日本語を母語として持っている人が自然に日本語を使うと、その思考はハイブリッド思考と言われるものに近いものとなっていることがわかってきました。
(参照:日本語による思考の傾向)
それは、現代日本語が持っているものよりも、長い年月をかけて継承されてきた古来よりの日本語の感覚によって傾向つけられていると言えそうです。
特に、一気に海外文化を取り込んだ明治維新前の歴史的環境や文化的な環境によって作られてきた、ひらがな感覚によるものが大きいと思われます。
(参照:自然との共生を描き続けた和歌)
言語はその時代における文化的な背景に適応するように変化してきており、文化に大きな変化があれば言語にも大きな変化が現れることになります。
また、文化は言語によって表現され継承されていくことになりますので、言語の中には文化の変化の歴史が記憶されていると言えます。
欧米言語は、人の知によって「個」を定義して、他者や環境との違いを鮮明にすることで、種の保存よりも「個」の保存を優先するようになってきました。
日本語は、自然や環境とのバランスを常に考えてきた言語であり、自分自身を適応させることで環境との共生をしてきたものです。
したがって、絶対的な確たるものとしての自己は存在せず、常に変化する環境に適応するために自分が変化していることになります。
このことを、絶対の自己が中心となる欧米言語から見ると、曖昧だとか不気味だとかと映るのです。
欧米言語では、他者とは異なる強い個を作ることに努力の方向が向けられることになり、日本語では、環境との共生・強調するための努力が行なわれます。
環境は、与えられたものもあれば、自分で定めたものもあります。
そのどちらも、常に変化をしているものです。
そこに対応するためには、エンドレスの適応能力が求められることになります。
日々の努力に大きな価値を置く日本語の考え方は、こんなところからも見ることができます。
ハイブリッドの思考は、バランス思考と通ずるものがあります。
二つの要素をどのようにバランスを取っていくかは、ハイブリッドにおける大きな視点です。
単に、二つの要素を分析してみたり、要素間の論理展開をしてみたりしただけでは出来上がりません。
そこには二つの要素を同時に包み込む共通領域的なものを設定する必要があります。
これは、日本語が最も得意とする、非言語による共通領域の感覚となります。
その共通領域への道案内が言語によって行われている、「ことだま」や「ことあげ」の感覚となるのではないでしょうか。
(参照:言語と「ことだま」)
ハイブリッドは、バランスであり均衡を常に無意識に意識することになります。
日本語感覚によるハイブリッド思考は、決してメリットだけではありません。
バカ平等と言われるような、格差を内在した表面的な平等すらも認めることになります。
持つ者も持たない者も、全く同じ扱いを受けるという、一見では平等と思えるような不平等を存在させることになります。
共生を図ろうとすることが優先されますので、持たない者は表面的にでも持っている者の様に振る舞おうとしますし、持っているものは表面的には持っていない者に合わせようとすることが起きます。
見た目には、極端に持たないものと極端に持つ者が見えない、格差バランスの小さなものとして映ってしまうのです。
特にそのレベル差が少ない者同士の間では、あらゆるものに対して均衡の意識が働くことになります。
自分が適応するべき環境を、どこまでのものとするかは、自分が決めることです。
時には逃げられない環境もあるかもしれませんし、与えられた環境もあるかもしれませんが、適応するべき共生を目指す環境は自分で決めることができます。
これが覚悟であると思われます。
自分で共生すると決めた環境においては、何とか適応しようと努力をします。
ここでもハイブリッド思考が行なわれているのです。
環境と自分という、相対するものではなく、共生・包含されるものとしてのハイブリッドとしての考え方ができるのです。
日本語によるハイブリッドは、単に二つの要素組み合わせることとは異なります。
共生という感覚のもとで、共生すべき環境を選択できるのです。
現場主義による問題解決が、日本の産業を支えてきました。
それは、KAIZENとして世界の製造業における標準スタイルになりました。
欧米型言語においては、現場労働者に対するマネジメントとして位置付けられています。
本質を理解できていないからです。
日本語による現場主義の問題解決は、常に共生すべき環境を意識しているのです。
しかも無意識に行っていますので、やっている本人にもわかりません。
日本語感覚では、意識せずに行っていることなのです。
目的を定めないと迷走してしまうことが多い欧米型言語に比べれば、日本語には環境との共生という究極の命題を常に内在していることになります。
その環境は、最後は自分自身で選べるものであり、それが覚悟となっていると思われます。
日本語には、小手先の目的が必要ないことになります。
共生すべき環境をどのように設定するかで、すべてのことが回るのです。
その環境に適応することは、無意識のうちにも行なわれていくのが日本語と言えます。
どのような適応をしていくのかが、個人における対応となります。
環境は常に変化し、また、自分でいつでも違う環境を決めることができます。
全てがハイブリッドの考え方です。
日本語が自然に行っていることです。
意識して使うことで、もっと質の高いハイブリッド思考ができそうですよね。
2014年12月23日火曜日
2014年12月22日月曜日
日本語が得意とする思考
日本語が得意とする思考活動は、ハイブリッド発想であることを先回見てみました。
(参照:日本語による思考の傾向)
日本語を使って、一番自然な形で思考をしていくと、ハイブリッド発想と呼ばれている思考に近いものになると思われます。
その中でも特に、現場感覚における環境適応がすべての原点となっていると思われます。
欧米型の言語による思考の傾向は、明確な目的を掲げその過程においては常にベストを選択しつつ、最短距離で達成しようとするものになります。
目的を達成するために、すべての活動がありますので、達成されなければ意味のないものになってしまいます。
そのためにはどんなことをしても達成しようとします。
過程におけるベストの選択は常に検証されながら、より達成に近いものがあれば置き換えられていきます。
省略できる過程であれば、すぐに飛び越えが行なわれます。
明確な目的が設定されていないと、活動そのものが迷走することになります。
また、目的達成がすべてになりますので、個人としての目的達成のためには時としてとんでもない手段が採られることがあります。
日本の国の治安が、欧米型の国に比べて格段に良いのは、このことにも要因があると思われます。
治安のための機能や設備が整っているわけではなく、そこにいる人たちの思考の傾向が、環境との共生を意識して自分を関係つけているために、秩序を大事にしているだけのことです。
