日本語の基本的な表記方法は漢字とひらがなの混用表記(和漢混交文といいます)になります。
つまりは、一般的な日本語表記のためにはカタカナとアルファベットは使用しなくとも対応ができることになります。
アルファベットはこの文字を使用している言語の感覚をできるだけ原語に近いものとして表現しようとしたり、日本語の感覚の言葉とは異なるものであることを強調するときなどに使用されています。
カタカナも同じような使い方をされていますが、カタカナを使用している言語が日本語以外に存在しているわけではありません。
文字としては日本語にしかない文字ですが、その役割は歴史的な日本語独自の感覚と異なる言葉として強調するときに使われていると思われます。
漫画などでよく使われている擬音などはその一例ではないでしょうか。
日本語のいちばん最初の姿は文字のない音だけのことばでした。
「古代やまとことば」と呼んでいますが、そこに漢語の文化を取り込んできました。
漢語の音は「古代やまとことば」の音と共通するものは少なく日本語の音としての意味を成すものは全くなかったと思われます。
中途半端に音としての共通的な意味を持ったものがなかったことがかえって良かったのかもしれません。
遣隋使や遣唐使を通じて大量の漢語の文化が入ってきましたが、そのほとんどは書物によるものであり直接漢語の音に触れることは稀であったことも「古代やまとことば」に音による侵害がなかった要因と思われます。
漢語の持っている文字としての意味と「古代やまとことば」の持っている音のことばとしての意味が合ったものが、漢字の訓読みとして「古代やまとことば」に文字を与えることになったのではないでしょうか。
したがって、訓読みが与えられなかった漢字や音読みとしての漢字は「古代やまとことば」に充てることができなかった外来語として漢語のまま取り込んできたことになります。
動詞や形容動詞など使われ方によって語尾が変化することが多い日本語の使われ方は、それだけでは意味を持たない音をたくさん必要としています。
それらの音を表記するためには意味を持たない音だけの表音文字を必要としていました。
さらには、漢語に充てることができなかった音だけの「古代やまとことば」も日本独自のことばとして残っていたことでしょう。
それらの音を表記するために漢語を利用した様々な工夫がなされて「ひらがな」ができてきました。
漢字とひらがなによる混合文ができるまでは漢語の翻訳としての漢文訓読体(読み下し文)がそれに近い姿としてありました。
漢字かな混合文になる前の姿の一つということができると思います。
漢文の授業でやった返り点や句読点、オコト点や送り仮名など(総称して訓点という)を振って日本語として読もうとする表記ですね。
そこに使われていたのがカタカナだったことを覚えているでしょうか。
漢文訓読の歴史は意外に古く、一説によれば「論語」「千字文」が百済からもたらされた西暦284年にすでにあったと言われています。
いくらなんでも古すぎると思われますが、遣隋使や遣唐使が多くの書物を持ち込んだ奈良時代後期から平安時代になるといろいろな流派(博士家)による漢文訓読法が残されています。
それぞれの流派に伝わる秘伝的な要素が多かったらしく門外不出の扱いを受けていたものがほとんどでした。
漢字の周りの四隅や真ん中を利用して記号や振り仮名を記して日本語として読むための方法を伝えてきたのです。
したがって、仮名としての存在は「ひらがな」よりはカタカナのほうが先に使われていたと思われます。
しかし、一般的な生活をしている人には漢語を日本語として読み下すことなど必要としていませんでしたから、一握りのエリートたちによってしか使われていなかったと思われます。
一般には「ひらがな」の存在によって初めて女性や子供でも書物に触れることができるようになります。
それでも実際に手にすることができたのは身分の高い限られた人だけでした。
物語として漢字かな混用文が広まるのが平安後期から鎌倉時代にかけてだと思われます。
「源氏物語」はあの時代では世界でも一番長い物語作品であったとされています。
カタカナの使われ方は漢文を日本語として読み下すために作り出された日本語を表す文字記号であるということになります。
「ひらがな」は日本語を日本語として表記するために生み出された文字だということになります。
文字としての漢語を日本語の音として翻訳するために作られた記号(文字)がカタカナであり、音しかなかった日本語の音を記録するために作られた記号(文字)がひらがなであると言い換えることもできます。
一つは漢語という外国語をその文字を生かしながらその先進文化を理解するために日本語の音に訳すために生み出されたものであり、もう一つは音しかなかった日本語「やまとことば」を日本独自の感覚として表記するために文字として生み出されたものとなります。
目的が全く異なっていたことになります。しかし結果としてはどちらの仮名も同じ日本語の音を書き表したものとなっていることになります。
それぞれの仮名は使われている分野や環境もほとんど混ざり合うことがなかったのではないでしょうか。
そのためにそれぞれが独自に日本語の音を表す文字記号を作り出して発展していたことになります。
明治期に作られた古い法律の原文を見たことはあるでしょうか。
漢字とカタカナによって表記されたものです。
国語の教科書も戦前のものは漢字とカタカナによって記されていました。
アルファベットが一般化するまでは文字としての格付けは、漢字>カタカナ>ひらがな であったことを明確に感じることができるのではないでしょうか。
漢字とひらがなによる表記はいわゆる女こどもを対象にしたものとして、あらたまった場面での使用は避けられてきました。
一部の文学的作品に使用されてきただけのものとなっていました。
公式な場面やきちんとした場面では漢字カナの混用文が標準的な表記として用いられてきたのです。
世界の先進文化を取り込んで生き抜いてきた時代には外来語が高い地位を占めていました。
幸か不幸か第二次大戦によって敗戦国となった日本は戦勝国の統治下において結果として日本内部に目を向けることとなりました。
漢字かな表記を標準体としてひらがなが日本語の基本となったのです。
日本語を日本語として表記するための「ひらがな」が本来あるべきポジションにやっと据わったということになります。
感覚的にはひらがなによる表記が一番日本語の感覚を表すのことができるのではないかと思います。
漢字カナで長らく海外文化を取り込んできた日本が、漢字かなによって改めて自国の文化を見つめなおすことができたのではないでしょうか。
役所の文書や記録には漢字カナの表記のものがまだまだたくさん存在しています。
特に公式文書といわれるもののほとんどは漢字カナの表記で保存されていものが多くなっています。
どうやら、漢字カナの表記を漢字かなに替えてみることから始めたらよさそうですね。
昔の厳格な規律や考え方も決して漢字カナの表記と無関係ではないと思います。
漢字かなの表記が漢字カナよりも見た目も実際の伝わり方も優しいのは日本語の持っている感覚そのものではないでしょうか。
カタカナで培ってきた厳格さは本来の日本語が持っている感覚とは少し違っていたのではないでしょうか。
漢語を日本語に見せるという表面的な厳格さではなかったでしょうか。
そして、漢字カナによって厳格に見せることこそが国全体としても教育としても求められていたことだったのではないでしょうか。
ひらがなが日本語表記の基本となってからはすこしずつではありますが日本語の感覚が本来持っていた優しさや心配りといったものに自然と帰っていったのではないでしょうか。
終戦から七十年を超えて漢字かなの感覚も浸透してきていますが過去に学ぶときにはほとんどのものが漢字カナの感覚に触れることになります。
環境や立場によってはまだまだ漢字カナの感覚に慣れ親しんでいる人もたくさんいます。
若い人たちはカタカナの使い方がとても上手なような気がします。
生まれたときから漢字かなの感覚で教育も環境も整っていたからではないでしょうか。
役割の変わってきたカタカナの使い方は若い人たちに教わったほうがいいかもしれないですね。
古いお宅では家の中にも漢字カナの資料がたくさん残っているかもしれませんね。
電報がカタカナから漢字交じりのひらがなになったのはいつからだったでしょうか。
カタカナの使い方。
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2017年11月6日月曜日
2016年6月3日金曜日
日本語の感覚を確かめる
日本語におけるコミュニケーションの難しさは話し言葉と書かれた文章とのギャップの大きさにあると思われます。
日常的に使用されている日本語を表記する文字は、ひらがな・カタカナ・漢字・アルファベットの4種類があります。
世界のどんな言語でも4種類の文字を日常的に使用しているものは他にはないのではないでしょうか。
同じ言葉であっても表記文字の違いによって4種類の感覚の使い分けが自然と行なわれていることになります。
ところが話し言葉としては日本語の音は「ひらがなの音」の一種類しかありません。
本人はカタカナやアルファベットを使い分けて発音しているつもりでも実際には「ひらがなの音」としてしか伝わっていないのです。
英語をできるだけ英語らしく発音するためには、英語であることを明確にするためにも「ひらがなの音」を使わないことが求められます。
言語として持っている音が全く異なっているから少なくとも日本語ではないことを最初に分からせる必要があるからです。
アルファベットとして使用している文字は英語ではありません。
日本語の一部でありその音については「ひらがなの音」で使用されていることになります。
それはアルファベットの読み方そのものが日本語のものであり英語では通用しないようなものとなっていることでもわかるのではないでしょうか。
英語で使用されているアルファベットの音と日本語で使用されているアルファベットの「ひらがなの音」は全く違ったものとなっているのです。
表記している文字が同じだけにややこしいのですが、口頭言語として音としての意味しか持たないアルファベットは表音文字として使用されていますので表記することよりも音にすることの方が重要な活動になります。
したがって「ひらがなの音」にはない音が大半を占める英語の音は日本語を母語とする者にとっては真似することが大変難しい音となっているのです。
つまりは、英語の音は日本語話者にとっては言語の音として認識していない音ということになります。
英語の文化は始まった時点で話し言葉と文字の両方を持っていました。
それは文字を持った文化から継承したものだからです。
最初から話し言葉と文字が一緒にあるのが当たり前の環境だったのです。
ところが日本語の文化は文字としての漢語が導入される以前にも話し言葉しかない原始日本語としての「古代やまとことば」が存在していたことが確認されています。
当時の先進文明である漢語が導入されたときに漢語によって言語が統一されることなく、その漢語から「古代やまとことば」を表記するための文字である仮名を生み出してしまったのです。
漢語だけでは表現することができないものが根付いていたことをうかがわせる事実です。
漢語を利用しながらもその漢語から原始日本語である「古代やまとことば」を表記するための文字を生み出したことになります。
以降、「古代やまとことば」を継承する言語の表記方法としての仮名と先進文明を享受するための言語としての漢語がずーっと共存していくことになります。
ひらがなは文字のなかった原始日本語である「古代やまとことば」を継承している言語となっているのです。
やがて仮名は日常的な言語として定着していきます。
漢語は公式な文書やインテリ層の教養の証として定着していくこととなります。
そして日本語としての標準表記方法としての漢字かな交じり文(和漢混淆文)のスタイルが出来上がっていくことになります。
世界の現存する言語の中でも文字のなかった時代の言語をそのまま継承している言語はほとんど見当たりません。
しかもその音を文字のなかった時代より継承してきている言語は日本語くらいではないでしょうか。
日本語の感覚はひらがなの言葉やひらがなの使い方の中に脈々と継承され続けているのです。
ひらがな以外の文字は他国の先進文明や新しい技術・考え方などを日本語として取り込んできたものなのです。
したがってどんな言葉を使用するにしてもすべてひらがなとして表記し「ひらがなの音」として発してみることが日本語の持っている基本的な感覚を確認するための一番良い方法となります。
音読み漢字の熟語はひらがなとして表記したり音にしてみるとよく分からないものになります。
日本語の感覚の伴っていないものとなっていることの表れになります。
漢字の便利さは文字そのものが意味を持っている表意文字(表語文字ともいう)であることになります。
「ひらがなの音」を必要としなくとも言葉としての意味が文字から理解できてしまうからです。
これは文字のない「古代やまとことば」が持っていた言葉としての感覚としては異なったものです。
日本語の持っている基本的な感覚とは異なるものです。
どんなに単語を並べたとしても論理や内容の理解は「ひらがなことば」である「てにをは」や接続詞などの役割によってでき上がっているのです。
漢字やカタカナ・アルファベットは名詞としての新しく取り込んだ物や技術・考え方などを表しているだけでありそれらの関係である論理を作り上げることはひらがなを抜きにしては不可能なのです。
日本語の感覚はすべてひらがなによって継承されてきているのです。
もちろん「古代やまとことば」にも多くの名詞や動詞が存在していました。
それらは「ひらがなことば」で表わすことができる極めて基本的なものとなっています。
場合によっては漢字が充てられていたとしてもひらがなで表記した方が適切なこともたくさんあるものとなっています。
まずは自分の使っている言葉や伝えたいことをひらがなに置き換えてみることが日本語の感覚に合っているのかどうかを確認できる行為になります。
日本語を母語として持っている人には本人が意識しなくともこの感覚が備わっています。
しかも、言語を使って行なわれるあらゆる活動において影響を与えている感覚となっているのです。
つまりは、日本語を母語として持っている人にとっては誰にとっても理解できる基本的な感覚であると言うことができるものなのです。
言い方を変えれば、日本語の母語話者はこの基本的な感覚によって日本語によるコミュニケーションが可能となっていると言うことができるのです。
日本語同士でも理解できないことが増えてきました。
若者たちは新しい言葉を生み出す天才です。
そんな中でも日本語の持っている基本的な感覚は世代や時代を超えて共通しているものとなっているのです。
その感覚は文字のなかった「古代やまとことば」につながる感覚でもあるのです。
ひらがながなかったら漢語を導入した時から日本語は中国語文化圏に取り込まれたものとなっていたことでしょう。
皆に自然と身についているこの感覚を大切にして活かしていきたいものです。
世界に誇る文字のない時代のことばを継承した感覚を持った言語としての歴史伝統的な背景がすべて反映されたものなのですね。
しっかり活かしていきたいですね。
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日常的に使用されている日本語を表記する文字は、ひらがな・カタカナ・漢字・アルファベットの4種類があります。
世界のどんな言語でも4種類の文字を日常的に使用しているものは他にはないのではないでしょうか。
同じ言葉であっても表記文字の違いによって4種類の感覚の使い分けが自然と行なわれていることになります。
ところが話し言葉としては日本語の音は「ひらがなの音」の一種類しかありません。
本人はカタカナやアルファベットを使い分けて発音しているつもりでも実際には「ひらがなの音」としてしか伝わっていないのです。
英語をできるだけ英語らしく発音するためには、英語であることを明確にするためにも「ひらがなの音」を使わないことが求められます。
言語として持っている音が全く異なっているから少なくとも日本語ではないことを最初に分からせる必要があるからです。
アルファベットとして使用している文字は英語ではありません。
日本語の一部でありその音については「ひらがなの音」で使用されていることになります。
それはアルファベットの読み方そのものが日本語のものであり英語では通用しないようなものとなっていることでもわかるのではないでしょうか。
英語で使用されているアルファベットの音と日本語で使用されているアルファベットの「ひらがなの音」は全く違ったものとなっているのです。
表記している文字が同じだけにややこしいのですが、口頭言語として音としての意味しか持たないアルファベットは表音文字として使用されていますので表記することよりも音にすることの方が重要な活動になります。
したがって「ひらがなの音」にはない音が大半を占める英語の音は日本語を母語とする者にとっては真似することが大変難しい音となっているのです。
つまりは、英語の音は日本語話者にとっては言語の音として認識していない音ということになります。
英語の文化は始まった時点で話し言葉と文字の両方を持っていました。
それは文字を持った文化から継承したものだからです。
最初から話し言葉と文字が一緒にあるのが当たり前の環境だったのです。
ところが日本語の文化は文字としての漢語が導入される以前にも話し言葉しかない原始日本語としての「古代やまとことば」が存在していたことが確認されています。
当時の先進文明である漢語が導入されたときに漢語によって言語が統一されることなく、その漢語から「古代やまとことば」を表記するための文字である仮名を生み出してしまったのです。
漢語だけでは表現することができないものが根付いていたことをうかがわせる事実です。
漢語を利用しながらもその漢語から原始日本語である「古代やまとことば」を表記するための文字を生み出したことになります。
以降、「古代やまとことば」を継承する言語の表記方法としての仮名と先進文明を享受するための言語としての漢語がずーっと共存していくことになります。
ひらがなは文字のなかった原始日本語である「古代やまとことば」を継承している言語となっているのです。
やがて仮名は日常的な言語として定着していきます。
漢語は公式な文書やインテリ層の教養の証として定着していくこととなります。
そして日本語としての標準表記方法としての漢字かな交じり文(和漢混淆文)のスタイルが出来上がっていくことになります。
世界の現存する言語の中でも文字のなかった時代の言語をそのまま継承している言語はほとんど見当たりません。
しかもその音を文字のなかった時代より継承してきている言語は日本語くらいではないでしょうか。
日本語の感覚はひらがなの言葉やひらがなの使い方の中に脈々と継承され続けているのです。
ひらがな以外の文字は他国の先進文明や新しい技術・考え方などを日本語として取り込んできたものなのです。
したがってどんな言葉を使用するにしてもすべてひらがなとして表記し「ひらがなの音」として発してみることが日本語の持っている基本的な感覚を確認するための一番良い方法となります。
音読み漢字の熟語はひらがなとして表記したり音にしてみるとよく分からないものになります。
日本語の感覚の伴っていないものとなっていることの表れになります。
漢字の便利さは文字そのものが意味を持っている表意文字(表語文字ともいう)であることになります。
「ひらがなの音」を必要としなくとも言葉としての意味が文字から理解できてしまうからです。
これは文字のない「古代やまとことば」が持っていた言葉としての感覚としては異なったものです。
日本語の持っている基本的な感覚とは異なるものです。
どんなに単語を並べたとしても論理や内容の理解は「ひらがなことば」である「てにをは」や接続詞などの役割によってでき上がっているのです。
漢字やカタカナ・アルファベットは名詞としての新しく取り込んだ物や技術・考え方などを表しているだけでありそれらの関係である論理を作り上げることはひらがなを抜きにしては不可能なのです。
日本語の感覚はすべてひらがなによって継承されてきているのです。
もちろん「古代やまとことば」にも多くの名詞や動詞が存在していました。
それらは「ひらがなことば」で表わすことができる極めて基本的なものとなっています。
場合によっては漢字が充てられていたとしてもひらがなで表記した方が適切なこともたくさんあるものとなっています。
まずは自分の使っている言葉や伝えたいことをひらがなに置き換えてみることが日本語の感覚に合っているのかどうかを確認できる行為になります。
日本語を母語として持っている人には本人が意識しなくともこの感覚が備わっています。
しかも、言語を使って行なわれるあらゆる活動において影響を与えている感覚となっているのです。
つまりは、日本語を母語として持っている人にとっては誰にとっても理解できる基本的な感覚であると言うことができるものなのです。
言い方を変えれば、日本語の母語話者はこの基本的な感覚によって日本語によるコミュニケーションが可能となっていると言うことができるのです。
日本語同士でも理解できないことが増えてきました。
若者たちは新しい言葉を生み出す天才です。
そんな中でも日本語の持っている基本的な感覚は世代や時代を超えて共通しているものとなっているのです。
その感覚は文字のなかった「古代やまとことば」につながる感覚でもあるのです。
ひらがながなかったら漢語を導入した時から日本語は中国語文化圏に取り込まれたものとなっていたことでしょう。
皆に自然と身についているこの感覚を大切にして活かしていきたいものです。
世界に誇る文字のない時代のことばを継承した感覚を持った言語としての歴史伝統的な背景がすべて反映されたものなのですね。
しっかり活かしていきたいですね。
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2016年4月15日金曜日
