日本語の基本的な表記方法は漢字とひらがなの混用表記(和漢混交文といいます)になります。
つまりは、一般的な日本語表記のためにはカタカナとアルファベットは使用しなくとも対応ができることになります。
アルファベットはこの文字を使用している言語の感覚をできるだけ原語に近いものとして表現しようとしたり、日本語の感覚の言葉とは異なるものであることを強調するときなどに使用されています。
カタカナも同じような使い方をされていますが、カタカナを使用している言語が日本語以外に存在しているわけではありません。
文字としては日本語にしかない文字ですが、その役割は歴史的な日本語独自の感覚と異なる言葉として強調するときに使われていると思われます。
漫画などでよく使われている擬音などはその一例ではないでしょうか。
日本語のいちばん最初の姿は文字のない音だけのことばでした。
「古代やまとことば」と呼んでいますが、そこに漢語の文化を取り込んできました。
漢語の音は「古代やまとことば」の音と共通するものは少なく日本語の音としての意味を成すものは全くなかったと思われます。
中途半端に音としての共通的な意味を持ったものがなかったことがかえって良かったのかもしれません。
遣隋使や遣唐使を通じて大量の漢語の文化が入ってきましたが、そのほとんどは書物によるものであり直接漢語の音に触れることは稀であったことも「古代やまとことば」に音による侵害がなかった要因と思われます。
漢語の持っている文字としての意味と「古代やまとことば」の持っている音のことばとしての意味が合ったものが、漢字の訓読みとして「古代やまとことば」に文字を与えることになったのではないでしょうか。
したがって、訓読みが与えられなかった漢字や音読みとしての漢字は「古代やまとことば」に充てることができなかった外来語として漢語のまま取り込んできたことになります。
動詞や形容動詞など使われ方によって語尾が変化することが多い日本語の使われ方は、それだけでは意味を持たない音をたくさん必要としています。
それらの音を表記するためには意味を持たない音だけの表音文字を必要としていました。
さらには、漢語に充てることができなかった音だけの「古代やまとことば」も日本独自のことばとして残っていたことでしょう。
それらの音を表記するために漢語を利用した様々な工夫がなされて「ひらがな」ができてきました。
漢字とひらがなによる混合文ができるまでは漢語の翻訳としての漢文訓読体(読み下し文)がそれに近い姿としてありました。
漢字かな混合文になる前の姿の一つということができると思います。
漢文の授業でやった返り点や句読点、オコト点や送り仮名など(総称して訓点という)を振って日本語として読もうとする表記ですね。
そこに使われていたのがカタカナだったことを覚えているでしょうか。
漢文訓読の歴史は意外に古く、一説によれば「論語」「千字文」が百済からもたらされた西暦284年にすでにあったと言われています。
いくらなんでも古すぎると思われますが、遣隋使や遣唐使が多くの書物を持ち込んだ奈良時代後期から平安時代になるといろいろな流派(博士家)による漢文訓読法が残されています。
それぞれの流派に伝わる秘伝的な要素が多かったらしく門外不出の扱いを受けていたものがほとんどでした。
漢字の周りの四隅や真ん中を利用して記号や振り仮名を記して日本語として読むための方法を伝えてきたのです。
したがって、仮名としての存在は「ひらがな」よりはカタカナのほうが先に使われていたと思われます。
しかし、一般的な生活をしている人には漢語を日本語として読み下すことなど必要としていませんでしたから、一握りのエリートたちによってしか使われていなかったと思われます。
一般には「ひらがな」の存在によって初めて女性や子供でも書物に触れることができるようになります。
それでも実際に手にすることができたのは身分の高い限られた人だけでした。
物語として漢字かな混用文が広まるのが平安後期から鎌倉時代にかけてだと思われます。
「源氏物語」はあの時代では世界でも一番長い物語作品であったとされています。
カタカナの使われ方は漢文を日本語として読み下すために作り出された日本語を表す文字記号であるということになります。
「ひらがな」は日本語を日本語として表記するために生み出された文字だということになります。
文字としての漢語を日本語の音として翻訳するために作られた記号(文字)がカタカナであり、音しかなかった日本語の音を記録するために作られた記号(文字)がひらがなであると言い換えることもできます。
一つは漢語という外国語をその文字を生かしながらその先進文化を理解するために日本語の音に訳すために生み出されたものであり、もう一つは音しかなかった日本語「やまとことば」を日本独自の感覚として表記するために文字として生み出されたものとなります。
目的が全く異なっていたことになります。しかし結果としてはどちらの仮名も同じ日本語の音を書き表したものとなっていることになります。
それぞれの仮名は使われている分野や環境もほとんど混ざり合うことがなかったのではないでしょうか。
そのためにそれぞれが独自に日本語の音を表す文字記号を作り出して発展していたことになります。
明治期に作られた古い法律の原文を見たことはあるでしょうか。
漢字とカタカナによって表記されたものです。
国語の教科書も戦前のものは漢字とカタカナによって記されていました。
アルファベットが一般化するまでは文字としての格付けは、漢字>カタカナ>ひらがな であったことを明確に感じることができるのではないでしょうか。
漢字とひらがなによる表記はいわゆる女こどもを対象にしたものとして、あらたまった場面での使用は避けられてきました。
一部の文学的作品に使用されてきただけのものとなっていました。
公式な場面やきちんとした場面では漢字カナの混用文が標準的な表記として用いられてきたのです。
世界の先進文化を取り込んで生き抜いてきた時代には外来語が高い地位を占めていました。
幸か不幸か第二次大戦によって敗戦国となった日本は戦勝国の統治下において結果として日本内部に目を向けることとなりました。
漢字かな表記を標準体としてひらがなが日本語の基本となったのです。
日本語を日本語として表記するための「ひらがな」が本来あるべきポジションにやっと据わったということになります。
