていたのは妄想だったんですね。
このことに気付かないと、生きていくことが難しくなってきましたね。
社会の仕組みに頼りっきりで生きていける人が、どんどん減ってきています。
独力で生きていくための原資を稼がないと、社会の仕組みでは人が死ぬまでの面倒が見られなくなってきていますね。
正解があると思って探しているうちに、何の結果も出ずに残り少ない貴重な時間がどんどんなくなっていくわけですね。
それならば現実的に正解という言葉自身を自分の中で置き換えてみることも必要ですね。
「正解」という言葉自体が、どこかに正しい解答が存在しているというイメージを与えているかもしれませんから。
正解が存在しないと分かった時に、どんな行動をするのか。
この辺が大きな分かれ道になりそうですね。
さあ、どうしましょうか。