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2017年7月31日月曜日

日本語習得の難しさの原因

他の言語話者から見たときに日本語の習得の難しさを表した例えに以下のようなものがあります。

母語話者同士で会話している内容を理解するのに、その言語の単語をどれだけ知っていたら話している内容を理解できるのかというものです。

もちろん音としてはきちんと聞き取れることが前提となります。

会話している内容の90%以上を理解するために必要な単語の数が言語別に調査されたものがあります。
  • フランス語・・・  2,000語
  • 英語   ・・・  3,000語
  • 日本語  ・・・10,000語 
日本語の母語話者同士の会話を理解するためにはとんでもない数の単語を覚えなくてはならないことになります。

しかも、日本語の場合は同じようなことを表すのにもたくさんの単語が存在するだけではなく同音異義語の多さがさらに理解の難しさに拍車をかけていることになります。


世界的に見たときに習得するのが難しい言語の筆頭は、中国語と日本語だと言われています。

どちらにも共通するのは漢字という、それだけで意味を表している文字を持っていることです。

漢字は現代に残された唯一の表意文字だと言われています。

他の言語の文字がそれだけは意味を持たない音(発音)を表す文字である表音文字であることから考えると、それだけでも漢字という表意文字を持った日本語や中国語には抵抗感があることが考えられます。


日本語の習得の難しさの原因は、漢字の存在と一般的に使用されている単語だけでもとんでもない数があることです。

日常的に使用されている漢字の数だけでも2,000を超えており、さらにこれらの漢字が熟語として様々な組み合わせで存在しています。

中国語においては小学校で習得しなければならない漢字の数だけでも4,000を超えています。

中国語は漢字だけを習得すればいいのですが日本語の場合は一つの漢字であっても音読み訓読みなどの複数の音を持ったものが多いために実際の漢字の数の数倍の言葉を覚えることになります。


中国語の音の基本は一文字一音ですがその音の数は36個の母音と21個の子音の組み合わせで400以上の音を使い分けなければなりません。

英語の持っている音数が1,000以上あると言われていますので、それでも多いほうだとは言えないのかもしれません。

日本語の音の数は68音しかありません。
きわめて音数の少ない言語であるということができますので発音そのものはけっして難しいものではありません。
(参照:日本語の音

しかし、少ない音数でたくさんの言葉を持っていますので同音異義語がたくさん存在しているために文字としての漢字によって意味の特定をせざるを得ないものとなっています。

特に同音異義語の温床となっているのが漢字の音読みです。

音読みとして「コウショウ」と読む熟語は、交渉、鉱床、厚相、考証、工廠、興商,公証など48個も存在しており、音だけから意味を特定することはほとんど不可能といってもよいでしょう。


日本語と中国語を除く言語がすべて話し言葉の音を理解の基準としてしてるのに対して、日本語と中国語は音としての曖昧さや伝わりにくさを文字にすることで理解することを基準としているのです。

他の言語が話すことでよりしっかりとした理解ができることにに対して日本語と中国語は文字として書くことでより正確な理解へとむすびつけるものとなっているのです。

中国語は独特のアクセントである声調までをカウントするとどれだけの音を持っているのかわからないくらいたくさんの音が存在しています。

それは、音だけで言葉を特定できることに結びついていることです。

日本語は音だけでは特定できない言葉がたくさん存在しているのです。

それを特定するためには漢字という文字で表現するかその言葉が使われる独特の表現方法や環境を再現しなければならないことになります。


同じ漢字を使いながらも中国語は基本的には一文字一音です。

そのためにとんでもなくたくさんの音を必要としていますので、他の言語話者にはその音の区別が非常に難しくなっているのです。


日本語の音には二種類の音が存在しています。

音としての言葉が意味を表している場合と音は文字を特定する手段であり文字が言葉としての意味を表している場合とがあります。

漢字を例にとってみれば、訓読みは音が日本語としての意味を持った「ことば」であり、音読みは日本語としては意味のない音のために意味を理解するためには文字としての漢字の意味を知らなければなりません。

訓読みは日本独自の言葉の音ですが音読みは漢語として導入された時期の中国語の読み方ということができます。

主には呉(呉音)、唐(唐音)、漢(漢音)の時代の音が使われており現代中国語の音ともかなり異なったものとなっています。

それも68音しかないない日本語の音でしか表現されませんのでさらに現代中国語の音からは離れたものとなっています。


二種類の音の存在は音で言葉を理解することに慣れている他の言語話者にとってはとても厄介なことになります。

日常的に慣れている音を確認することによって意味を理解するという行為が通じない部分があることになるからです。

すべての音が通じないのであれば簡単に割り切りもできると思われますが、一部には音で理解する言葉も存在していることがかえって面倒なことになっているのです。


二種類の音が存在する原因ははっきりしています。

漢語が導入される前から存在していた話し言葉だけの日本語が基本語として現在にまで継承されてきているからです。

これが日本語の根幹をなしている「ことば」であり「やまとことば」として継承されてきたものです。

漢語が導入されてからはこの「やまとことば」を書き表すための記号として利用されました。

ひらがなとして形を変えて定着していくまでの歴史は万葉仮名に始まる古書で確認していくことができます。


また、漢語による文化の導入として漢語でなければ理解できないものも存在していました。

その典型が仏教であり律令になります。

日本には存在していなかったものですからそのための言葉を持っていなかったものです。

そのためにこの分野では漢語の読み方そのものが利用されていったのです。

この読み方が音読みとして定着していくことになり、日本語としては意味を持たない音ですので文字から意味を理解するための研究が重ねられていったのです。


つまりは、音として理解できる言葉は「やまとことば」につながる日本独自の言葉であり、音として理解できない言葉は外来語として漢字によって取り込んだものとだということができるのです。

日本語が元から持っていた「やまとことば」は音だけで存在していました。

その言葉を表記するために漢字を利用して、そこからからひらがなを生み出しました。

文字として書いたときに平仮名でしか表記できない言葉がありますが、これこそ「やまとことば」が継承されてきているものなのです。


漢字に充てられた訓読みは、「やまとことば」が持っている意味と近いことやその一部を漢字があらわしている場合に与えられたものです。

音しか持たない「やまとことば」を文字としての意味を持った漢字で補足してくれるものとなっています。


特に開国以降の外国の先進文明への対応は歴史的に中国文化を取り込んだ漢語という経験が生かされたのではないでしょうか。

漢字を駆使して様々な言葉を生み出し翻訳していったのです。

その結果生まれたのが音としては意味を持っていない大量の音読み漢字による言葉たちになります。

原語の持っているニュアンスを漢字という文字によって表現し文字によって理解していったのです。

やがてこれらの言葉は漢字の本家である中国に逆輸入されて近代文明の発展に貢献することになります。


明治期以降に大量に生み出された新しい日本語のほとんどが音読み漢字によるものだったことが現代日本語をさらに習得の難しいものとしていったのです。

言葉は生き物ですから常に生まれては消えていきます。

しかし、その文明の基本として存在している言葉は長い年月を経過しても基本語としてその言語の根幹をなしていきます。

日本語は「やまとことば」(ひらがなことば)を根幹としながら、世界のあらゆる最先端文明を漢字によって取り込んでいった言語となっているのです。


文字のなかった時代には当時の世界最先端文明の中国文明を取り込み、明治期に開国してからは時の世界最先端文明のヨーロッパ文明を取り込み、大戦後は最先端文明としてアメリカ文明を取り込んできたのです。

