ラベル 日本語の感覚 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 日本語の感覚 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2017年10月9日月曜日

「愛する」が苦手な日本人

あなたは「愛する」(愛している)という言葉を誰かに対して本気で伝えたことがあるでしょうか。

わたしも使ってみたことはありますが、その時の間の悪さやおかしな感覚は今でもはっきりと覚えています。

使った後でも言わなければよかったと何度も考えさせられました。

その場の勢いや格好をつけて言う分には取り立てて意識はしないのですが、本意としての「愛してる」を伝えようと思うとどうしても言葉が違うのではないかという違和感が残っているのです。

その理由を日本語の面から考えてみました。


まずは結論からいきます。

「愛する」という言葉は日本語ではなかったのです。

日本語を母語として生きてきた私にとっては本当に言いたいことを表現するときには、自然と母語として持っている日本語が出てきます。

しかもきちんと相手に伝えたいと思えば思うほど感覚的な日本語が多く使われていくことになります。


さて、「愛する」が日本語ではないということは外来語であるということになります。

原点としての日本語は「古代やまとことば」として、文字のなかった時代より使われていた話し言葉のみの「ことば」たちになります。

やがて漢語が伝わり「古代やまとことば」を文字として表記するために使われるようになります。


ところが漢語は日本語のように活用形を持っていません。

国語の時間に習った、未然・連用・終止・連体・仮定・命令・意思・音便・・・の活用形によって言葉の語尾が変化するあれですね。

この変化する部分については漢語で表現することは不可能でした。

そのために仮名が必要となり和漢混交文(漢字かな交じり文)が日本語の標準形となってきたのです。


「古代やまとことば」から継承された言い方は読み仮名としても訓読みとしてひらがな表記されることで確認することができます。

導入された漢語としての読み方は音読みとしてカタカナ表記されていることで区別することができます。

音読みを複数持っている漢字は中国の時代によって読み方が変わった、呉音・唐音・漢音などの名残となっているものです。


つまりは、同じ漢字であっても音読みは漢語のまま日本語として取り込まれていった外来語であり、訓読みはもともとの「(古代)やまとことば」に近い意味を持つ漢字を使った日本語であるということができます。

「愛する」の「愛」の読み「アイ」は音読みです。

漢語では「愛」のままで動詞として使われています。

この「愛」をそのままの意味で使える「やまとことば」は存在していなかったのではないでしょうか。

そのために日本語の動詞としても利用できるように音読みを使いながら「愛する」という使い方になってきたのです。


この種の外来語は非常にたくさんあります。

「憶する」「適する」「発する」「没する」「感じる」「弁じる」「断ずる」「禁じる」「生じる」「信じる」・・・音読み漢字の動詞はいくらでも出てくるのではないでしょうか。

一文字にかかわらず「勉強する」「旅行する」「通勤する」「失敗する」「経験する」などもすべて同じ成り立ちになります。

これらはすべてもともとの「やまとことば」の感覚としては持っていなかった言葉ということになります。

「生じる」の「生」などは一番数多くの訓読みを持っている漢字でもありいくらでも「やまとことば」として言い換えることばを持っているのですが、それでも「生じる」としての使い方はけっして少なくありません。

これは歴史文化的に常に先進文明は外国からやって来ており、いち早くそれに触れて使いこなすことがインテリの証明でありチカラの証明であり憧れだったからです。

漢語が取り込まれた後は公式記録は漢文となり漢語を使いこなすことが権力への近道でした。

明治維新後はヨーロッパからの新しい文化や技術は漢語の組み合わせで言葉が作られて取り込まれていきました。

ヨーロッパの外来語を漢語という外来語で表記して日本語化していったことになります。

それまでの「やまとことば」よりも新しい外来語を使うことが流行りでもあり格好のいいことだったのです。


特に文章や記録として表現するときには漢字の意味を持った文字は内容を理解するのにとても役に立ちます。

他の言語に比べて音数が圧倒的に少ない日本語は同音異義語の宝庫であり漢字で書き表すことで解消できる部分も多くあります。

精神文化的にもアルファベットやカタカナによる外来語には目を引かれやすくなっていますし、ひらがなよりも漢字のほうがどうしても上位にあることになっているのです。

公式文書は漢字だらけですし役所の文書も漢字だらけ、法律や契約書も漢字だらけのものとなっています。


ところが、話し言葉になったとたんに漢字が意味を持たないものとなっていくのです。

もともと文字を持たなかった「やまとことば」が本領を発揮してくるのです。

同音異義語の多さの要因は漢字の音読みにあるわけですから、「やまとことば」そのものに同音異義語はないことになります。


「かく」という「やまとことば」があらわす意味は漢字で書けば「書く」「掻く」「描く」「画く」「欠く」などありますが、話し言葉で使われている「かく」はそのすべてを包括しており漢字に置き換えなくとも間違えることはありません。