感覚的にはひらがなによる表記が一番日本語の感覚を表すのことができるのではないかと思います。
漢字カナで長らく海外文化を取り込んできた日本が、漢字かなによって改めて自国の文化を見つめなおすことができたのではないでしょうか。
役所の文書や記録には漢字カナの表記のものがまだまだたくさん存在しています。
特に公式文書といわれるもののほとんどは漢字カナの表記で保存されていものが多くなっています。
どうやら、漢字カナの表記を漢字かなに替えてみることから始めたらよさそうですね。
昔の厳格な規律や考え方も決して漢字カナの表記と無関係ではないと思います。
漢字かなの表記が漢字カナよりも見た目も実際の伝わり方も優しいのは日本語の持っている感覚そのものではないでしょうか。
カタカナで培ってきた厳格さは本来の日本語が持っている感覚とは少し違っていたのではないでしょうか。
漢語を日本語に見せるという表面的な厳格さではなかったでしょうか。
そして、漢字カナによって厳格に見せることこそが国全体としても教育としても求められていたことだったのではないでしょうか。
ひらがなが日本語表記の基本となってからはすこしずつではありますが日本語の感覚が本来持っていた優しさや心配りといったものに自然と帰っていったのではないでしょうか。
終戦から七十年を超えて漢字かなの感覚も浸透してきていますが過去に学ぶときにはほとんどのものが漢字カナの感覚に触れることになります。
環境や立場によってはまだまだ漢字カナの感覚に慣れ親しんでいる人もたくさんいます。
若い人たちはカタカナの使い方がとても上手なような気がします。
生まれたときから漢字かなの感覚で教育も環境も整っていたからではないでしょうか。
役割の変わってきたカタカナの使い方は若い人たちに教わったほうがいいかもしれないですね。
古いお宅では家の中にも漢字カナの資料がたくさん残っているかもしれませんね。
電報がカタカナから漢字交じりのひらがなになったのはいつからだったでしょうか。
カタカナの使い方。
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2017年11月6日月曜日
2015年10月22日木曜日
カタカナの実用性、ひらがなの芸術性
原本が現存する平安以前の史料はほとんどありません。
その成立は写本によって確認されたか推測されたものばかりになります。
その中でも最も写本の数が多いと思われるものが『古今和歌集』ではないでしょうか。
残っている写本から推測される全体像は本編二十巻に「真名序」「仮名序」を加えたものであろうと言われています。
「切」(きれ)と言われる部分的に残っているものまでを合わせえると三十以上の写本が確認されています。
「切」には句のほんの一部が書かれたちぎれ残った紙の一部や切れ端と思われるものまであります。
写本にはその筆者の名前が書かれていることがほとんどありません。
反対に部分的なメモのようなものには覚えとして日付や写した者の名前がある場合もありますが、全体を写し取ったものと思われる写本には筆者の名を見ることは出来ません。
当時は紙も貴重なものだったと思われますので、手習の練習として使われたと思われるものは裏にメモ書きがあるものがたくさんあります。
書かれている内容によっては表と裏のどちらがメインであるか分からないものもたくさんあるようです。
能書家と呼ばれるような美しい文字を書くことは貴重な能力とされていたようで、様々な史料に能書家による写本が螺鈿などが施された文箱に収められて貴重な贈り物として使われたことが書かれています。
その中でも『古今和歌集』は人気のある評価の高いものであり、小野東風、藤原行成、藤原公任、藤原佐理らの手による写本はたとえ一部であったとしても最高の贈り物として扱われていたようです。
中には紙そのものにも金粉が施されたような写本もあり始めから贈答用として作成されたものもあります。
時代的にはひらがながほぼ現在使われているのと変わらない形になってきており、連綿体と言われるつづき文字として書かれるようになったころです。
これらの写本は書の手本としての役割も大きかったと思われます。
こどもに授ける最高の教育は『古今和歌集』の読み書きと暗唱であったことがさまざまな書物から伺うことができます。
書としてはひらがなの前にカタカナを習ったという記述も残っています。
『堤中納言物語』の「虫めづる姫君」(平安後期成立)には、主人公の少女が和歌を書き記す場面に 「仮名はまだ書き給はざりければ、片かんなに」とあります。
当時仮名の習得がまず片仮名から始められ、 次いで平仮名に進んでいったことがわかるのではないでしょうか。
平仮名が美的鑑賞としての品格を要求されるのに対して、片仮名は実用的であったことを物語っていると思われます。
カタカナの役割は文字としてよりも漢語を読み下す(訓読する)ための訓点などと同じ記号として扱われていたのではないでしょうか。
語尾の変化や助詞を補助的に記入したり、読み仮名として利用したりしているうちに音韻の体系として出来上がっていったと思います。
見た目の美しさを求めて書かれた文字がひらがなであり、音としての仮名の使い方を築いていったのがカタカナであったと思われます。
五十音における母音を軸としたマトリクスとしての考え方はカタカナによって作り上げられてきたものです。
漢語を読み下すための学術記号といった位置付けではなかったかと思われます。
見た目よりも実用性を重視したものと言えると思います。
対してひらがなは見た目の美しさを突き詰めていったものと思われます。
ことばとしての表現技術を磨く場ともなった和歌においては、ひらがなで書くことが基本ルールとして確立されました。
同じ感覚でひらがなが並んだのでは読みにくいものとなってしまいます。
連綿体としてつづき文字にしたり、句の切れ目にあたるところではわざと隙間を開けたりする表記上の技術も進んでいきました。
紙面の隙間との取り合いや、分かち書きなどと言われる技法なども芸術性を求めるところから生まれてきたと言えるでしょう
美しい文字を書けることはそれだけで大変な能力だったわけです。
能書家(手練れ)として名が通るようになると、何を書いても手習の手本として利用されるようになります。