特筆すべきはどの段階においても決して植民地化や侵略によって強制的に行なわれたことではなく、自らの意志によって自らの言葉で取り込んできたことです。

時代時代の世界の最先端文明に触れながらも侵略的な影響を受けなかった言語はありません。

極端な場合には伝統的に継承していた言語までもが侵略されて征服されてしまって、オリジナルの言語を失ってしまった例は数えきれないほどあります。


日本語習得の難しさの原因の大きなものは、日本語の原点であり基本語である「やまとことば」が世界のあらゆる言語との共通性を持たない日本独自の孤児的な存在だからではないでしょうか。

日本語を母語とするものが日本語習得の難しを考えることは、直接的な難しをを実体験できないだけにどんなにやってみても想像の域を出ないことになります。

他の母語話者の友人の話を参考にしながらであっても、自分の母語の習得の難しさを考えることは自然に自国文化を振り返ることになります。

文化を比較することにもつながっていくのではないでしょうか。

相手の文化を知ることの方が先なのかもしれないですね。


・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。

・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。

2016年7月20日水曜日

漢字に壊された?日本語の感覚。

日本語は四種類の文字と一種類の音を持った言語です。
(参照:四種の文字と一種の音

表記する文字を四種類(漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベット)も持った言語は他には見当たりません。

複数の表記文字を持った言語は韓国語のように(漢字、ハングル)たまに見かけることはありますが、すべての文字が日常的に混在して表記されているような言語は日本語だけではないでしょうか。


四種類もの文字を日常的に使いまわしながらも同じ言葉に対して四種類の文字表記が可能である言葉がほとんどを占めている日本語は、他の言語話者から見たらとんでもなくややこしい言語と映るに違いないと思います。

もし私の母語が一種類の表記文字と一種類の音でできているものだとしたら日本語は触れたくない言語の最右翼だと思います。


こんなにややこしい言語ではありますが、生まれた時から母語として無意識のうちに身につけてきた私たちにとっては当たり前のように使いこなしているものとなっています。

日常的に無意識のうちに使用しているコミュニケーションのツールについて言語としてのややこしさなど感じることはないのではないでしょうか。

日本語だけの環境の中で生活している限りにおいては言語のことを考える機会すらないのかもしれません。


義務教育で英語という他の言語に触れた時に日本語よりもはるかに単純な言語であるにもかかわらず難しさを感じたのは、日本語というとんでもなくややこしい言語が当たり前の標準的なものとして身についてしまっていたことの証ではないでしょうか。

英語が世界の共通語としての地位を確保し続けているのは、経済的軍事的な影響力やラテン語という極めて裾野の広い言語を源流としているだけでなく言語としてのシンプルさにも要因があるのではないかと思っています。


さて、日本語の中でも四種類の表示文字のうちその文字だけでは完全な形で日本語を表記できない文字があります。

言葉の音としての日本語をすべて表記できるのは、ひらがな、カタカナ、アルファベット(ローマ字)の三種類であり、漢字だけでは日常的に誰もが読める表記はできません。

これは日本語が持っている音が「ひらがなの音」であるために、ひらがなとカタカナは当然のこと音に対応した表記のローマ字も完全表記が可能となっているのです。

しかし、漢字はひらがなの音に対応した文字になっていません。

「夜露死苦」(よろしく)のように当て字表記はできたとしても万人が共通して理解して日常的に使用できる文字とはなっていません。


文字が登場する以前に話し言葉だけで存在していた言語があったことは歴史が物語っています。

日本にも「古代やまとことば」として文字を持たなかった言語が存在していたことが確認されています。

「ことだま」(言霊)と呼ばれるように日本語は「ことば」の音によって、その感覚や意味を共有し継承してきた言語です。(参照:言語と「ことだま」

それが漢語の導入によって文字による理解へと大きく変化していったのです。

それは形あるものとして具体的で理解しやすいものでした。


すぐに漢語による文化導入と表記方法を取り入れていきました。

しかし、そこには現実的に存在していた話し言葉だけの「古代やまとことば」とは大きな感覚的な隔たりがあったことが想像できます。

そうでなければあれほど便利な意味を持った文字である漢語から、意味を持たない音だけを表す仮名を大変な思いをして生み出す必要はなかったと思われるからです。

漢語が導入された当初の勅撰の書物は漢詩集でした。

勅撰漢詩集は三代で終わりを告げ、その後は「古今和歌集」に始まる和歌集に取って代わられていきます。(参照:原始日本語はなぜ残ったか?

和歌は万葉集に見るように漢語導入以前より唄として広く存在していたものです。

漢語に傾いていた表記方法を追いやるようにひらがな表記がどんどんと出てくるようになります。


公式文書においては漢字を使用することは中国に隷属する国としての立場上仕方のないことです。

漢字は文字自体が意味を持っていることで記録化するためにはもってこいの機能を持ったものです。

それにもかかわらず、文字を持たなかった言語である「古代やまとことば」を駆逐しきることができなかったのです。

「古代やまとことば」の音と「ことば」がそれほど浸透し定着していたことをうかがわせるのではないでしょうか。


その結果、鎌倉時代頃より漢字とかなの混用表記が多く見られるようになります。

両方のいいとこ取りとも言えますしどちらの感覚も中途半端ということもできるのではないでしょうか。

日本語の感覚という観点から見れば漢字(特に音読みの音)によって元の「古代やまとことば」の感覚が伝わりにくくなったと言えます。

音としての「ことば」に替わって文字としての意味が前面に出るようになったのです。

しかもその意味の構造が形から極めて分かりやすいものとなっているので理解するためにはとても便利なものなのです。


明治期にはこの漢字の造語力を利用して非常にたくさんの新しいことばが生まれました。

今現在、私たちが使っている漢字のほとんどはこの時に生み出された漢字だと言えるでしょう。

これ以降、一般的にも漢字かな混用表記が広がるようになり音としての「ことば」よりも文字としての「言葉」の方が重要視されるようになりました。


音読み漢字の熟語を理解する時に私たちはどのように行なっているでしょうか?

