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2016年8月12日金曜日

日本語で伝えるための技術(4)

三回にわたってお伝えしてきた伝える技術は、伝えるべき内容が決まっていいるものに対して具体的にどのような伝え方をしたらよいかの観点から見てきたものでした。
  1. 「ひらがなの音」をしっかり発声する
  2.   (参照:日本語で伝えるための技術(1)
  3. 「現代やまとことば」を使う
  4.   (参照:日本語で伝えるための技術(2)
  5. きき手の「きく」活動をサポートする
  6.   (参照:日本語で伝えるための技術(3)
最終回の今回は、伝える内容をどのように定めたらよいかについてみていきたいと思います。



書かれている文章を理解することと話し言葉を理解することの一番大きな違いは、いつでも前の内容を確認することができるかどうかということになります。

書かれた文章を読むという行為は、相手の関係ない読んでいる人独自の行為であり自分だけのペースで読むことが可能になります。

分かりにくい部分についてはいつでも前後の内容を参考にすることができますし、そのための時間も自分の都合でどのように使うこともできます。

そのために修飾関係が分かりにくかったり言葉同士の関係や論理が分かりにくかったりしても何度でも読み返して再確認することが可能となっています。


しかし、話し言葉では一瞬のうちに言葉が流れていき基本的には確認することができません。

せめて聞いている自分の記憶に残っている内容を振り返ることはできますが、その間にも新しい内容が伝えられていることになりますので振り返ることだけに集中することはほとんど不可能といえます。

きき方でも確認してきたように、「ひらがなの音」をすべて聞き取ることは大前提なのですがすべてを聞き取ってから理解していてたのでは次から次へと発せられる内容を理解することは難しいことになります。

そのために「ひらがなの音」を聞きながら言葉の理解や内容の理解に対しての予測が行なわれていることになります。

予測なしに「ひらがなの音」を聞き取ってからすべてを理解することは実際には不可能ではないでしょうか。

きくことの経験が増えることによって予測の精度も上がってきていることになっていると思われます。


伝える内容を定めるときに一番気を付けなければいけないことは、伝える対象者が持っている言語や言葉をできるだけ把握しておくことが必要になります。

相手の氏素性や専門分野や経歴を確認しておくことはそのためにやっていることであり、相手に対してより理解をしやすい言葉や論理を見つけるためにこそ役に立つ情報だといえます。

専門分野の違う相手に対して専門用語を多用しても理解してもらうことは難しくなるばかりになりますし、相手の理解しようとする意欲をそぐことにもつながってしまいます。

共有意思を持つことが好きな日本語感覚においては、同じ専門用語を同じように使う相手に対しては共感を持つことが多くなるものですが、反対に少し違っただけでも反感を持たれる要素にもなってしまいます。

相手の持っている言葉を確認すると同時に使ってもよい場面かどうかを確認することも大切なことになります。


特に伝える場としての環境やメンバーによっても言葉を選択する必要があります。

あらかじめ用意しておいた言葉であっても場によっては変更する必要も出てきます。

自分の言葉ではなく理解してほしい相手の言葉で伝えることが理想になります。


次は、一文をできるだけ短くする必要があります。

この場合に気を付けることは修飾語をできるだけ必要なものだけに絞り切ることが必要になります。

長文の文章の分かりにくさは多くの修飾語による修飾関係の複雑さにあります。

話し言葉で伝える内容で文章のように長い内容を伝える場合には、できるだけ細かく文章を区切ることが必要になります。


さらに、文同士の関係を明確にして相手の予測を助けるための接続詞の使い方が大切になります。

接続詞を聞いたとたんにその後に続く内容が前の文との関係において予測できるものとなるからです。

書かれた文章における接続詞の多さは全体の論理をかえって分かりにくいものとしてしまいますが、話し言葉においては一息ついて接続詞を入れることで相手の予測を利用することが可能となるのです。


