思考するための言語である母語は、5歳くらいまでの間に基本的な部分は身についてしまいます。
それから先は身につけた基本的な母語を使って、2つのことを身につけていきます。
一つは母語を基本にして、コミュニケーションの道具としての第一言語を習得していきます。
通常の場合は固有の母語と第一言語は同じ言語の場合がほとんどとなります。
固有の母語は方言や母親の独特の言語をそのまま受け継ぎますが、第一言語になってくるとコミュニケーションのための共通規則が習得されていきます。
もう一つは母語を基本とし、学習するための言語(通常は第一言語)を習得しながら様々な知識を身につけていきます。
小学校の教科で考えると分かり易いと思います。
国語で母語の磨き上げと第一言語の習得を行いながら、他の教科で知識の習得を行います。
国語以外の教科の教科書は、すべて国語の文字や言葉の習得過程に合わせた表現で書かれています。
国語以外の教科の成績が思わしくない場合は、その教科の考え方についての道具である言語の習得が追い付いていない場合がほとんどです。
国語をきちんと習得することによって、その他の教科の成績が向上することは教育関係者ならば知らない人はいないと思います。
低学年を担当する先生が授業を進める中で一番気にすることは、一人ずつの生徒の国語の習得状況についてです。
第一言語としての基本的な習得は10歳頃までに完了するといわれています。
それ以降は、習得した言語を利用して、思考するための道具としてさらなる語彙と知識の習得を行っていくこととなります。
10歳を越えるようになると、それまでの中心であった第一言語の習得から、言語を使った思考を中心にするようになります。
ところが学校の教育内容は、知識を習得することとその習得度合いを測るテストが中心となってしまうために、思考することの習得が疎かになります。
自然科学分野ではヨーロッパ型の言語による思考によって、基本的な原理原則、定理などが成り立っています。
それは現象や事実を言葉で論理的に説明する技術になります。
もともとヨーロッパ型の言語による思考を苦手とする日本語を母語とす私たちにとっては、習得した第一言語(日本語)でヨーロッパ型の思考をいかに上手にできるかどうかで自然科学分野の習得度合いが変わってきます。
小学校の段階ですと、算数と理科がこの対象となります。
小学校の段階で算数と理科が嫌いになる生徒が多いのは日本語の影響でもあるんですね。
算数と理科が苦手な子は、ほとんどの場合書くことが苦手です。
ある段階までは記憶力で勝負できますが、それ以降は書きながら理論展開をしていかなくてはならなくなります。
それ以外の教科は体を使う(体育)、手先を使う(図工)、感性を使う(美術・音楽)以外はすべて記憶力だけで勝負できる分野です。
書いて論理を説明するという行為は、学生の時はそれほど経験はしません。
これがまさしく思考するということです。
自分自身に対して行うこともあるでしょうし、人に対して行うこともあるでしょう。
書かない場合は言葉を使って頭の中で思考しますが、書くことによって思考はさらに前進します。
そのためのトレーニングを受ける機会もほとんどないと思われます。
したがって、10歳頃に身につけた思考するための道具である言語は、本来の思考するために使われる機会が少なく、もっぱらコミュニケーションのための道具として使われることになります。
日本語には持って生まれた特徴として、話し言葉を中心とした文化による論理的表現の苦手さがあります。
西洋言語、特に世界共通語になりつつある英語と比較すると論理的曖昧さが指摘されます。
だからと言って言語としての日本語が 劣っているわけではありません。
言語としての大きさから言えば英語よりもはるかに大きな言語であると言えます。
英語的な思考を求められた時や、英語に置き換えなければいけない時に対応できればいいだけです。
そのために必要なことは、論理的に文字で考えるということだけです。
学生時代に習得することのできない技術ですので、自分で習得する以外ないですね。
これが身につくとさらに日本語の良さを使った表現ができるようになると思います。