同字異音も日本語らしさ
日本語は文字よりも音の方が先に存在していたことは様々な歴史的事実が物語っています。
文字のなかった時代に語られていた「古代やまとことば」を表記するために漢語を利用して生み出した文字が仮名になります。
(参照:『古事記』も悩んだ日本語表記)
ひらがなの基本としての五十音図は何度も変遷を繰り返してきました。
言文一致としての今の五十音図が設定されたのが最初の五十音図が確認されてから1500年後の明治になってからということになります。
しかし、今現在でも完全な言文一致が完了しているわけではありません。
このことは、話し言葉として発せられた「ひらがなの音」を聞き取って言葉を認知しようとしたときには注意をしなければいけないことになります。
同じ文字を使用しながら使われる場面によっては読みとしての音が異なる文字がいくつか存在しているのです。
実は、英語には同じ文字を使いながらも使われる文字の組み合わせによって音が異なるものがたくさん存在します。
文字の綴りだけを見て発音しても実際の言葉の音にはならない言葉がたくさん存在しているのです。
英語の基本は口頭言語であり文字や文章としてよりも話し言葉として音で伝えたほうが伝わりやすいことになります。
日本語にある同字異音は限られたものしかありませんが、実際の使用場面ではほとんど意識されていることはないと思います。
代表格は「は」です。
「は」の基本音は「ハ」ですが、格助詞として使用される場面では「は」と表記しながらも音は「ワ」になっています。
「では」としての使い方においても「デハ」と呼んだのでは意味が全く通じません、「デワ」と読んで初めて意味が通じるものとなることになります。
小学生のころに初めて出会った「ワ」とよむ「は」にはびっくりした記憶がありますが、その後は自然と「ワ」と読めるようになりました。
ここはどっちだろうと考えることもなく意識しなくとも自然と「ワ」と読めてしまうようになっています。
「コンニチワ」の「ワ」は「わ」なのか「は」なのかで考えることはありますが、「今日は、良い天気で・・・」の後半が省略された表現だとしたら格助詞としての「は」の使い方と同じということになるのでしょうか。
方向や目的地を表す助詞である「へ」も読み方としては「エ」となります。
この二つの文字が使言われ方によって音が異なる典型的な同音異字のひらがな版と言えるのではないでしょうか。
これら以外にもよく見てみると「と」や「きょ」などにつづく「う」については「ウ」と読むとぎこちなくなることに気がつきます。
「おとうさん」「おとうと」「とうきょう」「きょうと」の「う」はすべて「オ」と読むことになりますね。
文字を書き始めた子供たちが「おとおさん」「おとおと」「とおきょお」と書くのを見たことがあるのではないでしょうか。
実際には「オ」という音よりもその前の音の母音を引き延ばす「ー」の役割を果たしているのだと思います。
「おこそとのほもよろ」のオ段に続く「う」はすべてこのような音になっています。
同じように「せ」や「け」の次に来る「い」は「イ」と読むとぎこちなくなっています。
「せいこう」「けいほう」「けいこ」の「い」はすべて「エ」と読むことになりますね。
エ段の音に続く「い」は基本音の「イ」と読むよりは前のエ段の音の母音である「エ」の音をそのまま伸ばした「ー」の役割の音となっています。
「警察」の読み方を「けいさつ」と書きますが実際の音としては「ケーサツ」となっているのではないでしょうか。
これらのことは日本語の共通語として使い方のルールを定めた国語においても規定されているものではありません。
国語において規定されているのは「行く」と「言う」くらいではないでしょうか。
国語のテストで「行く」の読み方として「いく」と答えても「ゆく」と答えても正解となっているのです。
しかし、「言う」の読み方として「ゆう」と答えると❌がつけられます。
「言う」は読み仮名としては「いう」でなければならないのです。
日本語変換のソフトでもよくできています。
「いく」でも「ゆく」でも「行く」に変換されますが、「ゆう」は決して「言う」には変換されません。
「言う」に変換したければ「いう」と入力しなければならないのです。
国語は日本語のなかでの共通語として意味や使い方を規定したルールのある日本語です。
日本語そのものに基準がない以上正しい日本語という言い方は出来ませんが、国語についてはルールがある以上正しい国語という言い方ができるのです。
国語として間違っているといった言い方が可能なのです。
その国語自体も実際に使われている日本語の影響を常に受けています。
毎年のように国語としてのルールが現状に合わせて変更されていることでよく分かるのではないでしょうか。
これらの微妙なニュアンスも日本語を母語として身につけていれば感覚として理解しているために、ほとんど意識することなく対応できているのです。
理屈やルールで日本語を学習しようとするととても難しいことになります。
例外だらけになるからです。
新しい言葉や新しい使い方は日々生み出されていますが、ひらがなによる使い方はほとんど変わらないままに継承されてきています。
新しい言葉のほとんどは漢字によるものですしカタカナやアルファベットによるものとなっています。
新しい環境や文化や時代をこれらの言葉で表現しながらも、基本的な構図や感覚はすべてひらがなが形成しているのが日本語です。
日本語がらしさが一番現れているのがひらがなの使われ方なんでしょうね。
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文字のなかった時代に語られていた「古代やまとことば」を表記するために漢語を利用して生み出した文字が仮名になります。
(参照:『古事記』も悩んだ日本語表記)
ひらがなの基本としての五十音図は何度も変遷を繰り返してきました。
言文一致としての今の五十音図が設定されたのが最初の五十音図が確認されてから1500年後の明治になってからということになります。
しかし、今現在でも完全な言文一致が完了しているわけではありません。
このことは、話し言葉として発せられた「ひらがなの音」を聞き取って言葉を認知しようとしたときには注意をしなければいけないことになります。
同じ文字を使用しながら使われる場面によっては読みとしての音が異なる文字がいくつか存在しているのです。
実は、英語には同じ文字を使いながらも使われる文字の組み合わせによって音が異なるものがたくさん存在します。
文字の綴りだけを見て発音しても実際の言葉の音にはならない言葉がたくさん存在しているのです。
英語の基本は口頭言語であり文字や文章としてよりも話し言葉として音で伝えたほうが伝わりやすいことになります。
日本語にある同字異音は限られたものしかありませんが、実際の使用場面ではほとんど意識されていることはないと思います。
代表格は「は」です。
「は」の基本音は「ハ」ですが、格助詞として使用される場面では「は」と表記しながらも音は「ワ」になっています。
「では」としての使い方においても「デハ」と呼んだのでは意味が全く通じません、「デワ」と読んで初めて意味が通じるものとなることになります。
小学生のころに初めて出会った「ワ」とよむ「は」にはびっくりした記憶がありますが、その後は自然と「ワ」と読めるようになりました。
ここはどっちだろうと考えることもなく意識しなくとも自然と「ワ」と読めてしまうようになっています。
「コンニチワ」の「ワ」は「わ」なのか「は」なのかで考えることはありますが、「今日は、良い天気で・・・」の後半が省略された表現だとしたら格助詞としての「は」の使い方と同じということになるのでしょうか。
方向や目的地を表す助詞である「へ」も読み方としては「エ」となります。
この二つの文字が使言われ方によって音が異なる典型的な同音異字のひらがな版と言えるのではないでしょうか。
これら以外にもよく見てみると「と」や「きょ」などにつづく「う」については「ウ」と読むとぎこちなくなることに気がつきます。
「おとうさん」「おとうと」「とうきょう」「きょうと」の「う」はすべて「オ」と読むことになりますね。
文字を書き始めた子供たちが「おとおさん」「おとおと」「とおきょお」と書くのを見たことがあるのではないでしょうか。
実際には「オ」という音よりもその前の音の母音を引き延ばす「ー」の役割を果たしているのだと思います。
「おこそとのほもよろ」のオ段に続く「う」はすべてこのような音になっています。
同じように「せ」や「け」の次に来る「い」は「イ」と読むとぎこちなくなっています。
「せいこう」「けいほう」「けいこ」の「い」はすべて「エ」と読むことになりますね。
エ段の音に続く「い」は基本音の「イ」と読むよりは前のエ段の音の母音である「エ」の音をそのまま伸ばした「ー」の役割の音となっています。
「警察」の読み方を「けいさつ」と書きますが実際の音としては「ケーサツ」となっているのではないでしょうか。
これらのことは日本語の共通語として使い方のルールを定めた国語においても規定されているものではありません。
国語において規定されているのは「行く」と「言う」くらいではないでしょうか。
国語のテストで「行く」の読み方として「いく」と答えても「ゆく」と答えても正解となっているのです。
しかし、「言う」の読み方として「ゆう」と答えると❌がつけられます。
「言う」は読み仮名としては「いう」でなければならないのです。
日本語変換のソフトでもよくできています。
「いく」でも「ゆく」でも「行く」に変換されますが、「ゆう」は決して「言う」には変換されません。
「言う」に変換したければ「いう」と入力しなければならないのです。
国語は日本語のなかでの共通語として意味や使い方を規定したルールのある日本語です。
日本語そのものに基準がない以上正しい日本語という言い方は出来ませんが、国語についてはルールがある以上正しい国語という言い方ができるのです。
国語として間違っているといった言い方が可能なのです。
その国語自体も実際に使われている日本語の影響を常に受けています。
毎年のように国語としてのルールが現状に合わせて変更されていることでよく分かるのではないでしょうか。
これらの微妙なニュアンスも日本語を母語として身につけていれば感覚として理解しているために、ほとんど意識することなく対応できているのです。
理屈やルールで日本語を学習しようとするととても難しいことになります。
例外だらけになるからです。
新しい言葉や新しい使い方は日々生み出されていますが、ひらがなによる使い方はほとんど変わらないままに継承されてきています。
新しい言葉のほとんどは漢字によるものですしカタカナやアルファベットによるものとなっています。
新しい環境や文化や時代をこれらの言葉で表現しながらも、基本的な構図や感覚はすべてひらがなが形成しているのが日本語です。
日本語がらしさが一番現れているのがひらがなの使われ方なんでしょうね。
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2016年3月17日木曜日
大切な「ひらがなの音」
日本語を話して伝達しているときに実際に伝わっているものは「ひらがなの音」だけであることは何度か触れてきました。
(参照:日本語で聞いていること)
これは話し手ではなく聞き手の方においても同じことが言えます。
日本語で伝えられたことで実際に伝わっているのは「ひらがなの音」でありそれを言葉として解釈しているのは聞き手の知的活動になっているのです。
しかも、話し手が「ひらがなの音」で発信して聞き手が「ひらがなの音」で受け取っていること自体を双方が感じていない場合がほとんどとなっているのです。
実際の感覚としては、話し手は意味のある言葉として発信しているつもりになっていますし、聞き手の方でも言葉として受取っているつもりになっていると思います。
話し手は「元気な」という言葉を伝えているつもりであっても、実際に相手に対して発信されているのは「げんきな」というひらがなの音でしかないのです。
ここで「げんきな」というひらがなの音をきちんと聞き取ることができなかった場合はどんなことが起こるでしょうか。
話し手の方としては「元気な」という言葉を伝えているつもりになっていますのでひらがなの一音ずつに対しての意識はほとんどありません。
アナウンサーとして発音を磨いた人でもなければ「ひらがなの音」がどのように伝わっているのかを気にするひとはいないと思います。
言葉として伝えているつもりになっていますのでそこまで注意が行き届かないのが当たり前でもあります。
聞き手が話し手の伝えていることを理解しようとする活動は「ひらがなの音」を聞き分けることから始まります。
日本語の基本音は濁音・半濁音を含めても71音しかありませんので判別はしやすいはずです。
それでも音によっては聞き取りにくいものがあることも確かだと思われます。
その一つの例が母音の「あいうえお」の5音です。
この5音の中で伝わりやすさの順番があります。
伝わりやすさとは聞き取りやすさのことでもあります。
その順番は「いえあおう」となります。
この順番で発音してみると口の前の方から出ていた音が順番に喉の奥の方から出てくるようになるのが分かるのではないでしょうか。
また、「お」と「う」はきちんと発音しないと紛らわしい音になることになることも分かると思います。
喉の奥から出る音ほど口の中で音が減衰してしまうために聞き取りにくくなってしまうことになります。
自分では同じ大きさで発音しているつもりでも聞こえ方としては「いえあおう」の順番で小さくなっているのです。
言葉の最初が「う」から始まるものは意識して最初の「う」にアクセントをつけないととても聞き取りにくい言葉となってしまいます。
特に「う」の次の二音目にアクセントをつけているような場合では最初の「う」はほとんど聞き取るができない場合が多くなります。
試しに、「宇宙」と「宇宙衛星」の音を比べてみましょう。
「うちゅう」の場合は最初の「う」にかなり強いアクセントがあると思います。
「うちゅうえいせい」の場合には二音目の「ちゅう」が最初の「う」よりも強く発音されることが多くなります。
聴き比べてみると「うちゅうえいせい」の最初の「う」は音として聞き取ることがとても難しいことが分かるのではないでしょうか。
このことは母音として「う」を持つ全ての音に対して言えることです。
住友銀行も最初の「す」をしっかり発音しないと「みともぎんこう」と聞こえることが起きてしまいます。
特に5音以上の言葉についてははっきり伝えようとすればするほどアクセントが真ん中に寄ってきてしまって最初の音が弱く感じられてしまうことが起こります。
その最初に「う」の母音を持つ音がある場合にはどうしても聞き取りにくい音となってしまうのです。
「ひらがなの音」をきちんと伝えることが日本語を話す場合にいちばん大切なことになるのではないでしょうか。
「ひらがなの音」がきちんと伝わっててこそ聞き手が初めて言葉として受け取ることが可能になるからです。
その割には「ひらがなの音」をきちんと伝える練習はやったことがありません。
アナウンサーは発声練習を欠かすことができない職業ですし、俳優さんや歌手はボイストレーニングをしっかりしないといけない職業です。
しかし、「ひらがなの音」をキチンと伝える練習はすべての人に必要なものではないでしょうか。
テレビやラジオで見たり聞いたりしている人のほとんどはこれらの練習をした人であり、明らかに一般の人とは「ひらがなの音」の伝わり方が違っているように思われます。
街角インタビューなどで素人が話しているのを聞くとどうしても聞き取りにくくなってしまうのは仕方のないことなのでしょうか。
もう少し「ひらがなの音」に対して意識を向けてもいいのではないかと思います。
新しい言葉を覚えることよりも大切なことかもしれませんね。
・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。
・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。
(参照:日本語で聞いていること)
これは話し手ではなく聞き手の方においても同じことが言えます。
日本語で伝えられたことで実際に伝わっているのは「ひらがなの音」でありそれを言葉として解釈しているのは聞き手の知的活動になっているのです。
しかも、話し手が「ひらがなの音」で発信して聞き手が「ひらがなの音」で受け取っていること自体を双方が感じていない場合がほとんどとなっているのです。
実際の感覚としては、話し手は意味のある言葉として発信しているつもりになっていますし、聞き手の方でも言葉として受取っているつもりになっていると思います。
話し手は「元気な」という言葉を伝えているつもりであっても、実際に相手に対して発信されているのは「げんきな」というひらがなの音でしかないのです。
ここで「げんきな」というひらがなの音をきちんと聞き取ることができなかった場合はどんなことが起こるでしょうか。
話し手の方としては「元気な」という言葉を伝えているつもりになっていますのでひらがなの一音ずつに対しての意識はほとんどありません。
アナウンサーとして発音を磨いた人でもなければ「ひらがなの音」がどのように伝わっているのかを気にするひとはいないと思います。
言葉として伝えているつもりになっていますのでそこまで注意が行き届かないのが当たり前でもあります。
聞き手が話し手の伝えていることを理解しようとする活動は「ひらがなの音」を聞き分けることから始まります。
日本語の基本音は濁音・半濁音を含めても71音しかありませんので判別はしやすいはずです。
それでも音によっては聞き取りにくいものがあることも確かだと思われます。
その一つの例が母音の「あいうえお」の5音です。
この5音の中で伝わりやすさの順番があります。
伝わりやすさとは聞き取りやすさのことでもあります。
その順番は「いえあおう」となります。
この順番で発音してみると口の前の方から出ていた音が順番に喉の奥の方から出てくるようになるのが分かるのではないでしょうか。
また、「お」と「う」はきちんと発音しないと紛らわしい音になることになることも分かると思います。
喉の奥から出る音ほど口の中で音が減衰してしまうために聞き取りにくくなってしまうことになります。
自分では同じ大きさで発音しているつもりでも聞こえ方としては「いえあおう」の順番で小さくなっているのです。
言葉の最初が「う」から始まるものは意識して最初の「う」にアクセントをつけないととても聞き取りにくい言葉となってしまいます。
特に「う」の次の二音目にアクセントをつけているような場合では最初の「う」はほとんど聞き取るができない場合が多くなります。
試しに、「宇宙」と「宇宙衛星」の音を比べてみましょう。
「うちゅう」の場合は最初の「う」にかなり強いアクセントがあると思います。
「うちゅうえいせい」の場合には二音目の「ちゅう」が最初の「う」よりも強く発音されることが多くなります。
聴き比べてみると「うちゅうえいせい」の最初の「う」は音として聞き取ることがとても難しいことが分かるのではないでしょうか。
このことは母音として「う」を持つ全ての音に対して言えることです。
住友銀行も最初の「す」をしっかり発音しないと「みともぎんこう」と聞こえることが起きてしまいます。
特に5音以上の言葉についてははっきり伝えようとすればするほどアクセントが真ん中に寄ってきてしまって最初の音が弱く感じられてしまうことが起こります。
その最初に「う」の母音を持つ音がある場合にはどうしても聞き取りにくい音となってしまうのです。
「ひらがなの音」をきちんと伝えることが日本語を話す場合にいちばん大切なことになるのではないでしょうか。
「ひらがなの音」がきちんと伝わっててこそ聞き手が初めて言葉として受け取ることが可能になるからです。
その割には「ひらがなの音」をきちんと伝える練習はやったことがありません。
アナウンサーは発声練習を欠かすことができない職業ですし、俳優さんや歌手はボイストレーニングをしっかりしないといけない職業です。
しかし、「ひらがなの音」をキチンと伝える練習はすべての人に必要なものではないでしょうか。
テレビやラジオで見たり聞いたりしている人のほとんどはこれらの練習をした人であり、明らかに一般の人とは「ひらがなの音」の伝わり方が違っているように思われます。
街角インタビューなどで素人が話しているのを聞くとどうしても聞き取りにくくなってしまうのは仕方のないことなのでしょうか。
もう少し「ひらがなの音」に対して意識を向けてもいいのではないかと思います。
新しい言葉を覚えることよりも大切なことかもしれませんね。
・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。
・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。
2016年3月3日木曜日
「現代やまとことば」を経験する(3)
今回も同様に次の文を例として「現代やまとことば」への置き換えをしてみましょう。
(参照:「現代やまとことば」を体験する(1)、(2))
もともと話し言葉になっていない文章ですので難しさはありますが、そこもいい経験としてやってみて欲しいと思います。
例文:
【IT技術の進展により、様々な知的資源、文化資源をデジタル化して保存、発信する「デジタルアーカイブ」が脚光を浴びています。】
文節展開:
【IT技術の/進展により、/様々な/知的資源、/文化資源を/デジタル化して/保存、/発信する/「デジタルアーカイブ」が/脚光を/浴びています。】
単語抜出(ひらがなことば抜き):
【IT技術/進展/(様々)/知的資源/文化資源/デジタル化/保存/発信/「デジタルアーカイブ」/脚光/(浴びて)】
「IT技術」「進展」は先回やっていますので、「知的資源」からです。
さて、どんなひらがなことばで置き換えができるでしょうか。
ひとことでは難しそうですね。
ここでは次の「文化資源」と一対になっていることに注目しておきたいと思います。