分かりやすさとしては表現に気を付ける程度で十分です。

文字としての「愛する」は抵抗もなく書けたとしても話ことばとしての「愛する」は何とも使いにくいものとなっているのは、もともとが外来語であるためにその言葉としての感覚が母語として持っている日本語では掴みにくくなっているからなのです。


話しことばとしては「愛する」よりも「恋する」のほうがよほど馴染みがいいのです。

「愛(アイ)」は読み方(音)としても外来語ですが「恋(こい)」は読み方としては訓読み、つまり「やまとことば」なのです。

百人一首にも「恋」が詠まれています。

忍れど色に出にけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまで
平兼盛(40番) 『拾遺集』恋一・622

最古の和歌集といわれる「古今和歌集」においてもも「恋歌」として五巻にわたって取り上げられておりその歌数は収集されている中で一番多いものになっています。

「愛」という考え方や感情を表す言葉がまだまだ日本人には馴染んでいないんでしょうね。

音読みで使われている限りは完全な日本語になることはないのかもしれませんね。

さらに、「愛」というのは自分の感情を最大限に表現する場面ではないでしょうか。

「好きです」や「大好き」は言えても「愛しています」はどうも日本人の感覚としてはしっくりと来ないのです。


「愛してる」は外来語ですので "I love you."というのと変わりがないことになります。

格好をつけたり気取った人ならば言えたとしても、ほとんどの日本人にとっては口にしにくい言葉ではないでしょうか。

自分の感情を表す言葉ほど「やまとことば」で表現したほうが感覚的にもすんなりいきそうですね。


・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。

・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。

2016年11月2日水曜日

教わらなかった、日本語の使い方

あらゆる場面で言語間の垣根が崩れ始めていると思われます。

日本語の「ありがとう」に当たる言葉を5ヶ国語以上で言える人もかなりいるのではないでしょうか。

2020年の2度目のオリンピックを前にして近年特にインバウンド(来邦者)に注目が集まっています。


東京駅近辺を歩いていても話しかけられる言語は英語だけではなくなってきているのが現状であり、私の住んでいる埼玉県南部でも毎日のように英語以外の言語が飛び交っています。

相手に合わせることを基本的な感覚として軸にしている日本の感覚では、自分のことを伝えることよりも相手のことを理解することに意識が行ってしまうのは仕方のないことです。

同じ環境で中国語を母語とするメンバーがいると自己主張の強さに圧倒される経験は多くの人が味わっているのではないでしょうか。

欧米の言語を母語とする人たちの自己主張には慣れているものの、見た目にも日本人と区別のつかないような彼らの強烈な自己主張はそのギャップにも強烈さを感じる原因があると思われます。


日本語を母語とする者だけの中では通用していた暗黙の基本的な言語感覚が彼らとの間では通用しないものとなっているのです。

私たちが教わってきた日本語の使い方は、日本語を母語として持っている人たちの中でしか通用しないものです。

言語が異なれば、それぞれの言語が持っている基本的な感覚が異なるのは当然のことです。

言語が持っている基本的な感覚は、その言語を母語とする人たちの天性の感覚ともいうべきものとして存在しており、そこにはその言語が持っている歴史的な精神文化が反映されたものとなっています。


世界の言語環境の中で、日本語の環境は他の言語とは大きく異なった環境の中で継承されてきたものです。
(参照:日本語の感覚を確かめる

この言語の持つ基本的な感覚は実際に表現することはとても難しいものになります。

日本語を母語とする者同士の間では言葉にする前の当たり前の感覚として意識することすらないものですので、言葉で表現すること自体がほとんど行われていないからです。

他の言語との関係において比較言語学などの分野において専門的に扱わなければ必要としないものではないでしょうか。

まさしく、学校教育の日本語の環境では触れる必要のなかったものになります。


実際のこの感覚は、母語としての日本語を身に着けていく間に自然に身につくものであり、どんな日本語を母語として持っているかによって人によって微妙に異なっているものでもあります。

しかし、その異なり方は他の言語との接点においては問題にならない程度のものであり日本語の持つ感覚として一括りにしてしまってもまったくかなわない程度のものとなっています。


