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2016年8月12日金曜日

日本語で伝えるための技術(4)

三回にわたってお伝えしてきた伝える技術は、伝えるべき内容が決まっていいるものに対して具体的にどのような伝え方をしたらよいかの観点から見てきたものでした。
  1. 「ひらがなの音」をしっかり発声する
  2.   (参照:日本語で伝えるための技術(1)
  3. 「現代やまとことば」を使う
  4.   (参照:日本語で伝えるための技術(2)
  5. きき手の「きく」活動をサポートする
  6.   (参照:日本語で伝えるための技術(3)
最終回の今回は、伝える内容をどのように定めたらよいかについてみていきたいと思います。



書かれている文章を理解することと話し言葉を理解することの一番大きな違いは、いつでも前の内容を確認することができるかどうかということになります。

書かれた文章を読むという行為は、相手の関係ない読んでいる人独自の行為であり自分だけのペースで読むことが可能になります。

分かりにくい部分についてはいつでも前後の内容を参考にすることができますし、そのための時間も自分の都合でどのように使うこともできます。

そのために修飾関係が分かりにくかったり言葉同士の関係や論理が分かりにくかったりしても何度でも読み返して再確認することが可能となっています。


しかし、話し言葉では一瞬のうちに言葉が流れていき基本的には確認することができません。

せめて聞いている自分の記憶に残っている内容を振り返ることはできますが、その間にも新しい内容が伝えられていることになりますので振り返ることだけに集中することはほとんど不可能といえます。

きき方でも確認してきたように、「ひらがなの音」をすべて聞き取ることは大前提なのですがすべてを聞き取ってから理解していてたのでは次から次へと発せられる内容を理解することは難しいことになります。

そのために「ひらがなの音」を聞きながら言葉の理解や内容の理解に対しての予測が行なわれていることになります。

予測なしに「ひらがなの音」を聞き取ってからすべてを理解することは実際には不可能ではないでしょうか。

きくことの経験が増えることによって予測の精度も上がってきていることになっていると思われます。


伝える内容を定めるときに一番気を付けなければいけないことは、伝える対象者が持っている言語や言葉をできるだけ把握しておくことが必要になります。

相手の氏素性や専門分野や経歴を確認しておくことはそのためにやっていることであり、相手に対してより理解をしやすい言葉や論理を見つけるためにこそ役に立つ情報だといえます。

専門分野の違う相手に対して専門用語を多用しても理解してもらうことは難しくなるばかりになりますし、相手の理解しようとする意欲をそぐことにもつながってしまいます。

共有意思を持つことが好きな日本語感覚においては、同じ専門用語を同じように使う相手に対しては共感を持つことが多くなるものですが、反対に少し違っただけでも反感を持たれる要素にもなってしまいます。

相手の持っている言葉を確認すると同時に使ってもよい場面かどうかを確認することも大切なことになります。


特に伝える場としての環境やメンバーによっても言葉を選択する必要があります。

あらかじめ用意しておいた言葉であっても場によっては変更する必要も出てきます。

自分の言葉ではなく理解してほしい相手の言葉で伝えることが理想になります。


次は、一文をできるだけ短くする必要があります。

この場合に気を付けることは修飾語をできるだけ必要なものだけに絞り切ることが必要になります。

長文の文章の分かりにくさは多くの修飾語による修飾関係の複雑さにあります。

話し言葉で伝える内容で文章のように長い内容を伝える場合には、できるだけ細かく文章を区切ることが必要になります。


さらに、文同士の関係を明確にして相手の予測を助けるための接続詞の使い方が大切になります。

接続詞を聞いたとたんにその後に続く内容が前の文との関係において予測できるものとなるからです。

書かれた文章における接続詞の多さは全体の論理をかえって分かりにくいものとしてしまいますが、話し言葉においては一息ついて接続詞を入れることで相手の予測を利用することが可能となるのです。