「知的資源・文化資源」と一緒にして対象にしてみたいと思います。
自分のひらがな言葉の感覚でできるだけ直訳的に置き換えてみようと思います。
知的⇒人が頭を使ったもの、人が工夫を凝らすしたもの、人が技を凝らしたものなどでしょうか。
文化との対比でみてみるとわかり易いかもしれませんが、私の言葉では「文化」が上手くひらがな化できませんでした。
自分の言葉として「文化」がきちんと定義できていないことの表れなんですね。
いい機会ですので挑戦してみようと思います。
文化⇒生きてきた工夫、自然と共に生きる術(すべ)などでしょうか。
知恵という言葉を使いたいところですが音読みが含まれていますので避けてみました。
資源⇒役に立つために残しておいたもの、残しておきたいものなどでしょうか。
自分のひらがな言葉に置き換わったらあとは意図に沿ってどの表現が伝わりやすいかを選択することになります。
「様々な」はそのままひらがな言葉ですので使うことにします。
わたしのことばでは「様々な知的資源、文化資源を」が「様々な人が技を凝らしたものや生きてきた工夫を」と置き換わりました。
コツをつかむためにまずは直訳的にやっていますので、しつこい表現になることはあると思われます。
いったんコツがつかめれば意図を把握することで全く別のひらがな言葉に置き換えたほうがふさわしい場面も多く出てきます。
もう少しやってみましょう。
最近よくお目にかかるカタカナです。
「デジタル化」ですね。
ここで言っているデジタルとはアナログの反対の意味ではなくデータ化や圧縮化などのデジタル的な技術のことを言っていると思われます。
しかも、後に固有名詞としての「デジタルアーカイブ」がカッコつきで登場してきますので、意味合いとしてはコンピュータ技術などによって今までよりも簡単に使いやすくなるとなるという意図ではないかと推測できます。
この場合のようにカタカナ言葉は使っている人によって意図する内容にかなりの開きがある場合が多くなっています。
より自分の感覚で意図に沿ったひらがな言葉にすることが大切です。
例題における「デジタル化」はことさらデジタルであることに意味があるのではなくて、デジタル化によってもたらされた便利さのことに意味を置いていると思われます。
したがってひらがな言葉に置き換える場合には特に「デジタル」を意識する必要はないことになります。
「よりやさしく使いやすくして(デジタル化)」とした方がいいのではないかと思います。
次の「保存」についても「知的資源」と同じように後に続く「発信」と一対にして扱った方がわかり易いですね。
「保存・発信」とすればひらがな言葉でも簡単に置き換えられますね。
「保つこと、残しておくことや伝えること、知らせること」などとすればそのままいけるのではないでしょうか。
その次がこの文章の意図ですね。
「デジタルアーカイブ」です。
この言葉に注目してもらうためにこの文章があることになります。
この言葉が今注目されているんですよ、あなたも注目してくださいねというのがこの文章の意図になります。
これ以前の文章はすべてが「デジタルアーカイブ」を説明しているものですが読んでもよく分かりません。
「デジタルアーカイブ」という言葉や技術があることを理解すれば十分に意図が伝わったことになるのではないでしょうか。
わたしにはこの言葉はさっぱりわかりませんので、ひらがな言葉に置き替えができません。
最後は「脚光」ですがこれは「脚光を浴びる」で一つの言葉として扱った方がわかり易いのではないでしょうか。
「注目されている」や「注視されている」と言った意味になるのですが、練習のためにひらがな言葉を引っ張り出してみましょう。
「数多く取り上げられている」などでどうでしょうか。
「数多く」は漢字で表記されていますが二文字ともに訓読みであり完全なひらがな言葉です。
話しことばとしてはわかり易さのために大切なひらがな言葉ですが文字として表記する場合にはひらがなが続くと読みにくいものとなってしまいます。
私たちの日常では物書きでもない限りは書くことよりも話すことの方がはるかに多いと思われます。
それよりも聞くことの方がさらに多くなっています。
ひらがな言葉で伝えられた時のわかり易さと安心感をもっと経験してもらいたいと思います。
ここまで見てくると気がつく人も多いと思います。
そうです、まさしく言葉を覚えたての子どもたちに説明するのと同じことなのです。
彼らも少ないながらひらがなの言葉をしっかりと持っているのです。
その言葉を使って予測や想像を広げることもできるのです。
同じようにお年寄りでもきちんと音さえ拾うことができればひらがな言葉でしっかりと理解できるのです。
聴力が衰えてきているためにひらがなの音がことばとして聞き取り難いだけのことなのです。
ひらがな言葉は対象を選ばない、誰に対してもきちんと伝えることができる言葉なのです。
実はイヤホンやヘッドホンで音楽をいつも聞いている人は誰よりも多くのひらがな言葉を聞いているのです。
歌詞はひらがな言葉のオンパレードなのです。
だから書かれた歌詞を見なくとも聞いて理解しやすいのです。
もっとも最近の曲ではひらがなの音自体がとても聞き取り難い曲が多くて言葉自体がつかみにくくなっていますね。
それでも中島みゆきやさだまさしなどの曲を聞いた時に感じる安心感と理解しやすさからつながる共感がうれしくなりますね。
明らかに意識してひらがな言葉を使っていると思われる歌詞もたくさんあります。
かなり参考になりますよ。
・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。
・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。
(参照:「現代やまとことば」を体験する(1)、(2))
もともと話し言葉になっていない文章ですので難しさはありますが、そこもいい経験としてやってみて欲しいと思います。
例文:
【IT技術の進展により、様々な知的資源、文化資源をデジタル化して保存、発信する「デジタルアーカイブ」が脚光を浴びています。】
文節展開:
【IT技術の/進展により、/様々な/知的資源、/文化資源を/デジタル化して/保存、/発信する/「デジタルアーカイブ」が/脚光を/浴びています。】
単語抜出(ひらがなことば抜き):
【IT技術/進展/(様々)/知的資源/文化資源/デジタル化/保存/発信/「デジタルアーカイブ」/脚光/(浴びて)】
「IT技術」「進展」は先回やっていますので、「知的資源」からです。
さて、どんなひらがなことばで置き換えができるでしょうか。
ひとことでは難しそうですね。
ここでは次の「文化資源」と一対になっていることに注目しておきたいと思います。
「知的資源・文化資源」と一緒にして対象にしてみたいと思います。
自分のひらがな言葉の感覚でできるだけ直訳的に置き換えてみようと思います。
知的⇒人が頭を使ったもの、人が工夫を凝らすしたもの、人が技を凝らしたものなどでしょうか。
文化との対比でみてみるとわかり易いかもしれませんが、私の言葉では「文化」が上手くひらがな化できませんでした。
自分の言葉として「文化」がきちんと定義できていないことの表れなんですね。
いい機会ですので挑戦してみようと思います。
文化⇒生きてきた工夫、自然と共に生きる術(すべ)などでしょうか。
知恵という言葉を使いたいところですが音読みが含まれていますので避けてみました。
資源⇒役に立つために残しておいたもの、残しておきたいものなどでしょうか。
自分のひらがな言葉に置き換わったらあとは意図に沿ってどの表現が伝わりやすいかを選択することになります。
「様々な」はそのままひらがな言葉ですので使うことにします。
わたしのことばでは「様々な知的資源、文化資源を」が「様々な人が技を凝らしたものや生きてきた工夫を」と置き換わりました。
コツをつかむためにまずは直訳的にやっていますので、しつこい表現になることはあると思われます。
いったんコツがつかめれば意図を把握することで全く別のひらがな言葉に置き換えたほうがふさわしい場面も多く出てきます。
もう少しやってみましょう。
最近よくお目にかかるカタカナです。
「デジタル化」ですね。
ここで言っているデジタルとはアナログの反対の意味ではなくデータ化や圧縮化などのデジタル的な技術のことを言っていると思われます。
しかも、後に固有名詞としての「デジタルアーカイブ」がカッコつきで登場してきますので、意味合いとしてはコンピュータ技術などによって今までよりも簡単に使いやすくなるとなるという意図ではないかと推測できます。
この場合のようにカタカナ言葉は使っている人によって意図する内容にかなりの開きがある場合が多くなっています。
より自分の感覚で意図に沿ったひらがな言葉にすることが大切です。
例題における「デジタル化」はことさらデジタルであることに意味があるのではなくて、デジタル化によってもたらされた便利さのことに意味を置いていると思われます。
したがってひらがな言葉に置き換える場合には特に「デジタル」を意識する必要はないことになります。
「よりやさしく使いやすくして(デジタル化)」とした方がいいのではないかと思います。
次の「保存」についても「知的資源」と同じように後に続く「発信」と一対にして扱った方がわかり易いですね。
「保存・発信」とすればひらがな言葉でも簡単に置き換えられますね。
「保つこと、残しておくことや伝えること、知らせること」などとすればそのままいけるのではないでしょうか。
その次がこの文章の意図ですね。
「デジタルアーカイブ」です。
この言葉に注目してもらうためにこの文章があることになります。
この言葉が今注目されているんですよ、あなたも注目してくださいねというのがこの文章の意図になります。
これ以前の文章はすべてが「デジタルアーカイブ」を説明しているものですが読んでもよく分かりません。
「デジタルアーカイブ」という言葉や技術があることを理解すれば十分に意図が伝わったことになるのではないでしょうか。
わたしにはこの言葉はさっぱりわかりませんので、ひらがな言葉に置き替えができません。
最後は「脚光」ですがこれは「脚光を浴びる」で一つの言葉として扱った方がわかり易いのではないでしょうか。
「注目されている」や「注視されている」と言った意味になるのですが、練習のためにひらがな言葉を引っ張り出してみましょう。
「数多く取り上げられている」などでどうでしょうか。
「数多く」は漢字で表記されていますが二文字ともに訓読みであり完全なひらがな言葉です。
話しことばとしてはわかり易さのために大切なひらがな言葉ですが文字として表記する場合にはひらがなが続くと読みにくいものとなってしまいます。
私たちの日常では物書きでもない限りは書くことよりも話すことの方がはるかに多いと思われます。
それよりも聞くことの方がさらに多くなっています。
ひらがな言葉で伝えられた時のわかり易さと安心感をもっと経験してもらいたいと思います。
ここまで見てくると気がつく人も多いと思います。
そうです、まさしく言葉を覚えたての子どもたちに説明するのと同じことなのです。
彼らも少ないながらひらがなの言葉をしっかりと持っているのです。
その言葉を使って予測や想像を広げることもできるのです。
同じようにお年寄りでもきちんと音さえ拾うことができればひらがな言葉でしっかりと理解できるのです。
聴力が衰えてきているためにひらがなの音がことばとして聞き取り難いだけのことなのです。
ひらがな言葉は対象を選ばない、誰に対してもきちんと伝えることができる言葉なのです。
実はイヤホンやヘッドホンで音楽をいつも聞いている人は誰よりも多くのひらがな言葉を聞いているのです。
歌詞はひらがな言葉のオンパレードなのです。
だから書かれた歌詞を見なくとも聞いて理解しやすいのです。
もっとも最近の曲ではひらがなの音自体がとても聞き取り難い曲が多くて言葉自体がつかみにくくなっていますね。
それでも中島みゆきやさだまさしなどの曲を聞いた時に感じる安心感と理解しやすさからつながる共感がうれしくなりますね。
明らかに意識してひらがな言葉を使っていると思われる歌詞もたくさんあります。
かなり参考になりますよ。
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2016年2月27日土曜日
「ひらがな」を使いこなせ
日本語の基本的な特徴がよく現れてくるのが「ひらがな」であることは何度となく触れてきました。
文字としてはひらがな、カタカナ、漢字、アルファベットを使いこなしながらも日本語としての基本的な感覚を継承し表現しているものは「ひらがな」によるものです。
どの様な表現をしようとしても、日本語としての表現をしている以上かならず現れてしまう傾向というものが存在しています。
その傾向を作っているのが「ひらがな」なんですね。
日本語だけの環境にいる場合においては、日本語における表現の違いで論理的な内容であったり情緒的な内容であったりするのにふさわしい表現をしようとしています。
その感覚の違いは日本語を母語とする者でなければ理解できないような微妙なものにもなっていることでしょう。
日本語が持っている基本的な感覚は直感的であり情緒的な表現に適しているものでもあります。
その日本語が明治維新を契機としてヨーロッパをはじめとした先進文明に触れながら新しい言葉や使い方を生み出していくことになりました。
新しい感覚はそれまでの日本語と比べたら論理的であり主観的なものです。
それらに対応するために新しい言葉として漢字やカタカナ・アルファベットを利用しました。
しかし、文の基本的な構成や新しい言葉をつなぐ文法に変化があったわけではありません。
新しい言葉として生み出されたり導入されたものはほとんどが名詞です。
名詞は表現の中の大事な要素ですが名詞だけで表現ができるわけではありません。
むしろ、要素としての名詞同士がどのような関係にあるのかの方が内容を理解するためには必要な場合が多くなります。
客観的に具体的な物を表現するときには名詞がなければできませんが、感覚的なことや状況を説明する時にはそれ以外の要素の方が重要になることすらあります。
これらのことを行なっているのが「ひらがな」なのです。
日本語の基本が「ひらがな」であることを確かめる一つの方法があります。
短い内容でいいので、あなたが伝えたいと思うことを書き出してみてください。
自分で伝えたいと思う言葉で構いません。
そこで書かれた言葉の一つ一つを「ひらがな」のことばで置き換えてみてください。
話しことばで問題ありません。
特に漢字で書かれた言葉やカタカナ・アルファベットで書かれた言葉に注目してください。
ひとことで置き換えられる場合もあればじれったくなるくらい長い表現になることもあると思います。
「ひらがな」にはなったものの何のことだかよく分からいものもあるかもしれません。
基本的にひとことに近い形で「ひらがな」になっていない場合はその言葉が自分の物になっていない場合が多くなっていると思います。
自分自身でよく理解できていない言葉なのです。
そんな言葉を使って伝えてもみても聞き手は理解できないのです。
自分が伝えようと思っている言葉が自分自身でしっかりと解釈できていないとしたら、相手にキチンと伝わるわけがありません。
ひとつの単語ですらこのようなことですので、そのような単語がいくつか登場してきたらもうほとんど内容は伝わらないということになります。
瞬間的に音読み漢字の熟語やカタカナ言葉、アルファベットや略語を使ってしまうことはあると思います。
そんな場合であっても「ひらがな」ことばで言い換えたり付け加えたりすればいいだけのことです。
漢字の熟語やカタカナ・アルファベットを使って表現をしているとなんとなく専門用語を使いこなしているような錯覚に陥ることがあります。
本当の専門家は同じことを誰でもが分かるような表現で伝えてくれます。
それが「ひらがな」ことばであることは以外に気づかれていないことではないでしょうか。
わかり易さを追求していくと最後はすべてが「ひらがな」になります。
単語としての言葉が「ひらがな」で表現できるようになったら、次に気をつけるのは普段は無意識に使っている助詞や接続詞としての「ひらがな」です。
この「ひらがな」たちが論理や言葉同士の関係を作っているからです。
「わたしは」の「は」であり、「経済が」の「が」であり、「しかし」「さらには」「なぜなら」などのひらがながとても大切な役割を果たしているのです。
言葉同士の関係や、前後の言葉や文章の関係を教えてくれるのがこれらの「ひらがな」ことばなのです。

更には、気持ちや思いを表す言葉は動詞や形容詞として使われる言葉の語尾の表現で行なわれているのです。
文章の最後に登場することが多くなるこれらの表現は、最後までしっかりと話を聞かないと分かりません。
そのためには伝える方も意識して語尾のひらがなをきちんと伝えてあげる必要があるのです。
話し言葉は漢字やカタカナ・アルファベットとしては決して伝わりません。
「ひらがな」の音としてしか伝わらないのです。
聞き手は、伝わった「ひらがな」の音を頼りにして漢字やカタカナ・アルファベットを思い浮かべているにすぎないのです。
文字としてはひらがな、カタカナ、漢字、アルファベットを使いこなしながらも日本語としての基本的な感覚を継承し表現しているものは「ひらがな」によるものです。
どの様な表現をしようとしても、日本語としての表現をしている以上かならず現れてしまう傾向というものが存在しています。
その傾向を作っているのが「ひらがな」なんですね。
日本語だけの環境にいる場合においては、日本語における表現の違いで論理的な内容であったり情緒的な内容であったりするのにふさわしい表現をしようとしています。
その感覚の違いは日本語を母語とする者でなければ理解できないような微妙なものにもなっていることでしょう。
日本語が持っている基本的な感覚は直感的であり情緒的な表現に適しているものでもあります。
その日本語が明治維新を契機としてヨーロッパをはじめとした先進文明に触れながら新しい言葉や使い方を生み出していくことになりました。
新しい感覚はそれまでの日本語と比べたら論理的であり主観的なものです。
それらに対応するために新しい言葉として漢字やカタカナ・アルファベットを利用しました。
しかし、文の基本的な構成や新しい言葉をつなぐ文法に変化があったわけではありません。
新しい言葉として生み出されたり導入されたものはほとんどが名詞です。
名詞は表現の中の大事な要素ですが名詞だけで表現ができるわけではありません。
むしろ、要素としての名詞同士がどのような関係にあるのかの方が内容を理解するためには必要な場合が多くなります。
客観的に具体的な物を表現するときには名詞がなければできませんが、感覚的なことや状況を説明する時にはそれ以外の要素の方が重要になることすらあります。
これらのことを行なっているのが「ひらがな」なのです。
日本語の基本が「ひらがな」であることを確かめる一つの方法があります。
短い内容でいいので、あなたが伝えたいと思うことを書き出してみてください。
自分で伝えたいと思う言葉で構いません。
そこで書かれた言葉の一つ一つを「ひらがな」のことばで置き換えてみてください。
話しことばで問題ありません。
特に漢字で書かれた言葉やカタカナ・アルファベットで書かれた言葉に注目してください。
ひとことで置き換えられる場合もあればじれったくなるくらい長い表現になることもあると思います。
「ひらがな」にはなったものの何のことだかよく分からいものもあるかもしれません。
基本的にひとことに近い形で「ひらがな」になっていない場合はその言葉が自分の物になっていない場合が多くなっていると思います。
自分自身でよく理解できていない言葉なのです。
そんな言葉を使って伝えてもみても聞き手は理解できないのです。
自分が伝えようと思っている言葉が自分自身でしっかりと解釈できていないとしたら、相手にキチンと伝わるわけがありません。
ひとつの単語ですらこのようなことですので、そのような単語がいくつか登場してきたらもうほとんど内容は伝わらないということになります。
瞬間的に音読み漢字の熟語やカタカナ言葉、アルファベットや略語を使ってしまうことはあると思います。
そんな場合であっても「ひらがな」ことばで言い換えたり付け加えたりすればいいだけのことです。
漢字の熟語やカタカナ・アルファベットを使って表現をしているとなんとなく専門用語を使いこなしているような錯覚に陥ることがあります。
本当の専門家は同じことを誰でもが分かるような表現で伝えてくれます。
それが「ひらがな」ことばであることは以外に気づかれていないことではないでしょうか。
わかり易さを追求していくと最後はすべてが「ひらがな」になります。
単語としての言葉が「ひらがな」で表現できるようになったら、次に気をつけるのは普段は無意識に使っている助詞や接続詞としての「ひらがな」です。
この「ひらがな」たちが論理や言葉同士の関係を作っているからです。
「わたしは」の「は」であり、「経済が」の「が」であり、「しかし」「さらには」「なぜなら」などのひらがながとても大切な役割を果たしているのです。
言葉同士の関係や、前後の言葉や文章の関係を教えてくれるのがこれらの「ひらがな」ことばなのです。
更には、気持ちや思いを表す言葉は動詞や形容詞として使われる言葉の語尾の表現で行なわれているのです。
文章の最後に登場することが多くなるこれらの表現は、最後までしっかりと話を聞かないと分かりません。
そのためには伝える方も意識して語尾のひらがなをきちんと伝えてあげる必要があるのです。
話し言葉は漢字やカタカナ・アルファベットとしては決して伝わりません。
「ひらがな」の音としてしか伝わらないのです。
聞き手は、伝わった「ひらがな」の音を頼りにして漢字やカタカナ・アルファベットを思い浮かべているにすぎないのです。
「ひらがな」の音を頼りにして言葉を見つけていることになります。
もともとが「ひらはな」ことばで有ればより正確に伝わる事は間違いありませんね。
どうしても意識が行ってしまうのが文字としての漢字やカタカナ・アルファベットです。