最後に来るのが伝えたいことの意図です。

聞いて理解してもらうことが目的の場合は決して多くはないはずです。

それよりも理解したうえで何かをしてもらいたいことのほうが多いのではないでしょうか。

そのことをどこまで直接的に伝えるのかは場や環境によって異なると思われますが、それでも効果的な伝え方をしなければなりません。

意図が伝わらなければ「行間が読めない」という感じを味わうことにもなりかねません。


自分の意図したことと違った伝わり方をしてしまった経験は誰にもあると思います。

ほとんどの場合は「仕方ない」ということになっているのだと思います。

日本語の感覚では意図や意思をはっきりと表明することは決して効果的ではないということになります。

もちろん明確にすることが必要な場面がないわけではありませんが、実社会においては相手に応じて言葉を選び使い方を選ぶことが必要になってきます。

「ことあげ」が嫌われる日本の精神文化のなかで磨かれてきた感覚ではないでしょうか。
(参照:「言挙げ」(ことあげ)に見る日本の精神文化


具体的な言葉としてこれらのことを自然に行なえるのが「現代やまとことば」ということになります。
(参照:「現代やまとことば」を経験する(1)

特に、相手の持っている言葉が明確になっていない場合や伝えるべき相手が明確にわかっていない場合などでは圧倒的な力を発揮する言葉となります。

専門家同士の会話においてさえもよりわかり易い言葉と使い方が尊重されているのが現状です。

一般的な人を相手とする場合には同じことを説明するのに分かりやすさが優先されるのは間違いのないことです。


自己満足的な独りよがりな表現が分かりやすさに勝ることがないのは歌においても同じことが言えます。

「現代やまとことば」による歌が歌詞の内容以上に人に伝わるのは、日本語が持っている音としての「ことだま」のチカラかもしれません。


このチカラを歌の中だけに留めておくことはないと思います。

もっと普段の話し言葉の中でも活かしていけるのではないでしょうか。

日本語が自然に持っている感覚をそのまま生かしていくことが一番伝わることになりそうですね。



・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。

・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。

2015年11月24日火曜日

欲求を表に出さない日本語感覚

自分の持っている欲求をそのまま表に表現することを善としない感覚が日本語にはあります。

欲求や自己主張をすべき場面であっても、オブラートに包んだような表現に成ってしまい意図が伝わらないことも多くあります。

自己主張を明確にして彼我の違いを明らかにしてその違いに価値を認めようとする欧米型の言語感覚とは、表現することに対する基本的なものが異なっているということができます。


このことは日本語の環境における文化が培ってきたものであり、その精神文化が言語の感覚として継承されてきているものです。

古くは「古事記」や「万葉集」の中にもその感覚を見てみることができます。

それは「ことあげ」(言挙げ、事挙げ)と呼ばれたものです。
(参照:「言挙げ」(ことあげ)に見る日本の精神文化


個人としての欲求や希望は人に対して表明してはいけないものとして扱われています。

唯一、神に対してのみ行なうことを許された行為となっており人に対して自己主張や欲求を直接的に語ってはいけないこととして一種の戒めとして扱われています。

この「言」という文字は神が行なったり神に対して行なったりするときのみに使われたものであり、人が対象にかかわらず言葉を発する意味で使われるようになったのは明治以降ではないかと言われています。

それ以前は、神にかかわる文字として神聖視されていたものと思われます。

現在のように何に対しても話すことに対して使われた「いう」は「謂う」「云う」などが使われていました。


日本語感覚における神は人を超越した自然神として扱われており、人の名を持っていたとしても超越したものとしての表現がなされたものがほとんどです。

それに対して欧米型言語の感覚における神は究極の人として扱われており、人間として表現されています。

死んだり生き返ったりすることがその典型であり、人を超えるしたものではなく人の延長線上にあるものとして扱われています。

その分、彼らにとっては神はより身近なものであり日本語の感覚における自然神とは一線を画したものとなっているようです。


人にとってのいちばんの脅威が自然環境の変化にある日本語感覚においては、そこに神を感じることによって怒れる荒れ狂う自然に対して人が協力して対処しようとします。

怒れる自然の前には人は協力せざるを得なくなるために、人同士の争いごとよりも自然に対処することの方が大切になります。

そのために人同士は協力し合うために共通性を見つけることでより同調しやすいようになっている感覚を持っていると思われます。

そのためには、ささやかな共通性を発見することで安心する要素が増えて協力をしやすいようになっているのではないでしょうか。


ささやかな相違よりも共通性に目が行って発見しやすくなっているおもと思われます。

最大の脅威である自然環境(神)の変化に対して協力して対処するための基盤がそこにあると思われます。
(参照:共通性の発見で安心する日本語感覚


協力を前提として共通性を発見していくためには、自己主張や個人の欲求をはっきりと表明することは妨げになります。

個人としての欲求は対峙するものであったとしても自然の脅威の前では協力してこれに当たらなければならないのですから、妨げのなるものは直接的には見えないようにしていくことになります。