最後に来るのが伝えたいことの意図です。

聞いて理解してもらうことが目的の場合は決して多くはないはずです。

それよりも理解したうえで何かをしてもらいたいことのほうが多いのではないでしょうか。

そのことをどこまで直接的に伝えるのかは場や環境によって異なると思われますが、それでも効果的な伝え方をしなければなりません。

意図が伝わらなければ「行間が読めない」という感じを味わうことにもなりかねません。


自分の意図したことと違った伝わり方をしてしまった経験は誰にもあると思います。

ほとんどの場合は「仕方ない」ということになっているのだと思います。

日本語の感覚では意図や意思をはっきりと表明することは決して効果的ではないということになります。

もちろん明確にすることが必要な場面がないわけではありませんが、実社会においては相手に応じて言葉を選び使い方を選ぶことが必要になってきます。

「ことあげ」が嫌われる日本の精神文化のなかで磨かれてきた感覚ではないでしょうか。
(参照:「言挙げ」(ことあげ)に見る日本の精神文化


具体的な言葉としてこれらのことを自然に行なえるのが「現代やまとことば」ということになります。
(参照:「現代やまとことば」を経験する(1)

特に、相手の持っている言葉が明確になっていない場合や伝えるべき相手が明確にわかっていない場合などでは圧倒的な力を発揮する言葉となります。

専門家同士の会話においてさえもよりわかり易い言葉と使い方が尊重されているのが現状です。

一般的な人を相手とする場合には同じことを説明するのに分かりやすさが優先されるのは間違いのないことです。


自己満足的な独りよがりな表現が分かりやすさに勝ることがないのは歌においても同じことが言えます。

「現代やまとことば」による歌が歌詞の内容以上に人に伝わるのは、日本語が持っている音としての「ことだま」のチカラかもしれません。


このチカラを歌の中だけに留めておくことはないと思います。

もっと普段の話し言葉の中でも活かしていけるのではないでしょうか。

日本語が自然に持っている感覚をそのまま生かしていくことが一番伝わることになりそうですね。



・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。

・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。

2016年7月20日水曜日

漢字に壊された?日本語の感覚。

日本語は四種類の文字と一種類の音を持った言語です。
(参照:四種の文字と一種の音

表記する文字を四種類(漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベット)も持った言語は他には見当たりません。

複数の表記文字を持った言語は韓国語のように(漢字、ハングル)たまに見かけることはありますが、すべての文字が日常的に混在して表記されているような言語は日本語だけではないでしょうか。


四種類もの文字を日常的に使いまわしながらも同じ言葉に対して四種類の文字表記が可能である言葉がほとんどを占めている日本語は、他の言語話者から見たらとんでもなくややこしい言語と映るに違いないと思います。

もし私の母語が一種類の表記文字と一種類の音でできているものだとしたら日本語は触れたくない言語の最右翼だと思います。


こんなにややこしい言語ではありますが、生まれた時から母語として無意識のうちに身につけてきた私たちにとっては当たり前のように使いこなしているものとなっています。

日常的に無意識のうちに使用しているコミュニケーションのツールについて言語としてのややこしさなど感じることはないのではないでしょうか。

日本語だけの環境の中で生活している限りにおいては言語のことを考える機会すらないのかもしれません。


義務教育で英語という他の言語に触れた時に日本語よりもはるかに単純な言語であるにもかかわらず難しさを感じたのは、日本語というとんでもなくややこしい言語が当たり前の標準的なものとして身についてしまっていたことの証ではないでしょうか。

英語が世界の共通語としての地位を確保し続けているのは、経済的軍事的な影響力やラテン語という極めて裾野の広い言語を源流としているだけでなく言語としてのシンプルさにも要因があるのではないかと思っています。