これは仕方のないことです。
もともとが「ひらはな」ことばで有ればより正確に伝わる事は間違いありませんね。
どうしても意識が行ってしまうのが文字としての漢字やカタカナ・アルファベットです。
これは仕方のないことです。
人の情報は視覚から入ってくるものが圧倒的に多いからです。
さらに馴染みの薄いもののほうに目が採られてしまうのは仕方のないことでもあります。
しかし、肝心なことは一番気に留めていない「ひらがな」によって行なわれているのです。
母語として日本語を習得して日常言語として使用している私たちは、どんなに他の言語を学ぼうとも日本語による以上の知的活動を行なうことは不可能です。
知的活動としては日本語で行なうことが一番質の高い活動ができることになります。
そのためには「ひらがな」の使い方をもっと上手にできるようにしておいた方がよさそうです。
そういえば実際に読み書きとしての「ひらがな」を学んだのはあっという間でしかなかったようです。
更に「ひらがな」による表現についてはほとんど学んだ記憶すらありません。
漢字や英語に比べたらはるかに少ない学習期間だったにもかかわらず一番大切なことばだったのですね。
あらためて意識してみませんか「ひらがな」。
日本語のチカラは「ひらがな」にあるようですよ。
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「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。
さらに馴染みの薄いもののほうに目が採られてしまうのは仕方のないことでもあります。
しかし、肝心なことは一番気に留めていない「ひらがな」によって行なわれているのです。
母語として日本語を習得して日常言語として使用している私たちは、どんなに他の言語を学ぼうとも日本語による以上の知的活動を行なうことは不可能です。
知的活動としては日本語で行なうことが一番質の高い活動ができることになります。
そのためには「ひらがな」の使い方をもっと上手にできるようにしておいた方がよさそうです。
そういえば実際に読み書きとしての「ひらがな」を学んだのはあっという間でしかなかったようです。
更に「ひらがな」による表現についてはほとんど学んだ記憶すらありません。
漢字や英語に比べたらはるかに少ない学習期間だったにもかかわらず一番大切なことばだったのですね。
あらためて意識してみませんか「ひらがな」。
日本語のチカラは「ひらがな」にあるようですよ。
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2016年2月23日火曜日
聞き手の予測を助けるひらがな
日本語で話された内容を聞いている方は、必ずしも伝わってくる「ひらがなの音」を全て聞き取ってから理解しているわけではないことは先回も確認してみました。
(参照:きき手の予測を助けるはなし方)
無意識のうちでも聞き手は話し手の発する言葉や論理をある程度予測しながら聞いていることになります。
もちろん、言語以外の目に見える情報も頼りにしているのですが、ここでは言語情報に絞ってみてみたいと思います。
この実際の「ひらがなの音」を全て聞き取る前の予測が強すぎると思い込みとなってしまい、仮に話し手が伝えようと思っている言葉と同じ言葉を聞き取れたとしても自分の予測した意味に当てはめてしまうことが起きます。
予測が強すぎたり断定的すぎたりすると予測した言葉や内容に合わせて理解しようとしてしまいまうからです。
そうなると、もはや人の話を聞いていない思い込みが勝ってしまう状態になってしまうことになります。
効率よく聞くためには予測は欠かせませんが、あまりに予測をしすぎると正確に聞き取ることの妨げにもなってしまうことになります。
正確さを求めれば全ての音を聞き取ってから言葉や内容を理解することを行なわなければなりません。
しかし、全ての「ひらがなの音」を聞き取ってから理解する活動を行なうことは大変な労力と能力を必要とすることになります。
聞き手の行なっている理解のための活動については少し前に触れていますので参考にしてください。
(参照:日本語で聞いていること)
予測を助けるための言葉は漢字やカタカナ・アルファベットで記されることが多い名詞よりも助詞や接続詞といったひらがなで表記される言葉が多くなっています。
日本語で話された内容はどうしても聞きなれない単語としての名詞の方に意識が行ってしまいがちになります。
具体的なものから抽象的なものまで言語として持っている単語としてほとんどの物が名詞だからです。
ところが、はなしの内容や論理についてはそれらの名詞(単語)がどのような関係にあるのかを理解することが大切になります。
その名詞同士の関係を表わしているものが助詞であり接続詞である「ひらがな」なのです。
それらは言語が持っている単語としてはほんの少しの数しかありません、日々のようにその数が広がっている名詞に比べたらほんのわずかな数だと言ってもいいくらいです。
しかも、その使い方や意味は固定的なものが多くいったん理解してしまえば意識しなくとも自然と理解できるものとなってしまいます。
つまりは、意味が変化したり数が変わってしまったりしている名詞に比べるとはるかに予測が簡単にできることとなります。
ききての最初の活動は「ひらがなの音」から言葉を聞き分けることから始まります。
聞き分けた言葉の意味を解釈するのはその次であり、言葉同士のつながりから話の内容を理解するのはさらにそのあとになります。
「ひらがなの音」から聞き分けられた名詞としての言葉には同音異義語もあれば一つの言葉で多くの意味を持つものもあります。
使い方によっては同じ言葉であっても真逆の意味で解釈をする必要のある言葉も少なくありません。
それらの言葉の使い方から解釈を手助けするために自然に行なっていることが、助詞や接続詞などの「ひらがな」から先に論理を予測して言葉を解釈しようとしていることなのです。
「しかし」が聞き取れればその前とは反対の内容や言葉が出てくることが予測されます。
「さらに」を聞き取れれば前の内容を補足し強調するような内容や言葉が続くことが予測されます。
「〇〇は」と聞き取れれば○○が主体であり〇〇についての動きや内容が続くことが予測されます。
助詞や接続詞は使われ方がきわめて限定されたものであり、誰が使っても同じような使い方になるものです。
いちばん限定的に使われる言葉によって予測することは、自然と予測の精度を高めることになります。
話し手が意図している意味と聞き手が解釈した意味が異なったとしても名詞としての理解さえできていれば論理や意図を大きく外れることはありません。
意味が分からないなりに名詞であることさえ理解できれば後での調べようやとりあえずの理解の仕方も可能となります。
主題として大切な言葉なのか補足としての言葉なのか無視してしまっても影響のない言葉なのかの判断すら可能になります。
更に、話し手の意思だけではなく話しているときの気持ちや感情、そのような気持ちや感情が意図される環境や状況までもを理解するためにはひらがなの使われ方が大きな手助けとなります。
話し方のニュアンスがそこに現れるからです。
そのニュアンスがつかめればそこから反対に言葉を予測することも可能となります。
一生懸命に聞き取ろうとするほど一つひとつの言葉に意識が向いてしまうことになります。
内容を聞き取ろうとするからです。
そこには、話し手の気持ちや感情や置かれている状況を聞き取る意識が薄れてしまいます。
学校の授業を一生懸命聞き取ろうとするときのことを思い浮かべてください。
先生の気持ちや感情よりも話の内容を理解しようとしていたことが思い出されるのではないでしょうか。
このきき方に慣れてしまってはいないでしょうか。
新しく聞いた言葉や専門用語に意識が集中していたのではないでしょうか。
社会に出たての頃のききかたもあまり変わりがなかったのではないでしょうか。
その中で固定的な推測の仕方が出来上がっているのかもしれません。
「~べき」や「ねばならない」にある種の安心を感じてしまうのは私だけではなさそうです。
「ひらがな」を意識することで日本語はもっと大きな可能性を持っているのではないかと思っています。
音としてのひらがなは文字としての漢語が入ってくる前から使われていた「古代やまとことば」です。
やがて新しい言葉や使い方が加わって「やまとことば」が長い間継承されてきました。
それらの言葉を表記したものが「ひらがな」です。
漢字やカタカナ・アルファベットに惑わされることなく、2000年以上続く日本語の基本的な感覚をあらためて見直してもいいのではないでしょうか。
理解するために必要な予測を助けているのが「ひらがなで」です。
上手に使っていきたいですね。
(参照:きき手の予測を助けるはなし方)
無意識のうちでも聞き手は話し手の発する言葉や論理をある程度予測しながら聞いていることになります。
もちろん、言語以外の目に見える情報も頼りにしているのですが、ここでは言語情報に絞ってみてみたいと思います。
この実際の「ひらがなの音」を全て聞き取る前の予測が強すぎると思い込みとなってしまい、仮に話し手が伝えようと思っている言葉と同じ言葉を聞き取れたとしても自分の予測した意味に当てはめてしまうことが起きます。
予測が強すぎたり断定的すぎたりすると予測した言葉や内容に合わせて理解しようとしてしまいまうからです。
そうなると、もはや人の話を聞いていない思い込みが勝ってしまう状態になってしまうことになります。
効率よく聞くためには予測は欠かせませんが、あまりに予測をしすぎると正確に聞き取ることの妨げにもなってしまうことになります。
正確さを求めれば全ての音を聞き取ってから言葉や内容を理解することを行なわなければなりません。
しかし、全ての「ひらがなの音」を聞き取ってから理解する活動を行なうことは大変な労力と能力を必要とすることになります。
聞き手の行なっている理解のための活動については少し前に触れていますので参考にしてください。
(参照:日本語で聞いていること)
予測を助けるための言葉は漢字やカタカナ・アルファベットで記されることが多い名詞よりも助詞や接続詞といったひらがなで表記される言葉が多くなっています。
日本語で話された内容はどうしても聞きなれない単語としての名詞の方に意識が行ってしまいがちになります。
具体的なものから抽象的なものまで言語として持っている単語としてほとんどの物が名詞だからです。
ところが、はなしの内容や論理についてはそれらの名詞(単語)がどのような関係にあるのかを理解することが大切になります。
その名詞同士の関係を表わしているものが助詞であり接続詞である「ひらがな」なのです。
それらは言語が持っている単語としてはほんの少しの数しかありません、日々のようにその数が広がっている名詞に比べたらほんのわずかな数だと言ってもいいくらいです。
しかも、その使い方や意味は固定的なものが多くいったん理解してしまえば意識しなくとも自然と理解できるものとなってしまいます。
つまりは、意味が変化したり数が変わってしまったりしている名詞に比べるとはるかに予測が簡単にできることとなります。
ききての最初の活動は「ひらがなの音」から言葉を聞き分けることから始まります。
聞き分けた言葉の意味を解釈するのはその次であり、言葉同士のつながりから話の内容を理解するのはさらにそのあとになります。
「ひらがなの音」から聞き分けられた名詞としての言葉には同音異義語もあれば一つの言葉で多くの意味を持つものもあります。
使い方によっては同じ言葉であっても真逆の意味で解釈をする必要のある言葉も少なくありません。
それらの言葉の使い方から解釈を手助けするために自然に行なっていることが、助詞や接続詞などの「ひらがな」から先に論理を予測して言葉を解釈しようとしていることなのです。
「しかし」が聞き取れればその前とは反対の内容や言葉が出てくることが予測されます。
「さらに」を聞き取れれば前の内容を補足し強調するような内容や言葉が続くことが予測されます。
「〇〇は」と聞き取れれば○○が主体であり〇〇についての動きや内容が続くことが予測されます。
助詞や接続詞は使われ方がきわめて限定されたものであり、誰が使っても同じような使い方になるものです。
いちばん限定的に使われる言葉によって予測することは、自然と予測の精度を高めることになります。
話し手が意図している意味と聞き手が解釈した意味が異なったとしても名詞としての理解さえできていれば論理や意図を大きく外れることはありません。
意味が分からないなりに名詞であることさえ理解できれば後での調べようやとりあえずの理解の仕方も可能となります。
主題として大切な言葉なのか補足としての言葉なのか無視してしまっても影響のない言葉なのかの判断すら可能になります。
更に、話し手の意思だけではなく話しているときの気持ちや感情、そのような気持ちや感情が意図される環境や状況までもを理解するためにはひらがなの使われ方が大きな手助けとなります。
話し方のニュアンスがそこに現れるからです。
そのニュアンスがつかめればそこから反対に言葉を予測することも可能となります。
一生懸命に聞き取ろうとするほど一つひとつの言葉に意識が向いてしまうことになります。
内容を聞き取ろうとするからです。
そこには、話し手の気持ちや感情や置かれている状況を聞き取る意識が薄れてしまいます。
学校の授業を一生懸命聞き取ろうとするときのことを思い浮かべてください。
先生の気持ちや感情よりも話の内容を理解しようとしていたことが思い出されるのではないでしょうか。
このきき方に慣れてしまってはいないでしょうか。
新しく聞いた言葉や専門用語に意識が集中していたのではないでしょうか。
社会に出たての頃のききかたもあまり変わりがなかったのではないでしょうか。
その中で固定的な推測の仕方が出来上がっているのかもしれません。
「~べき」や「ねばならない」にある種の安心を感じてしまうのは私だけではなさそうです。
「ひらがな」を意識することで日本語はもっと大きな可能性を持っているのではないかと思っています。
音としてのひらがなは文字としての漢語が入ってくる前から使われていた「古代やまとことば」です。
やがて新しい言葉や使い方が加わって「やまとことば」が長い間継承されてきました。
それらの言葉を表記したものが「ひらがな」です。
漢字やカタカナ・アルファベットに惑わされることなく、2000年以上続く日本語の基本的な感覚をあらためて見直してもいいのではないでしょうか。
理解するために必要な予測を助けているのが「ひらがなで」です。
上手に使っていきたいですね。
2016年1月29日金曜日
行間を読むカギは「ひらがなことば」
日本語の理解力において求められていることは、直接的に表現されていることの裏側にある本音や意図・気持ちを感じ取ることではないでしょうか。
それは、話し言葉として表現されている場合であろうとも文章として表現されている場合であろうとも同じことだと思われます。
一通りの国語の理解が出来たころに教材として取り上げられる資料は、代表的な文学小説の一部であることが多くなっています。
古典的な要素も含まれていますので、使われている言葉や文法についても通常の話し言葉とは異なった文語的な表現が存在したりしていることもあります。
第一段階としては文字通りの意味を理解することが必要ではありますが、次の段階としては筆者や主人公の気持ちや環境を理解することが求められてきます。
国語の試験の内容としては、文法や語彙といった文字通りの理解ができるための能力を試される問題と、場面や筆者の意図や感情を理解できるための能力が試される問題があります。
誰が読んでも同じように理解できる内容ならば試験として正解・不正解の対象とすることも可能ですが、それに適さない対象も数多く存在しているのではないでしょうか。
とくに、フィクションである小説などは読者によってどのように解釈しようとも決して他者から非難を受けるようなものであってはならないと思います。
有名な文学評論家などが行なった独自の解釈をあたかも国語辞典のように決まりきったものであるとして、他の解釈を否定するような態度があってはならないものだと思われます。
広い解釈とのひとつとしてそのようなものもあるという程度のものでなけでばならないと思います。
言葉や文章に触れた時にまず最初にやらなければならないことは、表現されたものを意味のあることばとして理解することになります。
その段階では、それぞれのことばの意味は確定できなくとも言葉であることを理解できることが大切になります。
聞いたことのない言葉であったとしてもぼんやりと専門用語でありそうだとかこんな物や事のことだろうなという程度で構わないことになります。
ここで行われていることは、たとえわからない言葉があったとしてもその言葉を推測する一番大きな要素はその言葉の語尾であったり付帯している助詞であったりの「ひらがな」なのです。
まったく知らない言葉であっても名詞であるのか動詞であるのかの推測は前後の「ひらがな」で行なうことができます。
「〇〇と△△」となっていれば「〇〇、△△」に比較すれば「と」があることによってかなりの推測が可能となっています。
話し言葉にしても文章として記されたものであっても、最初にことばとして認識するためのカギは「ひらがな」に頼っていることになります。
したがって、すべてひらがなで書かれた文章は言葉として認識するためのカギとしての「ひらがな」なのか、意味のあることばの一部を構成している「ひらがな」なのかがパッと分からないために読み取りにくいものとなっているのです。
文字として表現するときには「ひらがな」で意味のあることばを表現するときには、誰でもがすぐにひとつのことばであることを理解できる言葉を選択する必要があります。
文法や語彙が一通り理解できると、今度は言葉によって表現されている内容を理解しなければなりません。
その時に大切なことはそれぞれの言葉同士の関係性です。
理解できた語彙が、それぞれどのような関係になっているのかを理解することによって内容が理解できることになります。
このときにそれぞれの語彙の関係性を示しているのが助詞や接続詞などの「ひらがな」なのです。
ここでも言葉同士の関係性を理解するカギは「ひらがな」なのです。
「ひらがな」が一つ変わってしまうことによって、言葉同士の関係が変わってしまうことがたくさんあります。
このことを利用して言葉遊びが行なわれることもあります。

たった「ひらがな」一文字で主体と客体が入れ替わってしまうのが日本語です。
「てにおは」という言い方をしますが、助詞の「ひらがな」一つで言葉同士の関係は大きく変わってしまうことになります。
ことばの意味がよく分からない場合には言葉に焦点がいきますが、表現されている内容がよく分からない場合に「ひらがな」に焦点が行くことはあまりありません。
このあたりのことは感覚的に行なっていることではないでしょうか。
内容が理解できてくると、初めて筆者の意図や気持ちについて理解することが可能になってきます。
このときのカギとなるのも「ひらがな」なのです。
とくに気持を表す言葉としての形容詞はその語尾のひらがなによって気持ちが表現されていることが多くなります。
文章の終わり方も気持ちがよく現れてくるところです。
「~ではないでしょうか。」「~だと思われます。」「~でなければならない。」「~でありたい。」などの表現は発信者の気持ちが込められていることが多いと思われます。
同じことを言っているのに、自信を持って断定しているのか不安を抱えながらも断定したいのか単なる想像なのかなどは最後の語尾に現れていることが多いからです。
「人の話は最後までよく聞け」は発信者の意図や態度を見極めるための姿勢だと思われます。
単に内容を理解するだけであれば最後まで聞かなくとも可能なことではないでしょうか。

第一段階の文法・語彙の理解から発信者の意図や気持ちまでを理解する「行間を読む」ことまでのすべてにおいて、カギとなっているのは「ひらがな」なのです。
聞いたことのない分からない言葉に出会うとどうしてもその言葉自体に焦点が行ってしまいます。
そのことが理解できないことが恥かしいことだと思ってしまったりします。
ところが、その言葉を意味は分からなくとも一つの言葉として理解さえしておけばほとんどの場合は何も困ることにはなりません。
それよりも、言葉同士の関係や意図や気持ちを理解することによって、一つの言葉はどうでもよいことになっていくことが多いです。
また、言葉同士の関係や意図や気持ちを理解することによって、語彙として理解しようとしていた時には分からなかった言葉がポンと分かってくることも少なくありません。
名詞や動詞の語幹には様々な文字が使われます。
漢字、カタカナ、アルファベット、数字など日常的にはたくさんの文字で表現されています。
これらをつないで関係を作り意図を伝え気持ちを伝えているのは「ひらがな」にしかできない機能なのです。
助詞としての「てにおは」の使い方に違和感があると気持ち悪いと感じます。
「てにおは」は気持ちを動かしているんですね。
「ひらがな」を省略して名詞だけで伝えることが多くなっていませんか。
その状態で「行間を読め」と言っても無理です。
きちんと「ひらがな」を使って表現をすることで初めて伝わりやすい表現ができるのではないでしょうか。
あらためて日本語を支えているのが「ひらがな」であることが見えてきました。
それは、話し言葉として表現されている場合であろうとも文章として表現されている場合であろうとも同じことだと思われます。
一通りの国語の理解が出来たころに教材として取り上げられる資料は、代表的な文学小説の一部であることが多くなっています。
古典的な要素も含まれていますので、使われている言葉や文法についても通常の話し言葉とは異なった文語的な表現が存在したりしていることもあります。
第一段階としては文字通りの意味を理解することが必要ではありますが、次の段階としては筆者や主人公の気持ちや環境を理解することが求められてきます。
国語の試験の内容としては、文法や語彙といった文字通りの理解ができるための能力を試される問題と、場面や筆者の意図や感情を理解できるための能力が試される問題があります。
