人として生き抜いていくための一番大切なチカラが「聞くこと、話すこと、表現すること」であることを確認してきました。
一人で生きていけない以上、必ず誰かとかかわっていきます。
その時に必要なチカラが「聞くこと、話すこと、表現すること」です。
「聞くこと、話すこと」はすべて話し言葉(口語)でなされます。
「表現すること」は、様々な道具でなされます。
話し言葉はもちろんのこと、文章や書きもの、スライドや映像、身振り手振りや音楽、絵画や彫刻、料理やカクテル、香料や味付け、など五感すべてに訴えてきます。
その中で言語の持つ共有性はとても大きなものがありますが、個人によって語感が異なりますので、決して絶対的な物ではありません。
「ここまで言って分からなければ、仕方がない。」という表現があります。
表現の放棄そのものですね、組織に属している人にしか聞かない言葉です。
こういう人たちには不要な話ですね。
さて、語感を磨く一番いい方法は新聞を読まないことです。
基本的な語感を身につけている途中の15歳くらいまでであれば、ひとつの語感として新聞の語感を学ぶ必要もあるかもしれません。
しかし何十年もの間、毎日のように新聞を読んできた私たちにとっては、充分に分かっている語感なのです。
そこに出ている情報自体はほとんどが脚色され捻じ曲げられているものですから、情報自体に価値はありません。
速報性が情報のいい加減さをカバーしていたのですが、ネット情報の出現によって速報性も正確性も価値のないものになりました。
限られたスペースで、瞬間的に注意をひきつけながら、事実や意見や憶測を混同している語感は百害あっても一利はありません。
継続的に触れている語感は、記憶に残ってしまい何かの時にすぐに顔を出します。
新聞の語感は、騒いでいる割には中身はない印象を与える典型的な物です。
まずは、この語感を捨てることです。
同じ理由で、次はテレビですね。
ただし、テレビの場合は番組のジャンルによってかなり語感が違うものが存在していますので、固定的な人が話している番組を継続的に見ることを避ければ、利用価値があります。
毎日、毎週、同じ番組を見続けていることが語感を磨くことには妨げになります。
ニュース、同じメンバーによる情報番組、などは一日も早く遮断することですね。
新聞やテレビを遮断すると、好循環がうまれます。
どこかに情報を求めようとしますから、いろいろな媒体に接することになります。
固定的な媒体に頼ることの危険性は、十分に経験していますので、一つの情報を確認するためには複数の媒体に接することになります。
同じ情報について、正確性の高い語感もあれば、感受性の高い語感もあります。
伝える相手と内容の焦点のしぼり方によって、語感が異なります。
同じ情報で比較することによって、語感の違いがより鮮明になるのです。
新聞は、毎日のようにこちらが意識して読みに行っているので、その語感は記憶されてしまいますし、その人の語感の中核になってしまう可能性があります。
一般的に日本語が曖昧だと言われる理由の一つだと思います。
テレビは五感のうちのふたつを占領します。
視覚と聴覚です。
自分が意識しなくともこの二つを同じ内容で占拠されれば、イヤでも記憶に残ります。
記憶学習が聴覚と視覚を使って効果を上げるのと同じことです。
一種の洗脳と言えるでしょう。
意識しなくとも、ボヤッと見ているだけでその語感は記憶に残ってしまいます。
テレビを使って語感を鍛えるためには、視聴者が限定されて制作された番組しかありません。
自分にとって気持ちのいい語感を選んではいけないのです、相手に応じた語感を感じなければいけないからです。
幼児相手には「おかあさんといっしょ」でしょうか、ゆとりある中高年相手には「趣味の園芸」でしょうか。
一番いいのは、しばらくの間、新聞とテレビを完全遮断してみることだと思います。
おそらく、何の不自由も、不便さも感じないと思います。
新しい発見がたくさんあると思いますよ。
ぜひ、試してみてほしいと思います。