日本語の特徴の一つに習得することの難しを挙げられる場合がよくあります。
世界に存在する言語の中で最も習得が難しいと言われているものが中国語と日本語です。
それはどちらの言語習得の学習環境においても同じような状況が指摘されていることでも理解できるのではないでしょうか。
その状況とは以下のようなことです。
中国語も日本語も学校教育における言語の基本的なレベル習得に大変膨大な時間を必要としているのです。
その結果として、どちらの社会においても中学生の言語習得レベルでは日刊新聞の朝刊を読んで理解するにはまだ難しいという現実になっているのです。
必要最低限の教育レベルといわれる義務教育の期間を修了しても日刊新聞を読んで理解できるとは限らないことになります。
日刊新聞で使用されている言葉や表現方法は、それぞれの言語社会におけるきわめて標準的で基準的なものとなっています。
その基準的な言葉や表現方法を理解するのに、中学生の言語習得レベルでは追い付いていないということになります。
英語を筆頭とする他の言語習得環境においては、日刊紙を読んで理解できるための言語力はほぼ小学校の低学年レベルで身についています。
そのために、小学校の高学年以降では自己表現やディベートなど聞いたり読んだりして理解することの上位にあるとされる表現することに重点を置いた学習カリキュラムが可能となっているのです。
同年代の学生を見るとどうしても英語母語話者の方が表現力があるように見えるのは仕方のないことなのですね。
日本の大学の入学試験における国語科の内容を見てみても、ほとんどの内容は文章を読んで理解することや言葉や漢字の意味の理解力を問うものとなっています。
英語母語話者の大学における自分の意見としての表現を問われる試験などと比べるとその違いがよくわかるのではないでしょうか。
それは決して学習している者の能力レベルの違いではなく、持っている母語とその習得環境によって自然と異なってくるものなのです。
どんなに複雑で難しい言語であったとしても、その言語を母語として持っている者にとっては生まれた時から(生まれる前から)触れているものであり当たり前に使って自然と習得していきます。
そこでは言語習得の難しさについて感じることすらありません。
母親の言葉を聞き家族の言葉を聞き、周囲と会話をするようになり自然と身についてくるものとなっています。
周りが全て同じ言語ですから違和感も疑問もなく唯一のコミュニケーションの道具として意識もすることなく身についていきます。
他の言語(文化)と比較できる環境になったときに初めて自分の持っている言語について比較検討する機会を得ることになります。
そもそも他の言語であることを理解することができるようになるためには、その言語が自分の母語と違っていることが認識できなければなりませんので母語についてのあるレベルの習得が前提になります。
はじめのうちは使い方や意味の分からない母語の言葉に出会った時と変わらない「?」という印象ではないでしょうか。
英語であることを理解するためには、その発音や文字、イントネーションや言葉の並びが明らかに日本語と違うことを認識しなればなりません。
さらに英語であることを特定するためには他のアルファベットを使う言語であるフランス語やイタリア語などとも違いを認識なければなりません。
わたしたち日本語の母語話者はその違いを日本語による思考や感覚でもって理解していることになります。
日本語母語話者には日本語による思考や感覚が最も効率よく繊細に高レベルでできるようになっているのです。
しかも一般的に使われている文字についてすら漢字、ひががな、カタカナ、アルファベットと4種類のものを使い分けしており、同じ言葉であっても表記する文字によってニュアンスの違いを使い分けすらしているのです。
この文字の種類による使い分けの感覚も特に学習をしなくとも身についてくるということ自体が日本語を母語として持っていることによる特徴の一つということになります。
もし、世界のどの言語も同じ数の言葉しか持っていないのだとしたら、4種類もの表記方法を持つ日本語は1種類の文字しか持たない言語の4倍もの言葉のニュアンスを持っていることになります。
他の言語話者の4倍もの言葉を使い分けしていることになります。
しかもそこに使われている文字は他の言語が標準として持っている漢字やアルファベットも含まれており、これらの文字を標準として持っている言語との互換性の高さがあることになります。
分かりやすく言えば、他の言語を日本語として取り込むことについてきわめて壁が低いということになります。
日常的に一般の人が4種類もの文字を使い分けしている言語はほかにはありません。
単純に言えば、日本語で思考し論理を構築することが一番詳細であり正確であることが可能となっているはずです。
ところがその日本語は音としては1種類しか持っておらずその音数は極めて少ない言語となっているのです。
漢字もひらがなもカタカナもアルファベット(ローマ字)も同じ言葉はすべて同じ音です。
音で文字の違いを表現することはできない言語です。
日本語があいまいだと言われる原因の一つでもあります。
だから日本語話者は話すこと聞くことよりも、読むこと書くことでより多くのものを学習するのです。
音では一つの言葉を発していても頭の中ではその言葉を表記する文字の感覚までも描いているのです。
聞いた言葉が分からないときに漢字でどのように書くのか聞き返すことはありませんか?
文字によってことばを確認して特定していることを行なっているんですね。
音数が少ない分だけ同じ音を持つ言葉がたくさん存在してしまうことの解決策の一つでもあります。
母語以外の言語を習得したり比較したりすることも、当然母語によって行なっていることになります。
つまりは母語としての習得レベルが他の言語の習得にも大きな影響を及ぼすことになります。
言い換えれば、きちんとした母語が習得できていなければ他の言語がまともに習得できるわけがないということになります。
しかも言語としての難しさは群を抜いて高い日本語を母語として使いこなしていくためには、相当の習得時間が必要となっています。
幼い頃より英語に触れていた人よりも高校生以降に英語を学び始めた人の方がより高度できちんとした英語を使いこなせることは周りにいくらでも見ることができます。
それは日本語と英語の違いをキチンと日本語で理解できるようになってからの方が英語の習得が早くしかも高レベルであるということです。
他のほとんどの言語話者から習得が難しいと言われている日本語は、反対の立場として日本語話者の方から見ると他の言語の習得はそれほど難しく感じないということにもなります。
幼い頃より家庭環境によって日本語以外の言語に触れる機会の多かった人は日本語の母語としての感覚が身につかず、物心がつく頃になると周囲との違和感を感じることがあるそうです。
自分でもその原因がわからず思春期に悩んだ人が私の周りにも何人もいます。
人にも言えず、相談もできず、家族も理解できず苦しんでいたそうです。
大道芸でおなじみの天才数学者ピーター・フランクルさんの講演を聞きに行ったことがあります。
大学での講義だけでも12か国語も使いこなすことができるし議論や論文を書いたりすることもできますが、本当に難しい思考の場面では知らないうちに母語であるハンガリー語で考えていることに気が付いたそうです。
日常的に使うにおいてはフランス語の方が楽なのだそうですが、それこそが母語が持っている力なのではないでしょうか。
そのフランクルさんは勉強して一番役に立った言語として日本語を挙げています。
「美しくて面白い日本語」という著作もあります。
母語として日本語を身につけていることを最大限生かしたいものです。
子供たちや孫たちにもしっかりと時間をかけてきちんと母語としての日本語を身につけてから世界に飛躍していってほしいものです。
しっかりとした日本語が身についてから得たものでないと役に立たないものなのでしょうね。