さて、日本語の中でも四種類の表示文字のうちその文字だけでは完全な形で日本語を表記できない文字があります。

言葉の音としての日本語をすべて表記できるのは、ひらがな、カタカナ、アルファベット(ローマ字)の三種類であり、漢字だけでは日常的に誰もが読める表記はできません。

これは日本語が持っている音が「ひらがなの音」であるために、ひらがなとカタカナは当然のこと音に対応した表記のローマ字も完全表記が可能となっているのです。

しかし、漢字はひらがなの音に対応した文字になっていません。

「夜露死苦」(よろしく)のように当て字表記はできたとしても万人が共通して理解して日常的に使用できる文字とはなっていません。


文字が登場する以前に話し言葉だけで存在していた言語があったことは歴史が物語っています。

日本にも「古代やまとことば」として文字を持たなかった言語が存在していたことが確認されています。

「ことだま」(言霊)と呼ばれるように日本語は「ことば」の音によって、その感覚や意味を共有し継承してきた言語です。(参照:言語と「ことだま」

それが漢語の導入によって文字による理解へと大きく変化していったのです。

それは形あるものとして具体的で理解しやすいものでした。


すぐに漢語による文化導入と表記方法を取り入れていきました。

しかし、そこには現実的に存在していた話し言葉だけの「古代やまとことば」とは大きな感覚的な隔たりがあったことが想像できます。

そうでなければあれほど便利な意味を持った文字である漢語から、意味を持たない音だけを表す仮名を大変な思いをして生み出す必要はなかったと思われるからです。

漢語が導入された当初の勅撰の書物は漢詩集でした。

勅撰漢詩集は三代で終わりを告げ、その後は「古今和歌集」に始まる和歌集に取って代わられていきます。(参照:原始日本語はなぜ残ったか?

和歌は万葉集に見るように漢語導入以前より唄として広く存在していたものです。

漢語に傾いていた表記方法を追いやるようにひらがな表記がどんどんと出てくるようになります。


公式文書においては漢字を使用することは中国に隷属する国としての立場上仕方のないことです。

漢字は文字自体が意味を持っていることで記録化するためにはもってこいの機能を持ったものです。

それにもかかわらず、文字を持たなかった言語である「古代やまとことば」を駆逐しきることができなかったのです。

「古代やまとことば」の音と「ことば」がそれほど浸透し定着していたことをうかがわせるのではないでしょうか。


その結果、鎌倉時代頃より漢字とかなの混用表記が多く見られるようになります。

両方のいいとこ取りとも言えますしどちらの感覚も中途半端ということもできるのではないでしょうか。

日本語の感覚という観点から見れば漢字(特に音読みの音)によって元の「古代やまとことば」の感覚が伝わりにくくなったと言えます。

音としての「ことば」に替わって文字としての意味が前面に出るようになったのです。

しかもその意味の構造が形から極めて分かりやすいものとなっているので理解するためにはとても便利なものなのです。


明治期にはこの漢字の造語力を利用して非常にたくさんの新しいことばが生まれました。

今現在、私たちが使っている漢字のほとんどはこの時に生み出された漢字だと言えるでしょう。

これ以降、一般的にも漢字かな混用表記が広がるようになり音としての「ことば」よりも文字としての「言葉」の方が重要視されるようになりました。


音読み漢字の熟語を理解する時に私たちはどのように行なっているでしょうか?