そうはいっても、書くことが求められるものが増えますので好きなことを書くこともできにくくなっていたと思われます。
遣唐使の中止以降は文字としての発展は独自の形で進んでいきますが、技術や科学の分野では圧倒的に中国の文明に頼ることが多くなっています。
そのためには漢語が必要でありカタカナが必要になります。
より高い文化持って渡ってきた帰化人たちとのコミュニケーションも漢語の方が有効であったことでしょう。
日本語を表現することを特に意識した場合でない限りは、先進の分野においてはカタカナが必須の道具であったと思われます。
日常の生活においては「やまとことば」ですので、特に文字を必要とすることはなかったと思われます。
これは現代での生活でも同じではないでしょうか。
何かを記す必要があるときに文字がいるのであって、日常的に文字を必要としている環境は仕事として記録を残すことを行なっている人くらいであったと思われます。
多くの人が文字として一番身近に触れるものが和歌であったと思われます。
和歌が教養としての地位を確固たるものとしていくのは、文字として表記することの美しさを評価するようになったことと無縁ではないと思われます。
筆者が書かれていない写本から筆者を特定する作業はとても大変なことになります。
筆者と思われる人が残した他の史料がないと比較するものがありません。
書き方の癖から特定するしか方法がありません。
したがって写本についてはどうしても「伝紀貫之筆」として紀貫之が書いたと伝えられているという枕詞が付くことになります。
その史料だけを調べてみても特定することは不可能なのです。
まさしく時代考証となるのではないでしょうか。
個性が見えその美しさが評価されるひらがなだから特定することも可能だったのではないでしょうか。
個性が見えにくいカタカナではさらに難しいことになると思われます。
ひらがなは芸術性を求めて発展していきますが、その基盤にはカタカナによる論理的な裏付けが継続されていったのです。
実用的なカタカナによって構築された技術基盤によって、芸術性や見せることに集中することができたのがひらがなだったのではないでしょうか。
カタカナによる基盤の上に開いたのがひらがなによる芸術性ということができると思います。
明治期に一気に新しく世界の先進文明を取り込んだ時に、あたらしい漢字の言葉をたくさん作りました。
明治期の技術開発や研究は漢字カナ交じり文としてカタカナが中心でした。
論理的なことはカタカナが中心でした。
やがて、それなりの文化技術的な基盤が整ってくると、漢字かな交じり文としてひらがなが標準的な表記になっていきます。
ひらがなによる情緒的な芸術的な表現が文学として大きく花開いていきます。
平安期のカタカナとひらがなの関係に似ていませんか。
いままた、カタカナに触れる機会が増えてきているように思われます。
外来語に触れる機会が増えてきているように思われます。
なにか、基盤的なことの再構築が求められているのかもしれませんね。
その成立は写本によって確認されたか推測されたものばかりになります。
その中でも最も写本の数が多いと思われるものが『古今和歌集』ではないでしょうか。
残っている写本から推測される全体像は本編二十巻に「真名序」「仮名序」を加えたものであろうと言われています。
「切」(きれ)と言われる部分的に残っているものまでを合わせえると三十以上の写本が確認されています。
「切」には句のほんの一部が書かれたちぎれ残った紙の一部や切れ端と思われるものまであります。
写本にはその筆者の名前が書かれていることがほとんどありません。
反対に部分的なメモのようなものには覚えとして日付や写した者の名前がある場合もありますが、全体を写し取ったものと思われる写本には筆者の名を見ることは出来ません。
当時は紙も貴重なものだったと思われますので、手習の練習として使われたと思われるものは裏にメモ書きがあるものがたくさんあります。
書かれている内容によっては表と裏のどちらがメインであるか分からないものもたくさんあるようです。
能書家と呼ばれるような美しい文字を書くことは貴重な能力とされていたようで、様々な史料に能書家による写本が螺鈿などが施された文箱に収められて貴重な贈り物として使われたことが書かれています。
その中でも『古今和歌集』は人気のある評価の高いものであり、小野東風、藤原行成、藤原公任、藤原佐理らの手による写本はたとえ一部であったとしても最高の贈り物として扱われていたようです。
中には紙そのものにも金粉が施されたような写本もあり始めから贈答用として作成されたものもあります。
時代的にはひらがながほぼ現在使われているのと変わらない形になってきており、連綿体と言われるつづき文字として書かれるようになったころです。
これらの写本は書の手本としての役割も大きかったと思われます。
こどもに授ける最高の教育は『古今和歌集』の読み書きと暗唱であったことがさまざまな書物から伺うことができます。
書としてはひらがなの前にカタカナを習ったという記述も残っています。
『堤中納言物語』の「虫めづる姫君」(平安後期成立)には、主人公の少女が和歌を書き記す場面に 「仮名はまだ書き給はざりければ、片かんなに」とあります。
当時仮名の習得がまず片仮名から始められ、 次いで平仮名に進んでいったことがわかるのではないでしょうか。
平仮名が美的鑑賞としての品格を要求されるのに対して、片仮名は実用的であったことを物語っていると思われます。
カタカナの役割は文字としてよりも漢語を読み下す(訓読する)ための訓点などと同じ記号として扱われていたのではないでしょうか。
語尾の変化や助詞を補助的に記入したり、読み仮名として利用したりしているうちに音韻の体系として出来上がっていったと思います。
見た目の美しさを求めて書かれた文字がひらがなであり、音としての仮名の使い方を築いていったのがカタカナであったと思われます。
五十音における母音を軸としたマトリクスとしての考え方はカタカナによって作り上げられてきたものです。
漢語を読み下すための学術記号といった位置付けではなかったかと思われます。
見た目よりも実用性を重視したものと言えると思います。
対してひらがなは見た目の美しさを突き詰めていったものと思われます。
