英語を習い始めた時にびっくりしたことが二つありました。
一つは、主語の人称によって動詞が変化することです。
おっちょこちょいの私は、英語のテストで三単現のsをよく忘れました。
悔しさよりも、「こんなひっかけ問題作りやがって」という思いの方が強かったことを記憶しています。
もう一つは時制の表現です。
よく分からなかったのが未来形です。
訳が分からないことにさらに、たしか予定と意思とに細分化されていました。
そのうえ、未来形の訳の例として表現されている日本語がおかしな日本語なのです。
未来形であることをことさら強調するために、「私は、明日公園に行く予定です。」などとなっていた記憶があります。
日本語ではそんなことは言いません。
普通に言えば、「私は、明日公園に行きます。」で終わりです。
「明日」という明確に未来時制を示す副詞がなければ、現在なのか未来なのかはよく分からなくなります。
でも、こちらの方がずっと自然な日本語です。
更に、英語の未来形を文法的に細分化した、予定と意思はもっとわからないものでした。
はっきり言って、日本語の感覚としてはどちらでもいいのではないかと思えることの方が多かったことを記憶しています。
英語においては、屁理屈の多かった生徒であったことはご理解いただけたのではないでしょうか。
予定と意思の細分化はともかくとしても、英語においては明確に時制の表現が確立されています。
それは、英語という言語文化が時制に対しての厳格な表現を求めていることでもあります。
したがって、英語を母語として日常的に使っている人は、過去・現在・未来の時制に対して明確な区分を持って生活をしていることがうかがえます。
さらに英語には、日本語の感覚からすると何だか分からないものが存在していました。
私たちが英語を習ったころは、会話よりも文法にずっと重きが置かれていましたので、さらにその聞きなれない言葉に対しての抵抗があったのかもしれません。
それは、完了形と進行形です。
進行形については何とかついていくことができましたが、それも現在進行形だけです。
過去進行形や未来進行形などが出てきた日には、パニックです。
見た目の文型からは判断できますが、型どおりの訳では日本語にはならないのです。
日本語の持っていないニュアンスではないでしょうか。
完了形はもうギブアップでした。
完了形の意味するところが、経験・継続・結果・過去・完了に細分化されていたのもさらに分からなくなった理由です。
挙句に、進行形と同様に過去完了形や未来完了形まで出てくると、もう日本語になりません。
最後は極め付けです。
完了進行形などという化け物までが登場してきました。
こいつにも、過去・現在・未来がありました。
単純形の、過去・現在・未来に進行形、完了形、完了進行形までが加わると時制を12分類で細分化していることになります。
更に、三単現(三人称単数現在)の変化が加わりますので、13分類と言ってもいいのではないでしょうか。
英語というのは、何と時間の感覚のはっきりした進んだ言語であることかと感じました。
丁度、三次元と四次元の話を聞いたところで、時間軸を意識していたころだったと思います。
もしかしたら、アメリカは四次元の国なのかもしれないなどと思ったりもしたものです。
時間の観念が厳しく植え込まれた文化なんだろうなと思います。
時間当たりの効率や生産性をとても重んじる感覚が見事に反映されているなと感じます。
ゴール・オリエンテッド(結果重視)の感覚は、同じゴールであればより早く高く効率よくを求めることになります。
いつまでに(期限)どのような結果を出すかが重視されることによって、その手段にはかなりの部分で目をつぶることになります。
求めるのはゴールであり手段ではないことが明確になっているからです。
日本語は、プロセス・オリエンテッド(過程重視)の感覚になっています。
手段としての過程の一つひとつがきちんと達成されていくことを重視します。
そのために、ゴールに対しての意識といつまでに(期限)という意識がどうしても薄くなってしまうのです。
ゴールと期限を決めたとしても、意識は過程をきちんと達成することに向いてしまいますのでそのことに集中してしまう傾向にあります。
同じゴールを達成したとしても、より過程をキチンとクリアした方を評価するのが日本語の感覚と言えます。
同時に二つの意識に集中することはほとんど不可能ですので、目先で集中していることに意識が向かってしまいます。
結果として、当初のゴールよりも現在の手段における達成の方に意識が行ってしまうのです。
目的と手段の入れ替わりがこうして起きていきます。
真面目に取り組めば取り組むほど、手段が目的になってしまうことが起こりやすくなるのです。
いつまでに(期限)に何かをやりあげる(ゴール)ことが英語の持っている感覚です。
過程(プロセス)をきちんとこなしていけば、いつかは何かをやりあげる(ゴール)のが日本語の持っている感覚です。
このように言うことができるのではないでしょうか。
もちろん、両者を比較してみた時の傾向にしかすぎませんので、必ずこうなるということではないと思います。
日々の生活や習慣付けのなかでよく行われる目的と手段に対しての考え方は、そのほとんどが海外の考え方が基本となっています。