「開閉」(かいへい)という熟議があります。二文字とも音読みです。

この熟語を理解する時には「開く(ひらく)ことと閉じる(とじる)こと」としていませんか。

これは文字が持っている意味を動作にして「やまとことば」にした音が「ひらく」であり「とじる」であるということです。


日本語が持っている音は漢語の導入前から変わることなく「ひらがなの音」だけなのです。

この音が日本語の感覚を作っている「ことば」なのです。

この「ひらがなの音」が意味を持った音だったのです。


文字としての「開閉」を見ただけで意味としては理解できますので「ひらく」も「とじる」も音として表現することはないと思われます。

音としては「かいへい」というひらがなの音ですが、これは「ことば」としては意味を持たない音なのです。


言語の伝達は文字によるものよりも話し言葉によるものの方がはるかに多いものとなっています。

その割合は80%とも言われています。

音として意味のない漢字の音読みによって伝達しても日本語の感覚としては伝わり難いものとなっていると思われます。


一般的な情報は視覚によるものが80%程度と言われていますが、言語の場合は同じようにいかないのですね。

目に見えることによって理解できる漢字は視覚に訴えることが多い現代においてはとても便利なものです。

しかし、言語は最終的には音によって感覚とともに理解するものであるようです。


日常的な感覚では漢字がメインでありひらがなが漢字を補っているように映っているのではないでしょうか。

それは文字としての言語情報に慣れすぎてしまった弊害かもしれませんね。

日本語の感覚は音としての「ことば」にこそ籠っているもののようです。


日本語の感覚としての原点である「ひらがなの音」を視覚的な意味として漢字が補っていると考えたほうが良いようです。

その意味では表記したときにも話したときにも同じ感覚として受け取ることができる訓読み漢字こそ和漢融合の傑作と言えるものかもしれないですね。

音読み漢字は日本語の感覚から外れた外来語として扱った方が分かりやすいかもしれません。


もともと漢語自体が日本語から見たら外来語だったことになります。

その漢語から日本語を表記するために生み出したものが仮名です。

さらに、もともと日本語が持っていた「ことば」に文字として持っている漢字の意味に近いものを充てたものが訓読み漢字ということになります。

そこには送り仮名まで生み出して便利な漢字を利用していたのですね。

訓読み漢字は文字としての意味を漢語から拝借した表記を使った「やまとことば」ということができます。


音読み漢字は外来語ですが訓読み漢字は「やまとことば」であると言えるのではないでしょうか。

表記としてたまたま漢語としての漢字の意味を借用したものと言えると思います。

同じ文字であったとしても音読みと訓読みがあることで同じ文字でも読んで意味のある音になるのかならないのかが分かれることになります。

見た目が同じだけに紛らわしいものですね。


音読み漢字の意味を考えているときはその漢字の訓読みをイメージしているのではないでしょうか。

訓読みとしての音を持っていなかったり思い浮かばなかった時に、部首などの文字の構成から意味するところを想像しているものと思われます。

慣れ親しんでいる漢字においては訓読みや「やまとことば」としての置き換えが省略されて、直接的に意味を理解できるようになっているということなのかもしれません。


音読み漢字がしっくりと来るのは専門用語や固有名詞として使用される場合ではないでしょうか。

ある種、外来語と同じ使い方になると思います。

その意味をしっかりと伝えるためには、日本語としての「ことば」で表現しなおす必要があるものと思われます。

文字が使えない口頭だけの環境においては覚えておきたいことですね。


便利な文字である漢字にも日本語の感覚にとっては功罪がありそうです。

特に話し言葉として使用するときには文字としての情報がないだけに漢字の使い方に気を付けたいものです。

訓読み漢字には「ことだま」が生きているのに、音読み漢字には関係のないものになっているということなんですね。



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2014年8月13日水曜日

「ことだま」との共生

何回かにわたって、「ことだま」と「ことあげ」について触れてきました。

日本語型の言語と大きく異なるところが、「ことだま」領域が存在することであり、そこから発生する精神文化的な特徴が言語の特徴となっていることが見えてきました。

現代日本語は、「ことだま」と「ことあげ」の両方の要素を兼ね備えています。


他の先進国の言語には、「ことだま」の要素を持った者が少ないので、そこでの触れ合いにおいては「ことあげ」の方が彼らの感覚に合ったコミュニケーションが可能となります。