ことばとしての表現技術を磨く場ともなった和歌においては、ひらがなで書くことが基本ルールとして確立されました。
同じ感覚でひらがなが並んだのでは読みにくいものとなってしまいます。
連綿体としてつづき文字にしたり、句の切れ目にあたるところではわざと隙間を開けたりする表記上の技術も進んでいきました。
紙面の隙間との取り合いや、分かち書きなどと言われる技法なども芸術性を求めるところから生まれてきたと言えるでしょう
美しい文字を書けることはそれだけで大変な能力だったわけです。
能書家(手練れ)として名が通るようになると、何を書いても手習の手本として利用されるようになります。
そうはいっても、書くことが求められるものが増えますので好きなことを書くこともできにくくなっていたと思われます。
遣唐使の中止以降は文字としての発展は独自の形で進んでいきますが、技術や科学の分野では圧倒的に中国の文明に頼ることが多くなっています。
そのためには漢語が必要でありカタカナが必要になります。
より高い文化持って渡ってきた帰化人たちとのコミュニケーションも漢語の方が有効であったことでしょう。
日本語を表現することを特に意識した場合でない限りは、先進の分野においてはカタカナが必須の道具であったと思われます。
日常の生活においては「やまとことば」ですので、特に文字を必要とすることはなかったと思われます。
これは現代での生活でも同じではないでしょうか。
何かを記す必要があるときに文字がいるのであって、日常的に文字を必要としている環境は仕事として記録を残すことを行なっている人くらいであったと思われます。
多くの人が文字として一番身近に触れるものが和歌であったと思われます。
和歌が教養としての地位を確固たるものとしていくのは、文字として表記することの美しさを評価するようになったことと無縁ではないと思われます。
筆者が書かれていない写本から筆者を特定する作業はとても大変なことになります。
筆者と思われる人が残した他の史料がないと比較するものがありません。
書き方の癖から特定するしか方法がありません。
したがって写本についてはどうしても「伝紀貫之筆」として紀貫之が書いたと伝えられているという枕詞が付くことになります。
その史料だけを調べてみても特定することは不可能なのです。
まさしく時代考証となるのではないでしょうか。
個性が見えその美しさが評価されるひらがなだから特定することも可能だったのではないでしょうか。
個性が見えにくいカタカナではさらに難しいことになると思われます。
ひらがなは芸術性を求めて発展していきますが、その基盤にはカタカナによる論理的な裏付けが継続されていったのです。
実用的なカタカナによって構築された技術基盤によって、芸術性や見せることに集中することができたのがひらがなだったのではないでしょうか。
カタカナによる基盤の上に開いたのがひらがなによる芸術性ということができると思います。
明治期に一気に新しく世界の先進文明を取り込んだ時に、あたらしい漢字の言葉をたくさん作りました。
明治期の技術開発や研究は漢字カナ交じり文としてカタカナが中心でした。
論理的なことはカタカナが中心でした。
やがて、それなりの文化技術的な基盤が整ってくると、漢字かな交じり文としてひらがなが標準的な表記になっていきます。
ひらがなによる情緒的な芸術的な表現が文学として大きく花開いていきます。
平安期のカタカナとひらがなの関係に似ていませんか。
いままた、カタカナに触れる機会が増えてきているように思われます。
外来語に触れる機会が増えてきているように思われます。
なにか、基盤的なことの再構築が求められているのかもしれませんね。
2015年10月19日月曜日
速記から生まれた「カタカナ」?
「カタカナ」を漢字で書くと「片仮名」になります。
元になる漢字(字母)の一部である篇(へん)や旁(つくり)といった片側を利用することから「片仮名」と言うのではないかという意見がありました。
ところが「キ」(幾)、「ク」(久)、「ケ」(介)などは漢字の一部ではなく全体を省略したものとなっています。
実は、カタカナの五十音の半分以上が偏や旁としての一部ではなく、篇や旁としての分解のできない文字の全体を略したものとなっているのです。
確かに字母の篇や旁の一部を使っているものもあるのですが、その数は半分以下でありそれだけを理由に全体に対して「片」とは言えない気がします。
「片」という字をよく調べてみると、「片輪(かたわ)」や「片言(かたこと)」などの例ように、不完全であるとか未熟とかの意味として使われています。
「片仮名」という言い方は「文字としては不完全なもの」として使われたのではないでしょうか。
「片」の反対語にあたるものが「真」になります。
「仮名」という字も「借名」や「仮字」と書かれたこともありました。
「仮名」に対して漢字のことを「真名」と言っていたのは平安期以降のことだと思われます。
「仮名」という言葉が使われた時にそれに対応する言葉として「真名」が生まれたと思われます。
『古今和歌集』における序に、漢字で書かれた「真名序」と仮名で書かれた「仮名序」があることは有名ですね。
「仮名」の使われたかを見るための貴重な史料となっているものです。
紀貫之が中心に編纂したものが『古今和歌集』であり、『土佐日記』などの仮名による表記を広めた一大文化人です。
(参照:紀貫之という天才を見る)
そこに見えるのは現代の「ひらがな」に通じるものであり、「カタカナ」につながるものを見ることは出来ません。
「仮名」においても「真仮名」という呼び方がありました。
「真仮名」=万葉仮名と解釈してもいいと思われます。
のちの「ひらがな」や「カタカナ」のように略されていった字ではなく、字母としての漢字をそのまま使った表記のことを「真仮名」と呼んでいました。
字体としては楷書として一画ずつをきちんと書いた漢字で表記したものを言ったようです。
それでも書き手の癖などがありますので、字体が草体化していき略された形になっていき「ひらがな」となっていきます。
『古今和歌集』が編纂されてころにはすでに字母が分からなくなった「仮名」が存在していたようです。
一般的に「かな」というと「ひらがな」のことを指すと思われます。
