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2015年8月1日土曜日

横書き文化がもたらしたもの

言語について考える時に、その言語を使用する民族の地理的背景や歴史的な背景を抜きにして考えることは出来ません。

歴史の長い言語ほど、現代にまで伝わってくる過程においていろいろな変化をしてきていると思われます。

そのために言語は、その言語を使用する民族における文化歴史の背景を映しているものであると同時に、目に見えない歴史文化を継承していくものでもあります。


それぞれの言語が持つ基本的な感覚は、その言語を母語として伝承してきた人において自然に発現するものとなっていきます。

それは知的活動における基本的な傾向や考え方にすら影響を与えていることになります。

それぞれの言語を使用する民族においても、中国のように広域に存在する民族はより狭い地域における環境の変化に対応して言語も変化していきます。


物理的な広さや距離よりも、地形的な隔たりや精神的な隔たりの方がより限定的な集団を作り易くなります。

やがてはその集団だけで使用される言語が出来上がり継承されていくことによって、方言や新しい言語となっていくのではないでしょうか。

したがって、言語を考える時には歴史や考古学、地学などと無縁ではいられなくなります。


日本語は歴史的地理的に見てもその変化がきわめてわかりやすい言語となっています。

地理的気候的な条件に加えて長い期間にわたった鎖国によって、他の言語文化にほとんど影響を受けることなく独自の言語を醸成することが出来たからです。

したがって、漢語を利用して「古代やまとことば」に文字をあたえた仮名によってまた時には漢語を利用しながら、1000年以上に渡って独自の言語文化を築いてきたのです。


日本語の基本的な感覚はこの期間に出来上がってきたものであり、現代においてもその基本的な感覚は変わることなく継承されているものと言えます。

この基本的な感覚に新しい要素を加えたのが明治維新であり太平洋戦争後の占領軍主導による国づくりでした。

それでも、どちらの大きな変化の時においても基本となる日本語には変化はなかったのです。


付け加えることを変化と呼ぶのなら日本語にも変化があったと言えるかもしれませんが、基本的な部分が変わったわけではありません。

それは実際の言語の上にも現れています。

明治維新までに使用されていた言語のうちで、言葉そのものや使い方として明治維新以降消えていったり変わってしまったものはそれほどあるわけではありません。

それまでの言語をほとんどそのまま残しながら、異文化に対応する新しい言葉を作り出していったのです。


それは日本語としての新しい言葉ではありますが、けっして新しい言語ではありません。

新しい文化や技術を吸収するために新しい言語に触れることはあっても、そのすべてを日本語にして取り込んでいったのです。

彼らの言語として取り込んだわけではないのです。

日本語で理解して日本語として取り込んだのです。


そこでは、日本語としては新しい言葉であったり彼らの言葉に近い音を使った新しい響きであったかもしれませんが、すべて日本語の言葉として生み出し取り込んでいったのです。