日本語の持っている相手を理解しようとする強い感覚は、自己主張の強い言語との接点においては苦労をすることになります。

一方的に自己主張を繰り返されても、それを理解できないのは自分の理解力がないからだと思ってしまいがちになるからです。

自己主張の意識の強い感覚を持った言語の話者のほうは、「こいつは俺の言っていることが分からないな。」と簡単に切り替えることができることに比べるととても面倒くさい感覚になります。

しかも、それが言語が持っている基本的な感覚だと知らないと「相手の言っていることが分からない自分が悪い。」という罪悪感すら持ってしまうことになりかねません。

さらには、そんな思いをしたくないために外国語を学ぼうとしたりしてしまうことにもなります。


私たちは、日本語を母語とする環境の中での日本語の使い方しか教わってきていないのです。

他の言語との接点では日本語の使い方が違ってこなければならないことになります。

それは、具体的な日本語としての言葉や用法を変えるということではありません。

日本語が持っている基本的な感覚を相手の言語の感覚に振り回されないようにするということになるのです。


日本語が世界で一番自己主張の強い感覚を持った言語であれば、何も問題はありません。

どんな言語と触れ合ったとしても日本語の感覚でそのまま感じていれば何のストレスもないからです。

ところが日本語の持っている基本的な感覚は相手を理解することが自分を理解させることよりもずっと強いものとなっているのです。

言語の持っている基本的な感覚はそれに従わないと大きなストレスを感じることになります。

さらにその感覚に対してある程度の納得が得られないと同じようにストレスを感じるものとなっています。


つまりは、日本語の持っている基本的な感覚を裸のままで他の言語と触れ合うとストレスをためることになってしまうのです。

日本語の持っている基本的な感覚は先進文明との接点が少ない原住民の言語感覚に近いものがあります。

それは、自然との融合であり自然の中で生かされている自分を感覚として持っているものであり、自然すらもコントロールしようとする自己主張の強い感覚とは異なるものとなっています。

それは、歴史や精神文化的に生きていくための脅威が他国や人による侵略よりも自然による災害のほうが強かったからではないでしょうか。
(参照:日本語の感覚に迫る


相手の持っている母語によって日本語の持っている基本的な感覚が受ける影響も変わってきます。

これに対処するための日本語の使い方など教わった記憶がありません。

日本語だけの環境のおける日本語の使い方とは異なったものが必要になります。

意識しないうちにストレスから自分を守るためにも相手の持っている母語の感覚を知っておくことは大切になります。


細かく言えば英語や中国語であっても一人ひとりの母語は微妙に異なっているのですが、日本語の感覚に与える影響としては大括りで構わないと思います。

少なくとも日本語語が持っている基本的な感覚である相手を理解しようとする感覚に対してストレスを与えるような強い自己主張的な感覚があるのかどうかを知っておくっことは大切だと思います。