近年、日本における犯罪が欧米化してきており、治安が悪くなってきていることは、欧米型言語の影響も否定できないことだと思います。
他の知的活動と比較すると、思考活動を共有することは極めて稀なことですし、ほとんどないことです。
共有するためには、表現して認知をしてもらう必要があり、また他者の表現を認知する必要があります。
思考活動を共有使用と思うと、自分の行なった思考を共有者に理解してもらうために表現しなければなりません。
また、相手の思考を究有するためには、相手の行なった表現を理解しなければなりません。
それでも共有できることは、思考活動の結果や過程が表現されたものであり、思考活動そのものを共有できるわけではありません。
知的活動の認知活動、思考活動、表現活動は、結果としいての共有はできるかもしれませんが、基本的には全て個人的な活動となります。
一緒に思考活動をしているように見えても、そこでは、個人の思考活動を表現し認知するという活動が繰り返されていることになり、思考活動そのものが共有されているわけではありません。
思考活動は全く個人的な活動ですので、そこで行われる思考や使用される言語も、きわめて個人的なもので誰にもわからないものでも構わないのです。
誰かとその結果を共有したり、他者の思考結果としての表現を認知したりするときに、共通語の存在が大きな役割を持つことになります。
母語として日本語を持っているという者同士では、コミュニケーションや表現や認知において言語を意識することがほとんどありません。
それは思考に使用する言語がほとんど同じであるために、受け入れやすい思考パターンが自然に使用されているからです。
ほとんど論理すらも意識することなく、自然に受け入れられるのか無理があるのかという感覚だけで、コミュニケーションが取れていきます。
そこでは、現場感覚が共有されることになりますので、環境への適合においてよりよく適合するための思考が自然に行われます。
放っておいても自然と現状改善の方向に思考が向かっているのです。
日本語の思考に一番合わないことが、無理に大きな目的を持たせられることです。
その達成のためにどうしたらいいのかを考えることは、その思考自体に不自然さを感じてしまうのです。
ただし、欧米型の組織や評価基準のなかで生きていく場合には、その不自然さを乗り越えなければいけません。
不自然さを感じていても、その論理をそのまま受け入れることができるのも、日本語の特徴です。
それは、環境に対する適合の一つとして行われることです。
しかし、そこにはどこかに不自然さを抱えていますので、少なからずストレスがたまっていくことになります。
欧米型の組織における人事考課についても、個人の可能性や潜在力についての総合評価が必ず含まれているのは、そのようなことからだと思われます。
日本語による思考では、目的の設定とそれに対しる達成だけでは、あまりにも不自然なものとなってしまうのです。
日本語の特徴を、バランスと呼ぶことも可能だと思います。
常にあらゆるところでバランスを取っており、そのバランスのとり方は自分が適応し変化することによってバランスを取っていることになります。
絶対的な個があり、個を磨くことによって、自己主張をして存在を知らしめていく欧米型言語との大きな違いがここになります。
彼らの場合は、周囲と異なる自分を強調しその存在価値を高めるために自己研鑽をします。
日本語の場合は、より周囲との関係を大切にし、より協調できるようにするために自己研鑽をします。
なりたい自分を置いて、そこに向かって最短距離を走ろうとするのが欧米型言語の思考であり、どんな環境においても適応して協調できる自分を作ろうと知るのが日本語の思考なのです。
明確な目的が次から次へと設定されており、それを達成していくことが一番大切であった環境が20世紀でした。
この時は欧米型の言語が一番自然に活躍できた環境です。
英語が世界の公用語になっていったこともわかるような気がします。
彼らの拠り所であった、自然科学の分野においても「ゆらぎ」や「あいまい」が発見されてくると、論理だけでは説明ができなくなってきました。
明確な目的が設定されにくく、しかもそこへ至る過程が明確に描けなくなってきました。
今の環境を維持することがきわめて難しくなってきました。
達成された目的は、次の瞬間には目的とはならなくなってきました。
また、達成の過程において既に目的とはなり得なくなってきました。
どちらかを選択するということではありません。
日本語自体の中にも、日本語で理解された欧米型言語がたくさん入ってきています。
日本語はそれができる言語です。
感覚としても、欧米型の言語の感覚に慣らされてきています。
しかし、日本語にはひらがながあります。
和歌があります。
これが日本語の一番の基盤になったところで、継承され続けています。
もっと日本語の感覚に自然になってもいいのではないでしょうか。
欧米型言語が現在の環境において抱えている矛盾を、日本語感覚は変えられる可能性をたくさん持っていそうです。
青色発行ダイオードの発明がノーベル物理学賞を受賞しました。
受賞者たちの英語が沢山流れました。
見事なジャパニーズ・イングリッシュでしたね。
日本語思考がそのまま英語になっていました。
完全に日本語で思考がなされていることを物語っていると思います。
表現するためだけに英語が使われていることがよくわかります。
天野先生も中村先生も、見事な日本語型英語でした。
英語としては、決して欧米型の言語としてのものとは異なるものとなっていました。
それを世界の前で堂々と使えるのです。
実は英語そのものに、人前で平気で話しができるチカラがあるのです。
下手な英語であっても、日本語を使うよりは人前で恥かしく思わないようになっているのです。
アクションもたくさん出てくるのです。
試しにやってみてください。
日本語にももっといろんなチカラがありそうですね。
自然に日本語を使うことによって、そのチカラの恩恵にあずかってしまいましょう。
ブログの内容についてのご相談・お問合せを無料でお受けしています。
(参照:日本語による思考の傾向)
日本語を使って、一番自然な形で思考をしていくと、ハイブリッド発想と呼ばれている思考に近いものになると思われます。
その中でも特に、現場感覚における環境適応がすべての原点となっていると思われます。
欧米型の言語による思考の傾向は、明確な目的を掲げその過程においては常にベストを選択しつつ、最短距離で達成しようとするものになります。
目的を達成するために、すべての活動がありますので、達成されなければ意味のないものになってしまいます。
そのためにはどんなことをしても達成しようとします。
過程におけるベストの選択は常に検証されながら、より達成に近いものがあれば置き換えられていきます。
省略できる過程であれば、すぐに飛び越えが行なわれます。
