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2017年11月6日月曜日

カタカナの役割の変化

日本語の基本的な表記方法は漢字とひらがなの混用表記(和漢混交文といいます)になります。

つまりは、一般的な日本語表記のためにはカタカナとアルファベットは使用しなくとも対応ができることになります。


アルファベットはこの文字を使用している言語の感覚をできるだけ原語に近いものとして表現しようとしたり、日本語の感覚の言葉とは異なるものであることを強調するときなどに使用されています。

カタカナも同じような使い方をされていますが、カタカナを使用している言語が日本語以外に存在しているわけではありません。
文字としては日本語にしかない文字ですが、その役割は歴史的な日本語独自の感覚と異なる言葉として強調するときに使われていると思われます。

漫画などでよく使われている擬音などはその一例ではないでしょうか。


日本語のいちばん最初の姿は文字のない音だけのことばでした。
「古代やまとことば」と呼んでいますが、そこに漢語の文化を取り込んできました。

漢語の音は「古代やまとことば」の音と共通するものは少なく日本語の音としての意味を成すものは全くなかったと思われます。
中途半端に音としての共通的な意味を持ったものがなかったことがかえって良かったのかもしれません。

遣隋使や遣唐使を通じて大量の漢語の文化が入ってきましたが、そのほとんどは書物によるものであり直接漢語の音に触れることは稀であったことも「古代やまとことば」に音による侵害がなかった要因と思われます。


漢語の持っている文字としての意味と「古代やまとことば」の持っている音のことばとしての意味が合ったものが、漢字の訓読みとして「古代やまとことば」に文字を与えることになったのではないでしょうか。
したがって、訓読みが与えられなかった漢字や音読みとしての漢字は「古代やまとことば」に充てることができなかった外来語として漢語のまま取り込んできたことになります。

動詞や形容動詞など使われ方によって語尾が変化することが多い日本語の使われ方は、それだけでは意味を持たない音をたくさん必要としています。
それらの音を表記するためには意味を持たない音だけの表音文字を必要としていました。

さらには、漢語に充てることができなかった音だけの「古代やまとことば」も日本独自のことばとして残っていたことでしょう。
それらの音を表記するために漢語を利用した様々な工夫がなされて「ひらがな」ができてきました。


漢字とひらがなによる混合文ができるまでは漢語の翻訳としての漢文訓読体(読み下し文)がそれに近い姿としてありました。
漢字かな混合文になる前の姿の一つということができると思います。
漢文の授業でやった返り点や句読点、オコト点や送り仮名など(総称して訓点という)を振って日本語として読もうとする表記ですね。

そこに使われていたのがカタカナだったことを覚えているでしょうか。


漢文訓読の歴史は意外に古く、一説によれば「論語」「千字文」が百済からもたらされた西暦284年にすでにあったと言われています。
いくらなんでも古すぎると思われますが、遣隋使や遣唐使が多くの書物を持ち込んだ奈良時代後期から平安時代になるといろいろな流派(博士家)による漢文訓読法が残されています。

それぞれの流派に伝わる秘伝的な要素が多かったらしく門外不出の扱いを受けていたものがほとんどでした。


漢字の周りの四隅や真ん中を利用して記号や振り仮名を記して日本語として読むための方法を伝えてきたのです。
したがって、仮名としての存在は「ひらがな」よりはカタカナのほうが先に使われていたと思われます。

しかし、一般的な生活をしている人には漢語を日本語として読み下すことなど必要としていませんでしたから、一握りのエリートたちによってしか使われていなかったと思われます。


一般には「ひらがな」の存在によって初めて女性や子供でも書物に触れることができるようになります。
それでも実際に手にすることができたのは身分の高い限られた人だけでした。

物語として漢字かな混用文が広まるのが平安後期から鎌倉時代にかけてだと思われます。
「源氏物語」はあの時代では世界でも一番長い物語作品であったとされています。


カタカナの使われ方は漢文を日本語として読み下すために作り出された日本語を表す文字記号であるということになります。
「ひらがな」は日本語を日本語として表記するために生み出された文字だということになります。

文字としての漢語を日本語の音として翻訳するために作られた記号(文字)がカタカナであり、音しかなかった日本語の音を記録するために作られた記号(文字)がひらがなであると言い換えることもできます。