ただし、文字のなかった時代より継承されてきた日本語がもともと持っていたものは、「ことだま」との共生です。

日本語のもともとの性格がそこにありますので、「ことあげ」だけの生活においてはどこかで歪を感じることが起きてきます。

これが知らないうちにストレスとなる場合も出てきます。

現代の仕事にかかわる業務の場合には、ほとんどが「ことあげ」の領域で行われています。

仕事でストレスを感じることは、上下関係や人間関係以外だけではなく、使用している言語にも原因があるのかもしれません。


リフレッシュやリラックスを求める時に、言葉の少ない人工物の少ない環境に身を置きたく多くなるのは自然な反応です。

日本語を母語として持つ者は、自然の中に放置されても感覚自体がおかしくなることはないそうです。

他の言語を母語として持つ者は、自然の中に長い間放置されると感覚自体がおかしくなってくるそうです。

何十年と言う森林生活をしていた小野田正一さんが、持っている感覚自体は決して壊れていなかったことは、彼らにとっては驚きなのです。

自然界の音を言葉として感じることができ、会話すらできているような感覚を持つことは他の言語ではありえないことなのです。


私たちの近い感覚で表現してみると、自然の中に放置される彼らの感覚は、自動車の騒音の中に一人でいることと同じようなものだそうです。

そう思うと、とても長時間いられる環境ではないですよね。


日本人思っている感覚の中に、相手に対しての助力の精神があります。

時においては、事故の犠牲を払ってでも、相手へ助力を優先させるものでもあります。

生かされている自分と言う感覚があります。

「ことだま」は森羅万象すべての自然とつながっている領域であり、その中にいる自分を見ることができる領域です。

したがって、自分が主体になることはありません。

その領域には、自分以外のものがすべて含まれてきますので、相手もその領域に含まれることになります。


その領域がなくなる時には、自らの存在自体もなくなることが感覚として理解できていますので、自分自身のことよりもその領域を守ることに力を注ぎます。

その中で生かされている自分を無意識に感じているのだと思われます。

この感覚を表現したものの一つが「神」ではないでしょうか。

また、この感覚を現実の場として利用とする者が「公」であったり「お上」であったりしたのではないでしょうか。


現代日本語の言葉は「ことあげ」との接点の方がはるかに多くなっているのでしょう。

何かの拍子に、違和感を感じながらも現実世界の便利さを利用するためには、その方が都合よくなっているからだと思われます。

日本語同士の会話では、相手を中心に置いたコミュニケーションの場が、どんどん少なくなっていることも大きな要因ではないでしょうか。

全く「ことだま」の感覚を持たない言語と触れる機会が、一気に膨れ上がってきていることも要因でしょう。


そうであっても、母語としての日本語の習得は、母親や家族から伝えられる「ことば」として、必ずひらがなの音から入ってきます。

文字のない時代よりずっと継承されてきた音です。

人の得る情報は80%が視覚からだと言われています。

言語についても、話し言葉から得る情報よりも文字から得る情報の方がはるかに多くなっています。


「ことだま」との接点となる音は、ひらがなの清音だと言われています。

濁音や半濁音のない、五十音表のひらがなの音ですね。

話し言葉としては、すべてがひらがなの音しかありませんが、その音からすぐにひらがな以外の文字が浮かんでくるものがあります。

これは「ことだま」との接点にはならないようです。

アルファベットの音、外来語の音、漢字の音読みの音などは、音を聞いた瞬間に文字をイメージします。

しかもイメージされた文字はひらがなではありません。

ずばり、「ことあげ」につながりやすい音となっています。


漢字の訓読みは、純粋にひらがなの音として入ってきます。

しかし、瞬間的に漢字がイメージされてしまうと同じように「ことあげ」につながりやすくなってしまいます。

「かく」と言う音を聞いて、書く、描く、画く、掻く、欠くなどがすぐに浮かんでしまったり、漢字を探してしまったりしていることでは「ことだま」にはつながらないようです。

純粋にひらがなとしての「かく」を受け入れて初めて「ことだま」へとつながる可能性が出てくるようです。


「ひとり」という言葉に対して、「一人」と思い浮かべるのか「ひとり」として受け入れるのかでは、大きな違いがあるということになります。

もともとひらがなしか表現のない言葉もたくさんあります。

挨拶の言葉は多いですね。

「おはよう」「こんにちは」「さようなら」、人と交わすだけの「ことば」ではないような気もしてきませんか。

「ありがとう」「おめでとう」などは、無理に「有難う」や「御目出とう」などと書くこともありますが、ひらがなの方が素直に入ってきませんか。


そしてこのひらがな言葉が誰にとっても一番わかりやすい言葉となっているのです。

わかりやすい話をする人は、必ずひらがな言葉を多用しています。

ひらがな言葉は、意味としては抽象的なものがとても多いにもかかわらず、なぜか話しとしては分かりやすいのです。

現実の言葉以外の何かが共有されているのかもしれません。

これは日本語を母語として持っている人だけの感覚です。

これを日本語を母語として持たない人が理解しようとすると、「あいまい」だということになるのでしょう。


話し言葉であっても、文章であっても、訓読み漢字とひらがなの多用をお薦めしています。

私は、これらの言葉のことを「現代やまとことば」と呼んでいます。

専門家相手に、個人の成果や論文を発表する場面では役に立ちません。

ビジネス上のプレゼンテーションでも役に立ちません。

そこでは自己の欲求や主張を表現する場ですので、「ことあげ」そのものが行なわれているからです。


それでも、その中で敢えて使ってみることは試してみてもいいことではないでしょうか。

「ことだま」にはつながらなくとも、わかりやすさと言う一点においては絶対的な効果があるはずです。

専門用語やアルファベットの3文字略語などを使った時は、必ず訓読み漢字やひらがなで意味の補充することができると、とたんに聞いている人の反応が変わってくるのがわかります。

「現代やまとことば」は「ことだま」との接点がきっとあるはずです。

できるだけ使ってみませんか。





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2014年8月10日日曜日

「ことだま」への導き

「ことだま」の存在と領域については、誰もが意識していない日本語の特徴であることを述べてきました。
(参照:日本語の向こうにあるモノ(1)~(3)