明確な目的が設定されていないと、活動そのものが迷走することになります。
また、目的達成がすべてになりますので、個人としての目的達成のためには時としてとんでもない手段が採られることがあります。
日本の国の治安が、欧米型の国に比べて格段に良いのは、このことにも要因があると思われます。
治安のための機能や設備が整っているわけではなく、そこにいる人たちの思考の傾向が、環境との共生を意識して自分を関係つけているために、秩序を大事にしているだけのことです。
近年、日本における犯罪が欧米化してきており、治安が悪くなってきていることは、欧米型言語の影響も否定できないことだと思います。
他の知的活動と比較すると、思考活動を共有することは極めて稀なことですし、ほとんどないことです。
共有するためには、表現して認知をしてもらう必要があり、また他者の表現を認知する必要があります。
思考活動を共有使用と思うと、自分の行なった思考を共有者に理解してもらうために表現しなければなりません。
また、相手の思考を究有するためには、相手の行なった表現を理解しなければなりません。
それでも共有できることは、思考活動の結果や過程が表現されたものであり、思考活動そのものを共有できるわけではありません。
知的活動の認知活動、思考活動、表現活動は、結果としいての共有はできるかもしれませんが、基本的には全て個人的な活動となります。
一緒に思考活動をしているように見えても、そこでは、個人の思考活動を表現し認知するという活動が繰り返されていることになり、思考活動そのものが共有されているわけではありません。
思考活動は全く個人的な活動ですので、そこで行われる思考や使用される言語も、きわめて個人的なもので誰にもわからないものでも構わないのです。
誰かとその結果を共有したり、他者の思考結果としての表現を認知したりするときに、共通語の存在が大きな役割を持つことになります。
母語として日本語を持っているという者同士では、コミュニケーションや表現や認知において言語を意識することがほとんどありません。
それは思考に使用する言語がほとんど同じであるために、受け入れやすい思考パターンが自然に使用されているからです。
ほとんど論理すらも意識することなく、自然に受け入れられるのか無理があるのかという感覚だけで、コミュニケーションが取れていきます。
そこでは、現場感覚が共有されることになりますので、環境への適合においてよりよく適合するための思考が自然に行われます。
放っておいても自然と現状改善の方向に思考が向かっているのです。
日本語の思考に一番合わないことが、無理に大きな目的を持たせられることです。
その達成のためにどうしたらいいのかを考えることは、その思考自体に不自然さを感じてしまうのです。
ただし、欧米型の組織や評価基準のなかで生きていく場合には、その不自然さを乗り越えなければいけません。
不自然さを感じていても、その論理をそのまま受け入れることができるのも、日本語の特徴です。
それは、環境に対する適合の一つとして行われることです。
しかし、そこにはどこかに不自然さを抱えていますので、少なからずストレスがたまっていくことになります。
欧米型の組織における人事考課についても、個人の可能性や潜在力についての総合評価が必ず含まれているのは、そのようなことからだと思われます。
日本語による思考では、目的の設定とそれに対しる達成だけでは、あまりにも不自然なものとなってしまうのです。
日本語の特徴を、バランスと呼ぶことも可能だと思います。
常にあらゆるところでバランスを取っており、そのバランスのとり方は自分が適応し変化することによってバランスを取っていることになります。
絶対的な個があり、個を磨くことによって、自己主張をして存在を知らしめていく欧米型言語との大きな違いがここになります。
彼らの場合は、周囲と異なる自分を強調しその存在価値を高めるために自己研鑽をします。
日本語の場合は、より周囲との関係を大切にし、より協調できるようにするために自己研鑽をします。
なりたい自分を置いて、そこに向かって最短距離を走ろうとするのが欧米型言語の思考であり、どんな環境においても適応して協調できる自分を作ろうと知るのが日本語の思考なのです。
明確な目的が次から次へと設定されており、それを達成していくことが一番大切であった環境が20世紀でした。
この時は欧米型の言語が一番自然に活躍できた環境です。
英語が世界の公用語になっていったこともわかるような気がします。
彼らの拠り所であった、自然科学の分野においても「ゆらぎ」や「あいまい」が発見されてくると、論理だけでは説明ができなくなってきました。
明確な目的が設定されにくく、しかもそこへ至る過程が明確に描けなくなってきました。
今の環境を維持することがきわめて難しくなってきました。
達成された目的は、次の瞬間には目的とはならなくなってきました。
また、達成の過程において既に目的とはなり得なくなってきました。
どちらかを選択するということではありません。
日本語自体の中にも、日本語で理解された欧米型言語がたくさん入ってきています。
日本語はそれができる言語です。
感覚としても、欧米型の言語の感覚に慣らされてきています。
しかし、日本語にはひらがながあります。
和歌があります。
これが日本語の一番の基盤になったところで、継承され続けています。
もっと日本語の感覚に自然になってもいいのではないでしょうか。
欧米型言語が現在の環境において抱えている矛盾を、日本語感覚は変えられる可能性をたくさん持っていそうです。
青色発行ダイオードの発明がノーベル物理学賞を受賞しました。
受賞者たちの英語が沢山流れました。
見事なジャパニーズ・イングリッシュでしたね。
日本語思考がそのまま英語になっていました。
完全に日本語で思考がなされていることを物語っていると思います。
表現するためだけに英語が使われていることがよくわかります。
天野先生も中村先生も、見事な日本語型英語でした。
英語としては、決して欧米型の言語としてのものとは異なるものとなっていました。
それを世界の前で堂々と使えるのです。
実は英語そのものに、人前で平気で話しができるチカラがあるのです。
下手な英語であっても、日本語を使うよりは人前で恥かしく思わないようになっているのです。
アクションもたくさん出てくるのです。
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2014年11月16日日曜日
言語で違うゴールとプロセスの意識
言語の違いは、それを使う人の知的活動における特性として現れてきます。
人の知的活動は言語によって行われていますので、その人の持っている知的活動のための言語である母語によって得意なパターンが決まってくることになります。
何度か見てきたように、日本語は世界の他の言語と比べて際立って特徴の多い言語となっています。
(参照:気づかなかった日本語の特徴)