「開閉」(かいへい)という熟議があります。二文字とも音読みです。

この熟語を理解する時には「開く(ひらく)ことと閉じる(とじる)こと」としていませんか。

これは文字が持っている意味を動作にして「やまとことば」にした音が「ひらく」であり「とじる」であるということです。


日本語が持っている音は漢語の導入前から変わることなく「ひらがなの音」だけなのです。

この音が日本語の感覚を作っている「ことば」なのです。

この「ひらがなの音」が意味を持った音だったのです。


文字としての「開閉」を見ただけで意味としては理解できますので「ひらく」も「とじる」も音として表現することはないと思われます。

音としては「かいへい」というひらがなの音ですが、これは「ことば」としては意味を持たない音なのです。


言語の伝達は文字によるものよりも話し言葉によるものの方がはるかに多いものとなっています。

その割合は80%とも言われています。

音として意味のない漢字の音読みによって伝達しても日本語の感覚としては伝わり難いものとなっていると思われます。


一般的な情報は視覚によるものが80%程度と言われていますが、言語の場合は同じようにいかないのですね。

目に見えることによって理解できる漢字は視覚に訴えることが多い現代においてはとても便利なものです。

しかし、言語は最終的には音によって感覚とともに理解するものであるようです。


日常的な感覚では漢字がメインでありひらがなが漢字を補っているように映っているのではないでしょうか。

それは文字としての言語情報に慣れすぎてしまった弊害かもしれませんね。

日本語の感覚は音としての「ことば」にこそ籠っているもののようです。


日本語の感覚としての原点である「ひらがなの音」を視覚的な意味として漢字が補っていると考えたほうが良いようです。

その意味では表記したときにも話したときにも同じ感覚として受け取ることができる訓読み漢字こそ和漢融合の傑作と言えるものかもしれないですね。

音読み漢字は日本語の感覚から外れた外来語として扱った方が分かりやすいかもしれません。


もともと漢語自体が日本語から見たら外来語だったことになります。

その漢語から日本語を表記するために生み出したものが仮名です。

さらに、もともと日本語が持っていた「ことば」に文字として持っている漢字の意味に近いものを充てたものが訓読み漢字ということになります。

そこには送り仮名まで生み出して便利な漢字を利用していたのですね。

訓読み漢字は文字としての意味を漢語から拝借した表記を使った「やまとことば」ということができます。


音読み漢字は外来語ですが訓読み漢字は「やまとことば」であると言えるのではないでしょうか。

表記としてたまたま漢語としての漢字の意味を借用したものと言えると思います。

同じ文字であったとしても音読みと訓読みがあることで同じ文字でも読んで意味のある音になるのかならないのかが分かれることになります。

見た目が同じだけに紛らわしいものですね。


音読み漢字の意味を考えているときはその漢字の訓読みをイメージしているのではないでしょうか。

訓読みとしての音を持っていなかったり思い浮かばなかった時に、部首などの文字の構成から意味するところを想像しているものと思われます。

慣れ親しんでいる漢字においては訓読みや「やまとことば」としての置き換えが省略されて、直接的に意味を理解できるようになっているということなのかもしれません。


音読み漢字がしっくりと来るのは専門用語や固有名詞として使用される場合ではないでしょうか。

ある種、外来語と同じ使い方になると思います。

その意味をしっかりと伝えるためには、日本語としての「ことば」で表現しなおす必要があるものと思われます。

文字が使えない口頭だけの環境においては覚えておきたいことですね。


便利な文字である漢字にも日本語の感覚にとっては功罪がありそうです。

特に話し言葉として使用するときには文字としての情報がないだけに漢字の使い方に気を付けたいものです。

訓読み漢字には「ことだま」が生きているのに、音読み漢字には関係のないものになっているということなんですね。



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2016年1月22日金曜日

漢字とひらがなのいいとこ取り

日本語の標準的な表記方法は漢字とひらがなの混ざり合ったもの(和漢混淆文:かわんこんこうぶん)となっています。

これは漢字だけで表現する場合(中国語がこれです)とひらがなだけで表現する場合とを比較した時にどのような効果があるのでしょうか。

漢字を使用する言語は中国語を代表としていくつか存在していますが、ひらがなを使用する言語は世界の言語の中でも日本語だけです。

両方で表現できることが日本語をより特徴つけているということができるのではないでしょうか。



それ以外にも日常的にカタカナやアルファベットによる表記も行なわれていますが、これらについては擬音や固有名詞を表す場合が多く行動を表すための動詞としての使い方はほとんどありません。


若者たちがカタカナやアルファベットに加えて「〇〇する」といった動詞的な使い方をすることをあったとしても、もとからの表記がカタカナやアルファベットでなされた動詞は見ることができません。

その意味で、必ず動詞が必要となる日本語の一般的な文章においては漢字とひらがなによる表記方法が標準的なものであるということができると思われます。


文字としての漢字はひらがなが開発される以前に漢語として存在いたものです。

というよりも、ひらがなは漢語を用いて文字のなかった時代から存在していた話し言葉を表記するために編み出されたものと言った方が適切かもしれません。


文字のなかった時代にも、話し言葉によることばは数多く存在しておりそれが「やまとことば」の原型であると思われます。

文字を持たなかったころの原始日本語という位置付けになると思われます。

文字のない話し言葉 → 漢語の導入 → ひらがなの開発 と言う順番で表記方法が出来上がってきたことになります。


まずは漢字(漢語)からその特徴を見ていってみましょう。

漢字は現代で使用されている唯一の表意文字だと言われたいます。

文字そのものが意味を持ったものですので、その成り立ちは象形文字として始まったものと言われています。

近年の研究では表意文字という言い方からより現実に即したより正確な言い方として表語文字という言い方もされるようになってきました。


いずれにしてもその成り立ちは象形文字ですので、形として存在する物や目に見えて形として表現できるものしか文字にできなかったことになります。

つまりは、かなり具象度の高い現実の形を伴ったものしか文字として表現できなかったと思われます。


やがては、その文字を象徴化したりして篇や旁として共通的な意味を持たせて組み合わせて新しい意味を持たせる文字を編み出していくことになります。

しかし、もとになっている文字がきわめて具体的なものであるためにその文字を含むことによってその関連性を示すものを表現する方法を身につけていったのです。

どの文字を見てみてもその一部あるいは文字自体がかなり具体的なものを表したものが含まれていることになり、その文字に持たせた意味はその文字の構成で理解できるものとなっているのが漢字です。


物だけではなく、人や動物の基本的な動作として象徴的に絵として描けるものは動詞として表現できてきたものと思われます。

誰が見てもそのような動作をしているという形から文字になった基本的な漢字の動詞が多く存在しています。


しかし、抽象度が高くなったり複雑さが高くなって単純な形として描けなかったり一目見て何をしているのかわからないような絵は文字にはなりませんでした。

漢字は具体的な目に見えて形として捉えることができる物や行為を表現することが得意でした。


それに対して文字を持たない話し言葉は具体的な形として表すことができない物や行為を表現することにおいてもより自由度がありました。

とくに、自分や人の気持ちや感じ方や意味はなくとも音としての表現の方が伝わりやすいこともあったと思われます。

相対的に漢字が具体的な物や事を表現するのに適しているのに対して、話し言葉は抽象度の高い形として表現することが難しいことを表すのに適しているということができます。


もともと抽象度の低かった漢字に新しい考え方に基づく言葉を沢山付け加えたのが明治維新です。

西洋文明の進んだ新しい言葉をひたす漢字に置き換えていきました。

哲学、文学、芸術、革命、権利、統計、共和、など抽象度の高い言葉が次々に生まれてきました。

これらは、海を渡って和製漢語として漢語の本国にも多大な影響を与えました。
(参照:輸出された日本漢字

漢語の本家である中国の国名の「中華人民共和国」の「中華」以外の言葉が和製漢語であることは有名な話となっています。


漢語を導入した日本語は、次のステップとして漢語の音を利用することによって話し言葉だけで表現してきた言葉たちを書き表すためのひらがなを生み出していったのです。

日本語がもともと持っていたものは漢字で表現できることよりもひらがなで表現できることの方がたくさんあったということができると思います。

そして漢字と言う表現手法を身につけてさらに多くの表現をできるようになっていったと思われます。


「かく」という動作は文字のなかったころにも話し言葉の基本語として使われていたことばだと思われます。

漢字が導入されたことによってその文字の持っている具体的な内容が「かく」に当たっていることから、「書く」「描く」「画く」「掻く」「欠く」などが使われるようになり「かく」と読ませるようになっていったと思われます。