一つは漢語という外国語をその文字を生かしながらその先進文化を理解するために日本語の音に訳すために生み出されたものであり、もう一つは音しかなかった日本語「やまとことば」を日本独自の感覚として表記するために文字として生み出されたものとなります。

目的が全く異なっていたことになります。しかし結果としてはどちらの仮名も同じ日本語の音を書き表したものとなっていることになります。

それぞれの仮名は使われている分野や環境もほとんど混ざり合うことがなかったのではないでしょうか。
そのためにそれぞれが独自に日本語の音を表す文字記号を作り出して発展していたことになります。


明治期に作られた古い法律の原文を見たことはあるでしょうか。
漢字とカタカナによって表記されたものです。

国語の教科書も戦前のものは漢字とカタカナによって記されていました。
アルファベットが一般化するまでは文字としての格付けは、漢字>カタカナ>ひらがな であったことを明確に感じることができるのではないでしょうか。

漢字とひらがなによる表記はいわゆる女こどもを対象にしたものとして、あらたまった場面での使用は避けられてきました。
一部の文学的作品に使用されてきただけのものとなっていました。
公式な場面やきちんとした場面では漢字カナの混用文が標準的な表記として用いられてきたのです。


世界の先進文化を取り込んで生き抜いてきた時代には外来語が高い地位を占めていました。
幸か不幸か第二次大戦によって敗戦国となった日本は戦勝国の統治下において結果として日本内部に目を向けることとなりました。
漢字かな表記を標準体としてひらがなが日本語の基本となったのです。

日本語を日本語として表記するための「ひらがな」が本来あるべきポジションにやっと据わったということになります。
感覚的にはひらがなによる表記が一番日本語の感覚を表すのことができるのではないかと思います。

漢字カナで長らく海外文化を取り込んできた日本が、漢字かなによって改めて自国の文化を見つめなおすことができたのではないでしょうか。


役所の文書や記録には漢字カナの表記のものがまだまだたくさん存在しています。
特に公式文書といわれるもののほとんどは漢字カナの表記で保存されていものが多くなっています。

どうやら、漢字カナの表記を漢字かなに替えてみることから始めたらよさそうですね。

昔の厳格な規律や考え方も決して漢字カナの表記と無関係ではないと思います。
漢字かなの表記が漢字カナよりも見た目も実際の伝わり方も優しいのは日本語の持っている感覚そのものではないでしょうか。

カタカナで培ってきた厳格さは本来の日本語が持っている感覚とは少し違っていたのではないでしょうか。
漢語を日本語に見せるという表面的な厳格さではなかったでしょうか。
そして、漢字カナによって厳格に見せることこそが国全体としても教育としても求められていたことだったのではないでしょうか。

ひらがなが日本語表記の基本となってからはすこしずつではありますが日本語の感覚が本来持っていた優しさや心配りといったものに自然と帰っていったのではないでしょうか。


終戦から七十年を超えて漢字かなの感覚も浸透してきていますが過去に学ぶときにはほとんどのものが漢字カナの感覚に触れることになります。
環境や立場によってはまだまだ漢字カナの感覚に慣れ親しんでいる人もたくさんいます。

若い人たちはカタカナの使い方がとても上手なような気がします。
生まれたときから漢字かなの感覚で教育も環境も整っていたからではないでしょうか。
役割の変わってきたカタカナの使い方は若い人たちに教わったほうがいいかもしれないですね。

古いお宅では家の中にも漢字カナの資料がたくさん残っているかもしれませんね。
電報がカタカナから漢字交じりのひらがなになったのはいつからだったでしょうか。

カタカナの使い方。
ほんのちょっとだけ気にしてみませんか?