そのために、知的活動の中でも特に思考するための得意パターンが、他の言語の思考パターンと異なっていることがわかります。
特にゴール設定と、そこに至るプロセスを考えた時に、言語による特徴をよりはっきりと見ることができるようです。
英語を代表とする欧米のアルファベット系の言語や中国語などでは、ゴール設定を中心とした思考になります。
コールを決めたうえで、プロセスを積み上げて組み立てていきます。
目標を決めたうえで、達成方法を考えることになります。
その結果として、ゴールに至る最短のプロセスが設定されていき、そのための障害も明確にされていくことになります。
あらかじめ想定される障害については、その回避方法も想定しておくことが行なわれます。
ゴールを達成することの方が意識されていることが強いために、時としては無謀なプロセスや強引なショートカット的なことが行なわれることもあります。
目標に固執するあまり、達成する方法については手段を選ばないということも起りがちになります。
意識の中では、ゴール>プロセスとなっていますのでよりゴールに早くたどれるプロセスが見つけられれば、その変更は比較的スムースに行われます。
目的であるゴールがあってこその思考パターンになりますので、あるゴールを達成してしまったあとで次のゴールが見つけられないと、思考活動そのものに停滞が起こることがあります。
対人環境においては、先に結論を提示して、あとからその理由を述べていくので、客観的でわかり易い内容となります。
聞き手の方は、常に疑問を持ちながら話を聞くことができるので、問題点や自分の意見と異なる点などを把握しやすいですし、指摘しやすいことになります。
日本語の場合は、プロセス>ゴールとなっていることが多くなります。
もちろんゴールもプロセスも設定をされてるのですが、プロセスの方から思考されることが得意となっています。
それは現在行われているプロセスの改善や達成に対する意識の方が、ゴールに対する意識よりも強いことになります。
日本の場合は、明確なゴールがなくとも日々の業務の改善を黙々と行いながら、新たなゴールを設定していくことが可能となっています。
他の言語での活動の様に、明確なゴールがなくとも目の前にあるプロセスに取り込むことによって、直接的にはゴールに結びつかないようなことまで、労をいとわず対応することができます。
改善のための試行錯誤を繰り返して、目標に到達する感覚となります。
達成までのスピードは決して早くはありませんが、多くの経験によって成長することができるものとなっています。
目標が曖昧であったりすると、達成までのかかる時間や達成したかどうかがわからなくなるために自信を失っていくことが多くなります。
そのために、「どうせ無理だからやらない。」という意識が生まれることが多くなります。
対人環境においては、結論が最後の来るために、聞き手の方ではずっと説明だけを聞いていくことになり疑問を持つ間がありません。
最後の結論の時には、前に聞いた内容をほとんど覚えていないことが起きやすくなります。
そのために、結論を受け入れやすいという特徴が出ることになります。
日本語での得意パターンにはまると、大きな目標を掲げて議論を始めても、できない理由を見つけて現状維持に戻ってくることが多くなります。
これは日本語で知的活動を行なっている限り、その特性として備わっているものです。
日本語で行っている限り、よほど意識して切り替えないと、知らないうちにそのようになっていくことになるのです。
論理としては、欧米型の方が理解しやすいものですから、良く取り上げられますが、行動のもととなる知的活動が日本語でなされている限り、理屈通りにならないのが現実となっています。
どちらも共にゴールとプロセスの設定をするわけですが、どちらにより意識が置かれているかと言うことです。
知的活動には人の評価も含みますから、使用している言語で人に対しての評価も異なってくることになります。
明確な目標設定と達成の実績が欧米の言語での評価であり、目標への到達の可能性を持った日々の成長や能力アップが日本語での評価となるのです。
どちらがいいとか悪いとかではありません。
言語によって得意なパターンができてしまうのです。
そのことをわかって、陥りやすい環境に対して、違った刺激を与えることが可能になるのです。
日本語だけを使い、日本語だけの環境の中にいたのでは、永久に気がつくことがないと思われますし、その必要もないでしょう。
しかし、自分の意思に反して嫌でも世界と触れることが起きています。
彼我の違いを理解しておくことは、よりよく自分たちを知ることになり、そのことによって世界に対しての個性を打ち出すことができるのではないでしょうか。
間違った誤解を、知らない間にもたれることがないようにしたいものです。
言語として持っている、得意なパターンは、意識をしないと陥りやすいパターンのことでもあります。
特に自分一人で行っているときの知的活動においては、集中しているあまりにこの様なパターンについて見直す余裕がないものです。
人が陥っているときには気がつくのですが、自分では知らないうちにはまっていることがよくあります。
客観的に見る時間も必要ですし、誰かとの共同作業も有効だと思います。
思考的に苦手なことは、行動的にも苦手なことです。
気持ちよくアウトプットまで持っていける方法を、自分なりに持っておきたいですね。
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人の知的活動は言語によって行われていますので、その人の持っている知的活動のための言語である母語によって得意なパターンが決まってくることになります。
何度か見てきたように、日本語は世界の他の言語と比べて際立って特徴の多い言語となっています。
(参照:気づかなかった日本語の特徴)
そのために、知的活動の中でも特に思考するための得意パターンが、他の言語の思考パターンと異なっていることがわかります。
特にゴール設定と、そこに至るプロセスを考えた時に、言語による特徴をよりはっきりと見ることができるようです。
英語を代表とする欧米のアルファベット系の言語や中国語などでは、ゴール設定を中心とした思考になります。
コールを決めたうえで、プロセスを積み上げて組み立てていきます。
目標を決めたうえで、達成方法を考えることになります。
その結果として、ゴールに至る最短のプロセスが設定されていき、そのための障害も明確にされていくことになります。
あらかじめ想定される障害については、その回避方法も想定しておくことが行なわれます。
ゴールを達成することの方が意識されていることが強いために、時としては無謀なプロセスや強引なショートカット的なことが行なわれることもあります。
目標に固執するあまり、達成する方法については手段を選ばないということも起りがちになります。
意識の中では、ゴール>プロセスとなっていますのでよりゴールに早くたどれるプロセスが見つけられれば、その変更は比較的スムースに行われます。
