人の知的活動は言語によって行なわれてることが分かっています。
知的活動の質の高さを「賢さ」と呼ぶのであれば、「賢さ」は言語によって作られていることとなります。
一人ひとりの持っている言語が異なっていることが、「賢さ」に差が出る大きな要因だと思われます。
専門家というのは、一種の「賢さ」の典型と思われますが、専門家とは専門とする分野における言語をよりたくさん持っていて使うことができる人ということができます。
「賢さ」で評価されることは、決して人としてのすべてではないと思いますが、より賢いと評価される方が生きていくうえで有利であることは間違いのないことのようです。
その典型が、学歴になるのではないでしょうか。
より高学歴で社会から賢いと評価される大学とそうでない大学では、大学卒業時の進路においてその選択肢に明らかに差ができているのが現実です。
学歴の評価に対しては批判的な意見もありますが、実社会では明らかな差別となっていることも現実ではないでしょうか。
大学に対する評価はそのまま、高校以下の学校のついても同じようについて回ることになります。
社会に出てからの個人としての生き方において、どこまで学歴が影響してくるかは分かりませんが、初めて社会に出ていく就職においては学歴によって現実的に多きな差があることは誰もが認めることでしょう。
東京大学を卒業した者と名前を聞いたこともない私立の大学を卒業した者とでは、明らかに就職における選択肢に差があります。
誰しもが、できるだけ自分に利のある選択肢を求めることになりますので、できる限り社会的に評価の高い大学を目指すこととなります。
やりたいことや専門性が明らかでない者ほど、より多くの選択肢を求めることになります。
そのためには少しでも良い学歴を追い求めることになります。
本当の「賢さ」は自力で社会を生き抜いていく力であることは、誰もがわかっているのですが、その力を身につけることなく社会に出てく現状では社会から評価されている大学に入学し卒業することが「賢さ」の基準となっていると思われます。
そのための関門を通り抜ける力のことを「賢い」として表現しているのだと思います。
そうは言っても、この「賢さ」も知的活動であることに変わりはありません。
とりあえずは、分かりやすくするために、より社会から評価されている大学に入学する力を「賢さ」と呼ぶことにしましょう。
もっとわかり易く言えば、難しい大学の入学試験に合格する能力と言ってもいいかもしれません。
そのほとんどが、認知能力と記憶力に頼っていることは明白なのですが、それでも知的活動の一部あることに変わりはありません。
社会で生き抜いていくための能力と難しい大学に合格するために必要な能力は異なっているのに、親としては社会を生き抜いていく能力よりも大学に合格する能力の方を重視してしまうことになります。
大学を出すまでが親の仕事であり、自分で稼ぐことを始めてからは自力で社会を生きていくというルールがいつの間にか出来上がってしまっているようです。
したがって、「賢い」子どもに育てるためには認知力と記憶力を高めればいいことになります。
社会を生き抜いていくために必要な能力の基本が、思考力と表現力であることに比べるとかなりのギャップがありますが、これが現実だと思われます。
大学卒業し、社会生活を始めるまでの「賢い」という評価が、社会を生き抜いていくときにはほとんど役に立たなくなるのは、このせいだと思われます。
それでも、初めて社会に出た時の選択が、その後の社会生活において大きな影響を与えることから考えれば、「賢さ」の追及は仕方のないことなのかもしれません。
見てきたように「賢さ」の基本はすべて知的活動です。
つまりは言語による活動となっているのです。
「賢さ」を作り上げるのは、子どもの基礎言語としての母語をどのように形成していくかが大きな影響力を持っています。
母語は、母親からの伝承言語であり、子どもが選んだり自発的に学んだりできるものではありません。
母親が持っている言語がすべてであり、その一部が母語として子どもに伝承されることになります。
短大卒で家事見習いから結婚して子供を持った母親と、大卒で就職して社会人生活を10年も送って子どもを持った母親では、持っている言語にかなりの差があることになります。
社会経験の長い方が沢山の言葉を持っていますが、それがそのまま子どもに伝わるわけではありません。
また、社会経験で身につけた言語は、専門用語化したものが多くなりますので、共通語としての国語からはかなりかけ離れた言語となっています。
子どもとの接し方によっても、伝わる言語に大きな差が出ます。