何とか習慣化しようとして達成できずにあきらめたことはありませんか。
出来なかった自分をダメだと思ったことはありませんか。
感覚が違うのですから、できるわけがないのです。
無理に習慣化したら、ストレスを溜め続けることになってしまうのです。
自分の感覚に自然に沿った、脳が「快」と感じる行動が一番ストレスを溜めなくてすむ方法ですね。
2015年3月21日土曜日
2014年7月28日月曜日
未来を意識しない言語、日本語
言語の特徴を見ていく時の視点の一つとして、時制があります。
過去、現在、未来、をどのように表現するかと言うことですね。
英語について見てみればよくわかるのではないでしょうか。
動詞の変化については、散々覚えさせられましたよね。
過去形や過去分詞形について、規則変化や不規則変化などありますね。
また未来形についても用法が決まっていて、文章の構成を見れば未来形であることが理解できるようになっています。
英語の授業でも、時制の一致についてはことあるたびに指摘されていたことを思い出します。
英語に限らず、フランス語、イタリア語などは、過去、現在、未来、と言う3時制を備えています。
さて、日本語における時制はどうなっているでしょうか。
過去形においては、動詞の語尾変化に過去形を表す助動詞である「た」があることで、過去の時制については明確なものがあります。
しかし、現在時制と未来時制についての明確な区別はありません。
現在形と未来形を動詞の形で区別できないことは、不便なように感じられますが、実際に使用してる私たちは不便さを感じたことはないと思います。
これは、過去、現在、未来という時系列を言語として(文化として)の感覚としてどのように持っているかということの裏返しだと思われます。
ほとんどの言語において、過去時制においては動詞の変化や助動詞の活用などによってすぐにわかる明確なものを持っています。
中国語は、時制を表す動詞の変化を持っていないために、時制を表す言葉である、昨天(昨日)や明天(明日)などと一緒に使われない限りは時制がつかみにくくなっています。
それでも、生活上や言語の使用上における問題が発生していないわけですから、明確な時制の区分が意識されていないと思われます。
日本語においては、現在形と未来形の違いがありませんので、その感覚は意識されていないのかと思いがちですが、そうではないことがわかりました。
表現形は現在形と同じなのですが、その言葉自体が持っている意味が未来を表しているモノがあります。
動詞の状態が「いる」を表しているのか、未来の行動を表しているのかで区別をしているのです。
「彼が、私の家にいる。」は「いる」の現在形であり、「彼が、私の家に来る。」は「来る」という動詞が本来持っている未来の行動を表しているモノになっているのです。
意識せずに、知らない間に使っていると思われます。
表現の形式として、特に未来を意識したい場合には、未来を表す副詞などを使用して強調していることになります。
英語は、特に時制を意識した言語だということができます。
過去、現在、未来、の3時制に加えて、完了形による表現や進行形による表現などによって、時制に対して細かなニュアンスの違いを持っています。
持っている母語によって、時間に対する感覚も異なっているのではないでしょうか。
日本語と同じように、未来時制に対して明確な表現を持たないか、あるいは持っていても使用頻度の少ない言語が、ロシア語、ドイツ語、朝鮮・韓国語などとなっています。
これらの言語においては、日本語と同じように、動詞そのものが持つ行動の意味で自然に未来の感覚が含まれていることで区別されているようです。
日本語の動詞の行為をよく見ていくと、ほとんどの動詞が未来の行動を示していることがわかります。
それを補うために現在形の表現として、英語で言うところの現在進行形に近いニュアンスとしての「・・・いる」で強調することが行なわれていると考えることができます。
未来を意識しないで使っている現在時制の表現のほとんどが、細かく見ていると未来のことを語っていることはよくあることとなっています。
そのために確認することの重要事項として常に言われることが、「いつまでに」と言うことになるわけです。
過去は明確に区別されるのが、日本語の特徴と言うことができます。
その代り、現在から未来にかけては、過去ほどの明確な区別ができないことになっています。
この特徴を理解したうえで、「いつまでに」を明確にした方がいい場面かどうかを考えていきたいですね。
決して日本語だけに限った特徴ではないのですが、普段使っている言葉の特徴はそのままその人の知的活動や行動に反映されていきます。
現在から未来にかけての表現は、英語に比較すると明確な時制を表すものがありません。
それでも明確な未来を表す動詞の数は豊富にあるために、その使い方によってははっきりとした未来を表現することも可能になっています。
しかし、意識して誤魔化すことも可能であり、意識しなければ曖昧にしなってしまうこともあります。
言語の特徴を理解しておくことは、知的活動や行動のためにもとても有効なことです。
ネットの上でも、世界と触れる機会が増えています。
自分ではその気はなくとも、世界から見られている時代となっています。