時代を経て漢字としての使われ方が減っていったものもあります。

人が何かを話す「いう」という行為は、かつては「言う」以外にも「謂う」「云う」などが使われていました。

とくに「言う」は神に対してことばを発するときにしか使うことができなかった神聖な文字だと言われています。

現在ではすべてを「言う」でカバーしてしまっているのではないでしょうか。

その意味では、数千年を経て文字としての「言う」と話しことばとしての「いう」が一体化されたということができるのかもしれません。


漢字とひらがなの表記の違いは文字として記したときに始めて効果が表れるものです。

どんなに漢字を意識していたとしても話し言葉で表現している場合にはひらがなの音としてしか伝わらないのが日本語です。
(参照:「ひらがな」でしか伝わらない日本語

本人は「書く」を意味しているつもりでも伝わっているのは「かく」であり、相手は「かく」で理解しているのか「描く」で理解しているのかは分からないのです。

ましてや行為としての「かく」だけではなく「各」や「核」などの理解の仕方もあることになります。


世界の言語の中でも複数の表記方法を持った言語はほとんど見ることができません。

しかも、この場合は漢字でなければならないとかひらがなでなければならないというルールはないのです。

漢文的な素養があれば、漢字だけでもひらがなだけでも同じことを表現することが可能なのです。


こんなことを意識して漢字とひらがなの使い分けを行なっている人はほとんどいないと思います。

意識しなくとも感覚的に勝手に行なっているのです。

知らない人から見たらとんでもない能力だと思います。


漢字が存在する言葉であるのに漢字で書けないと恥かしいという思いを持つことがありませんか。

あえてひらがなで書かれている言葉を見た時に、こんな漢字も知らないのかと思うことがありませんか。

表記方法として漢字がひらがなよりも上位にあることを感覚として埋め込まれてしまっているのですね。

漢字とひらがなの書き分けのルールはないのです。

それぞれの思いで使い分けして構わないのです。


同じ文章の同じ言葉が漢字とひらがなで書き分けられていたらそこには何らかの意図を感じませんか?

話すことと書くことの一番の違いは漢字とひらがなの受け取り方が違うことです。

せっかく持っている表現方法をうまく生かしていきたいですね。







2015年9月17日木曜日

文字と言葉(4)

文字から離れてみよう

3回にわたって「文字と言葉」について見てきました。

そこでは文字は言葉につなぐための記号であることを確認してきました。

そして「言葉」という漢字が「ことば」につなぐための記号であることを見つけてきました。
(参照:文字と言葉


漢字で表記することは、他の文字で表記することと異なって「ことば」への結びつきを難しくしていることを見てきました。

それは、文字としての漢字自体が一文字ずつ意味を持った表意文字であることと大いに関係があることでした。

そして、文字自体が意味を持っていることが本来の「ことば」を表す記号としての役割を越えて機能しているのです。


その機能は、「ことば」が本来持っている意味や感覚を補完してよりわかり易くしていることもあれば、反対に「ことば」の持っている意味や感覚を分かりにくくしている場合もあるのです。

人は文字で理解をしているのではないことを見てきました。

脳の中で文字が「ことば」として変換されることによって初めて理解されていることを、文字を持たない幼児期の「ことば」による活動で確認してきました。


漢字 → 言葉 → ことば → こと


この変換が素直に行なわれていることが理解するための活動ということになるのではないでしょうか。


文字の持っている意味が「ことば」の持っている意味を理解しようとすることを邪魔する例を挙げておきたいと思います。

必要に迫られて作られた漢字に多く見ることができるものです。

明治期に大量の外国文化を導入し、その翻訳として作った漢字にたくさん見ることができます。


「権利」という文字があります。

「言葉」としては「けんり」ということになるのでしょうか。

この言葉はもともとの日本にあった感覚ではありません。

英語のrightに対して充てられた言葉になります。


音として「けんり」と言っても「ことば」として素直に理解できるものとなってないと思われます。

漢字としての「権利」にも文字上の意味があります。

それは、「権力を持って利を得る」といった意味になります。


英語としてのrightは「権力を持って得る」ものとは大きな隔たりがあります。

いかなる権力によっても犯すことのできない、人として本来的に備わっているものという感覚がある「ことば」です。

日本語の「権利」には文字としての意味から広がってしまった「力をもって手に入れたもの」という感覚が伴ってしまっています。

したがって、別のチカラの元では制約を受けることになってしまうことになります。


「権利」から導かれる「ことば」としては「できること、やっていいこと」に近い感覚ではないでしょうか。

そのために、rightに比べると使用頻度や使用場面も多岐にわたり軽いニュアンスとなっていると思われます。

「ことば」としての「けんり」は日本語の感覚にとっては極めてあやふやなものであるがために、どうしても漢字表記をして文字としての意味に頼らざるを得ないものとなっているのではないでしょうか。

日本語としての「権利」は誰かが主張したり認めたりすることができるものとなっていますが、rightは気がついたり確かめたりするものとなっているのです。

人によっては専門分野においてこの「権利」について探求を続けており、個人的な「ことば」として「けんり」を理解している人もいると思います。

また。「権利」は日常的な暮らしの中でそれほど頻繁に使われるものではありません。

それだけ「ことば」としてのやり取りが行なわれるものとはなっていないと思われます。

一般的な暮らしの中では「ことば」として定着しているものとなっていないために、一人ひとりの日常的な「ことば」となりきっていないものだと思われます。

つまりは、「けんり」という「ことば」がなくとも日常的な暮らしにおいては困らないことになります。


個人としても「権利」に出会った時に漢字の文字的な意味だけで理解が済んでしまうことになります。

このことも「ことば」としての「けんり」がさらに定着していかない理由になるのではないでしょうか。


「生活」という漢字があります。

言葉としては「せいかつ」になるのでしょうか。

文字的な意味も分かりやすいもので「生きて活動すること」となるのではないでしょうか。

しかし、「ことば」として「せいかつ」は理解できるものになっているのでしょうか。


文字としては「生活」、言葉としては「せいかつ」になると思われますが、「ことば」として理解しているものにはなっていないのではないでしょうか。

では、生活 → せいかつ とつながってきた言葉はどのような「ことば」として理解されているのでしょうか。

ほとんどの人は「(日々の)くらし」という「ことば」で理解されているのではないでしょうか。


「くらし」という「ことば」は人が生きている「こと」を意味しているものです。

もちろん、その「こと」のすべてを表しきっているわけではありませんし、「くらし」という「ことば」から理解される事柄は一人ひとり異なることになるでしょう。

それでも「くらし」という「ことば」は日本語の感覚として誰でもが理解できるものとなっていないでしょうか。


このようにして見てくると、私たちが持っている日本語としての「ことば」は文字としての漢字が持っている意味とは異なっている場合が多いのではないでしょうか。

これは、「ことば」として文字のない時代より持っていた「やまとことば」を表記するための文字として漢語を利用してきたことに始まりがあると思われます。



「やまとことば」は音だけで成り立っていた「ことば」です。

「やまとことば」を表記するためには、その音を表記する必要があります。

漢語の音を利用して「やまとことば」を表しましたが、その漢語は文字そのものが意味を持っていました。


その文字の意味と「やまとことば」に意味が近いものについては、文字の意味を利用しながら「やまとことば」として読ませる訓読みが充てられるようになっていったと思われます。