早めに職場に復帰して、幼児期に子どもとの接触時間が少ない場合は、母親の持っている言語の伝わり方が少なくなります。
特に、生まれてから18ヶ月は母親との接触しかできませんので、ここで語りかけることや触れ合うことがとても大切だと言われています。
常に母親と接していることによる、絶対的な安心安全の感覚が健全な発達の最大の要素だと言われています。
子どもが生まれてから言語を身につけても役に立ちません。
その前に、本を読むことが一番現実的な方法だと言えるでしょう。
妊娠中に読む本は、深い思考を必要とするようなものは向きません。
思考に集中できる環境にないからです。
もう一つは文字や文を書くことです。
日記的な物でもいいのではないでしょうか。
ただし、書き方があります。
できるだけ、漢字の音読み熟語を使わないように書きます。
つまりは、ひらがなと漢字の訓読みだけで書くようにするのです。
すぐには難しいことになりますので、音読み熟語を使った場合にはひらがなで言い換えてみることがいい訓練になります。
思わず出てきてしまう、音読みの熟語はひらがな言葉で言い換えることでより鮮明な理解につながっていきます。
アルファベットやアラビア数字もなるべく使わないようにします。
この表現が日本語のエキスなのです。
意識をしなくとも、ひらがなと訓読み漢字で書く練習をしていると、日本語の基本的な感覚が磨かれるのです。
この感覚を、子どもに伝えることが「賢さ」につながるのです。
(参照:「現代やまとことば」)
子どもが生まれてしまってからでは難しいことになります。
そして、できることならば、日常生活における会話もできるだけ音読み熟語を使わないようにすることができるともっと効果が上がることでしょう。
母語の伝承は、具体的には言葉によって行われていますが、そこで伝承されているのが言語としての感覚になると思われます。
それぞれの言語のが持っている独特の感覚を伝えるために、言語の伝承が行なわれていると思われます。
幼児期健忘によって、具体挺幼児期言葉をほとんど失っても基本的な言語感覚が残っていると考えられています。
(参照:幼児期健忘について)
これが、そのあとの学習言語である国語の習得へと素直につながっていくこととなります。
次回は、母語としての具体的な言語の伝え方に焦点を当ててみたいと思います。
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2015年3月16日月曜日
2015年3月15日日曜日
お母さんになるための日本語(1)・・・母語の理解
すべての言語は、お母さんと子どもの間でのコミュニケーションによって、受け継がれてきています。
子どもの方は、そんなことを意識することもできませんが、お母さんの方でも言語の受け渡しについてはほとんど意識したことはないのではないでしょうか。
子育てはとても大変な活動です。
ましてや、初めての子どものときは毎日不安と喜びのなかで、日々起こることに対応することが精一杯となってしまいます。
そんな中で、言語について考える機会を持つことはまず不可能であろうと思われます。
また、特に言語について考えなくとも、子どもは自然に言語を身につけていきます。
それは、ほとんど本能的なものと言ってもいいかもしれません。
子どもが言葉を話し始めたころの、同じ音の繰り返しやはっきりと音を発することができない頃の赤ちゃん言葉は、思わずこちらがつられて合わせてしまうような優しさを持っています。
赤ちゃんと同じような音を発してあげると、喜んだような反応をするために、一段と愛らしが感じられるころとなります。
このころであっても、既に言語による基本的な知的活動のための発達が始まっています。
子どもが生まれてからの言語環境が、その子の将来においてとんでもなく大きな影響を与えていることが分かってきています。
幼児期にしか身につけることができない言語であり、なおかつ知的活動のための基礎的な発達のほとんどを作ってしまう言語があります。
そしてその言語は、生涯書き換えることができないものであり、その子供の一生に影響を与えるものとなります。
幼児期にそのほとんどを母親の持っている言語から受け継ぐこの言語のことを、「母語」と呼んでいます。
この母語がないと人は人として生きていくことができません。
そのために、子どもは本能的にも母語を身につけるようにできています。
母親が特に意識をしなくとも、母親との接触の中から自然に母語を身につけていくのです。