文字のない時代の古代のやまとことばに、その力が大きかったであろうことは容易に想像できることではないでしょうか。

文字を持たなかった「古代やまとことば」は漢語の導入によって、消滅の危険にさらされていたと思われます。

国の仕組みや仏教の教えなど、国を運営する立場やエリートに属する人たちが新しい先進文化を取り込むために、積極的に漢語を取り込んだからです。

本国の文化に倣い、正史を漢語で残し、公用語としての漢語が浸透していきます。

漢語を身につけないと、中枢の場にいられませんので必死さを伺うことができます。


しかし、漢語の音は「古代やまとことば」と馴染まなかったのではないかと思われます。

すんなり馴染むようであれば、「古代やまとことば」はそのまま漢語に置き換わっていたはずです。

日本人の理解としては、文字はなくとも「古代やまとことば」に漢語を置き換える必要があったのではないでしょうか。

漢語の音は、現代では音読みと言われる音であり、導入された時代によっては漢音・呉音・唐音などがあったと思われます。

現代の私たちから見れば、漢語の読みはカタカナで表現した方がわかりやすいくらいで、「古代やまとことば」の流れを残るひらがなとはかなり違和感のあるモノとなっています。


文字と音で入ってきた漢語を、音しか持たない「古代やまとことば」に翻訳する作業が必要であったと思われます。

そのために漢語を利用して発明されたものが仮名ではないかと考えています。

したがって、漢語が導入されてから万葉集によって漢語を利用したやまとことばが記されるまでは、漢語は一般にはほとんど利用されない政治や仏教に関するエリートの間だけの言語だったと思われます。

その後においても、記録として残っているものが漢語で書かれているだけであり、エリートの間においても普段の生活での言葉は「やまとことば」であったであろうと推察されます。

現存する史料のほとんどが漢文で書かれているだけであり、実際に漢語を使いこなせた人はごくわずかであったのではないかと思われます。


それを表すものとして、勅撰集の存在があると思います。

万葉集は勅撰集とは認められていない私集として扱われています。

それ以前の史料としては、古事記(?)、日本書紀(720)、続日本紀(797)という漢文で書かれた史書と言われるものだけです。

日本書紀が平城京遷都後の10年で書かれており、続日本紀は平安京遷都後の5年で書かれたことからも、時代の背景がわかるのではないでしょう。


最初の勅撰集は漢詩集です、「凌雲新集」(凌雲集 814)であり、続いて「文化秀麗集」(818)、「経国集」(827)と続きますが、漢詩集はこの3集で終わりになります。

この後は漢詩ではなく和歌集として「古今和歌集」(905)以降の「新続古今和歌集」(1439)までの21集につながっていきます。


勅撰集として漢詩集が作られていた時代は、何とか漢語をものにしようとしていた時代であり、和歌集が作られ始めたころは「やまとことば」を書き表す方法が見つけられ、漢語とは異なる「古代やまとことば」から連なる言語体系が出来上がってきたころということができるのではないでしょうか。

和歌の表現形式とともに、文字を含む言語としての「やまとことば」を正式に表したものが「古今和歌集」となると思われます。

「古今和歌集」の序の部分が、漢文で書かれた「真名序」とできる限りの仮名で書かれた「仮名序」の両方が存在することにその証を見ることができるのではないでしょうか。


万葉集の成立年代ははっきりしません。

集められた歌も、長歌がほとんどなっており、古今和歌集との比較においても年代を特定することができなくなっています。

しかし、そこで試みられた漢語の音を利用して「やまとことば」の歌を文字で表現するという行為が、仮名の発展と「やまとことば」の伝承につながっていったことは間違いのないことだと思われます。