したがって、訓読み漢字は「やまとことば」の音を表しながらも漢字の文字をもその意味として利用した日本独自のものとなりました。


漢字の音読みには「やまとことば」に当たる「ことば」がなかったのではないでしょうか。

音読み漢字には文字としての意味だけを手近に利用するために使われて、その音から導かれる言葉には「ことば」となるような意味を持たせることがなかったのではないでしょうか。


漢字は文字を組み合わせることによって造語を作るにはとても便利な文字です。

この機能を利用して明治期には広辞苑一冊にも相当する20万語以上が生み出されました。

音読み漢字が沢山利用されることになったことになります。


漢字を完全な表音文字として使用した例があります。

それが仏教典です。

もとはサンスクリット語の言葉を漢語の音を利用して表記したものであり文字としての意味は全く関係ありません。


それでも、使おうとした漢語に同じ音があれば少しでも原意に近いものを使用しようとするのは翻訳者の本能とも言えるのではないでしょうか。

結果として並んだ文字としての意味がなんとなく出来てしまう部分があることになります。

また、翻訳者によってはそのことを意識したとしても不思議ではないと思います。


文字として意味を持っている表意文字であることが、純粋な音訳を妨害していることになるのです。

日本語としての漢字が文字としての意味で邪魔しているのが音読み漢字によることは分かりやすいことだと思います。

文字としての漢字の意味を安易に利用してきたことによって、本来持っている「ことば」がゆがめられてしまったことが多いと思われます。


それは、もとから私たちが持っている「やまとことば」に対しても外来語に対しても同じことではないでしょうか。

漢字という文字から離れて「ことば」を感じる努力をすることが、まさしく日本語の感覚ではないでしょうか。

日本語の持っている基本的な感覚を漢字が邪魔しているのかもしれません。


しかも、訓読み漢字の利用という日本語の感覚を上手く表現できる手法を持ってしまっていることが、このことを隠してしまっているのではないでしょうか。

文字の裏にある「ことば」を理解することが日本語にはとても大切なことのようです。

あまりにも便利な漢字という文字による表面的な意味だけではないことが、「行間を読む」や「一を聞いて十を知る」に含まれているのかもしれません。


文字から離れてみることは現代社会では難しいことかもしれません。

しかし、言語の持っている本来的な感覚は文字にはなく「ことば」にあることが分かってきました。

文字の意味だけに押し倒される前にもう一度文字を離れた「ことば」に目を向けてみませんか。




2015年9月11日金曜日

漢字表現の持つ二面性

漢字は、現存する文字のなかで唯一の表意文字だと言われています。

表意文字とは、表音文字と対応して用いられる文字の特徴を表した表現です。

表音文字は、文字そのものに意味はなく発音記号のようにその文字が意味するものはその音だけを表すものです。

文字と音が一対一で対応している場合が多いですが、英語における母音のように使われ方によって複数の音に変化するものもあります。


表意文字は文字自体が持っている固有の意味を表す文字であり、音とは直接的に結びつかないものとなっています。

したがって、文字の並びを見ただけではどのように読むのか分からない場合もあることになります。


現存する表意文字は漢字だけだと言われていますので、漢字を標準的な表記文字として持つ言語は他の言語から見るときわめて特殊な言語として見られることになります。

中国語は基本的には漢字だけでできていますので表意文字だけでできている言語となります。

文字として書けばほとんどの人が理解できるのですが、音だけでは言葉として理解できないことが多くなっており代表的な方言だけでも10以上存在している状態です。

そのためにピンインと呼ばれる発音記号が設定されており、文字に対しての唯一の表音方式として国を挙げて推進しているものとなっています。


日本語も漢字を使用していますが、漢字だけでは日常会話すら成り立ちません。

漢字と仮名の混用が標準的な表記方法となっています。

漢字は表意文字ですが、仮名は表音文字です。


仮名の成り立ちは漢字から来たものとされていますが、仮名として使用されている限りにおいては一文字ずつに意味がある文字とはなっていません。

発音としての音を表すための記号としての表音文字となっているものです。

日本語の仮名はかなり厳格に一文字一音の対応となっていますが、「は」と「へ」については助詞としての使われ方によっては「ワ」や「エ」と言う音に替わる場合もあります。


さらに日本語の漢字には、漢語読み(呉音、唐音、漢音など)からきた音読みと日本独自の言葉である「やまとことば」に当てはめた訓読みとが存在しており、文字によってはさらに複数の読みを持っていたりします。

中国語としての漢字の使われ方に比べると、和語である「やまとことば」としての読みの訓読みを持っていることで、日本語としての漢字は読みにおいて二面性を持っているということができます。

ほとんどの訓読みは送り仮名を伴って表記されるために、漢字かなの混用表記によってわかるようになっていますが、送り仮名の伴わない訓読みも多く存在しているために使われ方によってはどちらの読みでも可能な場合も出てきています。

熟語によっては重箱読みで有名な「重箱」のように、音読み+訓読みのような組み合わせもあります。


普段の使い方では気がつきにくい、もう一つの二面性が漢字には存在しています。

それは、漢字の使用実態が純粋な表意文字としての使われ方だけではないということです。

表意文字としての漢字を表音文字としても使用しているのです。

しかも、使っている時点ではそれと気づかずに使っているのです。


使われ方としては、文字として持っている意味を利用した表現を行なっていると同時に、その読み言葉が文字の持っている意味とは異なったものを表している場合があるのです。

充て字と言われるものはほとんどがこの類であると言えるでしょう。

わかり易いところで見てみれば植物の名前が挙げられるでしょう。


無花果(イチジク)、百日紅(サルスベリ)、馬酔木(アセビ・アシビ)などが代表でしょうか。

無花果と百日紅はもともと漢語にあった表現です。

それに日本語としての同じ植物の読み方を充てたものとなっています。


文字通りの意味を見てみれば、無花果は花のない果実ということになってしまいます。

見た目にはそのように見えたのかもしれませんが、れっきとした可愛い花が咲くことはご存じのとおりです。

「嫁に食わすな」と言われたのは、文字通りの意味をとらえた解釈だったのでしょうね。


百日紅も中国で使われていた名前です。

同じ植物に対して日本ではその幹の滑るように見える特徴から「サルスベリ」と呼んでいたために、このように表現されているものです。

場合によっては「猿滑」と表記されることもあるようですね。


無花果にしても百日紅にしても文字の意味を追っていったのでは到底「イチジク」や「サルスベリ」にはいきつきません。

その意味では「イチジク」や「サルスベリ」を表す表音文字として使われていると言っていいのではないでしょうか。

反対に表意文字として読んでしまえは、花がなくても果実がつく植物であったり百日も赤くなっている植物であったりとして、現実にはありえないものとなってしまいます。


この文字が使われた由来は理解することができると思います。

そのように見える特徴をとらえて表現したのであろうという推測は容易にできます。

しかし、この文字を使用したことによって実際の「イチジク」や「サルスベリ」を知らない場合には、花をつけない果実や百日間の赤い花を思い浮かべてしまうのではないでしょうか。


馬酔木については日本に自生する植物であるために中国から来た言葉ではないと思われます。

日本でつけられた漢字の名前ということができると思います。

毒を持った植物であり、馬が葉っぱを食べると毒にあたって酔ったようにふらふらになるということから付けられた名前と言われています。


草食哺乳類は本能的に食べるのを避けますので、この木だけが残って目立つことが多くなります。

馬も実際には食べることはありませんが、その毒性に注目してつけられた名前ではないでしょうか。


それぞれにとても情緒のある美しい文字だと思います。

それぞれの植物の特徴の一部をとらえた日本らしい美しい言葉であると思います。

しかし、この言葉が一人歩きをした時にはどうなるでしょうか。


無花果、百日紅、馬酔木が表音文字で「イチジク」「サルスベリ」「アセビ」と読むのであれば問題はありませんが、表意文字としての使い方を利用した音として利用されているのです。

植物などは情緒がある表現として使われることが多いためにそれほど問題がないのかもしれません。

それでも表意文字としての漢字の持っている意味からは一ひねりも二ひねりもされた謎かけのようになっていると思われます。


先日例に出した「鎖国」という言葉も同じことが言えると思います。
(参照:「鎖国」は本当に鎖国だったのか?