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2015年10月16日金曜日

『古事記』も悩んだ日本語表記

『古事記』の原本が残っているわけではありません。

その写本と思われるものが残っているだけです。

同年代と思われるその他の史料(出土品や木簡、中国の史料など)と比較することによって成立年代を推測しているのにほかなりません。


まさかこの『古事記』の序文に日本語を文字で表記することの難しさが書かれているとは思いもしませんでした。

正確な年代は特定されていませんが、『古事記』の成立は平城京の成立(710年)の直後の数年のうちではないかと思われています。

この序には和銅五年正月とありますのでそれを信じれば712年ということになります。

遣隋使の始まりが600年頃であり630年頃からは遣唐使が盛んになっていたころです。

唐の都であった長安や北魏の洛陽城を模して作られたのが平城京と言われています。

漢語に対する馴染みも浸透してきている頃ということができると思います。


このころには帰化人を初めとする人を含めた文化の交流がかなりなされていたと思われます。

文字を持たない「古代やまとことば」で生活をしていた環境に、圧倒的な文明が漢語という体系だった文字を持った言語を伴ってやってきたのです。

漢語同士のコミュニケーションもかなりあったのではないでしょうか。

その中で「悉曇学」として漢語の音を利用した翻訳の経験を持つ帰化人たちの技術を利用した「古代やまとことば」を表記するための文字の模索が行なわれていたのではないでしょうか。
(参照:「悉曇学」と日本語


『古事記』の成立は、「古代やまとことば」を漢語を利用して表記するための技術がそれなりに広まってきたことによって可能になったものではないでしょうか。

『古事記』の表記は、その時点での日本語表記の集大成であったと思われます。

その『古事記』の序は、おそらくは筆者と言われる太安万侶によって書かれたと思われます。

そこには、漢語を利用して「古代やまとことば」(倭語)を表記することの難しさが書かれているのです。


その中には、現代の私たちにとっても見慣れた文字がいくつもあります。

その中の象徴的な文字(言葉)として漢語を利用して表記するときの「音」と「訓」があるのです。

『古事記』が書かれたときにすでに漢語の「音」と「訓」を利用して「古代やまとことば」を表記する試みが行なわれていたことになります。


こんなことが突然起こるわけはありません。

初めて漢語に触れて以来、文字を持たない原始日本語である「古代やまとことば」を表記するための文字の模索が延々と続けられてきたことがうかがえます。

『古事記』の序の一部を記しておきます。



字として表すことの難しさを嘆いている部分になります。

全てを(字)訓で書き表したのでは十分に意味を伝えきれない、かといって(字)音ばかりを連ねればさらに文章が長いものになって冗漫となってしまうと言っています。

そのために安万侶は言葉(一句)を表記する場合に、漢語を音字として使用すること(音)と意字として使用すること(訓)の両方を併用して使いました。

それでも、ある事柄を書く場合にはまず第一に言葉の意味を重んじて、表意的な方法(訓)を用いました。


冒頭近くにある文において、音と訓の使い方を見ることができると思います。



最初の次にから始まる一節目はすべて訓によって書かれています。

二節目になると、一音一文字の音による表記となっているのが分かるのではないでしょうか。

次の赤い部分の神様の名前についても一音一文字の音の利用によって表記されていますが、同じ神様の名前であってもその次の名前(天之常立)については訓を利用して表記されているのです。


「仮名」が成り立つためには、すべての言葉が一音一文字で書かれることが必要になります。

更に、その音に対して使われる文字の種類が限定されていくことによって初めて「仮名」の姿が見えてくることになるのではないでしょうか。


『古事記』の試みは音として持っていた「古代やまとことば」を漢語使って書き表してみる公式の試みであったのではないでしょうか。

それまでは漢語で書かれたものを「古代やまとことば」に翻訳する試みがずっとなされていたと思われます。

それは漢語の意図するところをいかに「古代やまとことば」に置き換えるかという模索でした。

いわゆる漢語の読み下しという行為であり、漢語で書かれた文字に対して「古代やまとことば」として適した言葉を充てるという訓読みを作ってきたということではないでしょうか。


太安万侶が試みた訓読みを利用した漢語による表記は、その文字と訓読みとしての「古代やまとことば」が定着してなければ不可能なことだったと思われます。

そして、意味は分からなくとも漢語の音は文字によって理解できるという状態が出来上がっていないと、他の言葉を表記するための文字として使用することは出来ないと思われます。