「真仮名」(万葉仮名)から始まった仮名は「草仮名」「男手(おとこで)」「女手(おんなで)」などと様々な形になっていきます。
やがては連綿体と言われるつづき文字を書くようになります。
一文字ずつの美しさと共につづき文字としての美しさが評価の対象となるようになります。
とくに「し」の文字はその長さや全体とのバランスにおいて注目される対象となっていきました。
以上のようなこともすべて文学的な表記として用いられた「ひらがな」についてのことです。
「片仮名」はもっぱら平安時代の初めのころに、僧侶たちが仏典の講義を聞きながら訓読を覚えるために利用してきたものと思われます。
真仮名(万葉仮名)としての文字については、宗派や流儀によって若干の字母の違いがあるとは言えほとんど定まっていたことと思われます。
講義を聞いて学ぼうとしても、テキストがあるわけではありません。
必要とあれば自分で書き写すしかありません。
元のテキストそのものが師が持っているものしかないことがほとんどですので、講義はもっぱら口頭で行なわれることになります。
筆記しようとしても真仮名でいちいち書いていたのではとても書ききれるものではありません。
仮に書き写した仏典のテキストがあったとしても、それだけでは訓読ができませんので講義を書きとめる必要があったのです。
初めのうちは誰かが始めた真仮名を意味する記号としての省略形だったと思われます。
その方法の一部は中国から伝わってきた書物にもあったのです。
酉酉(醍醐)、王王(瑠璃)、比巴(琵琶)などは仏書においてもよく見られた省略法です。
テキストの行間やメモとして真仮名を省略してふりがなや速記のように書く方法を採ったのです。
狭い場所に書くことができて字画が少なくて早書きできるものとして行なわれていったと思われます。
やがて、個人的な書き取りに共通性が見られるようになり、省略形としての共通性が求められるようになったのではないでしょうか。
宗派や流派による統一性が現れてくることは自然の流れであったと思われます。
平安初期のその書体には字母も省略の方法も個性豊かなものが多くなっています。
同一人物であっても一音に対して複数の字体を使うこともあります。
初期においては、個人としてのメモの域を出ていない感があります。
「カタカナ」は漢語に触れる必要のある学術分野に携わる人の間で作り上げられた、真仮名を略式表記するための速記記号だったのです。
「ひらがな」は漢語に触れる機会の少ない人たちの間で独立した「やまとことば」を表記する文字としての発展を遂げていきます。
男性はその教養の一部として漢字に対する教養が求められていきますので、仮名としても一画ずつを正確に書く仮名としての「男手(おことで)」が求められます。
それに対して「女手(おんなで)」はますます草体化し元の漢字すらわからないものが増えていくことになります。
和歌は仮名で書くというルールを作り上げたのも紀貫之だと言われています。
「ひらがな」は「いろは」によって手習を覚えることによって、情緒的な表現に向くような環境を整えていきました。
「カタカナ」は学術的な分野において「アイウエオ」という音韻体系を構築して言語のシステムとしての基盤を作っていったのではないでしょうか。
体系がほとんど出来上がってしまった現代においては「ひらがな」「カタカナ」は単なる表記文字としての違いでしかないと思われます。
成り立ちを見てくると面白いですね。
そう思ってみていると、なんとなく女性はカタカナを使うのが苦手なのかなと思ったりしてしまいますね。
元になる漢字(字母)の一部である篇(へん)や旁(つくり)といった片側を利用することから「片仮名」と言うのではないかという意見がありました。
ところが「キ」(幾)、「ク」(久)、「ケ」(介)などは漢字の一部ではなく全体を省略したものとなっています。
実は、カタカナの五十音の半分以上が偏や旁としての一部ではなく、篇や旁としての分解のできない文字の全体を略したものとなっているのです。
確かに字母の篇や旁の一部を使っているものもあるのですが、その数は半分以下でありそれだけを理由に全体に対して「片」とは言えない気がします。
「片」という字をよく調べてみると、「片輪(かたわ)」や「片言(かたこと)」などの例ように、不完全であるとか未熟とかの意味として使われています。
「片仮名」という言い方は「文字としては不完全なもの」として使われたのではないでしょうか。
「片」の反対語にあたるものが「真」になります。
「仮名」という字も「借名」や「仮字」と書かれたこともありました。
「仮名」に対して漢字のことを「真名」と言っていたのは平安期以降のことだと思われます。
「仮名」という言葉が使われた時にそれに対応する言葉として「真名」が生まれたと思われます。
『古今和歌集』における序に、漢字で書かれた「真名序」と仮名で書かれた「仮名序」があることは有名ですね。
「仮名」の使われたかを見るための貴重な史料となっているものです。
紀貫之が中心に編纂したものが『古今和歌集』であり、『土佐日記』などの仮名による表記を広めた一大文化人です。
(参照:紀貫之という天才を見る)
そこに見えるのは現代の「ひらがな」に通じるものであり、「カタカナ」につながるものを見ることは出来ません。
「仮名」においても「真仮名」という呼び方がありました。
「真仮名」=万葉仮名と解釈してもいいと思われます。
のちの「ひらがな」や「カタカナ」のように略されていった字ではなく、字母としての漢字をそのまま使った表記のことを「真仮名」と呼んでいました。
字体としては楷書として一画ずつをきちんと書いた漢字で表記したものを言ったようです。
それでも書き手の癖などがありますので、字体が草体化していき略された形になっていき「ひらがな」となっていきます。
『古今和歌集』が編纂されてころにはすでに字母が分からなくなった「仮名」が存在していたようです。
一般的に「かな」というと「ひらがな」のことを指すと思われます。
「真仮名」(万葉仮名)から始まった仮名は「草仮名」「男手(おとこで)」「女手(おんなで)」などと様々な形になっていきます。
やがては連綿体と言われるつづき文字を書くようになります。
一文字ずつの美しさと共につづき文字としての美しさが評価の対象となるようになります。