そこでは日本語としての理解のもとにひとつの日本語の言葉(名詞)として取り込んでいったのです。

その感覚は元の言語の感覚からは離れたものとなります。

日本語としての感覚で理解したことによって、新しい日本語として多くの漢字で表現されたりしました。


日本語の感覚として理解されにくいものには、日本語の中でも日本語独自の感覚からは比較的遠いところにいるカタカナによって取り込まれていきました。

それでもさらに感覚として理解しにくいものは、原語のままの言葉として取り込まれていったのではないでしょうか。

日本語の持っている基本的感覚を作っている言葉であるひらがなは、ほとんど何の影響も受けずに変化をすることもなく継承されていたのです。


新しく取り込まれた言葉たちのほとんどが名詞になります。

一部にはその名詞を生かすための動詞も必要になったこともありますが、ごくわずかのことだと思われます。


ひらがなによる表現技術を磨き続けてきた日本語は、ひらがなによる表現方法をたくさん育ててきました。

その大きな舞台が、和歌であり物語であり大衆文化だったのです。

そのすべてが縦書き文化によって作り上げられてきたものです。


漢語からひらがなへの展開は、縦書きという記述方法を抜きにしてはあり得なかったことです。

縦書きで書き続けていくことによって、そのために都合のいい書き順が自然に出来上がっていったと思われます。

漢字を省略化して続けて書くことも、その漢字としての基本的な形が崩れてしまっては読み取ることができません。

多少の崩し方が違っても基本的な部分がはっきりとしていれば読み取ることができるものです。


基本的な部分をはっきりと残すためには、書き順(筆順)が大きく影響してきます。

書き順が違ってしまえば、崩したときには違った文字として認識してしまうことになりかねません。

文字としての意味がなくなってしまうことになります。


上から入って下に抜ける書き順は、縦書きのためのものでもあったのです。

書き順が正しくなければ同じ文字としての認識ができないものとなってしまうものでした。


明治期以降、大量の異文化の文章や書物が入ってきます。

横書き文化が押し寄せてきました。

漢数字よりもアラビア数字の方が読み間違いが少ないことが分かってきました。

カタカナは、横書きの方が読みやすいことが分かってきました。


縦書き文化を作り上げてきた日本でしたが、見た目には横書きに見える縦書きを使ってきていることも違和感を減らしてくれた要因ではないでしょうか。

お店に屋号が書かれた暖簾や看板には江戸時代であっても横書きに見えるものがあります。

これを一行の一文字の縦書きだと教えてもらって理解できたのは最近のことでした。

つまりは書いている方も読んでいる方も横書きと言う意識は全くなかったどころか、縦書きの一種であるという感覚だったと思われます。


横書きに慣れ過ぎた現代の私たちには、右書きであろうと左書きであろうと横書きに見えてしまうこと自体が昔の日本語の感覚からは遠いところに来ているということになるのでしょうね。