誰が読んでも同じように理解できる内容ならば試験として正解・不正解の対象とすることも可能ですが、それに適さない対象も数多く存在しているのではないでしょうか。
とくに、フィクションである小説などは読者によってどのように解釈しようとも決して他者から非難を受けるようなものであってはならないと思います。
有名な文学評論家などが行なった独自の解釈をあたかも国語辞典のように決まりきったものであるとして、他の解釈を否定するような態度があってはならないものだと思われます。
広い解釈とのひとつとしてそのようなものもあるという程度のものでなけでばならないと思います。
言葉や文章に触れた時にまず最初にやらなければならないことは、表現されたものを意味のあることばとして理解することになります。
その段階では、それぞれのことばの意味は確定できなくとも言葉であることを理解できることが大切になります。
聞いたことのない言葉であったとしてもぼんやりと専門用語でありそうだとかこんな物や事のことだろうなという程度で構わないことになります。
ここで行われていることは、たとえわからない言葉があったとしてもその言葉を推測する一番大きな要素はその言葉の語尾であったり付帯している助詞であったりの「ひらがな」なのです。
まったく知らない言葉であっても名詞であるのか動詞であるのかの推測は前後の「ひらがな」で行なうことができます。
「〇〇と△△」となっていれば「〇〇、△△」に比較すれば「と」があることによってかなりの推測が可能となっています。
話し言葉にしても文章として記されたものであっても、最初にことばとして認識するためのカギは「ひらがな」に頼っていることになります。
したがって、すべてひらがなで書かれた文章は言葉として認識するためのカギとしての「ひらがな」なのか、意味のあることばの一部を構成している「ひらがな」なのかがパッと分からないために読み取りにくいものとなっているのです。
文字として表現するときには「ひらがな」で意味のあることばを表現するときには、誰でもがすぐにひとつのことばであることを理解できる言葉を選択する必要があります。
文法や語彙が一通り理解できると、今度は言葉によって表現されている内容を理解しなければなりません。
その時に大切なことはそれぞれの言葉同士の関係性です。
理解できた語彙が、それぞれどのような関係になっているのかを理解することによって内容が理解できることになります。
このときにそれぞれの語彙の関係性を示しているのが助詞や接続詞などの「ひらがな」なのです。
ここでも言葉同士の関係性を理解するカギは「ひらがな」なのです。
「ひらがな」が一つ変わってしまうことによって、言葉同士の関係が変わってしまうことがたくさんあります。
このことを利用して言葉遊びが行なわれることもあります。
たった「ひらがな」一文字で主体と客体が入れ替わってしまうのが日本語です。
「てにおは」という言い方をしますが、助詞の「ひらがな」一つで言葉同士の関係は大きく変わってしまうことになります。
ことばの意味がよく分からない場合には言葉に焦点がいきますが、表現されている内容がよく分からない場合に「ひらがな」に焦点が行くことはあまりありません。
このあたりのことは感覚的に行なっていることではないでしょうか。
内容が理解できてくると、初めて筆者の意図や気持ちについて理解することが可能になってきます。
このときのカギとなるのも「ひらがな」なのです。
とくに気持を表す言葉としての形容詞はその語尾のひらがなによって気持ちが表現されていることが多くなります。
文章の終わり方も気持ちがよく現れてくるところです。
「~ではないでしょうか。」「~だと思われます。」「~でなければならない。」「~でありたい。」などの表現は発信者の気持ちが込められていることが多いと思われます。
同じことを言っているのに、自信を持って断定しているのか不安を抱えながらも断定したいのか単なる想像なのかなどは最後の語尾に現れていることが多いからです。
「人の話は最後までよく聞け」は発信者の意図や態度を見極めるための姿勢だと思われます。
単に内容を理解するだけであれば最後まで聞かなくとも可能なことではないでしょうか。
第一段階の文法・語彙の理解から発信者の意図や気持ちまでを理解する「行間を読む」ことまでのすべてにおいて、カギとなっているのは「ひらがな」なのです。
聞いたことのない分からない言葉に出会うとどうしてもその言葉自体に焦点が行ってしまいます。
そのことが理解できないことが恥かしいことだと思ってしまったりします。
ところが、その言葉を意味は分からなくとも一つの言葉として理解さえしておけばほとんどの場合は何も困ることにはなりません。
それよりも、言葉同士の関係や意図や気持ちを理解することによって、一つの言葉はどうでもよいことになっていくことが多いです。
また、言葉同士の関係や意図や気持ちを理解することによって、語彙として理解しようとしていた時には分からなかった言葉がポンと分かってくることも少なくありません。
名詞や動詞の語幹には様々な文字が使われます。
漢字、カタカナ、アルファベット、数字など日常的にはたくさんの文字で表現されています。
これらをつないで関係を作り意図を伝え気持ちを伝えているのは「ひらがな」にしかできない機能なのです。
助詞としての「てにおは」の使い方に違和感があると気持ち悪いと感じます。
「てにおは」は気持ちを動かしているんですね。
「ひらがな」を省略して名詞だけで伝えることが多くなっていませんか。
その状態で「行間を読め」と言っても無理です。
きちんと「ひらがな」を使って表現をすることで初めて伝わりやすい表現ができるのではないでしょうか。
あらためて日本語を支えているのが「ひらがな」であることが見えてきました。
2016年1月22日金曜日
漢字とひらがなのいいとこ取り
日本語の標準的な表記方法は漢字とひらがなの混ざり合ったもの(和漢混淆文:かわんこんこうぶん)となっています。
これは漢字だけで表現する場合(中国語がこれです)とひらがなだけで表現する場合とを比較した時にどのような効果があるのでしょうか。
漢字を使用する言語は中国語を代表としていくつか存在していますが、ひらがなを使用する言語は世界の言語の中でも日本語だけです。
両方で表現できることが日本語をより特徴つけているということができるのではないでしょうか。
それ以外にも日常的にカタカナやアルファベットによる表記も行なわれていますが、これらについては擬音や固有名詞を表す場合が多く行動を表すための動詞としての使い方はほとんどありません。
若者たちがカタカナやアルファベットに加えて「〇〇する」といった動詞的な使い方をすることをあったとしても、もとからの表記がカタカナやアルファベットでなされた動詞は見ることができません。
その意味で、必ず動詞が必要となる日本語の一般的な文章においては漢字とひらがなによる表記方法が標準的なものであるということができると思われます。
文字としての漢字はひらがなが開発される以前に漢語として存在いたものです。
というよりも、ひらがなは漢語を用いて文字のなかった時代から存在していた話し言葉を表記するために編み出されたものと言った方が適切かもしれません。
文字のなかった時代にも、話し言葉によることばは数多く存在しておりそれが「やまとことば」の原型であると思われます。
文字を持たなかったころの原始日本語という位置付けになると思われます。
文字のない話し言葉 → 漢語の導入 → ひらがなの開発 と言う順番で表記方法が出来上がってきたことになります。
まずは漢字(漢語)からその特徴を見ていってみましょう。
漢字は現代で使用されている唯一の表意文字だと言われたいます。
文字そのものが意味を持ったものですので、その成り立ちは象形文字として始まったものと言われています。
近年の研究では表意文字という言い方からより現実に即したより正確な言い方として表語文字という言い方もされるようになってきました。
いずれにしてもその成り立ちは象形文字ですので、形として存在する物や目に見えて形として表現できるものしか文字にできなかったことになります。
つまりは、かなり具象度の高い現実の形を伴ったものしか文字として表現できなかったと思われます。
やがては、その文字を象徴化したりして篇や旁として共通的な意味を持たせて組み合わせて新しい意味を持たせる文字を編み出していくことになります。
しかし、もとになっている文字がきわめて具体的なものであるためにその文字を含むことによってその関連性を示すものを表現する方法を身につけていったのです。
どの文字を見てみてもその一部あるいは文字自体がかなり具体的なものを表したものが含まれていることになり、その文字に持たせた意味はその文字の構成で理解できるものとなっているのが漢字です。
物だけではなく、人や動物の基本的な動作として象徴的に絵として描けるものは動詞として表現できてきたものと思われます。
誰が見てもそのような動作をしているという形から文字になった基本的な漢字の動詞が多く存在しています。
しかし、抽象度が高くなったり複雑さが高くなって単純な形として描けなかったり一目見て何をしているのかわからないような絵は文字にはなりませんでした。
漢字は具体的な目に見えて形として捉えることができる物や行為を表現することが得意でした。
それに対して文字を持たない話し言葉は具体的な形として表すことができない物や行為を表現することにおいてもより自由度がありました。
とくに、自分や人の気持ちや感じ方や意味はなくとも音としての表現の方が伝わりやすいこともあったと思われます。
相対的に漢字が具体的な物や事を表現するのに適しているのに対して、話し言葉は抽象度の高い形として表現することが難しいことを表すのに適しているということができます。
もともと抽象度の低かった漢字に新しい考え方に基づく言葉を沢山付け加えたのが明治維新です。
西洋文明の進んだ新しい言葉をひたす漢字に置き換えていきました。
哲学、文学、芸術、革命、権利、統計、共和、など抽象度の高い言葉が次々に生まれてきました。
これらは、海を渡って和製漢語として漢語の本国にも多大な影響を与えました。
(参照:輸出された日本漢字)
漢語の本家である中国の国名の「中華人民共和国」の「中華」以外の言葉が和製漢語であることは有名な話となっています。
漢語を導入した日本語は、次のステップとして漢語の音を利用することによって話し言葉だけで表現してきた言葉たちを書き表すためのひらがなを生み出していったのです。
日本語がもともと持っていたものは漢字で表現できることよりもひらがなで表現できることの方がたくさんあったということができると思います。
そして漢字と言う表現手法を身につけてさらに多くの表現をできるようになっていったと思われます。
「かく」という動作は文字のなかったころにも話し言葉の基本語として使われていたことばだと思われます。
漢字が導入されたことによってその文字の持っている具体的な内容が「かく」に当たっていることから、「書く」「描く」「画く」「掻く」「欠く」などが使われるようになり「かく」と読ませるようになっていったと思われます。
時代を経て漢字としての使われ方が減っていったものもあります。
人が何かを話す「いう」という行為は、かつては「言う」以外にも「謂う」「云う」などが使われていました。
とくに「言う」は神に対してことばを発するときにしか使うことができなかった神聖な文字だと言われています。
現在ではすべてを「言う」でカバーしてしまっているのではないでしょうか。
その意味では、数千年を経て文字としての「言う」と話しことばとしての「いう」が一体化されたということができるのかもしれません。

漢字とひらがなの表記の違いは文字として記したときに始めて効果が表れるものです。
どんなに漢字を意識していたとしても話し言葉で表現している場合にはひらがなの音としてしか伝わらないのが日本語です。
(参照:「ひらがな」でしか伝わらない日本語)
本人は「書く」を意味しているつもりでも伝わっているのは「かく」であり、相手は「かく」で理解しているのか「描く」で理解しているのかは分からないのです。
ましてや行為としての「かく」だけではなく「各」や「核」などの理解の仕方もあることになります。
世界の言語の中でも複数の表記方法を持った言語はほとんど見ることができません。
しかも、この場合は漢字でなければならないとかひらがなでなければならないというルールはないのです。
漢文的な素養があれば、漢字だけでもひらがなだけでも同じことを表現することが可能なのです。
こんなことを意識して漢字とひらがなの使い分けを行なっている人はほとんどいないと思います。
意識しなくとも感覚的に勝手に行なっているのです。
知らない人から見たらとんでもない能力だと思います。
漢字が存在する言葉であるのに漢字で書けないと恥かしいという思いを持つことがありませんか。
あえてひらがなで書かれている言葉を見た時に、こんな漢字も知らないのかと思うことがありませんか。
表記方法として漢字がひらがなよりも上位にあることを感覚として埋め込まれてしまっているのですね。
漢字とひらがなの書き分けのルールはないのです。
それぞれの思いで使い分けして構わないのです。
同じ文章の同じ言葉が漢字とひらがなで書き分けられていたらそこには何らかの意図を感じませんか?
話すことと書くことの一番の違いは漢字とひらがなの受け取り方が違うことです。
せっかく持っている表現方法をうまく生かしていきたいですね。
これは漢字だけで表現する場合(中国語がこれです)とひらがなだけで表現する場合とを比較した時にどのような効果があるのでしょうか。
漢字を使用する言語は中国語を代表としていくつか存在していますが、ひらがなを使用する言語は世界の言語の中でも日本語だけです。
両方で表現できることが日本語をより特徴つけているということができるのではないでしょうか。
それ以外にも日常的にカタカナやアルファベットによる表記も行なわれていますが、これらについては擬音や固有名詞を表す場合が多く行動を表すための動詞としての使い方はほとんどありません。
若者たちがカタカナやアルファベットに加えて「〇〇する」といった動詞的な使い方をすることをあったとしても、もとからの表記がカタカナやアルファベットでなされた動詞は見ることができません。
その意味で、必ず動詞が必要となる日本語の一般的な文章においては漢字とひらがなによる表記方法が標準的なものであるということができると思われます。
文字としての漢字はひらがなが開発される以前に漢語として存在いたものです。
というよりも、ひらがなは漢語を用いて文字のなかった時代から存在していた話し言葉を表記するために編み出されたものと言った方が適切かもしれません。
文字のなかった時代にも、話し言葉によることばは数多く存在しておりそれが「やまとことば」の原型であると思われます。
文字を持たなかったころの原始日本語という位置付けになると思われます。
文字のない話し言葉 → 漢語の導入 → ひらがなの開発 と言う順番で表記方法が出来上がってきたことになります。
まずは漢字(漢語)からその特徴を見ていってみましょう。
漢字は現代で使用されている唯一の表意文字だと言われたいます。
文字そのものが意味を持ったものですので、その成り立ちは象形文字として始まったものと言われています。
近年の研究では表意文字という言い方からより現実に即したより正確な言い方として表語文字という言い方もされるようになってきました。
いずれにしてもその成り立ちは象形文字ですので、形として存在する物や目に見えて形として表現できるものしか文字にできなかったことになります。
つまりは、かなり具象度の高い現実の形を伴ったものしか文字として表現できなかったと思われます。
やがては、その文字を象徴化したりして篇や旁として共通的な意味を持たせて組み合わせて新しい意味を持たせる文字を編み出していくことになります。
しかし、もとになっている文字がきわめて具体的なものであるためにその文字を含むことによってその関連性を示すものを表現する方法を身につけていったのです。
どの文字を見てみてもその一部あるいは文字自体がかなり具体的なものを表したものが含まれていることになり、その文字に持たせた意味はその文字の構成で理解できるものとなっているのが漢字です。
物だけではなく、人や動物の基本的な動作として象徴的に絵として描けるものは動詞として表現できてきたものと思われます。
誰が見てもそのような動作をしているという形から文字になった基本的な漢字の動詞が多く存在しています。
しかし、抽象度が高くなったり複雑さが高くなって単純な形として描けなかったり一目見て何をしているのかわからないような絵は文字にはなりませんでした。
漢字は具体的な目に見えて形として捉えることができる物や行為を表現することが得意でした。
それに対して文字を持たない話し言葉は具体的な形として表すことができない物や行為を表現することにおいてもより自由度がありました。
とくに、自分や人の気持ちや感じ方や意味はなくとも音としての表現の方が伝わりやすいこともあったと思われます。
相対的に漢字が具体的な物や事を表現するのに適しているのに対して、話し言葉は抽象度の高い形として表現することが難しいことを表すのに適しているということができます。
もともと抽象度の低かった漢字に新しい考え方に基づく言葉を沢山付け加えたのが明治維新です。
西洋文明の進んだ新しい言葉をひたす漢字に置き換えていきました。
哲学、文学、芸術、革命、権利、統計、共和、など抽象度の高い言葉が次々に生まれてきました。
これらは、海を渡って和製漢語として漢語の本国にも多大な影響を与えました。
(参照:輸出された日本漢字)
漢語の本家である中国の国名の「中華人民共和国」の「中華」以外の言葉が和製漢語であることは有名な話となっています。
漢語を導入した日本語は、次のステップとして漢語の音を利用することによって話し言葉だけで表現してきた言葉たちを書き表すためのひらがなを生み出していったのです。
日本語がもともと持っていたものは漢字で表現できることよりもひらがなで表現できることの方がたくさんあったということができると思います。
そして漢字と言う表現手法を身につけてさらに多くの表現をできるようになっていったと思われます。
「かく」という動作は文字のなかったころにも話し言葉の基本語として使われていたことばだと思われます。
漢字が導入されたことによってその文字の持っている具体的な内容が「かく」に当たっていることから、「書く」「描く」「画く」「掻く」「欠く」などが使われるようになり「かく」と読ませるようになっていったと思われます。
時代を経て漢字としての使われ方が減っていったものもあります。
人が何かを話す「いう」という行為は、かつては「言う」以外にも「謂う」「云う」などが使われていました。
とくに「言う」は神に対してことばを発するときにしか使うことができなかった神聖な文字だと言われています。
現在ではすべてを「言う」でカバーしてしまっているのではないでしょうか。
その意味では、数千年を経て文字としての「言う」と話しことばとしての「いう」が一体化されたということができるのかもしれません。
漢字とひらがなの表記の違いは文字として記したときに始めて効果が表れるものです。
どんなに漢字を意識していたとしても話し言葉で表現している場合にはひらがなの音としてしか伝わらないのが日本語です。
(参照:「ひらがな」でしか伝わらない日本語)
本人は「書く」を意味しているつもりでも伝わっているのは「かく」であり、相手は「かく」で理解しているのか「描く」で理解しているのかは分からないのです。
ましてや行為としての「かく」だけではなく「各」や「核」などの理解の仕方もあることになります。
世界の言語の中でも複数の表記方法を持った言語はほとんど見ることができません。
しかも、この場合は漢字でなければならないとかひらがなでなければならないというルールはないのです。
漢文的な素養があれば、漢字だけでもひらがなだけでも同じことを表現することが可能なのです。
こんなことを意識して漢字とひらがなの使い分けを行なっている人はほとんどいないと思います。
意識しなくとも感覚的に勝手に行なっているのです。
知らない人から見たらとんでもない能力だと思います。
漢字が存在する言葉であるのに漢字で書けないと恥かしいという思いを持つことがありませんか。
あえてひらがなで書かれている言葉を見た時に、こんな漢字も知らないのかと思うことがありませんか。
表記方法として漢字がひらがなよりも上位にあることを感覚として埋め込まれてしまっているのですね。
漢字とひらがなの書き分けのルールはないのです。
それぞれの思いで使い分けして構わないのです。
同じ文章の同じ言葉が漢字とひらがなで書き分けられていたらそこには何らかの意図を感じませんか?
話すことと書くことの一番の違いは漢字とひらがなの受け取り方が違うことです。
せっかく持っている表現方法をうまく生かしていきたいですね。
2016年1月17日日曜日
「ひらがな」でしか伝わらない日本語
ことばとして話すことと文字として書くことが伝えるための中心活動であることには疑いはないと思います。
補助的にはそれ以外にもいくつか考えることができると思いますが、それらはどれをとっても話すことと書くこと以上に伝えられるものではありません。
伝える側から見た場合の表現として話すことと書くことと言うことができますが、受け手の側から見た場合には聞くことと読む(見る)ことということができると思います。
それぞれの立場からその行為の専門性を見てみたいと思います。
受け手の側から見てみると、聞くことは五感の一つとしての聴覚として耳の受け持っている専門分野であり、耳は聞くことの機能のためにフルに活動をしていることになります。
同じく読む(見る)ということは五感の一つの視覚として眼の受け持っている専門的活動となっているためにその機能は同じように専門的に磨き上げられてきているものです。
対して、話すことと書くことはどうでしょうか?