とくに「し」の文字はその長さや全体とのバランスにおいて注目される対象となっていきました。
以上のようなこともすべて文学的な表記として用いられた「ひらがな」についてのことです。
「片仮名」はもっぱら平安時代の初めのころに、僧侶たちが仏典の講義を聞きながら訓読を覚えるために利用してきたものと思われます。
真仮名(万葉仮名)としての文字については、宗派や流儀によって若干の字母の違いがあるとは言えほとんど定まっていたことと思われます。
講義を聞いて学ぼうとしても、テキストがあるわけではありません。
必要とあれば自分で書き写すしかありません。
元のテキストそのものが師が持っているものしかないことがほとんどですので、講義はもっぱら口頭で行なわれることになります。
筆記しようとしても真仮名でいちいち書いていたのではとても書ききれるものではありません。
仮に書き写した仏典のテキストがあったとしても、それだけでは訓読ができませんので講義を書きとめる必要があったのです。
初めのうちは誰かが始めた真仮名を意味する記号としての省略形だったと思われます。
その方法の一部は中国から伝わってきた書物にもあったのです。
酉酉(醍醐)、王王(瑠璃)、比巴(琵琶)などは仏書においてもよく見られた省略法です。
テキストの行間やメモとして真仮名を省略してふりがなや速記のように書く方法を採ったのです。
狭い場所に書くことができて字画が少なくて早書きできるものとして行なわれていったと思われます。
やがて、個人的な書き取りに共通性が見られるようになり、省略形としての共通性が求められるようになったのではないでしょうか。
宗派や流派による統一性が現れてくることは自然の流れであったと思われます。
平安初期のその書体には字母も省略の方法も個性豊かなものが多くなっています。
同一人物であっても一音に対して複数の字体を使うこともあります。
初期においては、個人としてのメモの域を出ていない感があります。
「カタカナ」は漢語に触れる必要のある学術分野に携わる人の間で作り上げられた、真仮名を略式表記するための速記記号だったのです。
「ひらがな」は漢語に触れる機会の少ない人たちの間で独立した「やまとことば」を表記する文字としての発展を遂げていきます。
男性はその教養の一部として漢字に対する教養が求められていきますので、仮名としても一画ずつを正確に書く仮名としての「男手(おことで)」が求められます。
それに対して「女手(おんなで)」はますます草体化し元の漢字すらわからないものが増えていくことになります。
和歌は仮名で書くというルールを作り上げたのも紀貫之だと言われています。
「ひらがな」は「いろは」によって手習を覚えることによって、情緒的な表現に向くような環境を整えていきました。
「カタカナ」は学術的な分野において「アイウエオ」という音韻体系を構築して言語のシステムとしての基盤を作っていったのではないでしょうか。
体系がほとんど出来上がってしまった現代においては「ひらがな」「カタカナ」は単なる表記文字としての違いでしかないと思われます。
成り立ちを見てくると面白いですね。
そう思ってみていると、なんとなく女性はカタカナを使うのが苦手なのかなと思ったりしてしまいますね。
2015年10月15日木曜日
カタカナの役割
現存している言語の中でも複数の文字を持っている言語は決して多くありません。
身近なところでは韓国におけるハングルと漢字が挙げられると思います。
その中でも「ひらがな」と「カタカナ」と言う全く同じ体系を持つ二種類の文字を持つ言語は、おそらく日本語だけだと思われます。
日本語においてはどんな言葉であっても必ずこの二種類の文字で表記することができます。
音韻の体系も全く同じものとなっているから可能となっていることです。
どうしてこのように同じ機能を持った二種類の文字が存在することが起きたのでしょうか。
普通に考えれば、「仮名」としての機能を持った存在はどちらか一方だけで十分に成り立っていたはずです。
使用目的として共通しない分野で存在し続けていかない限り、どこかで共通化や統一化の傾向があったはずです。
「仮名」を使用する場面が共通であったとしたらどちらか一方に集約されていることの方が自然ではないでしょうか。
あるいは、双方のいいとこどりによって融合された一種類の文字になっていたとしてもなんら不思議ではないと思われます。
それにもかかわらず、単に形の違う全く同じ音韻体系を持った文字として「ひらがな」と「カタカナ」の二種類が存在し続けているのです。
どうやら、「ひらがな」と「カタカナ」では使われる場面にかなり明確な違いがあったと思われます。
それが明治以降に一緒に使用される場面が増えてきたのではないでしょうか。
「ひらがな」は「いろは」によって身につけてきたものであり、その代表的な使用舞台は和歌であり女性やこどもの日常ことばとして定着していきました。
日常語を表した文字であり物語としても『竹取物語』以降の仮名物語によって広まっていったと思われます。
いわゆる情緒的な文学的な表現のための文字として利用されてきたものだと言えます。
一方、「カタカナ」は漢語と切り離すことができない文字でした。
漢語を「やまとことば」として理解する和訳(倭訳)に欠かすことのできない記号です。
漢語で何かを学ぼうとするときには「カタカナ」を抜きにしては不可能なほどにその技術が高められていきました。
漢語は政(まつりごと)における公文書であると同時に、学問としての仏教に欠かすことのできないものでした。
その担い手は、学問においても政においてもエリートたちの必須であったと思われます。
そのために「アイウエオ」としての五十音表の完成を見るまでのその痕跡はすべて「カタカナ」になっているのです。
日常的な言葉と和歌を代表とする情緒的な表現分野においては「ひらがな」が表記文字として定着していきます。
そこでは「カタカナ」に生涯触れることがなかったようなこともあったっと思われます。
「カタカナ」は漢語を手本とする学術分野である仏教を中心とした専門分野における学術記号的な発展をしてきたと思われます。
そこには文字のなかった「古代やまとことば」に漢語を利用してどのような文字を当てはめたら良いのかという言語学的な研究として「悉曇学」も大きな要素として存在していたと思われます。
(参照:「悉曇学」と日本語)