目的であるゴールがあってこその思考パターンになりますので、あるゴールを達成してしまったあとで次のゴールが見つけられないと、思考活動そのものに停滞が起こることがあります。
対人環境においては、先に結論を提示して、あとからその理由を述べていくので、客観的でわかり易い内容となります。
聞き手の方は、常に疑問を持ちながら話を聞くことができるので、問題点や自分の意見と異なる点などを把握しやすいですし、指摘しやすいことになります。
日本語の場合は、プロセス>ゴールとなっていることが多くなります。
もちろんゴールもプロセスも設定をされてるのですが、プロセスの方から思考されることが得意となっています。
それは現在行われているプロセスの改善や達成に対する意識の方が、ゴールに対する意識よりも強いことになります。
日本の場合は、明確なゴールがなくとも日々の業務の改善を黙々と行いながら、新たなゴールを設定していくことが可能となっています。
他の言語での活動の様に、明確なゴールがなくとも目の前にあるプロセスに取り込むことによって、直接的にはゴールに結びつかないようなことまで、労をいとわず対応することができます。
改善のための試行錯誤を繰り返して、目標に到達する感覚となります。
達成までのスピードは決して早くはありませんが、多くの経験によって成長することができるものとなっています。
目標が曖昧であったりすると、達成までのかかる時間や達成したかどうかがわからなくなるために自信を失っていくことが多くなります。
そのために、「どうせ無理だからやらない。」という意識が生まれることが多くなります。
対人環境においては、結論が最後の来るために、聞き手の方ではずっと説明だけを聞いていくことになり疑問を持つ間がありません。
最後の結論の時には、前に聞いた内容をほとんど覚えていないことが起きやすくなります。
そのために、結論を受け入れやすいという特徴が出ることになります。
日本語での得意パターンにはまると、大きな目標を掲げて議論を始めても、できない理由を見つけて現状維持に戻ってくることが多くなります。
これは日本語で知的活動を行なっている限り、その特性として備わっているものです。
日本語で行っている限り、よほど意識して切り替えないと、知らないうちにそのようになっていくことになるのです。
論理としては、欧米型の方が理解しやすいものですから、良く取り上げられますが、行動のもととなる知的活動が日本語でなされている限り、理屈通りにならないのが現実となっています。
どちらも共にゴールとプロセスの設定をするわけですが、どちらにより意識が置かれているかと言うことです。
知的活動には人の評価も含みますから、使用している言語で人に対しての評価も異なってくることになります。
明確な目標設定と達成の実績が欧米の言語での評価であり、目標への到達の可能性を持った日々の成長や能力アップが日本語での評価となるのです。
どちらがいいとか悪いとかではありません。
言語によって得意なパターンができてしまうのです。
そのことをわかって、陥りやすい環境に対して、違った刺激を与えることが可能になるのです。
日本語だけを使い、日本語だけの環境の中にいたのでは、永久に気がつくことがないと思われますし、その必要もないでしょう。
しかし、自分の意思に反して嫌でも世界と触れることが起きています。
彼我の違いを理解しておくことは、よりよく自分たちを知ることになり、そのことによって世界に対しての個性を打ち出すことができるのではないでしょうか。
間違った誤解を、知らない間にもたれることがないようにしたいものです。
言語として持っている、得意なパターンは、意識をしないと陥りやすいパターンのことでもあります。
特に自分一人で行っているときの知的活動においては、集中しているあまりにこの様なパターンについて見直す余裕がないものです。
人が陥っているときには気がつくのですが、自分では知らないうちにはまっていることがよくあります。
客観的に見る時間も必要ですし、誰かとの共同作業も有効だと思います。
思考的に苦手なことは、行動的にも苦手なことです。
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2014年5月13日火曜日
日本語による思考の特徴
知的活動のための唯一のツールが言語であることは、かなり前から言われていたことです。
そう思って考えてみると思い当たることがたくさんあるのではないでしょうか。
個人の持っている言語の限界が、その人の思考の限界となります。
そして、この思考する言語とそのための知的活動の機能は、幼児期の母親からの伝承言語である「母語」によって決まってしまうことがわかっています。
個人での知的活動であれば、個人の言語である「母語」で行うことが活動内容とツールとの相性が一番いいことになります。
表面的にはバイリンガルであったとしても、そこには母語から第二言語への翻訳が行なわれています。
母語以外の言語をうまく使いこなしている人は、母語からその言語への翻訳の効率がいい人です。
基本的には母語以外の言語で思考することはできないからです。
日本語を母語として持っている人の思考の特徴は、言語としての日本語が持っている特徴がそのまま反映されます。
言語は文化の歴史が反映されたものですので、個人としての思考の特徴は母語が他の言語に対して持っている特徴がそのまま現れてきます。
日本文化が他の国の文化と大きく異なっている点は、対人関係である彼我の関係の捉え方についてです。
彼我の同調性を基本とする日本文化は、彼我の違いを明確にしようとする欧米の文化に比べると、差異を明確にすることを嫌う傾向にあります。
さらには、その差異について指摘したりされたりすることを嫌います。
言語外のコミュニケーションである、「以心伝心」「一を聞いて十を知る」などのように、相手の心情を推し量って対応することを良しとする傾向があります。
数千年の歴史の継続によって形作られてきた文化的な背景は、それを表現するのに適した言語を生み出します。
特に日本語は、元になる漢語こそ中国からの借り物ですが、そこから生み出した「ひらがな」「カタカナ」は日本独特な言語となっています。
さらに明治期においては、日本独自の膨大な漢語を生み出し、本家中国への逆輸出によって中国の近代漢語に大きな影響を与えています。
日常表現の基本形である「漢字かな混用文」は日本独自のものであると言ってもいいと思います。
日本語による思考の特徴は、文化的な背景も影響しながら中間領域を大切にすることが挙げられます。
自分で意識しなくとも、母語として持っている日本語がそのような思考をしやすくなっていると言うことができます。
言語感覚として身についていると言ってもいいかもしれません。
「YES/NO」や「右か左か」といった明確な区分をつける思考を嫌う傾向があります。