そのうえで、それに対応できる日本語の使い方で思考の上からストレスを感じないで済むようにしたいものです。


日本語による表現の豊かさは話し言葉においても文章においても簡単に外国語に翻訳できるものではありません。

直訳的に翻訳されてもかまわないような日本語の使い方も身に着けておく必要があります。

ネットの世界では勝手に翻訳されて読まれています。

日本語話者同士の中でも問題になるような表現もありますが、知らないうちに翻訳されたものは勝手に知らないうちに独り歩きをしていきます。

気を付けて発信していきたいですね。



・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。

・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。

2016年2月27日土曜日

「ひらがな」を使いこなせ

日本語の基本的な特徴がよく現れてくるのが「ひらがな」であることは何度となく触れてきました。

文字としてはひらがな、カタカナ、漢字、アルファベットを使いこなしながらも日本語としての基本的な感覚を継承し表現しているものは「ひらがな」によるものです。

どの様な表現をしようとしても、日本語としての表現をしている以上かならず現れてしまう傾向というものが存在しています。

その傾向を作っているのが「ひらがな」なんですね。


日本語だけの環境にいる場合においては、日本語における表現の違いで論理的な内容であったり情緒的な内容であったりするのにふさわしい表現をしようとしています。

その感覚の違いは日本語を母語とする者でなければ理解できないような微妙なものにもなっていることでしょう。


日本語が持っている基本的な感覚は直感的であり情緒的な表現に適しているものでもあります。

その日本語が明治維新を契機としてヨーロッパをはじめとした先進文明に触れながら新しい言葉や使い方を生み出していくことになりました。

新しい感覚はそれまでの日本語と比べたら論理的であり主観的なものです。

それらに対応するために新しい言葉として漢字やカタカナ・アルファベットを利用しました。


しかし、文の基本的な構成や新しい言葉をつなぐ文法に変化があったわけではありません。

新しい言葉として生み出されたり導入されたものはほとんどが名詞です。

名詞は表現の中の大事な要素ですが名詞だけで表現ができるわけではありません。


むしろ、要素としての名詞同士がどのような関係にあるのかの方が内容を理解するためには必要な場合が多くなります。

客観的に具体的な物を表現するときには名詞がなければできませんが、感覚的なことや状況を説明する時にはそれ以外の要素の方が重要になることすらあります。

これらのことを行なっているのが「ひらがな」なのです。


日本語の基本が「ひらがな」であることを確かめる一つの方法があります。

短い内容でいいので、あなたが伝えたいと思うことを書き出してみてください。

自分で伝えたいと思う言葉で構いません。


そこで書かれた言葉の一つ一つを「ひらがな」のことばで置き換えてみてください。
話しことばで問題ありません。

特に漢字で書かれた言葉やカタカナ・アルファベットで書かれた言葉に注目してください。

ひとことで置き換えられる場合もあればじれったくなるくらい長い表現になることもあると思います。

「ひらがな」にはなったものの何のことだかよく分からいものもあるかもしれません。


基本的にひとことに近い形で「ひらがな」になっていない場合はその言葉が自分の物になっていない場合が多くなっていると思います。

自分自身でよく理解できていない言葉なのです。

そんな言葉を使って伝えてもみても聞き手は理解できないのです。

自分が伝えようと思っている言葉が自分自身でしっかりと解釈できていないとしたら、相手にキチンと伝わるわけがありません。


ひとつの単語ですらこのようなことですので、そのような単語がいくつか登場してきたらもうほとんど内容は伝わらないということになります。

瞬間的に音読み漢字の熟語やカタカナ言葉、アルファベットや略語を使ってしまうことはあると思います。

そんな場合であっても「ひらがな」ことばで言い換えたり付け加えたりすればいいだけのことです。


漢字の熟語やカタカナ・アルファベットを使って表現をしているとなんとなく専門用語を使いこなしているような錯覚に陥ることがあります。

本当の専門家は同じことを誰でもが分かるような表現で伝えてくれます。

それが「ひらがな」ことばであることは以外に気づかれていないことではないでしょうか。

わかり易さを追求していくと最後はすべてが「ひらがな」になります。


単語としての言葉が「ひらがな」で表現できるようになったら、次に気をつけるのは普段は無意識に使っている助詞や接続詞としての「ひらがな」です。

この「ひらがな」たちが論理や言葉同士の関係を作っているからです。

「わたし」の「は」であり、「経済」の「が」であり、「しかし」「さらには」「なぜなら」などのひらがながとても大切な役割を果たしているのです。

言葉同士の関係や、前後の言葉や文章の関係を教えてくれるのがこれらの「ひらがな」ことばなのです。

「しかし」の画像検索結果

更には、気持ちや思いを表す言葉は動詞や形容詞として使われる言葉の語尾の表現で行なわれているのです。

文章の最後に登場することが多くなるこれらの表現は、最後までしっかりと話を聞かないと分かりません。

そのためには伝える方も意識して語尾のひらがなをきちんと伝えてあげる必要があるのです。


話し言葉は漢字やカタカナ・アルファベットとしては決して伝わりません。

「ひらがな」の音としてしか伝わらないのです。

聞き手は、伝わった「ひらがな」の音を頼りにして漢字やカタカナ・アルファベットを思い浮かべているにすぎないのです。

「ひらがな」の音を頼りにして言葉を見つけていることになります。

もともとが「ひらはな」ことばで有ればより正確に伝わる事は間違いありませんね。


どうしても意識が行ってしまうのが文字としての漢字やカタカナ・アルファベットです。