「古代やまとことば」の音を情緒的に表す文字としての「ひらがな」の発展と並行しながら、音を表す文字としての音韻体系や使用のための規則性などを研究していったのが「カタカナ」だったのではないでしょうか。
したがって、一般的に見た観点からは「カタカナ」は学術的な専門用語と映っていたのではないでしょうか。
漢語という外国語を和語に翻訳する時点の途中過程の技術と言った方がいいのかもしれません。
感覚としては外来語といったものに近いのではないでしょうか。
時代が移るにしたがって専門用語も一般化していくものが多くなります。
やがて、「悉曇学」で扱われたもともとはサンスクリット語の言葉である「かわら(瓦)」や「だんな(檀那:旦那)」が広く使われるようになり、「古代やまとことば」の次の段階としての新しい「やまとことば」となって「ひらがな」化していったのではないかと思われます。
現代では、もはや「古代やまとことば」との見分けはほとんど困難に近いものとなっているのではないでしょうか。
「ひらがな」の基本は「いろは」であり、「カタカナ」の基本は「アイウエオ」だったのです。
それぞれが活躍する分野・環境が棲み分けされていたのではないでしょうか。
それでも、学術的に体系化された「カタカナ」の技術は、日々の言葉の使い方として広まっていくことによって更に簡略化されていったと思われます。
日本語の辞書として初めて「アイウエオ」順で編纂されたものが『言海』です。
その成立は大槻文彦によって明治24年(1891年)に全巻完成となっています。
その時までの辞書はすべてが「いろは」順で編集されたものです。
『言海』に対して、不便で検索しにくいと言ったのは福沢諭吉でした。
ところが使い始めてみればすぐにわかったのです。
五十音表は縦の母音「アイウエオ」の五段と横の「アカサタナハマヤラワ」の十行から成り立っています。
「いろは」では検索したい言葉の最初の音を探すのに「いろはにほへとちり・・・」と最初からずっとすべての音をたどって順番を見つけなければなりません。
「アイウエオ」では「アカサタナ・・・」ではるかに早くその音に行き着くことができるのです。
マトリクスとしての五十音表の効果がここにもあります。
現代の和漢混淆文(漢字かな交じり文)での表記の主体は「ひらがな」です。
「カタカナ」に出くわすとなんとなく外来語か専門用語かといったニュアンスがあるのではないでしょうか。
その感覚はとても自然なものだと思われます。
つまりは「カタカナ」で表記していること自体が「やまとことば」になっていないことの証なのではないでしょうか。
漢和辞典を見てみてください。
音読みも訓読みも書いてありますよね。
音読みは「カタカナ」ですし、訓読みは「ひらがな」です。
その漢字を音読みとして使っている場合には、日本語(やまとことば)になっていない言葉であることと等しいのではないでしょうか。
「カタカナ」のまま消えていく言葉もたくさんあったのではないでしょうか。
「カタカナ」のまま残った言葉もあるでしょう。
日本固有の料理だと思っている人もいるかもしれませんが、「てんぷら」は外来語です。
「天麩羅」という文字を充てたのは「悉曇学」による成果です。
恐らくは「テンプラ」と書かれていた時代もあったはずです、それでも今は「てんぷら」として日本語になっています。
現代の「やまとことば」と言えるのではないでしょうか。
同じ言葉であっても「ひらがな」で書くことによって情緒的に伝わります、気持ちとして心情的にわかり易い言葉となっていると思われます。
「カタカナ」で書くと固く冷たいイメージとして伝わります、どこかの専門用語的な感覚として思われるのではないでしょうか。
今使われている「ひらがな」ことばが「古代やまとことば」であったかどうかは確認が難しくなっています。
仮にそうであったとしても、時代を経てきたことばの揺れによって正確な確認は難しいと思われます。
外来語 → 漢字 → カタカナ → ひらがな、これが日本語として定着していく基本形でだったのではないでしょうか。
現代では、「仮名」たちのおかげで外来語 → カタカナと直接的にできるようになっていると思われます。
更には、アルファベットという過程も存在していると思われます。
漢字の草体化によって情緒的な文字としての美しさや和歌を表記する文字として発達してきた「ひらがな」は、「カタカナ」によってその規則性や機能性を作り上げられ検証されてきたものだったのです。
日本語としての音韻体系や仮名としての文字体系がほとんど確立されたものなっている現在では、思いもつかない「カタカナ」の役割だったのではないでしょうか。
今はもう、その役割を終えているのでしょうか。
二つの仮名はいろんなことを想像させてくれますね。
身近なところでは韓国におけるハングルと漢字が挙げられると思います。
その中でも「ひらがな」と「カタカナ」と言う全く同じ体系を持つ二種類の文字を持つ言語は、おそらく日本語だけだと思われます。
日本語においてはどんな言葉であっても必ずこの二種類の文字で表記することができます。
音韻の体系も全く同じものとなっているから可能となっていることです。
どうしてこのように同じ機能を持った二種類の文字が存在することが起きたのでしょうか。
普通に考えれば、「仮名」としての機能を持った存在はどちらか一方だけで十分に成り立っていたはずです。
使用目的として共通しない分野で存在し続けていかない限り、どこかで共通化や統一化の傾向があったはずです。
「仮名」を使用する場面が共通であったとしたらどちらか一方に集約されていることの方が自然ではないでしょうか。
あるいは、双方のいいとこどりによって融合された一種類の文字になっていたとしてもなんら不思議ではないと思われます。
それにもかかわらず、単に形の違う全く同じ音韻体系を持った文字として「ひらがな」と「カタカナ」の二種類が存在し続けているのです。
どうやら、「ひらがな」と「カタカナ」では使われる場面にかなり明確な違いがあったと思われます。
それが明治以降に一緒に使用される場面が増えてきたのではないでしょうか。
「ひらがな」は「いろは」によって身につけてきたものであり、その代表的な使用舞台は和歌であり女性やこどもの日常ことばとして定着していきました。