そのための教訓が「ことあげ」ではないでしょうか。


欧米型言語の感覚では、最大の脅威が人になります。

他の民族による侵略や攻撃が自然環境の変化よりも生命に対しての現実的な脅威となっていたのです。

自然は他の民族の侵略や攻撃に対して利用すべき最大の環境であったと思われます。


人が驚異の対象ですので、敵か味方かを明確にしなければなりません。

協力すべき相手か敵対すべき相手かの判断が生死を分けることになるからです。

そのために曖昧な強調よりも厳格な差異を求めるようになります。

心情面のつながりよりも明確な罰則のある契約を求めるようになります。

強弱の関係による現実的な支配を求めるようになります。


そのためには個人としての主張を明確に表現して彼我の違いをはっきりさせなければなりません。

その違いに対して、少しでも自分にとって都合の良い方にしようとします。

そのためには自然環境をも利用することになるのです。


日本語の環境下においては自己の主張や個人の欲求を明確に表明することは日本語の母語としての感覚が待ったをかけるようになっているのです。

これを無理に表明するようにするとどこかで歪が出てストレスを感じるようになってしまうのです。

どうしても避けることができないそんな時には、日本語の環境を離れてしまうことをお薦めします。


企業での公用語を英語にするところが出てきています。

英語の感覚を利用する場合にはとても適しています。

しかし、日本語の感覚と英語の感覚とをよく理解していないと全く無駄になるだけではありません。


母語でない言語でコミュニケーションをとるわけになりますので、コミュニケーションの質が母語で行なうよりもはるかに低くなってしまうのです。

使いこなせないまでも英語を使うことでその言語の持つ感覚は自然に現れてきます。

日本語よりも英語の方が自己主張がしやすく他人批判がしやすいことは間違いありません。

しかしそれをより深い質の高い次元で求めると母語に頼らざるを得なくなります。


表面的な言語の感覚を利用するには使用言語を指定することが一番簡単ですが、深度は母語よりもはるかに浅いものにならざるを得ません。

母語は書き換えることができない者であると同時に、単なる言語ではなく感覚として知的活動のすべてに影響を与えているものです。

その人にとっての最高の知的活動は母語によってでしか発揮することは出来ないのです。


表面的な対応や体裁は英語を公用語とすることによって可能となるでしょう。

しかし、日本の持っているものを生かして日本らしいしかもレベルの高いものを実現しようとしたときには間違いなく妨げとなってしまうのです。

日本語の持っている感覚を生かせる環境が減っていっていると思われます。

日本語の感覚が生かせる環境にあるからこそ、その優秀さが生かせるものです。


日本語を母語とする者が日本語の感覚を生かせる環境で活動をしていないこと自体がもったいないことなのです。

戦後の欧米型言語の感覚を押し付けられた社会は、日本語の感覚からは遠いところを走ってきました。

気づいた者たちが少しずつ日本語の感覚の社会を取り戻しています。

母語の感覚がそのまま生かせる社会で生活をしながら、他の言語の感覚とも付き合い方を学んでいくことが大切ではないでしょうか。

言語の感覚にすべてが現れているのだから、決して難しいことではないと思われます。



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2014年8月11日月曜日

「ことだま」と「ことあげ」

ここ何回かにわたって、「ことだま」について見てきました。

「ことだま」について一番わかりやすい史料は万葉集です。

敢えてひらがなで「ことだま」と記しているのも、その影響を考えてのことです。


万葉集には「ことだま」という音で読むことができる言葉が二つ出てきます。

一つ目は、柿本人麻呂が表現したとされる「事霊」(ことだま)であり、もう一つが山上の憶良によって表現された「言霊」(ことだま)です。

どちらの言葉も何回も出てきます。


やまとことばから漢字への流れにおいては、文字のなかった「古代やまとことば」を文字表現したときに、より具体的にしたものが漢字で表現されたものとなっています。

したがって、音が同じ言葉であれば「古代やまとことば」としては同じものとして扱われていたことがわかります。

「かく」という漢字は、書く、描く、掻く、画く、欠く、などがありますが、ここから「古代やまとことば」としての「かく」が使われていたニュアンスを推し量ることができます。