話すことは口で行なっていることですが口の持っている感覚は五感の一つとしては味覚のための器官となっています。
口は話すことのための専門機関ではありませんが、話すことは口でしかできないことでもあります。
また、書くことは手によって行なわれていることではありますが、手は五感の中の触覚をメインに司る器官となっているものです。
つまりは、話すことも書くこともそれぞれを行なうための専門機関が行なっているわけではないことであり、話すことや書くことを行なっている機関はそれ以外に人の基本的感覚を司る基本的な機能が存在していることになります。
反対に、受ける側である聞くこと見ることにおいてはその機能を行なうための専門機関が受け持っている機能となっています。
このことから考えると、発信して伝える側よりも受信して受け取る側の方が基本的な能力が高いことになるのではないでしょうか。
結果として、伝えるという行為においては受け手が持っている機能に大きく依存していると思われます。
伝える方がどんなに工夫をしようとも受け手側がどのように受けているのかは理解しきれないことになるのではないでしょうか。
文字として書かれたものについては記録として残されている以上、その場での理解を後から修正したり確認したりすることが可能となっています。
ことばとして話された場合には瞬間的な活動でしか受け取ることができません。
話している内容を聞き取るという行為はとんでもない高度な活動を瞬間的に行なっていることになると思われます。
日本語が持っている音は「ひらがな」の基本音(濁音、半濁音を含む)である71音で出来ています。
世界の言語の中でもかなり少ない基本音の数となっているものです。
小さなひらがなで表現される「きゃ」「たっ」などを音として数えても150音までには至らないと思われます。
つまりは、文字としての漢字やカタカナ、アルファベットなどの使い分けは話し言葉においては出来ていないことになります。
発信する伝えたい側がどんなに意識して漢字の使い分けやカタカナやアルファベットのニュアンスを伝えようとしても、実際に受け手に届いているのはすべてが「ひらがな」の音となって届いていることになります。
受け手は最初に認知できることばはすべて「ひらがな」の音として行なっていることになるのです。
伝わった音をどのようなことばとして認知するのかは、受け手の機能に任せるしかありません。
音の区切りがどこで行われて何文字の言葉として認知しているのかや発信側が意図した音と同じ音として認知してもらえているのかどうかは発信者側からは全く分からないことになります。
受け手側はまずは「ひらがな」の音として発信者の意図している音を拾うことが最初のステップとなります。
次の段階で、拾うことができた音がどんなことばの音であるかを見つけることを行なっています。
そのことばは「ひらがな」の音で表されたものです、音としてのことばを見つけることになります。
この段階では受け手側には文字の種類は関係ありませんし、言葉の意味も関係ありません。
「ひらがな」の音の連続の中からことばであろうと思われる音の続きを捕まえようとしてるだけのことではないでしょうか。
発信者がどんなに文字で言葉を意識して話をしていたとしても、受け手には「ひらがな」の音としてしか伝わっていないことになります。
発信者が「換気」という言葉を伝えようとして話しても、それは「かんき」というひらがなの音としてしか相手に伝わっていないことになります。
それも「かんき」という三音が正確に相手に伝わって初めて行なわれることになります。
受け手の側では「か」「ん」「き」という三つの音を正しく拾うことによってその伝わり方によって「かんき」ということばであろうと推測することになります。
「かんき」が「換気」なのか「寒気」なのか「歓喜」なのかあるいは「カンキ」なのか、またそれ以外の「かんき」であるのかの理解はさらにその後に行なわれることになるのです。
人が持っていることばは、文字として持っている言葉の方が音として持っていることばよりもはるかの多いものとなっています。
したがって、何かを伝えようと思う時には文字としての言葉が浮かんでいることが多くなります。
その言葉を伝えようとしていても、実際に伝わっているのはその言葉が持っている音としてのことばの音だけになります。
発信者から受け手への認知を順番にすると以下のようになります。
言葉(文字) → ことば(音:発信) → 音(「ひらがな」:受信) → ことば(音) → 言葉
発信するための機能をつかさどっている機関が発信するための専門機関ではないことを含めて考えると、これだけの工程を経て最初の言葉と最後の言葉が同じものになる確率は決して高いものであるとは言えないのではないでしょうか。
更に、言葉の意味までを考えると一人ひとりが持っている言葉の意味については、同じ言葉であっても決して同じものとはなっていないと思われます。
発信者が伝えようとした内容は、受け手にはまったく同じように伝わることはないと言い切ってもいいのではないでしょうか。
少しでも正確に伝えるための努力は怠るわけにいきませんね。
「ひらがな」の音として伝わっている以上、「ひらがな」の音しか持っていない「ひらがなことば」が正確に伝わる確率はかなり高いということができると思われます。
「ひらがなことば」を上手に使うことが上手く伝えることの基本にあるのでしょうね。
そういえば、日本語を母語としている人で「ひらがな」が分からない人はいませんね。
誰に対してもきちんと伝わるのも「ひらがなことば」ではないでしょうか。
使いこなしていきたいですね「ひらがなことば」。
補助的にはそれ以外にもいくつか考えることができると思いますが、それらはどれをとっても話すことと書くこと以上に伝えられるものではありません。
伝える側から見た場合の表現として話すことと書くことと言うことができますが、受け手の側から見た場合には聞くことと読む(見る)ことということができると思います。
それぞれの立場からその行為の専門性を見てみたいと思います。
受け手の側から見てみると、聞くことは五感の一つとしての聴覚として耳の受け持っている専門分野であり、耳は聞くことの機能のためにフルに活動をしていることになります。
同じく読む(見る)ということは五感の一つの視覚として眼の受け持っている専門的活動となっているためにその機能は同じように専門的に磨き上げられてきているものです。
対して、話すことと書くことはどうでしょうか?
話すことは口で行なっていることですが口の持っている感覚は五感の一つとしては味覚のための器官となっています。
口は話すことのための専門機関ではありませんが、話すことは口でしかできないことでもあります。
また、書くことは手によって行なわれていることではありますが、手は五感の中の触覚をメインに司る器官となっているものです。
つまりは、話すことも書くこともそれぞれを行なうための専門機関が行なっているわけではないことであり、話すことや書くことを行なっている機関はそれ以外に人の基本的感覚を司る基本的な機能が存在していることになります。
反対に、受ける側である聞くこと見ることにおいてはその機能を行なうための専門機関が受け持っている機能となっています。
このことから考えると、発信して伝える側よりも受信して受け取る側の方が基本的な能力が高いことになるのではないでしょうか。
結果として、伝えるという行為においては受け手が持っている機能に大きく依存していると思われます。
伝える方がどんなに工夫をしようとも受け手側がどのように受けているのかは理解しきれないことになるのではないでしょうか。
文字として書かれたものについては記録として残されている以上、その場での理解を後から修正したり確認したりすることが可能となっています。
ことばとして話された場合には瞬間的な活動でしか受け取ることができません。
話している内容を聞き取るという行為はとんでもない高度な活動を瞬間的に行なっていることになると思われます。
日本語が持っている音は「ひらがな」の基本音(濁音、半濁音を含む)である71音で出来ています。
世界の言語の中でもかなり少ない基本音の数となっているものです。
小さなひらがなで表現される「きゃ」「たっ」などを音として数えても150音までには至らないと思われます。
つまりは、文字としての漢字やカタカナ、アルファベットなどの使い分けは話し言葉においては出来ていないことになります。
発信する伝えたい側がどんなに意識して漢字の使い分けやカタカナやアルファベットのニュアンスを伝えようとしても、実際に受け手に届いているのはすべてが「ひらがな」の音となって届いていることになります。
受け手は最初に認知できることばはすべて「ひらがな」の音として行なっていることになるのです。
伝わった音をどのようなことばとして認知するのかは、受け手の機能に任せるしかありません。
音の区切りがどこで行われて何文字の言葉として認知しているのかや発信側が意図した音と同じ音として認知してもらえているのかどうかは発信者側からは全く分からないことになります。
受け手側はまずは「ひらがな」の音として発信者の意図している音を拾うことが最初のステップとなります。
次の段階で、拾うことができた音がどんなことばの音であるかを見つけることを行なっています。
そのことばは「ひらがな」の音で表されたものです、音としてのことばを見つけることになります。
この段階では受け手側には文字の種類は関係ありませんし、言葉の意味も関係ありません。
「ひらがな」の音の連続の中からことばであろうと思われる音の続きを捕まえようとしてるだけのことではないでしょうか。
発信者がどんなに文字で言葉を意識して話をしていたとしても、受け手には「ひらがな」の音としてしか伝わっていないことになります。
発信者が「換気」という言葉を伝えようとして話しても、それは「かんき」というひらがなの音としてしか相手に伝わっていないことになります。
それも「かんき」という三音が正確に相手に伝わって初めて行なわれることになります。
受け手の側では「か」「ん」「き」という三つの音を正しく拾うことによってその伝わり方によって「かんき」ということばであろうと推測することになります。
「かんき」が「換気」なのか「寒気」なのか「歓喜」なのかあるいは「カンキ」なのか、またそれ以外の「かんき」であるのかの理解はさらにその後に行なわれることになるのです。
人が持っていることばは、文字として持っている言葉の方が音として持っていることばよりもはるかの多いものとなっています。
したがって、何かを伝えようと思う時には文字としての言葉が浮かんでいることが多くなります。
その言葉を伝えようとしていても、実際に伝わっているのはその言葉が持っている音としてのことばの音だけになります。
発信者から受け手への認知を順番にすると以下のようになります。
言葉(文字) → ことば(音:発信) → 音(「ひらがな」:受信) → ことば(音) → 言葉
発信するための機能をつかさどっている機関が発信するための専門機関ではないことを含めて考えると、これだけの工程を経て最初の言葉と最後の言葉が同じものになる確率は決して高いものであるとは言えないのではないでしょうか。
更に、言葉の意味までを考えると一人ひとりが持っている言葉の意味については、同じ言葉であっても決して同じものとはなっていないと思われます。
発信者が伝えようとした内容は、受け手にはまったく同じように伝わることはないと言い切ってもいいのではないでしょうか。
少しでも正確に伝えるための努力は怠るわけにいきませんね。
「ひらがな」の音として伝わっている以上、「ひらがな」の音しか持っていない「ひらがなことば」が正確に伝わる確率はかなり高いということができると思われます。
「ひらがなことば」を上手に使うことが上手く伝えることの基本にあるのでしょうね。
そういえば、日本語を母語としている人で「ひらがな」が分からない人はいませんね。
誰に対してもきちんと伝わるのも「ひらがなことば」ではないでしょうか。
使いこなしていきたいですね「ひらがなことば」。
2015年11月26日木曜日
「天網恢恢疎にして漏らさず」
この言葉はどの様に聞こえているのだろうか?
単純に聞こえている音だけを拾い上げれば「てんもうかいかいそにしてもらさず」となります。
しかし、実際の聞こえ方としてはアクセントや抑揚、休止による効果によってニュアンスが付けらてれいます。
話し手のニュアンスのつけ方によって16音のひらがなが意味を成す言葉として伝えられようとしています。
このアクセントや抑揚、休止の入れ方に共通したルールがあるわけではありません。
同じ言葉に対してのこれらの違いが方言や〇〇弁などと呼ばれるものになり、普段自分が慣れ親しんでいるものと異なったりするとかえって言葉として理解しにくいものとなっていしまいます。
このことわざは言葉として四つのことが分からないと理解できないことになります。
「天網」「恢恢」「疎にして」「漏らさず」の四つです。
ことわざとは言い換えれば言い伝えとも言うことができるものであり、文字としてよりは話し言葉としての使われ方の方が多くなっているものです。
したがって、漢字で書くことができないものも多くあると思われます。
そもそも言語は話し言葉が優先であることは、話し言葉として使っているものがすべて漢字で書くことができないことでよく分かるのではないでしょうか。
「天網恢恢疎にして漏らさず」の意味はどんなに隠してやっていても悪いことはどこかで誰かが(神様は)必ず見ているよと言ったようなものですが、四つの言葉の意味を直接的に理解できてもなかなか本来の意味するところに行き着きません。
このことわざを理解するためには、要素としての言葉の理解によることよりも「てんもうかいかいそにしてもらさず」という音から直接的にその意味につながっていることが必要と思われます。
「天網恢恢疎にして漏らさず」の要素としての言葉の意味が理解できなくとも、ことわざとしての意味を理解している人も多いのではないでしょうか。
そもそも漢字で書ける人もほとんどいないと思われます。
四つの要素の言葉自体の意味がすべてわかっていることも少ないと思われます。
「てんもう」「かいかい」「そにして」「もらさず」のそれぞれの意味と漢字が理解できていなければ漢字での表現は出来ません。
こんなことを書いている私も「てんもう」はすぐに「天網」とはなりませんし、「かいかい」などはどんなにやっても「恢恢」とはなりません。
自信の経験では「恢恢」という字はこの使い方以外に見たことがありませんし、個別の意味としては全く分かりません。
私がこのことわざの意味を自分として理解するようになったのは、音として「天網恢恢疎にして漏らさず」に触れた時に教わった意味や使い方について何度となく経験をして記憶に残っているからにほかなりません。
この記憶は音として「てんもうかいかいそにしてもらさず」に触れるたびに更新されていることになります。
この音を聞いた時に自分の持っている意味と同じ理解でいいのだと感じる同定が起こるときは、持っている意味で間違いがないという確認が行なわれて音と意味がより強固な結びつきとなります。
また、自分の持っている意味や使い方と違う場面に出会った時は自分の持っている記憶との共通性を確認しながらもより広い意味や使い方として更新されていくことになります。
私にとっては「天網恢恢疎にして漏らさず」は文字としてよりも音として意味と結びついているものになります。
文字として書かれたものを見た時に「恢恢」を「かいかい」と読むことができなければこのことわざ自体が「てんもうかいかいそにしてもらさず」であることを理解できないないこともあると思われます。
いかにひらがなの連続音で聞き取っているとは言っても「てんもう」「かいかい」「そにして」「もらさず」という言葉としての区分については理解していることになります。
その場合には言葉であるという理解でありそのことばとしての意味は瞬間的に同定されていることもあればされていないこともあると思われます。
言葉としての意味は理解できなくとも一つの言葉であろうという推測がなされるのはその言葉だけではなく周りの言葉との関連や全体の理解によるものです。
試しにひらがなの区切りとして「てんも」「うかいか」「いそに」「してもらさず」とでも受け取ってしまっては全く何のことだかわからなくなります。
言葉の要素としては「天も」「迂回か」「磯に」「仕手漏らさず」などのように理解することは出来たとしても、全体として何なのかさっぱりわからないことになります。
ひらがなの連続音として聞きながらも言葉としての要素と全体としての意味を考えながら自分の持っている言葉との同定を行なっていることになります。
その一番の助けになるものがひらがなだけで出来上がっている言葉をつなぐものたちなのです。
助詞や語尾変化や接続詞などによって言葉同士の関係やつながりを理解して全体を理解できるのです。
このつながりによって意味が分からなくとも名詞なのか形容詞なのかなどの言葉としての推測ができることになるからです。
「てんもうかいかい」は漢語読みでありひらがながありませんので推測することがとても難しいことになります。
「疎にして漏らさず」はひらがである「にして」によって「疎」は何らかの状態を表現していることが推測されますし、「漏らさず」によって状態や動きを表している言葉である「漏らす」を否定していることが理解できます。
「てんもうかいかい」は推測できる情報がきわめて少なくなっており、まったく経験としての記憶がない場合には「てんもう、かいかい」なのだか「てんも、うかいかい」「てんもうかい、かい」なのだかすら判断ができません。
したがって、「天網恢恢疎にして漏らさず」を理解してもらいたければひらがなの音としての「てんもうかいかいそにしてもらさず」をしっかり伝えることは勿論ですが、推測できるための情報を伝えてあげることが必要になります。
「天網は恢恢であり疎にして漏らさず」とひらがなを補っただけでどれだけ推測が楽になるでしょうか。
それでも記憶との同定ができなければ「てんもう」「かいかい」は難しいと思われます。
「天網」は「天の網」(てんのあみ)ですがここまでくれば「あみ」は理解できるのではないでしょうか。
「てん」はひらがなの音としては理解がしにくい音読みです。
言い換えてあげることで意味が伝わりやすくなります。
一般的には「そら」とひらがな言葉として読み替えて伝えることの方が理解しやすくならないでしょうか。
「恢恢」(かいかい)は意味を教えてもらうか辞書で調べるかしかないのではないでしょうか。
同定するための記憶にもほとんどないと思われます。
「天網恢恢疎にして漏らさず」を文字として書くことはめったにないと思います。
文字として見ることも決して多いとは言えないでしょう。
それよりも話し言葉として聞くことの方が多いのではないでしょうか。
幾度となく聞く経験をしていることによって結果として「てんもうかいかいそにしてもらさず」を「てんもう」「かいかい」「そにして」「もらさず」として受け止めることができているのです。
場合によっては要素を飛ばして全体として一つの言葉として記憶されることもあると思われます。
記憶として持っている意味が触れるたびに更新されていくことによって音と意味が強固に結びついていくことになります。
音として触れるたびに音と意味の関係については更新されていきますが、文字との結びつきはずっと頻度が低いと思われます。
結果として文字としての「天網恢恢疎にして漏らさず」に出会った時に「てんもうかいかいそにしてもらさず」という音にすぐに結びつかないことが起こります。
見たことのある漢字で読み方が分からないときにおこることですね。
漢字の文字から意味を推測することは可能ですが、言葉としての意味にはなっていないことになります。
文字は言葉としての音を表すための記号ですので、言葉としての意味は音によって結びついているものとなっています。
文字としても意味を持っている漢字は、その文字の意味によって言葉としての意味の理解を妨げていることがあります。
ひらがなの音としての言葉をあらためて意識していきたいですね。
単純に聞こえている音だけを拾い上げれば「てんもうかいかいそにしてもらさず」となります。
しかし、実際の聞こえ方としてはアクセントや抑揚、休止による効果によってニュアンスが付けらてれいます。
話し手のニュアンスのつけ方によって16音のひらがなが意味を成す言葉として伝えられようとしています。
このアクセントや抑揚、休止の入れ方に共通したルールがあるわけではありません。
同じ言葉に対してのこれらの違いが方言や〇〇弁などと呼ばれるものになり、普段自分が慣れ親しんでいるものと異なったりするとかえって言葉として理解しにくいものとなっていしまいます。
このことわざは言葉として四つのことが分からないと理解できないことになります。
「天網」「恢恢」「疎にして」「漏らさず」の四つです。
ことわざとは言い換えれば言い伝えとも言うことができるものであり、文字としてよりは話し言葉としての使われ方の方が多くなっているものです。
したがって、漢字で書くことができないものも多くあると思われます。
そもそも言語は話し言葉が優先であることは、話し言葉として使っているものがすべて漢字で書くことができないことでよく分かるのではないでしょうか。
「天網恢恢疎にして漏らさず」の意味はどんなに隠してやっていても悪いことはどこかで誰かが(神様は)必ず見ているよと言ったようなものですが、四つの言葉の意味を直接的に理解できてもなかなか本来の意味するところに行き着きません。
このことわざを理解するためには、要素としての言葉の理解によることよりも「てんもうかいかいそにしてもらさず」という音から直接的にその意味につながっていることが必要と思われます。
「天網恢恢疎にして漏らさず」の要素としての言葉の意味が理解できなくとも、ことわざとしての意味を理解している人も多いのではないでしょうか。
そもそも漢字で書ける人もほとんどいないと思われます。
四つの要素の言葉自体の意味がすべてわかっていることも少ないと思われます。
「てんもう」「かいかい」「そにして」「もらさず」のそれぞれの意味と漢字が理解できていなければ漢字での表現は出来ません。
こんなことを書いている私も「てんもう」はすぐに「天網」とはなりませんし、「かいかい」などはどんなにやっても「恢恢」とはなりません。
自信の経験では「恢恢」という字はこの使い方以外に見たことがありませんし、個別の意味としては全く分かりません。
私がこのことわざの意味を自分として理解するようになったのは、音として「天網恢恢疎にして漏らさず」に触れた時に教わった意味や使い方について何度となく経験をして記憶に残っているからにほかなりません。
この記憶は音として「てんもうかいかいそにしてもらさず」に触れるたびに更新されていることになります。
この音を聞いた時に自分の持っている意味と同じ理解でいいのだと感じる同定が起こるときは、持っている意味で間違いがないという確認が行なわれて音と意味がより強固な結びつきとなります。
また、自分の持っている意味や使い方と違う場面に出会った時は自分の持っている記憶との共通性を確認しながらもより広い意味や使い方として更新されていくことになります。
私にとっては「天網恢恢疎にして漏らさず」は文字としてよりも音として意味と結びついているものになります。
文字として書かれたものを見た時に「恢恢」を「かいかい」と読むことができなければこのことわざ自体が「てんもうかいかいそにしてもらさず」であることを理解できないないこともあると思われます。
いかにひらがなの連続音で聞き取っているとは言っても「てんもう」「かいかい」「そにして」「もらさず」という言葉としての区分については理解していることになります。
その場合には言葉であるという理解でありそのことばとしての意味は瞬間的に同定されていることもあればされていないこともあると思われます。
言葉としての意味は理解できなくとも一つの言葉であろうという推測がなされるのはその言葉だけではなく周りの言葉との関連や全体の理解によるものです。
試しにひらがなの区切りとして「てんも」「うかいか」「いそに」「してもらさず」とでも受け取ってしまっては全く何のことだかわからなくなります。
言葉の要素としては「天も」「迂回か」「磯に」「仕手漏らさず」などのように理解することは出来たとしても、全体として何なのかさっぱりわからないことになります。
ひらがなの連続音として聞きながらも言葉としての要素と全体としての意味を考えながら自分の持っている言葉との同定を行なっていることになります。
その一番の助けになるものがひらがなだけで出来上がっている言葉をつなぐものたちなのです。
助詞や語尾変化や接続詞などによって言葉同士の関係やつながりを理解して全体を理解できるのです。
このつながりによって意味が分からなくとも名詞なのか形容詞なのかなどの言葉としての推測ができることになるからです。
「てんもうかいかい」は漢語読みでありひらがながありませんので推測することがとても難しいことになります。
「疎にして漏らさず」はひらがである「にして」によって「疎」は何らかの状態を表現していることが推測されますし、「漏らさず」によって状態や動きを表している言葉である「漏らす」を否定していることが理解できます。
「てんもうかいかい」は推測できる情報がきわめて少なくなっており、まったく経験としての記憶がない場合には「てんもう、かいかい」なのだか「てんも、うかいかい」「てんもうかい、かい」なのだかすら判断ができません。
したがって、「天網恢恢疎にして漏らさず」を理解してもらいたければひらがなの音としての「てんもうかいかいそにしてもらさず」をしっかり伝えることは勿論ですが、推測できるための情報を伝えてあげることが必要になります。
「天網は恢恢であり疎にして漏らさず」とひらがなを補っただけでどれだけ推測が楽になるでしょうか。
それでも記憶との同定ができなければ「てんもう」「かいかい」は難しいと思われます。
「天網」は「天の網」(てんのあみ)ですがここまでくれば「あみ」は理解できるのではないでしょうか。
「てん」はひらがなの音としては理解がしにくい音読みです。
言い換えてあげることで意味が伝わりやすくなります。
一般的には「そら」とひらがな言葉として読み替えて伝えることの方が理解しやすくならないでしょうか。
「恢恢」(かいかい)は意味を教えてもらうか辞書で調べるかしかないのではないでしょうか。
同定するための記憶にもほとんどないと思われます。
「天網恢恢疎にして漏らさず」を文字として書くことはめったにないと思います。
文字として見ることも決して多いとは言えないでしょう。
それよりも話し言葉として聞くことの方が多いのではないでしょうか。
幾度となく聞く経験をしていることによって結果として「てんもうかいかいそにしてもらさず」を「てんもう」「かいかい」「そにして」「もらさず」として受け止めることができているのです。
場合によっては要素を飛ばして全体として一つの言葉として記憶されることもあると思われます。
記憶として持っている意味が触れるたびに更新されていくことによって音と意味が強固に結びついていくことになります。
音として触れるたびに音と意味の関係については更新されていきますが、文字との結びつきはずっと頻度が低いと思われます。
結果として文字としての「天網恢恢疎にして漏らさず」に出会った時に「てんもうかいかいそにしてもらさず」という音にすぐに結びつかないことが起こります。
見たことのある漢字で読み方が分からないときにおこることですね。
漢字の文字から意味を推測することは可能ですが、言葉としての意味にはなっていないことになります。
文字は言葉としての音を表すための記号ですので、言葉としての意味は音によって結びついているものとなっています。
文字としても意味を持っている漢字は、その文字の意味によって言葉としての意味の理解を妨げていることがあります。
ひらがなの音としての言葉をあらためて意識していきたいですね。
このイベントは必見です!