日常語を表した文字であり物語としても『竹取物語』以降の仮名物語によって広まっていったと思われます。
いわゆる情緒的な文学的な表現のための文字として利用されてきたものだと言えます。
一方、「カタカナ」は漢語と切り離すことができない文字でした。
漢語を「やまとことば」として理解する和訳(倭訳)に欠かすことのできない記号です。
漢語で何かを学ぼうとするときには「カタカナ」を抜きにしては不可能なほどにその技術が高められていきました。
漢語は政(まつりごと)における公文書であると同時に、学問としての仏教に欠かすことのできないものでした。
その担い手は、学問においても政においてもエリートたちの必須であったと思われます。
そのために「アイウエオ」としての五十音表の完成を見るまでのその痕跡はすべて「カタカナ」になっているのです。
日常的な言葉と和歌を代表とする情緒的な表現分野においては「ひらがな」が表記文字として定着していきます。
そこでは「カタカナ」に生涯触れることがなかったようなこともあったっと思われます。
「カタカナ」は漢語を手本とする学術分野である仏教を中心とした専門分野における学術記号的な発展をしてきたと思われます。
そこには文字のなかった「古代やまとことば」に漢語を利用してどのような文字を当てはめたら良いのかという言語学的な研究として「悉曇学」も大きな要素として存在していたと思われます。
(参照:「悉曇学」と日本語)
「古代やまとことば」の音を情緒的に表す文字としての「ひらがな」の発展と並行しながら、音を表す文字としての音韻体系や使用のための規則性などを研究していったのが「カタカナ」だったのではないでしょうか。
したがって、一般的に見た観点からは「カタカナ」は学術的な専門用語と映っていたのではないでしょうか。
漢語という外国語を和語に翻訳する時点の途中過程の技術と言った方がいいのかもしれません。
感覚としては外来語といったものに近いのではないでしょうか。
時代が移るにしたがって専門用語も一般化していくものが多くなります。
やがて、「悉曇学」で扱われたもともとはサンスクリット語の言葉である「かわら(瓦)」や「だんな(檀那:旦那)」が広く使われるようになり、「古代やまとことば」の次の段階としての新しい「やまとことば」となって「ひらがな」化していったのではないかと思われます。
現代では、もはや「古代やまとことば」との見分けはほとんど困難に近いものとなっているのではないでしょうか。
「ひらがな」の基本は「いろは」であり、「カタカナ」の基本は「アイウエオ」だったのです。
それぞれが活躍する分野・環境が棲み分けされていたのではないでしょうか。
それでも、学術的に体系化された「カタカナ」の技術は、日々の言葉の使い方として広まっていくことによって更に簡略化されていったと思われます。
日本語の辞書として初めて「アイウエオ」順で編纂されたものが『言海』です。
その成立は大槻文彦によって明治24年(1891年)に全巻完成となっています。
その時までの辞書はすべてが「いろは」順で編集されたものです。
『言海』に対して、不便で検索しにくいと言ったのは福沢諭吉でした。
ところが使い始めてみればすぐにわかったのです。
五十音表は縦の母音「アイウエオ」の五段と横の「アカサタナハマヤラワ」の十行から成り立っています。
「いろは」では検索したい言葉の最初の音を探すのに「いろはにほへとちり・・・」と最初からずっとすべての音をたどって順番を見つけなければなりません。
「アイウエオ」では「アカサタナ・・・」ではるかに早くその音に行き着くことができるのです。
マトリクスとしての五十音表の効果がここにもあります。
現代の和漢混淆文(漢字かな交じり文)での表記の主体は「ひらがな」です。
「カタカナ」に出くわすとなんとなく外来語か専門用語かといったニュアンスがあるのではないでしょうか。
その感覚はとても自然なものだと思われます。
つまりは「カタカナ」で表記していること自体が「やまとことば」になっていないことの証なのではないでしょうか。
漢和辞典を見てみてください。
音読みも訓読みも書いてありますよね。
音読みは「カタカナ」ですし、訓読みは「ひらがな」です。
その漢字を音読みとして使っている場合には、日本語(やまとことば)になっていない言葉であることと等しいのではないでしょうか。
「カタカナ」のまま消えていく言葉もたくさんあったのではないでしょうか。
「カタカナ」のまま残った言葉もあるでしょう。
日本固有の料理だと思っている人もいるかもしれませんが、「てんぷら」は外来語です。
「天麩羅」という文字を充てたのは「悉曇学」による成果です。
恐らくは「テンプラ」と書かれていた時代もあったはずです、それでも今は「てんぷら」として日本語になっています。
現代の「やまとことば」と言えるのではないでしょうか。
同じ言葉であっても「ひらがな」で書くことによって情緒的に伝わります、気持ちとして心情的にわかり易い言葉となっていると思われます。
「カタカナ」で書くと固く冷たいイメージとして伝わります、どこかの専門用語的な感覚として思われるのではないでしょうか。
今使われている「ひらがな」ことばが「古代やまとことば」であったかどうかは確認が難しくなっています。
仮にそうであったとしても、時代を経てきたことばの揺れによって正確な確認は難しいと思われます。
外来語 → 漢字 → カタカナ → ひらがな、これが日本語として定着していく基本形でだったのではないでしょうか。
現代では、「仮名」たちのおかげで外来語 → カタカナと直接的にできるようになっていると思われます。
更には、アルファベットという過程も存在していると思われます。
漢字の草体化によって情緒的な文字としての美しさや和歌を表記する文字として発達してきた「ひらがな」は、「カタカナ」によってその規則性や機能性を作り上げられ検証されてきたものだったのです。
日本語としての音韻体系や仮名としての文字体系がほとんど確立されたものなっている現在では、思いもつかない「カタカナ」の役割だったのではないでしょうか。
今はもう、その役割を終えているのでしょうか。
二つの仮名はいろんなことを想像させてくれますね。
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