音として存在していた「古代やまとことば」が、仮名という文字を与えられたことによって、その表現の可能性を大きく飛躍させていったことは容易に想像できます。

その可能性の後を、「古今和歌集」以降の勅撰和歌集に見ることができます。

限られた文字数や表現形式のなかで磨かれていった表現技術は、短い言葉で無限の大きな空間や心情を表現するための方法を生んできました。

「古代やまとことば」が持っていた「ことだま」の領域を、さらに大きくする効果をもたらしたと思われます。


その中心的な技術である「掛詞」(かけことば)や「本歌取り」は、その多くの部分が「ことだま」とかかわっていると思われます。

一つの言葉としてのひらがなで記された文字からは、純粋な音が導かれます。

その純粋な音を共有するあらゆる「事」や「言」が、感覚としてつながってくる領域が「ことだま」ではないでしょうか。

現実の言語の向こう側にある領域へ導いてくれる音が、「やまとことば」の音ではないでしょうか。

この音は現代の「ひらがな」となって受け継がれています。


優れた和歌によって導かれる感覚は、書かれた文字の意味を離れて、現実とは離れた世界(領域)に連れて行かれるようなものではないでしょうか。

その場から作者を振り返ったときに初めて、詠み手と一体化した三十一文字の音で表現したかったものが見えてくるような気がします。

文字面の意味を解釈した理屈からは、いつまでたっても見えないものではないでしょうか。


和歌で培われた言語技術は今でも生きています。

歌の歌詞や標語などで、スッと受け入れられる言葉はひらがなの音で5音と7音の組み合わせです。

そのリズムと音は、言語を意識しない日常においてすら気持ちよさを伴って入ってきます。


もともと「ことだま」とつながっていたと思われる「古代やまとことば」は文字を持っていませんでした。

漢語という大変便利な言語が導入されても、「古代やまとことば」の音は侵略され切ることがありませんでした。

やがて、便利な言語である漢語を使って「古代やまとことば」を表記する文字を生み出します。

その文字と音を使った和歌の形態を利用して、新しい言葉を加えた「やまとことば」が出来上がっていきます。

これによって、「ことだま」とのつながりは、さらに強固になったのではないでしょうか。


新しい文明による侵攻や便利さの享受においては、漢字やカタカナ・アルファベットによって外来語対応や訳語を生み出してきました。

文字としてはこれだけ沢山の表現方法を持ちながら、音としてはひらがなの音だけしかもたない日本語は本当に面白い存在です。

そのひらがなに「ことだま」の領域との接点があることは間違いなさそうですね。




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2014年8月9日土曜日

言語と「ことだま」

先回までの3回で、「日本語の向こうにあるモノ」として、現実の言語以外に日本語が持っている領域を考えてきました。
(参照:日本語の向こうにあるモノ

これは言語の成り立ちを考えた時に、どのように考えるかによって大きく変わってくることだと思われます。


言語を人間と言う同種の生き物における、仲間同士の合図であると考えると、その種の中だけで理解できるものと限定されてしまいます。

言語を、神とコミュニケーションしたり、祈りをしたりするための祝詞として考えると、自分たちとの間での合図と考えるよりも広く理解されるものとなります。


言語を持ち始めたころの人間は、自然の中で生きていくうえで、自分たちでコントロールできることがあまりにも少なかったと思われます。

そもそも、自然の中で日々生き残っていくことが精いっぱいであり、そのためには食物にしても生活環境にしても自然の偶然に頼らざるを得なかったのではないでしょうか。

自然に祈りをささげ、少しでも自分たちに都合の良い偶然が起こるように願ったのではないでしょうか。

このころの言語は、そのほとんどが「ことだま」となって自然を司っていると感じていた神への祝詞となっていたのではないでしょうか。


やがて人は、知恵を身につけ知識を持って、自然をコントロールすることを始めるようになります。

そして、人が生きていくことにとって都合のいいように自然をいじり始め、自分たちだけが生きる時間を延ばすことによって、自然の生きる時間を削るようになりました。

のぼせ上がった人間は、やがて自然は自分たちでコントロールしきれるものだと過信して、自然の偶然に頼ることをしなくなり、神との本来の会話を忘れるようになります。

自分たちに都合の良いことのみを起こしてくれるものを神として偶像化してしまうようになります。


言語は、自分たちだけの仲間同士の合図でありコミュニケーションの道具となり、神との会話や祝詞としての機能をどんどん失っていくことになります。

自分たちのことだけを声高に語り主張し、相手をひれ伏すための言語が、人が生きるためだけの技術を生み出し世界を席巻していきます。

自然と語り、自然の神と語る言語を持っていた者たちは、次々と人のためだけの言語を持ち技術を磨いていった者たちに侵略をされていきます。

やがては、侵略は言語にまでおよび、神と語り自然と語る祝詞としての言語がどんどん消えていくことになります。


古代の言語は、日本語に限らずおそらくすべての言語が、神と語るための「ことだま」とつながっていたと思われます。

「ことだま」を人間同士の合図としても使えるようになるために、言語が生まれたのではないでしょうか。


多くの言語が、より人だけに都合の良い技術を生み出していくことによって、「ことだま」の部分を失っていきました。

人だけに都合の良い、便利な技術の世話になるためには、その言語を使わなければならないからです。

やがて、ほとんどの言語は、自ら「ことだま」の部分を失っていったか、「ことだま」の部分を失った言語によって侵略されていくことになります。


そんな中で、あらゆる文化や言語の侵略において、特定の言語での対応でこれらをこなして、自然との対話・神との対話をしてきた言語をほぼそのままの形で残してきた言語が日本語です。