日本語の持っている言語感覚が、両極端の概念の中間領域に思考の焦点を当てるようになっています。
中間領域の議論においては様々な発想が繰り広げられることがあります。
両極端の議論においては、議論にすらならないことが多くあります。
ビジネスの世界では中間領域における思考が「あいまいさ」につながることが出てきます。
しかし、実際の運用や活動においてはほとんどが中間領域におけることばかりで、両極端のどちらかで解決することは極めてまれなことです。
まさしく、論理的な明快さを実際の活動に反映させることのむずかしさがここにあります。
欧米流の二元論に基づく両極端を中心とした思考と、日本流の中間領域を中心とした思考とは相入れないものではありません。
ただし、中間領域の思考は両極端を含んだ思考ができますが、両極端の思考は中間領域がなくなったり薄くなったりする傾向があります。
そこでは、日本側の思考が欧米の思考を考慮した方がスムースに運びます。
中間領域の思考からは十分に両極端を理解することは可能ですが、両極端の思考からは中間領域を理解することが難しいからです。
日本語による思考に、相手の思考ツールの特徴に合わせた表現方法を加えたら最強のものにならないでしょうか。
世界の他の国や他の言語を母語とする人から一番遠いところにある言語が日本語だと思います。
その日本語が持っている可能性は、まだまだ使われていないものがたくさんあるのではないでしょうか。
日本語で思考することの特徴は、あくまで特徴であって、場面によっては長所とも短所ともなるものです。
特徴を理解したうえで、他の言語を母語とする人との付き合い方を考える必要があるのではないでしょうか。
日本語を母語とする私たちが、世界では珍しい存在なのです。
自分たちの特徴を理解したうえで、世界と付き合うことはとても大切なことですね。
理解してもらえないことを相手のせいにするのではなく、彼我の言語による違いであることが判ればもっと相手の理解しやすい表現が可能になりますね。
日本語の可能性はまだまだあると思います。
こんなことが探していけると楽しいですね。
そう思って考えてみると思い当たることがたくさんあるのではないでしょうか。
個人の持っている言語の限界が、その人の思考の限界となります。
そして、この思考する言語とそのための知的活動の機能は、幼児期の母親からの伝承言語である「母語」によって決まってしまうことがわかっています。
個人での知的活動であれば、個人の言語である「母語」で行うことが活動内容とツールとの相性が一番いいことになります。
表面的にはバイリンガルであったとしても、そこには母語から第二言語への翻訳が行なわれています。
母語以外の言語をうまく使いこなしている人は、母語からその言語への翻訳の効率がいい人です。
基本的には母語以外の言語で思考することはできないからです。
日本語を母語として持っている人の思考の特徴は、言語としての日本語が持っている特徴がそのまま反映されます。
言語は文化の歴史が反映されたものですので、個人としての思考の特徴は母語が他の言語に対して持っている特徴がそのまま現れてきます。
日本文化が他の国の文化と大きく異なっている点は、対人関係である彼我の関係の捉え方についてです。
彼我の同調性を基本とする日本文化は、彼我の違いを明確にしようとする欧米の文化に比べると、差異を明確にすることを嫌う傾向にあります。
さらには、その差異について指摘したりされたりすることを嫌います。
言語外のコミュニケーションである、「以心伝心」「一を聞いて十を知る」などのように、相手の心情を推し量って対応することを良しとする傾向があります。
数千年の歴史の継続によって形作られてきた文化的な背景は、それを表現するのに適した言語を生み出します。
特に日本語は、元になる漢語こそ中国からの借り物ですが、そこから生み出した「ひらがな」「カタカナ」は日本独特な言語となっています。
さらに明治期においては、日本独自の膨大な漢語を生み出し、本家中国への逆輸出によって中国の近代漢語に大きな影響を与えています。
日常表現の基本形である「漢字かな混用文」は日本独自のものであると言ってもいいと思います。
日本語による思考の特徴は、文化的な背景も影響しながら中間領域を大切にすることが挙げられます。
自分で意識しなくとも、母語として持っている日本語がそのような思考をしやすくなっていると言うことができます。
言語感覚として身についていると言ってもいいかもしれません。
「YES/NO」や「右か左か」といった明確な区分をつける思考を嫌う傾向があります。
日本語の持っている言語感覚が、両極端の概念の中間領域に思考の焦点を当てるようになっています。
中間領域の議論においては様々な発想が繰り広げられることがあります。
両極端の議論においては、議論にすらならないことが多くあります。
ビジネスの世界では中間領域における思考が「あいまいさ」につながることが出てきます。
しかし、実際の運用や活動においてはほとんどが中間領域におけることばかりで、両極端のどちらかで解決することは極めてまれなことです。
まさしく、論理的な明快さを実際の活動に反映させることのむずかしさがここにあります。
欧米流の二元論に基づく両極端を中心とした思考と、日本流の中間領域を中心とした思考とは相入れないものではありません。
ただし、中間領域の思考は両極端を含んだ思考ができますが、両極端の思考は中間領域がなくなったり薄くなったりする傾向があります。
そこでは、日本側の思考が欧米の思考を考慮した方がスムースに運びます。
中間領域の思考からは十分に両極端を理解することは可能ですが、両極端の思考からは中間領域を理解することが難しいからです。
日本語による思考に、相手の思考ツールの特徴に合わせた表現方法を加えたら最強のものにならないでしょうか。
世界の他の国や他の言語を母語とする人から一番遠いところにある言語が日本語だと思います。
その日本語が持っている可能性は、まだまだ使われていないものがたくさんあるのではないでしょうか。
日本語で思考することの特徴は、あくまで特徴であって、場面によっては長所とも短所ともなるものです。
特徴を理解したうえで、他の言語を母語とする人との付き合い方を考える必要があるのではないでしょうか。
日本語を母語とする私たちが、世界では珍しい存在なのです。
自分たちの特徴を理解したうえで、世界と付き合うことはとても大切なことですね。
理解してもらえないことを相手のせいにするのではなく、彼我の言語による違いであることが判ればもっと相手の理解しやすい表現が可能になりますね。
日本語の可能性はまだまだあると思います。
こんなことが探していけると楽しいですね。
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2014年3月25日火曜日
思考の道具としての言語