それでも、一行一文字の縦書きという感覚は「なるほど」という何となくホッとしたものをもたらしてくれるのではないでしょうか。


同じ文章を横書きで表示した場合と縦書きで表示した場合では、文章そのものから受ける感覚もイメージも異なってくるものとなります。

それは使っている文字にもよりますし内容にも左右されることもあります。

現在では文字を書くことよりもキーボードで打つことの方がはるかに多いのではないでしょうか。

文字を書かない日はあってもキーボードを触らない日はないと思われます。


打ち終えた文を横書き/縦書きの形式変換が簡単にできるようになっているものです。

たまには、やってみると面白いですよ。

業務上で必要なことしか記録にしないようになっていると思われますが、できるだけ業務と遠い事柄でやってみると違いがより明確になると思います。

自分が書いている(打っている)文章も、ほとんどが横書きであることが分かると思います。


日本語の言葉もドンドン横書きに馴染むように変化してきていると思われます。

漢字の書き順が取り上げられるようになったのも、こんなことが要因かもしれません。

日本語は文字そのものに美を感じることができるものです。

書道という芸術分野は絵画や彫刻などと同じレベルの芸術として評価されているものです。

漢字を使用している言語以外で、文字そのものの美しさが芸術として評価されているものは聞いたことがありません。


横書きによって消えていく日本語の基本的な感覚があるのではないでしょうか。

もちろん、横書きによって取り込まれた感覚もたくさんあるでしょう。

日常表記においても両方が混在していますね。


東京で二回目のオリンピックがおこなわれようとしています。

横書きがたくさん出てくるのでしょうね。

縦書き感覚と横書き感覚を比較できる時間もそれほどないのかもしれませんね。

なるべく使ってみませんか、縦書き。



2015年4月16日木曜日

縦書きにしてみる

昨日は「日本語のチカラ」体験会として、日本語の感覚を理解してもらうためのセミナーを行ないました。

その中でひらがなの持つ独特の感覚として、以下の文章を声を出して読んでもらいしました。



一文字筒を丁寧にきちんと読もうとすると、ぎくしゃくしてしまいます。

一気に読んでしまった方が意味がわかり易いのですが、スペースで区切られたそれぞれの言葉は一つとしてきちんと書かれたものはありません。

それでも、一気に意味がある文章として読めてしまいます。


これが初めて目にする今まで見たことのない言葉であったらこうはいかないと思います。

パッと一目見て何と書いてあるのかの推測がつきますので、それを確認できる要素があれば一文字ずつの確認をしなくとも、知っている言葉としての認識をしてしまうようです。

いったん声に出して読んで意味のある言葉として認識してしまうと、振り返って確認しようとはしませんので次の言葉に向かってしまいます。

結果として、一つとして声に出して読んだ通りの言葉がなくとも意味がある文章として読み切ってしまうことになります。


この実験は、今まで何度かやってみたことがありました。

ひらがなの言葉としての最初と最後の文字があっていること、言葉としての文字の数があっていること、使っている文字の順番が違っても使っている文字自体はあっていること、このような条件が重なると視覚として捉えた情報は一連の知っている言葉として認知してしまうことになるようです。

普段から日常的に耳にしたり見たりしている言葉でやってみると、さらに認知の効率が高くなるようです。


今回は、前から気になっていた縦書きを一緒に試してみました。

ここに表示しておきますが、皆さんが読んだ時には横書きと比べて何か違いがありますでしょうか。


参加していただいた人たちの感覚によりますと、縦書きの方がすんなりと読んでしまうという意見の方が多かったです。

原因ははっきりしませんが、参加している人たちの年齢にもよるかもしれません。

40代以降の人にとってはひらがなだけの文章は、おそらくは縦書きのものでしか触れたことがないのではないでしょうか。

わたし自身でも、ひらがなだけの文章で横書きのものはほとんど見たことがありません。


しかも、日本語の感覚が前面に出ている内容の文章についてはほとんどが縦書きになっていないでしょうか。

PCやスマホでは、何でも構わず横書きになっていることが多くありますが、横書きになっていることによって読みにくく(意味がつかみにくく)なっていることがあるのではないでしょうか。

欧米型言語の感覚による内容については、カタカナや数字、アルファベットが頻出してくることになりますので、横書きに法が理解しやすくなっています。

しかし、日本語の独特の感覚の内容については縦書きと横書きで同じ文章を比べてみると、明らかに縦書きの方が理解しやすく感じます。


世の中の文章のほとんどが横書きになっています。

表記方法の種類や図表や写真を入れ込むにも横書きの方が縦書きよりも有利な面があるのは確かだと思われます。

しかし、横書きが中心になることによって日本語が持っている独特の感覚を表現したり理解したりする機会が減っているのではないでしょうか。


書かれている内容や表現の方法にも依存することが多いと思いますが、おなじ横書きの文章であっても縦書きにした方が理解しやすいものがあることは間違いのないことではないでしょうか。

横書きの文章を、あえて縦書きにしてみることは、日本語の感覚を知るためにもとてもいい活動になります。

長い文章を書き換えることは大変ですので、短い文章や文章の一部を縦書きにしてみることをお薦めします。

これを繰り返しているうちに、どんな文章が縦書きにした時により理解しやすいものになるかが見えてきます。

思わぬ発見もありますよ。


日本語が持っている基本的な表記方法である漢字かな交じり文(和漢混淆文)は、横書きよりも縦書きにした時の方が美しく見えるのはわたしだけではないと思います。

そんな見え方がしてくると、更に美しく見えないかという欲望が湧いてきます。

そこで考えるのが、漢字とひらがなのバランスになります。

これが、文章における語感になるのです。


語感にもいろいろなものがありますが、自分の語感を売り物とする作家でもない限りは、ほとんどの文章の目的は相手に理解してもらうことにあると思われます。

そのためには、自分の持っている語感を押し付けることよりも相手の持っている語感に近づける方がより効果的になります。

相手の持っている語感を確認することはなかなか難しいことになりますので、なるべく共通的に理解しやすい語感を見つけることになります。


美しいと感じられる語感は、それだけで理解しやすい環境にあるということができます。

まずは、日本語の持っている感覚に触れやすくするためにも、いろいろな文章を縦書きにしてみることが面白いと思います。

横書きの場合とどんな違いが感じられるのか、それによってどれだけ横書きの感覚に馴染んでしまっているかの確認もできると思います。


実際に手書きで文字にしてみるのが一番違いがわかり易いと思います。

試しにやってみませんか。