(参照:論理はひらがなで作られる)
したがって、ひらがなの使われ方を見ていけば、その時代の論理について知ることができることになります。
それぞれの文章を締めくくる言葉は、技術的に狙ったものである体言止めにしない限りはひらがなが来ることになります。
日本語の文章に対する、筆者の確信度合いは文章の最後の表現に来ることになります。
絶対的な事実として捉えているのか、一つの意見として捉えているのか、推測として捉えているのかは文章の締めくくり方で判断することができます。
ほとんどの場合は動詞が文章の最後に来るので、その動詞の活用形によって判断できるものでもあります。
未然、連用、終止、連体、仮定、命令、意思、音便、懐かしい動詞の変化形ですね。
五段活用などと言っていた記憶があります。
文法的な定義や使い方は忘れたとしても、感覚としては間違いなく残っているのではないでしょうか。
古い日本語に出会っても、なんとなく感覚でニュアンスがわかるのは仮名で書かれて声に出して読んでみた時ではないでしょうか。
声に出して読むときには、音だけ拾っても伝えるのは難しいことになります。
抑揚の少ない日本語の音ではありますが、そこにも微妙な抑揚やアクセントがあります。
意味を理解したうえで、それの相応しい読み方をすることが正しく伝える基本になります。
読んだだけではよく分からなかった言葉が、正しく発音されたのを聴くことによって理解できることは頻繁にあることです。
日本語は、読むことと書くことと話すことをうまく組み合わせることによって、さらに理解を深くしていくことができるものとなっているのではないでしょうか。
文章の論理を読み解くのに、カギとなる言葉はほとんどはひらがなで書かれたものとなっています。
しかも日本語が得意とする論理はある程度限られたものとなっています。
そのことを知っていおくだけで、読解力が向上することになります。
接続詞で区切られた一群の文章や段落で区切られた文章群などを一つの塊として捉えることができます。
それらの文章群同士がどのような関係になっているのかを読み解くことが読解力となります。
その中で筆者が一番強調したい主張が何処になるのかをしっかり確認することが大切になります。
筆者は、一般的に知れ渡っていることとは違っていることを主張しようとしています。
当たり前に知れ渡っていることであれば、常識となっていてだれも興味を持たないのでいくら主張しても意味がないからです。
したがって、一般的な常識や知識とは異なったことを主張しようとするのです。
そのためには、読者にとっては常識外であったり知らなかったことであったり、あるいは既存の知識を否定することであったりしますので、筆者には論証する責任が発生することになります。
その論証するための理論が、そこに展開されていくのです。
その論証を読者が納得したときに共感が生まれ、更には気づきと言われるような活動を促すことになります。
筆者の主張は、不変の一般論的な展開へと持っていきたいわけですから、どうしても抽象的なものとなります。
抽象とは、具体的なもの同士における共通性を見つけることにあるので、具体的な対象が多ければ多いほど抽象度が高くなります。
その中の具体性の一つが自分の持っている具体性と一致したときに、読者は筆者の展開する論理を自分と共有することになります。
筆者の展開する論理の実証のためには、読者の理解できる具体性が必要になります。
その具体性に対して、読者が共有できない場合にはどこまで行っても筆者の論理や主張が理解できないことになります。
筆者な展開する論理は以下の三つに絞ることができます。
- 対等・言い換えの論理
- 対立・反証の論理
- 原因結果の因果関係の論理
実際に論証している内容については理解できなくとも、これらの三つのうちに何をしているかを知ることができるのがひらがなの使い方です。
その時の、大きな手助けとなるのが接続詞と語尾の変化なのです。
対等・言い換えの論理の場合には、同じことを主張するわけですが、より論拠を固めるための具体性の列挙やより論理を理解しやすくするための言い換えが行なわれます。
「たとえば」「すなわち」「または」などが頭にくる場合は、ほとんどこの展開がされ散る文章群ということができます。
そこまでの展開や論理が理解できていれば、この文章群については読み飛ばしても問題がないことになります。
対立・反証の論理については、そこまで言ってい居た内容と反対の論理を展開することになります。
ここでは、筆者の一番の主張が展開されることが多くなります。
この時に大切なことは、それまでに行われた論理が筆者の主張なのか、そのあとに対立としているものが筆者の主張なのかを明確に理解することが必要になります。
下手な文章だとどちらが本当に主張したいことかわかりにくいものがあります。
「しかし」「ところが」などに続く文章群がその対象となることになります。
原因と結果の関係の論理は、文章が長くなると理解しにくくなるものです。
前の二つに比べてると、両者の関係を明確に理解しなければならないからです。
ほとんどの場合は、筆者もそのことが分かっていますので、「なぜなら」「そのわけは」「であるから」のような因果関係を示す接続詞がしっかりと使われることが多くなります。
そしてこれらの論理の中で展開されている一つひとつの内容が事実なのは推測なのか意見なのかは、そのぞれの文章の締めくくり方を見ればわかることになります。
筆者の主張として強く読者を導こうとするのか、同意を得ようとするのか、一つの意見として投げかけようとしているのかは文章の終わり方を見れば理解することができます。
これらのすべてがひらがなで書かれているわけですね。
難しそうな言葉や漢字やカタカナ、アルファベットばかり追いかけて分かったような気になっていませんか?
ネットの上ではより短い文章が求められています。
まさしく、ひらがなの使い方が大きなチカラを発揮する場面ではないでしょうか。
しっかり使いこなしていきたいですね。