言語がコミュニケーションの道具であることは誰もがわかっていることですが、思考の唯一の道具が言語であることは意外と知られていません。
写真や絵、表やグラフなどもあるではないかと思われる方もいるかもしれませんね。
色々な考え方はあるようですが、一般的には写真や絵、表やグラフなどのイメージは言語を記号化したものであるとされています。
言語で表現したものを記号化したであり、イメージのままでは理解していないそうです。
イメージを言語として置き換えて理解しているそうです。
抽象画が具象画に比べて分かりにくいのは、多くの人が共通した言語に置き換えることができないからだと言われています。

思考もいろいろなとらえ方がありますが、言葉自体が抽象的な言葉ですので、一人ずつ定義が違うかもしれないですね。
広くは知的活動全般のことを差すこともありますし、何らかの結論を導き出す頭脳の働きということもあります。
ここでは単純に考えること、頭のなかで思いめぐらすこと程度にとらえておけばいいと思います。
思考が言語でなされていることが確認されたのはそんなに古いことではありません。
1930年にレフ・ヴィゴツキーによって著された「思考と言語」によって、思想が言語表現に移行していく姿が心理学的にも解明されたと言われています。
それ以降、様々な研究がおこなわれていますが、総論的に言って「思考は言語によってなされている」ことは世界的に認められたこととなっています。
私たちはただ単に思考だけをすることができません。
思考する対象が頭に入ってこなければ、思考することができません。
また、自分の思考を整理確認するためには、何らかの表現をしなければなりません。
口に出して発するか、紙に書いて表現するか、方法はいろいろありますが思考したものは何らかの表現をしなければ確認できません。
したがって、広義の捉え方では、思考はインプットとアウトプットを伴って初めて成り立つものとなります。
これを、日本語でもう少し使い慣れた言葉で表現すると、認識→思考→表現、となるのではないでしょうか。
ここで言っている思考とは狭義の意味で頭の中だけで行われている”思考”ということになります。
思考が言語によってなされていることがわかってきていますので、言語をうまく使いこなすことによってより質の高い効率の良い思考が可能になるのではないかと思います。
そんな目で見ていきますと、今まで経験していた問題解決手法や発想法などはすべて言語技術で成り立っていたことがわかります。
日本人が得意な、一番一般的なKJ法も言語技術そのものです。
ブレインストーミングも言語によって発想を刺激する言語技術そのものです。

思考のために使う言語が異なれば、思考そのものが異なるのは当然のことと言えます。
全く同じテーマについて、違う言語で思考すると結論だけでなくかかる時間や思考過程までが違ってくることは、様々なところで確認されていることです。
複数の言語を使いこなせる人であっても、しっかりとした思考をしようとするときに使える言語は決まっています。
思考そのものは母語でなければできないと言われています。
それぞれの言語においては、持っている語彙や文法や歴史によって独特の言語感覚が含まれています。
文化と言ってもいいものです。
母語以外の言語については、すべて母語からの翻訳が行なわれていると考えられています。
会話そのものは瞬間的な思考が含まれていると考えられますので、母語以外の言語であっても会話ができる程度に使える言語であればある程度の思考はできると思われます。
それでも母語には文化的な歴史的な要素も含まれており、個人の知的活動のための機能は幼少期より母語によって母語を使うのに最適なものに作り上げられています。
無理に思考の枠をはめられない限りは、母語による思考が自然であり一番質が高いものとなっています。
日本語は、他の言語に比べて圧倒的に表現力が豊かな言語です。
文法的な規則も緩いため、語順や省略などが自由に行われています。
同じことを言い表すのにこれだけたくさんの言葉や表現を持った言語はほかにありません。
日本語を母語として持っている者は、それだけで思考の広がりと柔軟性を持っていることになります。
さらには、ひらがなという2000年以上前から使われていた言葉を現代に受け継ぐ言語によって、言語感覚の中に文化的な歴史的なものを持っています。
日本語は世界の言語体系の中でも、どの言語とも交わらない独特のものとなっています。
漢字という文字は中国文化圏からの借用ですが、そこから生み出した「かな」は文字のない時代の言葉を受け継いでいるものです。
世界でも他に類を見ない言語です。
日本語はあまりにも大きすぎる言語だということもできます。
一人ひとりの日本語が違いすぎるのです。
あまりにも多くの語彙と表現を持つために、同じ言葉でも理解している内容が異なる場合がたくさんあります。
母語としての日本語は、母親から伝承されますので、母親の持っている言語が母語の限界です。
母語として持っている日本語は、一人ひとり異なる日本語となっています。
せっかく素晴らしい言語としての日本語を母語として持っているのですが、一人ひとりは独特の日本語となっていることになります。
結果として、一人では日本語の持つ能力を使いきれていないことになります。
昔から、感じていたのではないでしょうか、日本人は人の意見を参考にして協同によって作り上げることが得意です。
複数の人が集まった時の言語のやり取りは、同じ日本語としての感覚は持っていますが、それぞれの言葉に対しての感覚が異なっています。
それを刺激し合って、より質の高い思考につなげていくことができます。
漢字は書くことによってきわめて意味が分かりやすいものとなる文字です。
文化的歴史的な伝承が母語には含まれているのです。
複数の人が集まって、書いて知恵を出し合い思考を高めていく行為は、日本語にはもってこいの方法となっているのです。

他の言語にも、その言語を最も生かす思考方法があります。
英語は、とにかく話すことによって、自己主張をすることによって思考をする言語です。
アルファベットを基本とした言語のほとんどは、語彙がそんなにありませんし、ガチガチの文法で構文が規定されています。
文字に書くことよりも話すことにおいて、意味が分かりやすくなっています。
彼らの表現方法やプレゼンテーションは、私たちにとっては新鮮に見えます。
しかし、私たちの日本語を母語として継承してきた言語技術は、日本語にあった思考の質を高めるために最適のものと言えます。
そこまで考えたうえで、外国の言語技術を取り込むことが必要だと思います。
今まで見てきた中で、取り込んだ方がいいと思った技術はパワーライティングくらいでしょうか。
いろんな分野があっという間にボーダレスになってきました。
英語はますます国際標準語としての地位を確実なものにしています。
しかし、漢字はアルファベットに次いで世界で2番目に多くに人に使われている文字です。
日本語を母語として持っている者は、英語で思考することはできません。