生まれたころの言葉の音を継承し、その音の表記のための文字を「ひらがな」として発明しました。

しかもこの言葉は、生まれたころの形をほぼそのまま現代に継承してきています。


「ことだま」の部分をなくした文化や言語への対応は、漢字やアルファベットやカタカナなどを駆使して対応してきました。

音としてのひらがなを利用することはあっても、古代から伝承してきている言語に影響を与えることはほとんどありませんでした。

継承されていく過程で、消えていく言葉が出てくるのは仕方のないことですが、言語そのものを失うことはありませんでした。

これが現代日本語の最大の特徴ではないでしょうか。


言語の特徴は、それを使う人に現れるものです。

「ことだま」を失った言語の人たちから見たら、日本語話者は不思議な存在です。

世界有数の文化国家でありながら、人(自己)中心の技術や便利さについての発展に疑問を感じるようなことをする、訳のわからない存在なのです。

その感覚は、歴史的に彼らの侵略があまり及ばなかった地域である未開地の言語に近いものと映ります。

それにもかかわらず、ノーベル賞の受賞者数を初めとする日本人の優秀さに、その根拠を見つけることができない彼らは、一種の怖さを伴った不思議さとして映っているのです。


日本人は彼らの感覚がわかるのです。

なぜなら、現代日本語の感覚の一部には彼らの言語感覚も大きく影響しているからです。

それによって、築くことができた知識や技術もあることをわかっているのです。

しかし、それだけでないことも意識できなくとも何となく違和感として感じているのです。


「ことだま」領域の存在は意識できるものではないと思われます。

現実には言語(言葉)としてしか現れませんから、使っている本人ですら意識することはないと思われます。

しかし、日本人同士の会話における、理由のない同一感や、自然に中における細やかな音との一体感は感じることができるはずです。

日本語は、先進文明の言語としては、「ことだま」をかなりの領域で持った数少ない言語ではないでしょうか。

もしかしたら、「ことだま」を持った唯一の言語かもしれません。

仲間は、先進文明よりも未開に近い、より自然の中で生活している言語のところにあるように思います。


「ことだま」は「言霊」であると同時に「事霊」です。

先回のブログで述べたように、同じ万葉集のなかで、山上憶良と柿本人麻呂がそれぞれこの言葉を使っています。
(参照:日本語の向こうにあるモノ(3)

文字のなかった時代に「ことだま」という響きがあったことを現わしています。

しかも、それが文字で表せるようになると「言霊」とも「事霊」とも書き表すことができるものとなっていたと思えます。

まさしく、森羅万象自然の中に存在する神としか言いようがないと思われます。


同じ日本人で日本語を話す者であっても、その日本語に対する感覚は一人ひとり異なっています。

そのほとんどは、母親や家族から継承された言語感覚を基礎としているからです。

一人ひとりが持っている「ことだま」の領域も異なっているのだと思います。

それでも、同じ日本語としての言語を使っている限り、共通している部分もたくさんあるはずです。


きっかけは、ひらがな言葉です。

できるだけひらがな言葉を使うことによって、少しでもこの感覚に気付くことができるようになるといいですね。

意識してできることでもないと思いますし、無意識のなかで感じていることですので、「感覚」という言葉でしか表現できないことがとてももどかしいです。


人(自己)中心の知恵や技術が、人が存在できるための自然環境そのものを破壊していることに気づきはじめた人たちがいます。

行動が始まっていますね。

人中心の理屈で考えるとおかしなことでも、自然の中で生かされていることから考えると妥当なことがたくさん出てきています。

自然に生かされている者のみが、生きることを許されているのでしょうか。

健康的な長寿者の人口が多い国が何かの方向性を示しているのかもしれませんね。


ますます、日本語にのめりこんでいきそうですね。




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