しかし、この母語の身につけ方によっては、将来子どもが生きていくうえで必要のない苦労を味わわせることにもなります。
しかも、それが現実化してくるのは、学校の成績や社会生活における適合性などと言ったあらゆる知的活動を行なう頃に出てくることになります。
現実的な知的活動が行なわれる頃は、物心がつくころと言った表現で表される小学校の高学年である10歳以降のことになります。
母親がどんな言語を持っているのか、また子どもに対してどんな言語の伝え方をしていくのかが母語形成において一番大きな要素となります。
母親が意識しなくとも、生きていくために必要なことですので、子どもは本能的に言語を身につけます。
母語習得のための環境をしっかりと作ってあげることが大切になります。
その言語を理解したり、使いこなすために最適な機能となるように、体のあらゆる器官が発達していきます。
やがて、義務教育において生きていくための知識やルールとしての国語を身につけていくことになります。
母語は、国語を理解し身につけていくための言語でもあります。
国語は規則でありルールです。
全ての学習者が同じ解釈ができなければなりません。
国語は、その言語における共通語として、誰でもが同じ解釈ができるように規則正しいルールによって規定された言語です。
その国語を理解するための言語は母語です。
持っている母語によっては、国語の解釈が異なってしまうことが起きてきます。
母語として英語を持っている人が、国語として日本語を学ぶような場合が典型になります。
使っている言葉は日本語になるかもしてませんが、言語の持っている感覚や使い方が英語となってしまうのです。
もの心ついたころからは、周りの日本語話者たちとの言語感覚の違いに悩むことになります。
同じ日本語を使っていますので、原因が分かりません。
言葉としては理解できても、文章になったり解釈をしたりすると感覚がずれてくるのです。
母語と国語が異なるとよく起こることになります。
本人も家族も周りにいる者も原因が分かりませんので、本人はとんでもない疎外感を味わうことになります。
自己嫌悪や対人恐怖、鬱などになることも多くあり、言語感覚の違いに折り合いが付けられるようになるまではかなりの苦労をすることになります。
英語と日本語の様にはっきりとわかる違いであれば気が付きやすいところです。
母語は母親から受け継がれる、きわめて個性的な言語です。
母親が日本人であれば、ほとんどの場合は日本語が母語になると思われますが、日本語はとんでもなく大きな言語です。
同じ日本語であっても、通じない言語が沢山あります。
さらに日本語には、以心伝心や一を聞いて十を知るなどと言われる言語に現れていないものを理解することが多く求められます。
行間を読むなどということが典型的な物ではないでしょうか。
実際の言語として使われているもの以外にも、日本語としての感覚的なものが必要となっているのです。
一人ひとりが持っている日本語は、みんな違ったものとなっていると言ってもいいと思われます。
しかし、その差は決定的な物ではなく個性と呼ばれる程度の差となってれば、日本語の解釈上は問題がないことになります。
国語の学習においても、ルールを逸脱したり感覚としてずれたりすることはないと思われます。
それは、母親の持ってる言語が日本語である場合です。
どんな日本語であっても、日本語であれば基本的な感覚は同じところになると思われるからです。
しかし、母親が生きてきた現代の環境は、日本語のだけではありません。
義務教育においてでさえも、英語を学習してきています。
しかも、その内容はますます会話寄りになってきています。
日常生活においても、テレビやネットで他の言語に触れる機会が多くなっています。
それでも、外国語の単語を日本語の感覚のなかで一つの新しい名詞として使っているうちは大丈夫だと思われます。
言語が異なるということは、知的活動の内容が異なることになります。
わかり易く言えば、解釈の仕方や考え方や表現の仕方が異なることになります。
論理や価値観までが異なることになります。
母親がバイリンガルとなっている場合には、母語がとんでもないことになる可能性があります。
子どもは言語の区別ができませんので、両方の言語の混ざり合ったものを一つの母語として持ってしまいます。
世の中にない言語です。
とんでもない苦労することになりますね。
学習過程においては、すべてのことを母語で理解していきます。
母語で考え母語で表現していきます。
母語としては個性的であったとしても、日本語である以上は国語をきちんと学習することで、日本語としての共通語を身に付けることができます。