文字の持っている意味からすると外国との交流を遮断してしまったかのイメージを受けるものです。

実際の政策は幕府による貿易交流の独占的統制だったのです。


漢字で表現することは常に二面性があることを考慮する必要があるのではないでしょうか。

それは、その文字が表意文字として表している内容とその漢字の音が持っている言葉が表している内容です。

思いつく漢字の表現を見てみても、この二つが完全に一致している言葉はなかなかお目にかかることができません。


一般的な漢字表現は文字そのものが意味を持っていることによってそのことに頼り切ってしまっているのではないでしょうか。

その文字が表していることは確かに対象の一部かもしれませんし一番の特徴かもしれません。

しかし、伝えたいことは本当に文字が意味していることだけなのでしょうか。


イチジクの花のきれいさを伝える時には無花果とするよりもイチジクとした方が親切ではないでしょうか。

誤解が少なくなるのではないでしょうか。


そのためには、漢字言葉による表現をできる限りひらがな言葉による表現に置き換えてみることが大切になります。

言葉数は多くなりますが、より正確なわかり易いものとなるはずです。

訓読み漢字は文字の持つ意味と言葉の持つ意味が一致したものとなっています。


ひらがなは文字で書いても音だけであっても全く同じものとして理解出来るし伝わることができます。

音としてのひらがな言葉を漢字にして表現したものが訓読み漢字です。

音としてのひらがなを文字として補足したものとなります。


ひらがなと訓読み漢字による表現を「現代やまとことば」と呼んでいます。

漢字の表現による文字としての意味と言葉としての意味のギャップを作らないための最良の方法です。

言葉としては全てがひらがな言葉になりますので、子どもから老人まで誰にでも理解できる表現となります。


漢字の持つ二面性は、文学的な表現や情緒を奏でるためにはとても素晴らしい効果につながるものです。

しかし反面、精確に伝えたり同じ理解を求めたりする場合には誤解を生む可能性が高い表現でもあるのです。

それは、文字の持っている意味が独り歩きして強調されるからです。


漢字で表現したときには、文字の持っている意味と言葉の音として持っている意味の違いに注意をしておきたいものです。

せっかく持っている表意文字である漢字を効果的に使っていきたいものですね。


2015年9月10日木曜日

「鎖国」は本当に鎖国だったのか?

ある史実がおこなわれたときにはついていなかった名称が、その後につけられて名称によって記録されることがたくさんあります。

古くは「大化の改新」もそうですし江戸時代の「鎖国」もそうでした。

その史実を名称をつけて記録したことでその時使用した名称が史実として定着した例です。


実際の史実については、このようなことが多いのではないでしょうか。

事実が起こっているときは名称などを考えることもなく必死だったのではないでしょうか。

のちにこの事実を記録したり回顧したときにつけられた名称がその史実の呼び名として後世に伝わっていくのだと思います。


この時に、日本語の場合は時代・元号の呼び方や人の名前・起こった場所の名称などを利用することが多くあります。

史実の一部を記録した名称としてわかり易いものとなると思われます。

しかし、その史実の内容を表した漢字で表現された場合などでは注意が必要になります。


その例として「鎖国」を挙げてみたいと思います。

「鎖国」という言葉が最初に使われたのは1801年のことだと言われています。

オランダ商館付きの医師であったドイツ人のケンベルが書いた「日本誌」の中に取り上げた、日本人の海外渡航の禁止と対外交流を制限している幕府の政策を肯定している部分を「鎖国論」と名付けたものが始めだそうです。

オランダ通詞であった志筑忠雄が訳したものだとされています。


以来、「鎖国」という言葉は一人歩きをし始めます。

実際に江戸幕府により行なわれた政策やそれに伴う法令の名称に「鎖国」という言葉が使われたことはありませんでした。

「鎖国」という言葉は「閉鎖をした国」というイメージが前面に出た言葉であり、外国との交流を完全に遮断したような印象を与えるものとなっています。


実際に行なわれた「鎖国」にあたる政策は寛永10年(1633年)から寛永18年にわたる一連の法令によるものということができます。

もちろんこの時に行なわれた政策や発せられた法令には「鎖国」の文字は見ることができません。

また、「鎖国」という言葉の持つ外国との交流を遮断するといった内容とは異なっていることが分かります。


この時に行なわれた一連の政策では、以下の三点について行なわれているものです。
  1. 日本人の海外渡航と帰国の禁止
  2. キリスト教宣教師の取り締まり
  3. 幕府による貿易規制
1については段階を追って進められており寛永12年に発令されたの日本人の海外渡航・帰国の全面禁止によって確定しました。

2についてはポルトガル人の子孫の国外追放に続いてポルトガル人の出島への移住(島原の乱はこの後)がおこなわれました。
寛永16年発令のポルトガル船の来航の厳禁によって、国内キリシタンへの外部からの接触が遮断されました。

3については寛永18年に、ポルトガル人が去った出島に平戸にあったオランダ商館を移したことによって完成しました。

この結果、オランダと中国(明、清および華僑)との貿易は長崎に限定され幕府による貿易の管理体制が確立しました。


「鎖国」の行なわれていた期間であっても、オランダ・中国との貿易によって世界の情勢は把握していました。

言語を初めとした各分野の学問所を設けて専門の学者を育てていました。

また、琉球との交渉・交易については薩摩藩に集約し交易の権利を与えるとともに軍事的な防衛の責任も持たせていました。

同じようにアイヌとの交渉・交易については松前藩に独占的な交易権を与えながら防備の責任を持たせていました。

また、朝鮮との交渉・交易については対馬藩に任せていました。

幕府はこれらを統括することによって対外関係全体を統括していたのです。


海外との交易を遮断したわけではなかったのです。

幕府による貿易の管理体制を構築すると同時に、キリスト教による侵略を遮断しようとしたことだったのです。

このうち、朝鮮と琉球については正式な国交が結ばれている国として交渉交易の窓口を担当する藩を決めて、独占権を与えるとともに沿岸警備のための軍役を課して管理しました。

オランダ・中国については国交が結ばれていませんでしたが貿易が継続されていることから、相手の影響度を考慮して長崎に窓口を設けて幕府が直接管理することにしたと思われます。


