2013年11月18日月曜日

多くの情報にさらされる危険

人は何をしていなくても様々な膨大な情報にさらされています。
必要な情報があれば、調べるツールはいくらでもあります。
正解と思われるものを見つけ出すことが簡単にできます。
新しい知識を見つけることは簡単にできます。


これを飛躍的にすすめたのがインターネットの普及であり、コンテンツの拡大です。
その基盤となる通信網の拡大と整備ですね。


触れることができる情報も格段に増えて、双方向コミュニケーションが可能なツールもたくさんできています。
海外の情報や人との連絡も自動翻訳を介して、ほぼリアルタイムでできるようになっています。

これらのことから自然と人の働きが変わってきています。
頭の使い方が変わってきています。


私が危惧していることに触れておきたいと思います。
たぶん、
しばらくすると私の言っていることも危惧ではなく当たり前のことになっていくのでしょうが、言葉に関連して気になっていることです。

一昔前は個人がどれだけの情報を持っているかが、個人の能力判断の一つでした。
ものごとを調べるのに手間と時間がとてつもなく掛かっていたからです。
最新の情報は新聞かテレビ(あるはラジオ)から得ていたものです。
専門の情報を手に入れるためには途方もない労力が必要でした。

このころの企業の採用試験の中には、「今朝の日経新聞の記事」を使っていたところがたくさんありました。
情報の中身なんかどうでもいいのです、日経朝刊をよんで記事のサマリをつかんでおけばよいのです。
場合によっては記事になっていることを知っておけばいいだけです。
この記事が日経に載っていたことを知っているかどうかが、ビジネス上の一般常識としての判断基準になっていたのです。


私もそのために日経を読んだことを記憶しています。
そこで使われている言葉を知っていること、使えることが判断基準になっていたのです。
その言葉を使えることがビジネスマンだったのです。

それ以上の深い情報が必要になると、専門的なことがわかる人なり機関なり資料を調べなければなりませんが、実際のビジネスにおいてそこまで必要なことはありませんでした。
ほとんどが知識の比べっこでしたね。


現代ではPCやスマホによって、個人レベルでも情報は簡単に得ることができます。
しかも新聞やテレビの情報よりも早く、リアルタイムでの情報を得ることも可能です。

ところが、必要な時に必要な情報を得るためには、検索の力が必要になります。
年配者にはこれが欠けている人が多いです。
私もそうですが、googleやyahooくらいしか知りません。

反対に若い人はこの検索を、いとも簡単にサクサクとこなします。
自分では知らなかった、言葉や知識の情報が簡単に手に入ります。
そして、ほとんどの場合はそこで得た知識でその場の対応は済んでしまいます。

一度得た知識は、そのほとんどが検索機能に記憶されていますので、再検索はすぐわかります。
自分でも再検索であることがわかります。
するとそのことについては自分は知識として持っているものとして勘違いが起こります。

また、
あることについて誰かが話している言葉がわからず、検索した時にその人の言っている内容と違うことが出てくることが多々あります。

特にwikipediaはよく使われますが、中身は個人の見解です。
それと比較して話している人が間違っていると判断することがよくあります。
その段階で話を聞くというスタンスが大きく揺らぎます。

このことは今の大学の講義で頻繁にみられるそうです。

 

同じ言葉についても一人ひとり解釈と使い方が異なることを理解できない者が、自分が調べた(持っている)内容だけで判断して、拒絶してしまうということが起こります。
拒絶までも行かなくとも、違った時に信じるのが自分の情報となりますので、聞くということに対しての姿勢が薄れることになります。

いったん自分の知識と異なったことが出てくると、さらに聞いてみようという姿勢よりも拒絶する姿勢の方に引っ張られます。
すると、その箇所以外がどんなに役に立つ内容であったとしても、受け取ることができなくなります。
違う箇所にも影響を及ぼしますので、本来必要なところまで漏らすことが出てきます。

私が気にしているのは、このことについてです。
一人ひとりの持っている言葉の内容や使い方が違うために、話し合いをして聞く必要があるのですが、違うことが拒絶することにつながります。
しかも自分の得た情報が正解だと思い込みます。
違いを受け入れられないのです。

これによって人の話を聞かなくなるのです。
正解が自分の手の届くところにいつもあると思ってしまうのです。


世の中に正解はありません。
ましてやネット上にあるものはほんの一握りの限られた情報です。
正解があるのは、決められた規則で演算されたものであったり、過去の歴史の事実くらいのものです。

やってみた結果としての答えはありますが、正解はありません。
自分が正解だと思っていることも一つの意見であり、一つの仮説にしかすぎません。

私たちの受けてきた試験はほとんどの場合は、正解を探し当てるものでした。
選択式などは特にそうです。
ですから、
私たちはどこかには正解があると思い込んでいます。
試験は正解がないと〇☓が付けられません。


ところが世の中のことで、ましてやこれからのことでは正解がわかっているものなどほとんどありません。
正解がないから、やってみて修正してを繰り返していくんですね。

私たちは経験上、なんらかの問題に出くわすと正解があると思って探しに行きます。
どこに正解があるんだろう、誰に聞けば正解がわかるんだろうと思って探します。
これは問題を解決しようとして考えていることではないですね。

多くの情報が手に入るようになったことによって、正解を見つけることがしやすくなったと思っている人がいます。
こう思ったら人は考えなくなります。
頭の使い道が正解を探すための検索機になるだけです。

正解はどこにもないのです。
だから、
考えるのです。そのために頭を使うのです。


情報過多の時代で、その情報が簡単に手に入ることよって、人が本来の考える活動をできなくなるのではないかということを危惧しています。
簡単に正解が見つかったと思ってしまうのではないかと危惧しています。

情報が少ない時代は、人は思い切り頭を使っていました。
少ない情報のかけらを集めて、それらを統合して何が起きているのか、何が起きようとしているのかを考えていました。
その上で、どのような行動をするべきかを考えていました。

いま、それらのことは誰もが簡単に手に入れることのできるところにあります。
今後の行動についても、過去の例が山ほど簡単に手に入ります。



私たちは、正解のないことを自分で切り開いていくことの訓練を受けてきていません。
正解がないということに対して、不気味な不安を感じます。
正解がないということで、立ち止まってしまいます。
それでも、どこかに正解があるのではないかと探そうとします。

正解のないことに対しての向き合い方は、自分で身につけなければいけないようですね。
実際に日々生きていくことに、何かをしようとするときに正解はあるでしょうか。
似たような過去の成功事例は、今の問題に対しての正解となるのでしょうか。

まずは、正解はどこにもないということを心の底から言い聞かせるところからでしょうか。


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