そして、国語がすべての日本語にとっての共通語となっているのです。
国語を身につけた段階では、国語を共通語として、母語が個性としての言語となるのです。
それでも、国語によって母語がさらに磨かれることになります。
個人にとって、国語よりも大きな日本語が母語となっていくことになります。
そのなかで、日本語の共通理解のための言語としての国語が存在することになります。
日本語感覚のしっかりした言語を、母語として子どもに伝えることが大切になります。
それは、国語が正しく理解できることにもつながりますし、日本語を母語として持つ人との共通語を持つことになるからです。
共通語を持つことは、同じ言語に対して同じ感覚を持つことを意味しています。
特殊な母語を持ってしまうと、国語に対して共通語としての理解ができなくなります。
極端なことで言ってしまうと、聞いている言葉は理解できるが、何を言いたいのかが分からないということになります。
そのことに気がつくのが物心がつくころからになります。
そうならないための母語を伝えなければなりません。
そのための母親の日本語は、今のままですとどんどん危険な方へ行ってしまうようです。
今回は、母語についての理解を中心にしてみました、。
次回は、母語として受け渡す日本語にについて見てみたいと思います。
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子育てはとても大変な活動です。
ましてや、初めての子どものときは毎日不安と喜びのなかで、日々起こることに対応することが精一杯となってしまいます。
そんな中で、言語について考える機会を持つことはまず不可能であろうと思われます。
また、特に言語について考えなくとも、子どもは自然に言語を身につけていきます。
それは、ほとんど本能的なものと言ってもいいかもしれません。
子どもが言葉を話し始めたころの、同じ音の繰り返しやはっきりと音を発することができない頃の赤ちゃん言葉は、思わずこちらがつられて合わせてしまうような優しさを持っています。
赤ちゃんと同じような音を発してあげると、喜んだような反応をするために、一段と愛らしが感じられるころとなります。
このころであっても、既に言語による基本的な知的活動のための発達が始まっています。
子どもが生まれてからの言語環境が、その子の将来においてとんでもなく大きな影響を与えていることが分かってきています。
幼児期にしか身につけることができない言語であり、なおかつ知的活動のための基礎的な発達のほとんどを作ってしまう言語があります。
そしてその言語は、生涯書き換えることができないものであり、その子供の一生に影響を与えるものとなります。
幼児期にそのほとんどを母親の持っている言語から受け継ぐこの言語のことを、「母語」と呼んでいます。
この母語がないと人は人として生きていくことができません。
そのために、子どもは本能的にも母語を身につけるようにできています。
母親が特に意識をしなくとも、母親との接触の中から自然に母語を身につけていくのです。
しかし、この母語の身につけ方によっては、将来子どもが生きていくうえで必要のない苦労を味わわせることにもなります。
しかも、それが現実化してくるのは、学校の成績や社会生活における適合性などと言ったあらゆる知的活動を行なう頃に出てくることになります。
現実的な知的活動が行なわれる頃は、物心がつくころと言った表現で表される小学校の高学年である10歳以降のことになります。
母親がどんな言語を持っているのか、また子どもに対してどんな言語の伝え方をしていくのかが母語形成において一番大きな要素となります。
母親が意識しなくとも、生きていくために必要なことですので、子どもは本能的に言語を身につけます。
母語習得のための環境をしっかりと作ってあげることが大切になります。
その言語を理解したり、使いこなすために最適な機能となるように、体のあらゆる器官が発達していきます。
やがて、義務教育において生きていくための知識やルールとしての国語を身につけていくことになります。
母語は、国語を理解し身につけていくための言語でもあります。
国語は規則でありルールです。
全ての学習者が同じ解釈ができなければなりません。
国語は、その言語における共通語として、誰でもが同じ解釈ができるように規則正しいルールによって規定された言語です。
その国語を理解するための言語は母語です。
持っている母語によっては、国語の解釈が異なってしまうことが起きてきます。
母語として英語を持っている人が、国語として日本語を学ぶような場合が典型になります。