『古事記』が書かれるまでの間に漢語についてのかなりの修練がなされていたことを想像させるものだと思われます。


訓は漢語の持っている文字としての成り立ちや意味を利用したものとなります。

漢語を構成している漢字が文字としての意味を持っている表意文字だったから可能なことだったと思われます。

一方、一音一文字としての表現のためには、文字が意味を持っていることが邪魔になります。

漢字の持っている表音としての機能だけを利用することになります。


両方を使って表記された「古代やまとことば」は、たとえ「ことば」を分かっていたとしても書かれた文字と「ことば」が簡単には結び付かないものであったと思われます。

書かれたものだけを見たら訓で読んだらよいのか音で読んだらよいのかの規則性が見つけられないからです。


当時とほとんど同じ漢字を使って同じ音を使っている現代の私たちが、『古事記』をすんなり読んで理解できないのはこのことがあるからです。

仮に音として読めたとしても、読めた「ことば」が存在していたかどうかが分からないこともありますが、音としてどのように読むのか(音か訓か)を決める基準が見当たらないことが読解を難しくしていることだと思います。


『古事記』は「古代やまとことば」を文字として表現しようとした公的な初めての試みとして捉えることができるのではないでしょうか。

じっくりお付き合いをしてみたいものですね。



2015年1月24日土曜日

これも「きく」です

「きく」という動詞を漢字で書いて挙げてくださいと言われたら、いくつ書けますか。

PCの日本語変換でも五つは出てくると思います。

その中で、いわゆる聞くとは正反対の意味の「きく」があることに気づかけれたでしょうか。


そうです、「訊く」の音は「きく」ですが、その意味するところは、話すことになります。

訊問などという熟語でもよく使われますね。

他の「きく」である、聞く、聴く、利く、効くには少なくとも、正反対の話すという意味は含まれていません。


「訊く」はもう一つの音読みとして「たずねる(訊ねる)」という音を持っています。

まさしく言葉を持って、相手に話しかけることです。

なぜこのような「きく」があるのでしょうか。


「きく」の音そのものは、かなり基本的な動作を表す言葉であり、「古代やまとことば」にもあった言葉だと思われます。

その頃に使われていた「きく」の感覚は、のちに漢字で表現されるようになった時に、聞く、聴くなどにより具体化して細分化されていったのだと思われます。

もともとも「きく」が持っていた感覚が、具体化されたものが漢字の訓読み動詞の五つの「きく」だと思われます。


現在では「きく」というと、一般的には「聞く」を意味します。

少し意思を込めた凝った見方をした時に「聴く」が出てくる程度ではないでしょうか。

「利く」や「効く」は熟語としては頻繁に登場しますが、「きく」という音に対してはなかなか思い浮かばない漢字です。

ましてや、ほぼ正反対のことを意味する「訊く」は簡単には思い浮かびません。


「古代やまとことば」における音としての「きく」は、今の私たちが漢字で表現できる「きく」のすべての内容を含んでいたものと考えられます。

これらの五つの漢字を眺めた時に、目的としてどんな行為を思い浮かべることができるでしょうか。

ヒントになるのは、「利く」「効く」「訊く」の三つですね。


現代訓読み漢字で同じ音を持つ者は、もともとは一つの言葉として共通する感覚を持っていたものであると思われます。

そう考えると「きく」という動作は、どの漢字を見ても相手のことを理解しようとする行為であることが分かります。

五つの漢字で表せた行為をすることによって、相手を理解することが「きく」と言う行為であったのではないでしょうか。


「古代やまとことば」のなかでも基本的な動作を示す言葉は、ほとんどの場合同じようなことが言えそうです。

「かく」という動作があります。

漢字を使って書き出してみると、「書く」「描く」「画く」「掻く」「欠く」などが出てきます。

ここでのヒントは、最後の二つですね。

最初の三つは、「かく」対象によって具体的な使い分けをしたものですが、最後の二つについては行為そのものが異なっていますね。


「古代やまとことば」としての「かく」という基本動作を示す動詞には、「掻く」や「欠く」の感覚までを含んだものとなっていたことが伺えます。

漢字の音読みを使った熟語では、同音異義語をあつめてもあまり面白いものにはなりませんが、訓読み漢字で動詞になっているものの同音語を集めると、その音が本来持っていた感覚を知る手掛かりになるようです。

日本語がもとから持っている感覚を知るきっかけになるといいですね。