「ことだま」が用いられている表現に多い例が「やまと」や「我が国」などという日本とのいう意味の言葉と一緒に使われていることです。

敢えて日本という国や地域を意識して「ことだま」が使われていることを考えると、当時であっても自分たちの中に「ことだま」については他の国にはない独特の感覚であることを感じていたのではないでしょうか。


「ことだま」を考える時に、一緒に考えておかなければいけない言葉があります。

それが「ことあげ」です。

「言挙(げ)」などと表現したりします。

一部の解釈としては、神道における宗教的教義や解釈を「ことば」によって行うことを意味するものとされていますが、もっと広い意味で考えたほうがいいようです。

現代神道では「神道では言挙げせず」ということもあるようです。


「ことだま」という感覚は、一つひとつの言葉を大切にして現実の言語としての言葉だけではなく、その音や文字から導かれる「こと(事)」の領域へ移れることを意味します。

そのためには、多言は「ことだま」のチカラを弱めることになり、言葉を使いすぎることによって慢心が生まれることになります。

「言挙げ」が初めて登場するのが古事記においてです。

伊吹山の神を討ち取りに出かけたヤマトタケルが白猪に遭い、「これは神の使者であろう。今殺さず帰る時に殺そう」と「言挙げ」する場面があります。

このヤマトタケルによる言挙げがその慢心によるものであったため、神の祟りによって殺されてしまったと言うものです。


「言挙げ」とは、自分の意思をはっきりと「ことば」に出して言うことであり、その言葉が自分の慢心から発せられた場合には悪い結果がもたらされるとされるものです。

「ことば」とは現代使用されている「言葉」よりの広義の意味を含んであおり、やまとことばとして身振りや態度など音声以外の物を含んだものとなっていると思われます。


とても日本らしい戒めではないでしょうか。

「ことだま」に頼ることになると、「ことば」が氾濫します。

しかし、ひとことずつ真剣に選び抜かれて真摯に発せられる「ことば」でないと、「ことだま」の領域にはいけないということです。

自分の欲望や慢心から発せられる「ことば」は、「言挙げ」として何らかの悪い結果をもたらすものとなります。

また、「ことば」が多いことが慢心を呼ぶこととしての啓示ともとることができます。


決して多くを語らず、選び抜かれた「ことば」による「ことだま」の領域を感じることで、現実の言葉以外の「こと(事)」を互いに理解することができる感覚になるということではないでしょうか。

そこには自己の欲望や慢心を「ことば」として発してはならないという、「言挙げ」の戒めがきちんと備わっているのです。

「ことだま」が多く取り上げられている万葉集においても、柿本人麻呂の歌の一部に以下のようなものがあります。

 葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国(現代語表示)


「ことだま」を詠った人麻呂自身が「言挙げ」について述べているのです。

日本人は今でも、自己主張の多い者を嫌います、言葉の多い者を嫌います、自己の欲望や慢心を発する者を嫌います。

言葉少なに自然と同化する者を好みます、無言で意思の通じ合うことを尊びます、置かれている環境を斟酌することを尊敬します。

この感覚は、はるか昔から「古代やまとことば」の音を通して、ずっと継承されてきているのではないでしょうか。


現代でのテクニックにおいては「言挙げ」ばかりが取り上げられていると思います。

特にプレゼンテーションにおいてです。


スティーブ・ジョブズの有名なプレゼンテーションに魅せられた人も多いと思いますが、違和感を感じられた人もいることがわかっています。

実は、英語の感覚がわかる人が、ほとんど英語で理解できる場合には、何の違和感も感じることなく受け入れることができるようです。


どんなに素晴らしいモノや画期的なモノであっても、本当にその価値があるモノであっても、多くを語られると拒否してしまうことが増えます。

日本人は物に対しての執着があまりありません。

物に対しての評価は、人に対しての評価よりもはるかに下位にあります。

次元が違うと言った方がいいかもしれません。


自然に存在するモノに対して敬意を持って接するようになっているようです。

そこに神の存在を感じるようになっているのかもしれません。

物や理論を理解することよりも、その人を理解することに感覚を研ぎ澄まします。

そのために、「ことだま」の領域感覚が大いに活用されるのではないでしょうか。


このものすごい無意識のチカラには、それをきちんと使うための戒めがちゃんと用意されていたのですね。

「言挙げ」にならないように意識することが、「ことだま」を自然な感覚で生かせることにつながるようです。

しばらく意識してみませんか「言挙げ」。




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