使っている言葉は日本語になるかもしてませんが、言語の持っている感覚や使い方が英語となってしまうのです。
もの心ついたころからは、周りの日本語話者たちとの言語感覚の違いに悩むことになります。
同じ日本語を使っていますので、原因が分かりません。
言葉としては理解できても、文章になったり解釈をしたりすると感覚がずれてくるのです。
母語と国語が異なるとよく起こることになります。
本人も家族も周りにいる者も原因が分かりませんので、本人はとんでもない疎外感を味わうことになります。
自己嫌悪や対人恐怖、鬱などになることも多くあり、言語感覚の違いに折り合いが付けられるようになるまではかなりの苦労をすることになります。
英語と日本語の様にはっきりとわかる違いであれば気が付きやすいところです。
母語は母親から受け継がれる、きわめて個性的な言語です。
母親が日本人であれば、ほとんどの場合は日本語が母語になると思われますが、日本語はとんでもなく大きな言語です。
同じ日本語であっても、通じない言語が沢山あります。
さらに日本語には、以心伝心や一を聞いて十を知るなどと言われる言語に現れていないものを理解することが多く求められます。
行間を読むなどということが典型的な物ではないでしょうか。
実際の言語として使われているもの以外にも、日本語としての感覚的なものが必要となっているのです。
一人ひとりが持っている日本語は、みんな違ったものとなっていると言ってもいいと思われます。
しかし、その差は決定的な物ではなく個性と呼ばれる程度の差となってれば、日本語の解釈上は問題がないことになります。
国語の学習においても、ルールを逸脱したり感覚としてずれたりすることはないと思われます。
それは、母親の持ってる言語が日本語である場合です。
どんな日本語であっても、日本語であれば基本的な感覚は同じところになると思われるからです。
しかし、母親が生きてきた現代の環境は、日本語のだけではありません。
義務教育においてでさえも、英語を学習してきています。
しかも、その内容はますます会話寄りになってきています。
日常生活においても、テレビやネットで他の言語に触れる機会が多くなっています。
それでも、外国語の単語を日本語の感覚のなかで一つの新しい名詞として使っているうちは大丈夫だと思われます。
言語が異なるということは、知的活動の内容が異なることになります。
わかり易く言えば、解釈の仕方や考え方や表現の仕方が異なることになります。
論理や価値観までが異なることになります。
母親がバイリンガルとなっている場合には、母語がとんでもないことになる可能性があります。
子どもは言語の区別ができませんので、両方の言語の混ざり合ったものを一つの母語として持ってしまいます。
世の中にない言語です。
とんでもない苦労することになりますね。
学習過程においては、すべてのことを母語で理解していきます。
母語で考え母語で表現していきます。
母語としては個性的であったとしても、日本語である以上は国語をきちんと学習することで、日本語としての共通語を身に付けることができます。
そして、国語がすべての日本語にとっての共通語となっているのです。
国語を身につけた段階では、国語を共通語として、母語が個性としての言語となるのです。
それでも、国語によって母語がさらに磨かれることになります。
個人にとって、国語よりも大きな日本語が母語となっていくことになります。
そのなかで、日本語の共通理解のための言語としての国語が存在することになります。
日本語感覚のしっかりした言語を、母語として子どもに伝えることが大切になります。
それは、国語が正しく理解できることにもつながりますし、日本語を母語として持つ人との共通語を持つことになるからです。
共通語を持つことは、同じ言語に対して同じ感覚を持つことを意味しています。
特殊な母語を持ってしまうと、国語に対して共通語としての理解ができなくなります。
極端なことで言ってしまうと、聞いている言葉は理解できるが、何を言いたいのかが分からないということになります。
そのことに気がつくのが物心がつくころからになります。
そうならないための母語を伝えなければなりません。
そのための母親の日本語は、今のままですとどんどん危険な方へ行ってしまうようです。
今回は、母語についての理解を中心にしてみました、。
次回は、母語として受け渡す日本語にについて見てみたいと思います。
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