決して国際社会からの孤立ではなかったということができます。

言葉としては「鎖国」に替わって、最近では「海禁」という言葉が使われるようになってきています。

「海禁」とは「下海通蕃の禁」を略した言葉ですが、明や清を中心にした東南アジア諸国に共通する海外渡航や海外貿易を禁止した政策のことです。


「鎖国論」と名付けられたころには「海禁」という言葉が伝わっていなかったこともあるでしょうし、「海禁」という言葉もあとから付けられた可能性が高いと思います。

「鎖国」という名の施策は文字通りの鎖国ではなかったということになります。


漢字は現在の世界で使用されている文字のなかで唯一の表意文字であると言われています。

文字そのものが意味を持っている文字です。

ある物や事象に対してつけられた漢字の名前は、その物や事象を表す言葉であると同時にその文字の持つ意味が存在することになります。


文字の持つ意味がその物や事象を正しく表現している場合にはまったく問題なく使用されると思われますが、短い漢字だけでその物や事象を説明しきれているとは限りません。

場合によっては、二面性を持つこともあります。

あるいはその物や事象の一面的な特徴だけを意味する場合もあります。


表音文字による名称であれば、その物や事象を表すための単なる記号ということができますが、漢字は文字自体が意味を持ってしまっていますので付けられた名称そのものの言葉が独り歩きする可能性が高くなっているのです。

文字的な意味だけではなく、その言葉が意味している内容をしっかりと伝えて理解することは漢字を使用する場合にこそ重要なことではないかと思われます。


「現代やまとことば」によって説明する習慣を身に付ておきたいものだと思います。
(参照:「現代やまとことば」を使おう

漢字という文字自体が意味を持ってしまっているために、漢字で表現されているだけでかなりの理解ができてしまいます。

しかし、本当に伝えたいことは漢字で書かれた文字上の意味ではないことも多々あります。


自分自身の持っている理解が、漢字の文字的な意味とは異なっている言葉もたくさんあるのではないでしょうか。

名称のつけ方も簡単にはいかないですね。

迷ったらひらがなが一番いい方法なのかもしれませんね。


2014年7月18日金曜日

中学卒業しても新聞が読めない?

日本語のなかで表記上の大きな特徴となっているのが漢字の存在です。

漢字を文字として持っている言語は、日本語以外にも中国語系列の言語がありますが、どちらの場合にもその習得にかかる時間は膨大なものとなっています。

アルファベットを基本とする欧米の言語の基本的な習得が、小学校の低学年で完了するのに対して、義務教育が終了する15歳においても新聞で使われている漢字を習得しきれていないのが現実となっています。

日本も中国もどちらも義務教育は15歳までになっていますので、基本的な義務教育期間はほぼ同じです。


中国語には、文字は漢字しかありませんので、覚えるべき漢字の数は日本語よりもさらに多いものとなっています。

小学校の入学前に、話すことはほとんどできるようになっていますので、話している言葉に対応する漢字を身につけていくことになります。

中国の小学校では、6年間で約2,000字の漢字を覚えます。

日本の小学校の、ほぼ二倍になります。

それでも、中学生ではまともな作文ができないのが現状のようです。


それでは、日本ではどうでしょうか。

下の表を見てください。



日本の小学校で身につける漢字の数は、1,006字となっています。

中学校で身につける漢字の数がつかめなかったので、漢検の3級(中学校卒業レベルとされる)の必要漢字数を出してあります。

見ていただければわかるように、中学校を卒業しても、常用漢字がすべてカバーできていないのです。


新聞に使われている漢字があります。

常用漢字を意識して、2010年に常用漢字が改定されたときに、新聞常用漢字として定められたものがあります。

それによれば、常用漢字表の2,136字から、次の7字を除き、さらに5字を加えた2,134字を新聞常用漢字表として使用するものとしています。

削除7字:虞 且 遵 但 朕 附 又
追加5字:磯(いそ) 絆(きずな) 哨(ショウ) 疹(シン) 胚(ハイ)

また、新聞社においては、常用漢字とは別に各新聞社ごとに使用する漢字を定めているところもあります。


つまりは、義務教育で習得した漢字だけでは新聞が読めないことになります。

そのあとの高校でどの程度習得するのかも見てみましたが、これも漢検の出題範囲に頼ることになりました。

漢検2級が高校レベルとされていますが、そこでの対象の字数は1,945字となっているようです。


全く読めない漢字に出会ったとしても、おぼろげながら意味と音読みをイメージすることができるようになっているのは、漢字が表意文字だからです。

ほとんどの場合は、その漢字の構成(部首など)でなんとなく意味がつかめますし、音となる部分がどこかに含まれていることが多いからです。

そしての基本となる音と意味は、義務教育で身につけた漢字によって出来上がっていることが多いからなのです。


他の言語ではこの様なことはなかなかできません。

一部に似たようなことがあるのは、接頭辞や接尾辞などによって意味が転化しているモノを見ることができる程度ではないでしょうか。

すべての漢字は、文字そのものに意味があります。

複雑な漢字であったとしても、構成されている部首などの意味が分かることによって、本来持っている意味を推測することが可能になっています。


したがって、意味の組み合わせによって造語をすることも可能になります。

しかも、他人が見てもも話図納得してしまう意味を持たせた造語が可能になるのです。


単に、習得した漢字だけしか理解できないのであれば、高校を卒業したとしても新聞が読み取れないことになってしまいます。

しかし、文字としての漢字が持っているを意味や音をかなり高い確率で推測する術を身につけているのです。


他のとの大きな違いがここになります。

ですから、小学生でも新聞を読んで理解することができるのです。

知らない漢字に出会っても、推測することができるのです。


アルファベットを代表とする他の文字は、発音する音を表した文字となっているために、文字を見ても意味を推測することができません。

言語としては音声言語になります。

言葉にして伝えたほうが意味が分かりやすいものですので、その言葉自体の意味を分かっていないと理解しにくいことになります。


知らない言葉が出てきても、かなり高い確率で推測できる、しかもほとんどの人が同じように推測することができる文字は世界でも漢字だけだと思います。

すべての漢字を覚えていなくとも、理解することが可能な言語となっているのですね。

あらためて、日本語の懐の広さを見た気がします。




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2014年7月6日日曜日

漢字の好き嫌い

世界にある文字を調べてみた人がいます。

それによれば、世界には現用文字が28種類あり、そして歴史的文字が97種類あるという報告がなされています。

ききなれない言葉ですよね、現用文字という言葉は。

これは日刊新聞が発行されており、その新聞に使用されている文字のことだそうです。


日刊の新聞が発行されるためには、少なくとも数百万人レベルの人がその新聞を購入しないと、経済的には成り立ちませんよね。

上はどこまで行くのかわかりませんが、その文字を理解する人がたくさんいない限りは日刊の新聞として存在することができないことになります。

そうしてみると、いまの地球上の主要文字としては現用文字の28種類を基準においていいのではないでしょうか。


日本語の文字は、ひらがな、カタカナ、漢字、アルファベットと4種類を日常的に使っており、実に世界の文字のうちの7分の1を使いこなしていることになります。

さらにこの中で、ひらがな、カタカナ、についてはの本独自の文字であり、他の言語との休通性は全くありません。

また、漢字、アルファベットについては、世界中で使用している人口のそれぞれ2位と1位を占めるものとなっており、広範な共通性を持ったものとなっています。


世界共通語しての地位をほぼ確保した英語との親和性は、これからもさらに進んでいくことが想定されます。

非常に自由度の高い、日本語の表現においては、どのような言語との対応すら可能と思われますが、メインで使用する文字自体が世界の文字との共通性を持っていることは、文字間での相互理解にとっては非常に大きな優位性ということができます。