お早めにどうぞ!
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2015年11月13日金曜日
「ひらがな」の伝え方
このブログの独特の言い方のひとつに「現代やまとことば」があります。
現代日本語でも使用されている「ひらがなことば」のことを指しているものです。
基本的には「やまとことば」と何ら変わるものではありませんが、「やまとことば」と言うと難しい古語的なイメージを持たれてしまいますので、現在使われている新しい「ひらがなことば」も含めて「現代やまとことば」と呼んでいます。
言語については、その成り立ちや習得の過程を見てみればすぐにわかるように音声としての言語が文字としての言語の前にあります。
言語としての感覚は音声によって磨かれていき習得されていくものとなっており、文字による言語はそれを補強するものとなっています。
記憶の中枢に対しても視覚よりも聴覚の感覚の方が近くにありより影響を与えていると考えられています。
何かを覚えようとした時に見て覚えるよりは声や音声で覚えたほうが記憶に残るのはそのためだとも言われています。
したがって言語としての理解においても、基本的な理解は音声において行なわれており文字による理解は音声による理解を補強するものであるということができます。
ところが、日本語には音声を伴わなくとも文字自体が意味を持って視覚だけでも理解できてしまう表意文字としての漢字を多用することが多くあります。
現存する文字のなかで文字自体が意味を持っている表意文字は漢字だけだと言われています。
中国語は漢字だけで表記されていますので完全表意文字の世界となっていますが、日本語の場合は標準の表記が漢字とひらがなの混ざり合った和漢混淆文となっています。
そのために、日本語は助詞や語尾の変化などのひらがなに頼る要素が多くなっており漢字だけでは内容を理解するのが難しい構成になっています。
ほとんどの漢字は名詞や動詞の語幹として使われているために一つひとつの漢字の言葉としての意味は文字から理解できても、その言葉同士の関係や意味のつながりがすべてひらがなによって理解できるものとなっているのです。
さらに、日常生活においても人に何かを伝える場面においては文字よりも話し言葉による伝達方法の方がはるかに頻度が高くなっているのです。
(参照:漢字は日本語の感覚ではない)
つまりは、日常的な言語の使い方は話し言葉によることがほとんどであるためにそのことが当たり前の活動となっています。
あまりにも当たり前の活動となっているためによほどの場面でない限りは話すことに対して意識をすることがありません。
日常会話においては話していること自体を意識してませんので、自分の持ってる言葉によって勝手に会話がつながっていっています。
文字を書く場面においてはどんな場面においても書くことを意識しています。
文字として見てもらうことを意識していますので、話しているときのように自然に自動的に出てくるわけではありません。
ましてや、話すことによってフォローができない手紙や相手が目の前にいない場合には、かなり意識をして理解してもらう書き方をしていることになります。
その分その都度伝えるための工夫が自然に行なわれていることになります。
話し言葉としての日本語はすべてひらがなの連続音として伝わっています。
そのことを理解しておかないと、伝えたいことに対してどの様な受け止め方をされているのかを想像することができなくなります。
ひらがなの連続音とはどんな感覚として伝わっているのでしょうか?
「基本的な問題についての手段が講じられていないと効果を期待できません」ということを伝えたいときに、頭で考えたそのままを言葉にして発信すると相手が受け採っている音は以下のようになります。
「きほんてきなもんだいについてのしゅだんがこうじられていないとこうかをきたいできません」
本来ならば音として伝わった内容を補助するための情報としての文字が、この状態ではかえって分かりにくくしていることにもなります。
もともと抑揚の少ないアクセントの弱い日本語の発音の仕方は、すべてをひらがなとして受け取るときには一段と分かりにくいものであることが理解できるのではないでしょうか。
その時に、私たちは自然と抑揚やアクセントや休止を入れて理解を助けようとしています。
ところが、これらの行為に対しての標準的なパターンがありません。
伝える言葉や内容やあるいは伝える人や方言によっても抑揚やアクセントや休止の使い方が異なるのです。
例文に「こうか」という言葉があります。
「こうか」と言う音に対しての同音異義語がたくさんあることは分かりますが、そこで検討することが可能になるのはひらがなの連続音の中から「こうか」と言う音の塊を把握できた場合に限ります。
「こうか」に続いて「ん」がある場合には「こうかん」として全く違う言葉となりますし、「こう」だけでも違う言葉を検討しなければなりません。
ひらがなの連続音は言葉としての括りとしてどこまでの音を考えればいいのかが分かりにくいのです。
このことを理解したうえで発信している場合と思い浮かんだ言葉を何も考えずにそのまま発信している場合では、相手の理解の容易さにおいて差が出ることになると思われます。
名詞や動詞や形容詞についてはそれが一つの言葉であることが分かるように伝える必要がありますし、助詞や語尾変化のひらがなについてはそれぞれの言葉の関係を理解するのに大切な要素となります。
何処を強調し抑揚をつけてアクセントをつけるのかはその都度の伝えたい内容によって変わってくるものだと思います。
幼児や学生たちの助詞がやたらと強調されるような伝え方は、言葉自体を分かりにくくしていることになります。
理解してもらいやすくする一つの方法として、はっきりと句読点を意識して休止を入れることが挙げられます。
読点の「。」についてはみんなが共通的につける位置が決まっていると思いますので同じ感覚で受け取ることができます。
句点の「、」の使い方は人によってさまざまであり、文章として書かれたものにおいては多すぎればうるさくて読み難いですし少なすぎれば意味をつかみにくくなります。
しかし、話し言葉においては文節単位に休止を入れることの方が理解を助けることになります。
例文で見てみると以下のようになります。
「きほんてきな もんだいについての しゅだんが こうじられていないと こうかを きたいできません」
この空間のところすべてに句点を打ってしまうと見た目にはうるさいものになりますが、話し言葉としてはこのくらいで丁度いいものとなります。
人が一息で普通に発することができる音は12音前後だと言われています。
これを意味とアクセントを考えて定型化したものが七五調として日本語の音の調子の基本となっているものです。
「現代やまとことば」の利用としてできるだけひらがな言葉に置き換えて伝えることは技術的にとても理解を助けることになりますが、音としてのひらがなの連続音をいかにわかり易く言葉として捉えることができるように伝えるかは、相手の理解を得るためのとても大切な要素となります。
話し言葉はひらがなで伝わっていることを理解できるといろいろなことが見えてきますね。
伝わって理解してもらうために発信していることをしっかり確認しておきたいですね。
現代日本語でも使用されている「ひらがなことば」のことを指しているものです。
基本的には「やまとことば」と何ら変わるものではありませんが、「やまとことば」と言うと難しい古語的なイメージを持たれてしまいますので、現在使われている新しい「ひらがなことば」も含めて「現代やまとことば」と呼んでいます。
言語については、その成り立ちや習得の過程を見てみればすぐにわかるように音声としての言語が文字としての言語の前にあります。
言語としての感覚は音声によって磨かれていき習得されていくものとなっており、文字による言語はそれを補強するものとなっています。
記憶の中枢に対しても視覚よりも聴覚の感覚の方が近くにありより影響を与えていると考えられています。
何かを覚えようとした時に見て覚えるよりは声や音声で覚えたほうが記憶に残るのはそのためだとも言われています。
したがって言語としての理解においても、基本的な理解は音声において行なわれており文字による理解は音声による理解を補強するものであるということができます。
ところが、日本語には音声を伴わなくとも文字自体が意味を持って視覚だけでも理解できてしまう表意文字としての漢字を多用することが多くあります。
現存する文字のなかで文字自体が意味を持っている表意文字は漢字だけだと言われています。
中国語は漢字だけで表記されていますので完全表意文字の世界となっていますが、日本語の場合は標準の表記が漢字とひらがなの混ざり合った和漢混淆文となっています。
そのために、日本語は助詞や語尾の変化などのひらがなに頼る要素が多くなっており漢字だけでは内容を理解するのが難しい構成になっています。
ほとんどの漢字は名詞や動詞の語幹として使われているために一つひとつの漢字の言葉としての意味は文字から理解できても、その言葉同士の関係や意味のつながりがすべてひらがなによって理解できるものとなっているのです。
さらに、日常生活においても人に何かを伝える場面においては文字よりも話し言葉による伝達方法の方がはるかに頻度が高くなっているのです。
(参照:漢字は日本語の感覚ではない)
つまりは、日常的な言語の使い方は話し言葉によることがほとんどであるためにそのことが当たり前の活動となっています。
あまりにも当たり前の活動となっているためによほどの場面でない限りは話すことに対して意識をすることがありません。
日常会話においては話していること自体を意識してませんので、自分の持ってる言葉によって勝手に会話がつながっていっています。
文字を書く場面においてはどんな場面においても書くことを意識しています。
文字として見てもらうことを意識していますので、話しているときのように自然に自動的に出てくるわけではありません。
ましてや、話すことによってフォローができない手紙や相手が目の前にいない場合には、かなり意識をして理解してもらう書き方をしていることになります。
その分その都度伝えるための工夫が自然に行なわれていることになります。
話し言葉としての日本語はすべてひらがなの連続音として伝わっています。
そのことを理解しておかないと、伝えたいことに対してどの様な受け止め方をされているのかを想像することができなくなります。
ひらがなの連続音とはどんな感覚として伝わっているのでしょうか?
「基本的な問題についての手段が講じられていないと効果を期待できません」ということを伝えたいときに、頭で考えたそのままを言葉にして発信すると相手が受け採っている音は以下のようになります。
「きほんてきなもんだいについてのしゅだんがこうじられていないとこうかをきたいできません」
本来ならば音として伝わった内容を補助するための情報としての文字が、この状態ではかえって分かりにくくしていることにもなります。
もともと抑揚の少ないアクセントの弱い日本語の発音の仕方は、すべてをひらがなとして受け取るときには一段と分かりにくいものであることが理解できるのではないでしょうか。
その時に、私たちは自然と抑揚やアクセントや休止を入れて理解を助けようとしています。
ところが、これらの行為に対しての標準的なパターンがありません。
伝える言葉や内容やあるいは伝える人や方言によっても抑揚やアクセントや休止の使い方が異なるのです。
例文に「こうか」という言葉があります。
「こうか」と言う音に対しての同音異義語がたくさんあることは分かりますが、そこで検討することが可能になるのはひらがなの連続音の中から「こうか」と言う音の塊を把握できた場合に限ります。
「こうか」に続いて「ん」がある場合には「こうかん」として全く違う言葉となりますし、「こう」だけでも違う言葉を検討しなければなりません。
ひらがなの連続音は言葉としての括りとしてどこまでの音を考えればいいのかが分かりにくいのです。
このことを理解したうえで発信している場合と思い浮かんだ言葉を何も考えずにそのまま発信している場合では、相手の理解の容易さにおいて差が出ることになると思われます。
名詞や動詞や形容詞についてはそれが一つの言葉であることが分かるように伝える必要がありますし、助詞や語尾変化のひらがなについてはそれぞれの言葉の関係を理解するのに大切な要素となります。
何処を強調し抑揚をつけてアクセントをつけるのかはその都度の伝えたい内容によって変わってくるものだと思います。
幼児や学生たちの助詞がやたらと強調されるような伝え方は、言葉自体を分かりにくくしていることになります。
理解してもらいやすくする一つの方法として、はっきりと句読点を意識して休止を入れることが挙げられます。
読点の「。」についてはみんなが共通的につける位置が決まっていると思いますので同じ感覚で受け取ることができます。
句点の「、」の使い方は人によってさまざまであり、文章として書かれたものにおいては多すぎればうるさくて読み難いですし少なすぎれば意味をつかみにくくなります。
しかし、話し言葉においては文節単位に休止を入れることの方が理解を助けることになります。
例文で見てみると以下のようになります。
「きほんてきな もんだいについての しゅだんが こうじられていないと こうかを きたいできません」
この空間のところすべてに句点を打ってしまうと見た目にはうるさいものになりますが、話し言葉としてはこのくらいで丁度いいものとなります。
人が一息で普通に発することができる音は12音前後だと言われています。
これを意味とアクセントを考えて定型化したものが七五調として日本語の音の調子の基本となっているものです。
「現代やまとことば」の利用としてできるだけひらがな言葉に置き換えて伝えることは技術的にとても理解を助けることになりますが、音としてのひらがなの連続音をいかにわかり易く言葉として捉えることができるように伝えるかは、相手の理解を得るためのとても大切な要素となります。
話し言葉はひらがなで伝わっていることを理解できるといろいろなことが見えてきますね。
伝わって理解してもらうために発信していることをしっかり確認しておきたいですね。
2015年10月22日木曜日
カタカナの実用性、ひらがなの芸術性
原本が現存する平安以前の史料はほとんどありません。
その成立は写本によって確認されたか推測されたものばかりになります。
その中でも最も写本の数が多いと思われるものが『古今和歌集』ではないでしょうか。
残っている写本から推測される全体像は本編二十巻に「真名序」「仮名序」を加えたものであろうと言われています。
「切」(きれ)と言われる部分的に残っているものまでを合わせえると三十以上の写本が確認されています。
「切」には句のほんの一部が書かれたちぎれ残った紙の一部や切れ端と思われるものまであります。
写本にはその筆者の名前が書かれていることがほとんどありません。
反対に部分的なメモのようなものには覚えとして日付や写した者の名前がある場合もありますが、全体を写し取ったものと思われる写本には筆者の名を見ることは出来ません。
当時は紙も貴重なものだったと思われますので、手習の練習として使われたと思われるものは裏にメモ書きがあるものがたくさんあります。
書かれている内容によっては表と裏のどちらがメインであるか分からないものもたくさんあるようです。
能書家と呼ばれるような美しい文字を書くことは貴重な能力とされていたようで、様々な史料に能書家による写本が螺鈿などが施された文箱に収められて貴重な贈り物として使われたことが書かれています。
その中でも『古今和歌集』は人気のある評価の高いものであり、小野東風、藤原行成、藤原公任、藤原佐理らの手による写本はたとえ一部であったとしても最高の贈り物として扱われていたようです。
中には紙そのものにも金粉が施されたような写本もあり始めから贈答用として作成されたものもあります。
時代的にはひらがながほぼ現在使われているのと変わらない形になってきており、連綿体と言われるつづき文字として書かれるようになったころです。
これらの写本は書の手本としての役割も大きかったと思われます。
こどもに授ける最高の教育は『古今和歌集』の読み書きと暗唱であったことがさまざまな書物から伺うことができます。
書としてはひらがなの前にカタカナを習ったという記述も残っています。
『堤中納言物語』の「虫めづる姫君」(平安後期成立)には、主人公の少女が和歌を書き記す場面に 「仮名はまだ書き給はざりければ、片かんなに」とあります。
当時仮名の習得がまず片仮名から始められ、 次いで平仮名に進んでいったことがわかるのではないでしょうか。
平仮名が美的鑑賞としての品格を要求されるのに対して、片仮名は実用的であったことを物語っていると思われます。
カタカナの役割は文字としてよりも漢語を読み下す(訓読する)ための訓点などと同じ記号として扱われていたのではないでしょうか。
語尾の変化や助詞を補助的に記入したり、読み仮名として利用したりしているうちに音韻の体系として出来上がっていったと思います。
見た目の美しさを求めて書かれた文字がひらがなであり、音としての仮名の使い方を築いていったのがカタカナであったと思われます。
五十音における母音を軸としたマトリクスとしての考え方はカタカナによって作り上げられてきたものです。
漢語を読み下すための学術記号といった位置付けではなかったかと思われます。
見た目よりも実用性を重視したものと言えると思います。
対してひらがなは見た目の美しさを突き詰めていったものと思われます。
ことばとしての表現技術を磨く場ともなった和歌においては、ひらがなで書くことが基本ルールとして確立されました。
同じ感覚でひらがなが並んだのでは読みにくいものとなってしまいます。
連綿体としてつづき文字にしたり、句の切れ目にあたるところではわざと隙間を開けたりする表記上の技術も進んでいきました。
紙面の隙間との取り合いや、分かち書きなどと言われる技法なども芸術性を求めるところから生まれてきたと言えるでしょう
美しい文字を書けることはそれだけで大変な能力だったわけです。
能書家(手練れ)として名が通るようになると、何を書いても手習の手本として利用されるようになります。
そうはいっても、書くことが求められるものが増えますので好きなことを書くこともできにくくなっていたと思われます。
遣唐使の中止以降は文字としての発展は独自の形で進んでいきますが、技術や科学の分野では圧倒的に中国の文明に頼ることが多くなっています。
そのためには漢語が必要でありカタカナが必要になります。
より高い文化持って渡ってきた帰化人たちとのコミュニケーションも漢語の方が有効であったことでしょう。
日本語を表現することを特に意識した場合でない限りは、先進の分野においてはカタカナが必須の道具であったと思われます。
日常の生活においては「やまとことば」ですので、特に文字を必要とすることはなかったと思われます。
これは現代での生活でも同じではないでしょうか。
何かを記す必要があるときに文字がいるのであって、日常的に文字を必要としている環境は仕事として記録を残すことを行なっている人くらいであったと思われます。
多くの人が文字として一番身近に触れるものが和歌であったと思われます。
和歌が教養としての地位を確固たるものとしていくのは、文字として表記することの美しさを評価するようになったことと無縁ではないと思われます。
筆者が書かれていない写本から筆者を特定する作業はとても大変なことになります。
筆者と思われる人が残した他の史料がないと比較するものがありません。
書き方の癖から特定するしか方法がありません。
したがって写本についてはどうしても「伝紀貫之筆」として紀貫之が書いたと伝えられているという枕詞が付くことになります。
その史料だけを調べてみても特定することは不可能なのです。
まさしく時代考証となるのではないでしょうか。
個性が見えその美しさが評価されるひらがなだから特定することも可能だったのではないでしょうか。
個性が見えにくいカタカナではさらに難しいことになると思われます。