言語による特徴は、使っている人の行動に出ます。
世界の言語から見たら孤立した言語となっている日本語であるからこそ、その特徴を理解しておく必要があるのでしょうね。
過去、現在、未来、をどのように表現するかと言うことですね。
英語について見てみればよくわかるのではないでしょうか。
動詞の変化については、散々覚えさせられましたよね。
過去形や過去分詞形について、規則変化や不規則変化などありますね。
また未来形についても用法が決まっていて、文章の構成を見れば未来形であることが理解できるようになっています。
英語の授業でも、時制の一致についてはことあるたびに指摘されていたことを思い出します。
英語に限らず、フランス語、イタリア語などは、過去、現在、未来、と言う3時制を備えています。
さて、日本語における時制はどうなっているでしょうか。
過去形においては、動詞の語尾変化に過去形を表す助動詞である「た」があることで、過去の時制については明確なものがあります。
しかし、現在時制と未来時制についての明確な区別はありません。
現在形と未来形を動詞の形で区別できないことは、不便なように感じられますが、実際に使用してる私たちは不便さを感じたことはないと思います。
これは、過去、現在、未来という時系列を言語として(文化として)の感覚としてどのように持っているかということの裏返しだと思われます。
ほとんどの言語において、過去時制においては動詞の変化や助動詞の活用などによってすぐにわかる明確なものを持っています。
中国語は、時制を表す動詞の変化を持っていないために、時制を表す言葉である、昨天(昨日)や明天(明日)などと一緒に使われない限りは時制がつかみにくくなっています。
それでも、生活上や言語の使用上における問題が発生していないわけですから、明確な時制の区分が意識されていないと思われます。
日本語においては、現在形と未来形の違いがありませんので、その感覚は意識されていないのかと思いがちですが、そうではないことがわかりました。
表現形は現在形と同じなのですが、その言葉自体が持っている意味が未来を表しているモノがあります。
動詞の状態が「いる」を表しているのか、未来の行動を表しているのかで区別をしているのです。
「彼が、私の家にいる。」は「いる」の現在形であり、「彼が、私の家に来る。」は「来る」という動詞が本来持っている未来の行動を表しているモノになっているのです。
意識せずに、知らない間に使っていると思われます。
表現の形式として、特に未来を意識したい場合には、未来を表す副詞などを使用して強調していることになります。
英語は、特に時制を意識した言語だということができます。
過去、現在、未来、の3時制に加えて、完了形による表現や進行形による表現などによって、時制に対して細かなニュアンスの違いを持っています。
持っている母語によって、時間に対する感覚も異なっているのではないでしょうか。
日本語と同じように、未来時制に対して明確な表現を持たないか、あるいは持っていても使用頻度の少ない言語が、ロシア語、ドイツ語、朝鮮・韓国語などとなっています。
これらの言語においては、日本語と同じように、動詞そのものが持つ行動の意味で自然に未来の感覚が含まれていることで区別されているようです。
日本語の動詞の行為をよく見ていくと、ほとんどの動詞が未来の行動を示していることがわかります。
それを補うために現在形の表現として、英語で言うところの現在進行形に近いニュアンスとしての「・・・いる」で強調することが行なわれていると考えることができます。
未来を意識しないで使っている現在時制の表現のほとんどが、細かく見ていると未来のことを語っていることはよくあることとなっています。
そのために確認することの重要事項として常に言われることが、「いつまでに」と言うことになるわけです。
過去は明確に区別されるのが、日本語の特徴と言うことができます。
その代り、現在から未来にかけては、過去ほどの明確な区別ができないことになっています。
この特徴を理解したうえで、「いつまでに」を明確にした方がいい場面かどうかを考えていきたいですね。
決して日本語だけに限った特徴ではないのですが、普段使っている言葉の特徴はそのままその人の知的活動や行動に反映されていきます。
現在から未来にかけての表現は、英語に比較すると明確な時制を表すものがありません。
それでも明確な未来を表す動詞の数は豊富にあるために、その使い方によってははっきりとした未来を表現することも可能になっています。
しかし、意識して誤魔化すことも可能であり、意識しなければ曖昧にしなってしまうこともあります。
言語の特徴を理解しておくことは、知的活動や行動のためにもとても有効なことです。
ネットの上でも、世界と触れる機会が増えています。
自分ではその気はなくとも、世界から見られている時代となっています。
言語による特徴は、使っている人の行動に出ます。
世界の言語から見たら孤立した言語となっている日本語であるからこそ、その特徴を理解しておく必要があるのでしょうね。
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