文字に対する感覚として、1種類の文字しか持たない言語においては、その文字に対して好きとか嫌いとかと言った感覚は生じることがないようです。

ところが日本語においては、特に漢字に対して、好き嫌いの感覚を持つ人がかなり見受けられます。

恐らくは4種類もの文字を日常的に使用する中で、しかも同じ表現をするのにどの文字であっても対応できてしまう環境においては、選択する文字に好き嫌いの感覚が現れれ可能性があることが考えられます。

1種類であれば何の感覚も持たなくてすむもと思われるだけに、文字に対しての好き嫌いという他の言語では考えられないようなことが起こっているのです。


特に漢字については、嫌いな人が多くいます。

恐らくは、上手に使いこなせればこれほど便利なものはないのですが、それを習得するまでには多少の苦労が必要であることに原因があるのではないでしょうか。

使いこなせるようになるまでは、覚えることがばぁりになりますので嫌いと言う感覚が伴ってしまうのではないでしょうか。

いくらかでも漢字を使いこなして、思ったような表現ができるようになると、少しずつその感覚が薄れていくのではないかと思われます。


特に、若い人は漢字が嫌いな人が多いですね。

使いこなせる漢字が少ないことや、漢字を身につけることの学習の苦労がそのように感じさせていることになるのでしょう。


漢字を使いこんでいっても嫌いになることがあります。

自分では気が綱なかった紛らわしさに出会った時などもそうですね。

果物の「かき」という漢字は「柿」という字です。

劇場の初演を表す「こけらおとし」の「こけら」は「杮」と言う字です。

「こけら」の方は一画で下まで書き下ろす字ですので、画数も異なる漢字です。

こんなのに出会うことを面白いと思って好きとなるのか、面倒と思って嫌いになるのかということもあると思います。


新しい文字が生まれつつありますね。

これはどこまで文字として定着していく可能があるのか全く分かりません。

絵文字という文字です。

文字そのものに意味があるものとなっていますので、表意文字ということができるのではないでしょうか。

言葉としての正確さはかなり低いものであると言わざるを得ませんが、伝える側の意図としては既存の文字で表現するよりも絵文字の方が自分の言いたいことをうまく表現できることもあります。

かなり定型化してきている絵文字もあり、今後の推移を見ていきたいですね。




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2014年3月6日木曜日

アルファベットと漢字

文字としての漢字を持っている言語は、その音に対しても同じ文字であるならば同じ音か近い音を持っています。

その意味で漢字を使用している言語は、文字に書いて発音をすれば、大概の意味が通じます。

世界で一番多い言語で使われている文字はアルファベットです。
アルファベットという呼び方は、ほとんどラテン文字と同じ意味で使われます。


アルファベット使用言語としては、英語、フランス語、ポルトガル語、イタリア語など読みも綴りも異なり、相互理解は漢字使用言語ほど共通性は見られません。

漢字が表意言語であり文字を見れば意味が分かることに比べると、アルファベットは表音文字で読み方しか表していないからです。
しかも言語によって、アルファベットの読みそのものが異なりますので、単語として似たような綴りのもの以外は理解しにくくなっています。

アルファベットの現在での基本字はラテン語の23字にJ,U,W,を加えた26文字となっており、英語ではすべての文字を使っています。


アルファベットの起源はイタリア半島に住み着いたラテン人(のちのローマ人)が、やはりイタリア半島中部に住み着いていたエトルリア人とギリシャ人から文字を取り入れたことにあると言われています。

現在のアルファベット26文字に落ちついたのは17世紀の半ば過ぎではないかと思われます。

色々な民族から部分的に文字を持ってきましたので、ひとことにアルファベットと言っても言語によっては使用してる文字の数が違っていたりします。

また、基本文字以外の符号文字(É,Ò,Â,Ÿ,Õ,など)を使用したり、別の文字(Ç,Ę,)や合成文字(Æ,Œ,)を使ったりしている言語もたくさんあります。

 ラテン語使用国

近代以降では、文字を持たなかった言語が新たに文字を持って書き方を定めるときには、ほんどラテン文字(アルファベット)が採用されました。

その中でも旧ソ連の諸国ではキリル文字(К,и,р,и,л,л,и,ц,а,など、現在では33文字)を使用しました。
ソ連でも初期のころはラテン文字を用いていました。

ソ連崩壊後は再び、ラテン文字への切り替えが進んでいます。

また、既に文字を持っていたにもかかわらず、ラテン文字に切り替えた言語もあります。
代表としてはインドネシア語、ベトナム語、トルコ語、などがあります。

西洋列強による植民地化やキリスト教の宣教師による活動が大きな要因だと思われます。

独自の文字を使用する言語でも、ほとんどはラテン文字による表記法が確立されています。
借用語や略語などでもラテン文字を用いることが多くなっており、今後ますます広がっていくことだろうと思われます。


アルファベットに次いで使用者が多い文字が漢字です。
中国が含まれているから簡単に10億人以上となってしまいます。

文字としてのアルファベットと漢字は両端に位置するものということができます。

現存使用文字としては世界で唯一の表意文字(最近では表語文字という言い方がされていますが、意味が分かりにくいのでここでは表意文字を使用しています)が漢字です、方や典型的な表音文字がアルファベットです。

アルファベットは一文字ずつの使用文字は共通性が高いですが、その一文字ずつに与えられている音が言語によって異なります。

表音文字は発音して初めてその意味が明確になる文字ですので、同じ綴りであっても音が異なれば違う意味になってしまいます。

共通の理解のためには、音を変えるわけにはいきませんので共通の綴りの単語を増やす以外ありません。





世界での活動がボーダーレス化していることは、言語も同じことが言えます。

共通理解のためには共通言語が必要です。
人は第二言語で思考することはできません。

母語(通常は第一言語と同じ)で思考されたものを第二言語に頭の中で翻訳しなければなりません。

訓練をすれば、簡単な思考は第二言語でできると言われていますが、複雑な思考や深い思考は母語でしかできません。

お互いが第二言語でコミュニケーションをしなければならない環境は、双方の持っている力を大きく制約することになります。


話す言葉としての共通性を持つことはとても難しいことです。

母語としての言語を持っている者は、母語を話すために適した発声構造になっており、母語の音にない音の発生は非常な困難を伴います。

聴き取りについても同じことが言えます。
母語の音を聞き取るために適した聴覚構造にには、母語にない音を聞き分けることは至難の業です。

話し慣れない音を、聞きなれない音で受け取るわけですから、正しく伝わるほうが少ないくらいでしょう。


書き文字としての共通性としてのアルファベットの略字は、どんな音であろうとも見た目で伝わります。

その意味するところについては、それぞれの言語においてきちんと定義されていればいいわけです。


漢字の持っている語彙数はアルファベットの比較になりません。
アルファベットが言語を越えて持っている共通の綴りに比べると、無限にあるということもできるでしょう。

言語としての話し言葉を変えることはとても難しいことです、これからますます文字の価値が高まっていくことでしょう。

文字そものに意味があり、文字を書くことが芸術の域にまである漢字は、今後その価値をより高くするのではないでしょうか。