これは仕方のないことです。

人の情報は視覚から入ってくるものが圧倒的に多いからです。

さらに馴染みの薄いもののほうに目が採られてしまうのは仕方のないことでもあります。

しかし、肝心なことは一番気に留めていない「ひらがな」によって行なわれているのです。


母語として日本語を習得して日常言語として使用している私たちは、どんなに他の言語を学ぼうとも日本語による以上の知的活動を行なうことは不可能です。

知的活動としては日本語で行なうことが一番質の高い活動ができることになります。

そのためには「ひらがな」の使い方をもっと上手にできるようにしておいた方がよさそうです。


そういえば実際に読み書きとしての「ひらがな」を学んだのはあっという間でしかなかったようです。

更に「ひらがな」による表現についてはほとんど学んだ記憶すらありません。

漢字や英語に比べたらはるかに少ない学習期間だったにもかかわらず一番大切なことばだったのですね。

あらためて意識してみませんか「ひらがな」。

日本語のチカラは「ひらがな」にあるようですよ。


ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。

「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。

2015年6月15日月曜日

人を決める三要素

先回は占いについて触れてみました。
(参照:占いと言語

もう少し正確に表現すると、生まれた時にすでに持っていると思われる個人としての気質的なものについて触れてみたと言った方がいいかもしれません。

かなり科学的なものであり、占いというよりは統計学といった方がいいのかもしれません。


つまり、人には持って生まれた気質があり、これに後天的な要因が加わって個人としての性質(個性)が形成されていくと思われます。

後天的な要因の最たるものが言語(母語)ではないでしょうか。

あらゆる知的活動は言語によって行われていますので、もの心がつき始めからは母語としての言語による活動で判断や行動をしていくことになります。


言語は生まれてからすぐに身に付き始めて、知的活動が行われる前からそれぞれの言語に適した知的活動のための器官が発達していきます。

持って生まれた気質から見れば、第二の本能ともいえるものとなり、言語が持っている基本的な感覚は個人としての人間形成に大きな影響を与えていると思われます。

特に日本語は、世界の他の言語と比較したときにきわめて独特な特徴を有しています。

そのために、日本人は世界から見てもきわめて独特な特徴を持った民族として映っているのです。


それでは、同じ日時に生まれて同じように日本語を母語としている人が、個性的にも同じようなものなのかといえば明らかにNoです。

持って生まれた気質と母語以外にさらに後天的な要因があると思われます。

それが、それぞれの環境における体験ではないでしょうか。

とくに、知的活動が活発に行われるようになるもの心がついてからの体験は、個人としての性格(個性)を形成する大きな要素となっていると思われます。


同じような環境で同じような体験をしても、そこでの感覚は持っている気質と母語によって異なりますので知的活動として受け取る結果も異なることになります。

さらに、同じ日本語という言語を母語として持っていると言っても、母親から伝承された言語である母語は厳密に言えば一人ひとり異なった言語となっているものです。

知的活動のためのツールとしての基準が微妙に異なっていると思った方がいいと思います。


したがって、それぞれの環境における体験によって蓄積される判断基準が出来上がってきます。

これが、一人ひとりの価値観ではないでしょうか。

同じ貧乏の環境にあったとしても、それを恥かしい悔しいと思って生きてきた場合と、周りと大して違わないと思って生きてきた場合では明らかに価値観が違ってきます。

そのことは、金銭的なことに対する判断基準や行動として現れてくることになります。


価値観は、持って生まれた気質や母語よりもさらに後天的に形成されていきますので、価値観を決めるための材料には多くのものが採り込まれていきます。

教育もあれば、自分で得た知識もあるし、特殊な環境における独特の判断基準もあるのではないでしょうか。

それらは、すべて言語によって伝えられ認識していきますので、価値観の形成においても言語の持っている役割は大きいと言うことができます。

同じ価値基準を伝えようとしても、言語技術によっては異なったものとして伝わることもあるからです。


伝えるのも言語ならば、理解するのも言語です。

しかも一人ひとりが微妙に違った日本語という言語ということになります。

さらに、価値観については自分で築いた基準というものはかなり少ないと思われます。

その時の環境において優位者の都合の良いように作られた価値観は山ほど存在しています。

また、一般常識や世間体などといった押し付けられた価値観もたくさん存在しています。

いわゆる「ねばならない」に基づく価値観がかなりたくさんあるのではないでしょうか。


日本語の持つ感覚には、価値観に対してはとても寛容な感覚となっています。

誰もがどのように感じようとも、どのような価値観を持とうとも何の問題もないような感覚となっています。

宗教に対する感覚ひとつをとってみてもわかるのではないでしょうか。


ただし、村八分のような行動が行なわれた裏には、表面的には共同体としての価値観の共有を必要としていたことがあるのではないでしょうか。

それは自然という人力の及ばない環境変化に対して、協力して対応して生きてくことを撰んだ必然だったと思われます。

そこでも行動としての共通性は求められましたが、価値観という感覚はなかったと思われます。


あらためて日本語の持っている感覚について見る目をもらった気がします。

持って生まれた基本的な気質に一番大きな影響を与えているのが母語としての言語だったのです。

そんな観点から、あらためて日本語の持っている感覚についても見直してみたいと思います。