ひらがなは芸術性を求めて発展していきますが、その基盤にはカタカナによる論理的な裏付けが継続されていったのです。
実用的なカタカナによって構築された技術基盤によって、芸術性や見せることに集中することができたのがひらがなだったのではないでしょうか。
カタカナによる基盤の上に開いたのがひらがなによる芸術性ということができると思います。
明治期に一気に新しく世界の先進文明を取り込んだ時に、あたらしい漢字の言葉をたくさん作りました。
明治期の技術開発や研究は漢字カナ交じり文としてカタカナが中心でした。
論理的なことはカタカナが中心でした。
やがて、それなりの文化技術的な基盤が整ってくると、漢字かな交じり文としてひらがなが標準的な表記になっていきます。
ひらがなによる情緒的な芸術的な表現が文学として大きく花開いていきます。
平安期のカタカナとひらがなの関係に似ていませんか。
いままた、カタカナに触れる機会が増えてきているように思われます。
外来語に触れる機会が増えてきているように思われます。
なにか、基盤的なことの再構築が求められているのかもしれませんね。
その成立は写本によって確認されたか推測されたものばかりになります。
その中でも最も写本の数が多いと思われるものが『古今和歌集』ではないでしょうか。
残っている写本から推測される全体像は本編二十巻に「真名序」「仮名序」を加えたものであろうと言われています。
「切」(きれ)と言われる部分的に残っているものまでを合わせえると三十以上の写本が確認されています。
「切」には句のほんの一部が書かれたちぎれ残った紙の一部や切れ端と思われるものまであります。
写本にはその筆者の名前が書かれていることがほとんどありません。
反対に部分的なメモのようなものには覚えとして日付や写した者の名前がある場合もありますが、全体を写し取ったものと思われる写本には筆者の名を見ることは出来ません。
当時は紙も貴重なものだったと思われますので、手習の練習として使われたと思われるものは裏にメモ書きがあるものがたくさんあります。
書かれている内容によっては表と裏のどちらがメインであるか分からないものもたくさんあるようです。
能書家と呼ばれるような美しい文字を書くことは貴重な能力とされていたようで、様々な史料に能書家による写本が螺鈿などが施された文箱に収められて貴重な贈り物として使われたことが書かれています。
その中でも『古今和歌集』は人気のある評価の高いものであり、小野東風、藤原行成、藤原公任、藤原佐理らの手による写本はたとえ一部であったとしても最高の贈り物として扱われていたようです。
中には紙そのものにも金粉が施されたような写本もあり始めから贈答用として作成されたものもあります。
時代的にはひらがながほぼ現在使われているのと変わらない形になってきており、連綿体と言われるつづき文字として書かれるようになったころです。
これらの写本は書の手本としての役割も大きかったと思われます。
こどもに授ける最高の教育は『古今和歌集』の読み書きと暗唱であったことがさまざまな書物から伺うことができます。
書としてはひらがなの前にカタカナを習ったという記述も残っています。
『堤中納言物語』の「虫めづる姫君」(平安後期成立)には、主人公の少女が和歌を書き記す場面に 「仮名はまだ書き給はざりければ、片かんなに」とあります。
当時仮名の習得がまず片仮名から始められ、 次いで平仮名に進んでいったことがわかるのではないでしょうか。
平仮名が美的鑑賞としての品格を要求されるのに対して、片仮名は実用的であったことを物語っていると思われます。
カタカナの役割は文字としてよりも漢語を読み下す(訓読する)ための訓点などと同じ記号として扱われていたのではないでしょうか。
語尾の変化や助詞を補助的に記入したり、読み仮名として利用したりしているうちに音韻の体系として出来上がっていったと思います。
見た目の美しさを求めて書かれた文字がひらがなであり、音としての仮名の使い方を築いていったのがカタカナであったと思われます。
五十音における母音を軸としたマトリクスとしての考え方はカタカナによって作り上げられてきたものです。
漢語を読み下すための学術記号といった位置付けではなかったかと思われます。
見た目よりも実用性を重視したものと言えると思います。
対してひらがなは見た目の美しさを突き詰めていったものと思われます。
ことばとしての表現技術を磨く場ともなった和歌においては、ひらがなで書くことが基本ルールとして確立されました。
同じ感覚でひらがなが並んだのでは読みにくいものとなってしまいます。
連綿体としてつづき文字にしたり、句の切れ目にあたるところではわざと隙間を開けたりする表記上の技術も進んでいきました。
紙面の隙間との取り合いや、分かち書きなどと言われる技法なども芸術性を求めるところから生まれてきたと言えるでしょう
美しい文字を書けることはそれだけで大変な能力だったわけです。
能書家(手練れ)として名が通るようになると、何を書いても手習の手本として利用されるようになります。
そうはいっても、書くことが求められるものが増えますので好きなことを書くこともできにくくなっていたと思われます。
遣唐使の中止以降は文字としての発展は独自の形で進んでいきますが、技術や科学の分野では圧倒的に中国の文明に頼ることが多くなっています。
そのためには漢語が必要でありカタカナが必要になります。
より高い文化持って渡ってきた帰化人たちとのコミュニケーションも漢語の方が有効であったことでしょう。
日本語を表現することを特に意識した場合でない限りは、先進の分野においてはカタカナが必須の道具であったと思われます。
日常の生活においては「やまとことば」ですので、特に文字を必要とすることはなかったと思われます。
これは現代での生活でも同じではないでしょうか。
何かを記す必要があるときに文字がいるのであって、日常的に文字を必要としている環境は仕事として記録を残すことを行なっている人くらいであったと思われます。
多くの人が文字として一番身近に触れるものが和歌であったと思われます。
和歌が教養としての地位を確固たるものとしていくのは、文字として表記することの美しさを評価するようになったことと無縁ではないと思われます。
筆者が書かれていない写本から筆者を特定する作業はとても大変なことになります。
筆者と思われる人が残した他の史料がないと比較するものがありません。
書き方の癖から特定するしか方法がありません。
したがって写本についてはどうしても「伝紀貫之筆」として紀貫之が書いたと伝えられているという枕詞が付くことになります。
その史料だけを調べてみても特定することは不可能なのです。
まさしく時代考証となるのではないでしょうか。
個性が見えその美しさが評価されるひらがなだから特定することも可能だったのではないでしょうか。
個性が見えにくいカタカナではさらに難しいことになると思われます。
ひらがなは芸術性を求めて発展していきますが、その基盤にはカタカナによる論理的な裏付けが継続されていったのです。
実用的なカタカナによって構築された技術基盤によって、芸術性や見せることに集中することができたのがひらがなだったのではないでしょうか。
カタカナによる基盤の上に開いたのがひらがなによる芸術性ということができると思います。
明治期に一気に新しく世界の先進文明を取り込んだ時に、あたらしい漢字の言葉をたくさん作りました。
明治期の技術開発や研究は漢字カナ交じり文としてカタカナが中心でした。
論理的なことはカタカナが中心でした。
やがて、それなりの文化技術的な基盤が整ってくると、漢字かな交じり文としてひらがなが標準的な表記になっていきます。
ひらがなによる情緒的な芸術的な表現が文学として大きく花開いていきます。
平安期のカタカナとひらがなの関係に似ていませんか。
いままた、カタカナに触れる機会が増えてきているように思われます。
外来語に触れる機会が増えてきているように思われます。
なにか、基盤的なことの再構築が求められているのかもしれませんね。
2015年10月19日月曜日
速記から生まれた「カタカナ」?
「カタカナ」を漢字で書くと「片仮名」になります。
元になる漢字(字母)の一部である篇(へん)や旁(つくり)といった片側を利用することから「片仮名」と言うのではないかという意見がありました。
ところが「キ」(幾)、「ク」(久)、「ケ」(介)などは漢字の一部ではなく全体を省略したものとなっています。
実は、カタカナの五十音の半分以上が偏や旁としての一部ではなく、篇や旁としての分解のできない文字の全体を略したものとなっているのです。
確かに字母の篇や旁の一部を使っているものもあるのですが、その数は半分以下でありそれだけを理由に全体に対して「片」とは言えない気がします。
「片」という字をよく調べてみると、「片輪(かたわ)」や「片言(かたこと)」などの例ように、不完全であるとか未熟とかの意味として使われています。
「片仮名」という言い方は「文字としては不完全なもの」として使われたのではないでしょうか。
「片」の反対語にあたるものが「真」になります。
「仮名」という字も「借名」や「仮字」と書かれたこともありました。
「仮名」に対して漢字のことを「真名」と言っていたのは平安期以降のことだと思われます。
「仮名」という言葉が使われた時にそれに対応する言葉として「真名」が生まれたと思われます。
『古今和歌集』における序に、漢字で書かれた「真名序」と仮名で書かれた「仮名序」があることは有名ですね。
「仮名」の使われたかを見るための貴重な史料となっているものです。
紀貫之が中心に編纂したものが『古今和歌集』であり、『土佐日記』などの仮名による表記を広めた一大文化人です。
(参照:紀貫之という天才を見る)
そこに見えるのは現代の「ひらがな」に通じるものであり、「カタカナ」につながるものを見ることは出来ません。
「仮名」においても「真仮名」という呼び方がありました。
「真仮名」=万葉仮名と解釈してもいいと思われます。
のちの「ひらがな」や「カタカナ」のように略されていった字ではなく、字母としての漢字をそのまま使った表記のことを「真仮名」と呼んでいました。
字体としては楷書として一画ずつをきちんと書いた漢字で表記したものを言ったようです。
それでも書き手の癖などがありますので、字体が草体化していき略された形になっていき「ひらがな」となっていきます。
『古今和歌集』が編纂されてころにはすでに字母が分からなくなった「仮名」が存在していたようです。
一般的に「かな」というと「ひらがな」のことを指すと思われます。
「真仮名」(万葉仮名)から始まった仮名は「草仮名」「男手(おとこで)」「女手(おんなで)」などと様々な形になっていきます。
やがては連綿体と言われるつづき文字を書くようになります。
一文字ずつの美しさと共につづき文字としての美しさが評価の対象となるようになります。
とくに「し」の文字はその長さや全体とのバランスにおいて注目される対象となっていきました。
以上のようなこともすべて文学的な表記として用いられた「ひらがな」についてのことです。
「片仮名」はもっぱら平安時代の初めのころに、僧侶たちが仏典の講義を聞きながら訓読を覚えるために利用してきたものと思われます。
真仮名(万葉仮名)としての文字については、宗派や流儀によって若干の字母の違いがあるとは言えほとんど定まっていたことと思われます。
講義を聞いて学ぼうとしても、テキストがあるわけではありません。
必要とあれば自分で書き写すしかありません。
元のテキストそのものが師が持っているものしかないことがほとんどですので、講義はもっぱら口頭で行なわれることになります。
筆記しようとしても真仮名でいちいち書いていたのではとても書ききれるものではありません。
仮に書き写した仏典のテキストがあったとしても、それだけでは訓読ができませんので講義を書きとめる必要があったのです。
初めのうちは誰かが始めた真仮名を意味する記号としての省略形だったと思われます。
その方法の一部は中国から伝わってきた書物にもあったのです。
酉酉(醍醐)、王王(瑠璃)、比巴(琵琶)などは仏書においてもよく見られた省略法です。
テキストの行間やメモとして真仮名を省略してふりがなや速記のように書く方法を採ったのです。
狭い場所に書くことができて字画が少なくて早書きできるものとして行なわれていったと思われます。
やがて、個人的な書き取りに共通性が見られるようになり、省略形としての共通性が求められるようになったのではないでしょうか。
宗派や流派による統一性が現れてくることは自然の流れであったと思われます。
平安初期のその書体には字母も省略の方法も個性豊かなものが多くなっています。
同一人物であっても一音に対して複数の字体を使うこともあります。
初期においては、個人としてのメモの域を出ていない感があります。
「カタカナ」は漢語に触れる必要のある学術分野に携わる人の間で作り上げられた、真仮名を略式表記するための速記記号だったのです。
「ひらがな」は漢語に触れる機会の少ない人たちの間で独立した「やまとことば」を表記する文字としての発展を遂げていきます。
男性はその教養の一部として漢字に対する教養が求められていきますので、仮名としても一画ずつを正確に書く仮名としての「男手(おことで)」が求められます。
それに対して「女手(おんなで)」はますます草体化し元の漢字すらわからないものが増えていくことになります。
和歌は仮名で書くというルールを作り上げたのも紀貫之だと言われています。
「ひらがな」は「いろは」によって手習を覚えることによって、情緒的な表現に向くような環境を整えていきました。
「カタカナ」は学術的な分野において「アイウエオ」という音韻体系を構築して言語のシステムとしての基盤を作っていったのではないでしょうか。
体系がほとんど出来上がってしまった現代においては「ひらがな」「カタカナ」は単なる表記文字としての違いでしかないと思われます。
成り立ちを見てくると面白いですね。
そう思ってみていると、なんとなく女性はカタカナを使うのが苦手なのかなと思ったりしてしまいますね。
元になる漢字(字母)の一部である篇(へん)や旁(つくり)といった片側を利用することから「片仮名」と言うのではないかという意見がありました。
ところが「キ」(幾)、「ク」(久)、「ケ」(介)などは漢字の一部ではなく全体を省略したものとなっています。
実は、カタカナの五十音の半分以上が偏や旁としての一部ではなく、篇や旁としての分解のできない文字の全体を略したものとなっているのです。
確かに字母の篇や旁の一部を使っているものもあるのですが、その数は半分以下でありそれだけを理由に全体に対して「片」とは言えない気がします。
「片」という字をよく調べてみると、「片輪(かたわ)」や「片言(かたこと)」などの例ように、不完全であるとか未熟とかの意味として使われています。
「片仮名」という言い方は「文字としては不完全なもの」として使われたのではないでしょうか。
「片」の反対語にあたるものが「真」になります。
「仮名」という字も「借名」や「仮字」と書かれたこともありました。
「仮名」に対して漢字のことを「真名」と言っていたのは平安期以降のことだと思われます。
「仮名」という言葉が使われた時にそれに対応する言葉として「真名」が生まれたと思われます。
『古今和歌集』における序に、漢字で書かれた「真名序」と仮名で書かれた「仮名序」があることは有名ですね。
「仮名」の使われたかを見るための貴重な史料となっているものです。
紀貫之が中心に編纂したものが『古今和歌集』であり、『土佐日記』などの仮名による表記を広めた一大文化人です。
(参照:紀貫之という天才を見る)
そこに見えるのは現代の「ひらがな」に通じるものであり、「カタカナ」につながるものを見ることは出来ません。
「仮名」においても「真仮名」という呼び方がありました。
「真仮名」=万葉仮名と解釈してもいいと思われます。
のちの「ひらがな」や「カタカナ」のように略されていった字ではなく、字母としての漢字をそのまま使った表記のことを「真仮名」と呼んでいました。
字体としては楷書として一画ずつをきちんと書いた漢字で表記したものを言ったようです。
それでも書き手の癖などがありますので、字体が草体化していき略された形になっていき「ひらがな」となっていきます。
『古今和歌集』が編纂されてころにはすでに字母が分からなくなった「仮名」が存在していたようです。
一般的に「かな」というと「ひらがな」のことを指すと思われます。
「真仮名」(万葉仮名)から始まった仮名は「草仮名」「男手(おとこで)」「女手(おんなで)」などと様々な形になっていきます。
やがては連綿体と言われるつづき文字を書くようになります。
一文字ずつの美しさと共につづき文字としての美しさが評価の対象となるようになります。
とくに「し」の文字はその長さや全体とのバランスにおいて注目される対象となっていきました。
以上のようなこともすべて文学的な表記として用いられた「ひらがな」についてのことです。
「片仮名」はもっぱら平安時代の初めのころに、僧侶たちが仏典の講義を聞きながら訓読を覚えるために利用してきたものと思われます。
真仮名(万葉仮名)としての文字については、宗派や流儀によって若干の字母の違いがあるとは言えほとんど定まっていたことと思われます。
講義を聞いて学ぼうとしても、テキストがあるわけではありません。
必要とあれば自分で書き写すしかありません。
元のテキストそのものが師が持っているものしかないことがほとんどですので、講義はもっぱら口頭で行なわれることになります。
筆記しようとしても真仮名でいちいち書いていたのではとても書ききれるものではありません。
仮に書き写した仏典のテキストがあったとしても、それだけでは訓読ができませんので講義を書きとめる必要があったのです。
初めのうちは誰かが始めた真仮名を意味する記号としての省略形だったと思われます。
その方法の一部は中国から伝わってきた書物にもあったのです。
酉酉(醍醐)、王王(瑠璃)、比巴(琵琶)などは仏書においてもよく見られた省略法です。
テキストの行間やメモとして真仮名を省略してふりがなや速記のように書く方法を採ったのです。
狭い場所に書くことができて字画が少なくて早書きできるものとして行なわれていったと思われます。
やがて、個人的な書き取りに共通性が見られるようになり、省略形としての共通性が求められるようになったのではないでしょうか。
宗派や流派による統一性が現れてくることは自然の流れであったと思われます。
平安初期のその書体には字母も省略の方法も個性豊かなものが多くなっています。
同一人物であっても一音に対して複数の字体を使うこともあります。
初期においては、個人としてのメモの域を出ていない感があります。
「カタカナ」は漢語に触れる必要のある学術分野に携わる人の間で作り上げられた、真仮名を略式表記するための速記記号だったのです。
「ひらがな」は漢語に触れる機会の少ない人たちの間で独立した「やまとことば」を表記する文字としての発展を遂げていきます。
男性はその教養の一部として漢字に対する教養が求められていきますので、仮名としても一画ずつを正確に書く仮名としての「男手(おことで)」が求められます。
それに対して「女手(おんなで)」はますます草体化し元の漢字すらわからないものが増えていくことになります。
和歌は仮名で書くというルールを作り上げたのも紀貫之だと言われています。
「ひらがな」は「いろは」によって手習を覚えることによって、情緒的な表現に向くような環境を整えていきました。
「カタカナ」は学術的な分野において「アイウエオ」という音韻体系を構築して言語のシステムとしての基盤を作っていったのではないでしょうか。
体系がほとんど出来上がってしまった現代においては「ひらがな」「カタカナ」は単なる表記文字としての違いでしかないと思われます。
成り立ちを見てくると面白いですね。
そう思ってみていると、なんとなく女性はカタカナを使うのが苦手なのかなと思ったりしてしまいますね。
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