しっかり考えるためにも、もう一度日本語を見直してみませんか。
自分の日本語と周りの日本語を比べてみるだけでも、参考になりますよ。
(参照:気づかなかった日本語の特徴)
写真や絵、表やグラフなどもあるではないかと思われる方もいるかもしれませんね。
色々な考え方はあるようですが、一般的には写真や絵、表やグラフなどのイメージは言語を記号化したものであるとされています。
言語で表現したものを記号化したであり、イメージのままでは理解していないそうです。
イメージを言語として置き換えて理解しているそうです。
抽象画が具象画に比べて分かりにくいのは、多くの人が共通した言語に置き換えることができないからだと言われています。
思考もいろいろなとらえ方がありますが、言葉自体が抽象的な言葉ですので、一人ずつ定義が違うかもしれないですね。
広くは知的活動全般のことを差すこともありますし、何らかの結論を導き出す頭脳の働きということもあります。
ここでは単純に考えること、頭のなかで思いめぐらすこと程度にとらえておけばいいと思います。
思考が言語でなされていることが確認されたのはそんなに古いことではありません。
1930年にレフ・ヴィゴツキーによって著された「思考と言語」によって、思想が言語表現に移行していく姿が心理学的にも解明されたと言われています。
それ以降、様々な研究がおこなわれていますが、総論的に言って「思考は言語によってなされている」ことは世界的に認められたこととなっています。
私たちはただ単に思考だけをすることができません。
思考する対象が頭に入ってこなければ、思考することができません。
また、自分の思考を整理確認するためには、何らかの表現をしなければなりません。
口に出して発するか、紙に書いて表現するか、方法はいろいろありますが思考したものは何らかの表現をしなければ確認できません。
したがって、広義の捉え方では、思考はインプットとアウトプットを伴って初めて成り立つものとなります。
これを、日本語でもう少し使い慣れた言葉で表現すると、認識→思考→表現、となるのではないでしょうか。
ここで言っている思考とは狭義の意味で頭の中だけで行われている”思考”ということになります。
思考が言語によってなされていることがわかってきていますので、言語をうまく使いこなすことによってより質の高い効率の良い思考が可能になるのではないかと思います。
そんな目で見ていきますと、今まで経験していた問題解決手法や発想法などはすべて言語技術で成り立っていたことがわかります。
日本人が得意な、一番一般的なKJ法も言語技術そのものです。
ブレインストーミングも言語によって発想を刺激する言語技術そのものです。
思考のために使う言語が異なれば、思考そのものが異なるのは当然のことと言えます。
全く同じテーマについて、違う言語で思考すると結論だけでなくかかる時間や思考過程までが違ってくることは、様々なところで確認されていることです。
複数の言語を使いこなせる人であっても、しっかりとした思考をしようとするときに使える言語は決まっています。
思考そのものは母語でなければできないと言われています。
それぞれの言語においては、持っている語彙や文法や歴史によって独特の言語感覚が含まれています。
文化と言ってもいいものです。
母語以外の言語については、すべて母語からの翻訳が行なわれていると考えられています。
会話そのものは瞬間的な思考が含まれていると考えられますので、母語以外の言語であっても会話ができる程度に使える言語であればある程度の思考はできると思われます。
それでも母語には文化的な歴史的な要素も含まれており、個人の知的活動のための機能は幼少期より母語によって母語を使うのに最適なものに作り上げられています。
無理に思考の枠をはめられない限りは、母語による思考が自然であり一番質が高いものとなっています。
日本語は、他の言語に比べて圧倒的に表現力が豊かな言語です。
文法的な規則も緩いため、語順や省略などが自由に行われています。
同じことを言い表すのにこれだけたくさんの言葉や表現を持った言語はほかにありません。
日本語を母語として持っている者は、それだけで思考の広がりと柔軟性を持っていることになります。
さらには、ひらがなという2000年以上前から使われていた言葉を現代に受け継ぐ言語によって、言語感覚の中に文化的な歴史的なものを持っています。
日本語は世界の言語体系の中でも、どの言語とも交わらない独特のものとなっています。
漢字という文字は中国文化圏からの借用ですが、そこから生み出した「かな」は文字のない時代の言葉を受け継いでいるものです。
世界でも他に類を見ない言語です。
日本語はあまりにも大きすぎる言語だということもできます。
一人ひとりの日本語が違いすぎるのです。
あまりにも多くの語彙と表現を持つために、同じ言葉でも理解している内容が異なる場合がたくさんあります。
母語としての日本語は、母親から伝承されますので、母親の持っている言語が母語の限界です。
母語として持っている日本語は、一人ひとり異なる日本語となっています。
せっかく素晴らしい言語としての日本語を母語として持っているのですが、一人ひとりは独特の日本語となっていることになります。
結果として、一人では日本語の持つ能力を使いきれていないことになります。
昔から、感じていたのではないでしょうか、日本人は人の意見を参考にして協同によって作り上げることが得意です。
複数の人が集まった時の言語のやり取りは、同じ日本語としての感覚は持っていますが、それぞれの言葉に対しての感覚が異なっています。
それを刺激し合って、より質の高い思考につなげていくことができます。
漢字は書くことによってきわめて意味が分かりやすいものとなる文字です。
文化的歴史的な伝承が母語には含まれているのです。
複数の人が集まって、書いて知恵を出し合い思考を高めていく行為は、日本語にはもってこいの方法となっているのです。
他の言語にも、その言語を最も生かす思考方法があります。
英語は、とにかく話すことによって、自己主張をすることによって思考をする言語です。
アルファベットを基本とした言語のほとんどは、語彙がそんなにありませんし、ガチガチの文法で構文が規定されています。
文字に書くことよりも話すことにおいて、意味が分かりやすくなっています。
彼らの表現方法やプレゼンテーションは、私たちにとっては新鮮に見えます。
しかし、私たちの日本語を母語として継承してきた言語技術は、日本語にあった思考の質を高めるために最適のものと言えます。
そこまで考えたうえで、外国の言語技術を取り込むことが必要だと思います。
今まで見てきた中で、取り込んだ方がいいと思った技術はパワーライティングくらいでしょうか。
いろんな分野があっという間にボーダレスになってきました。
英語はますます国際標準語としての地位を確実なものにしています。
しかし、漢字はアルファベットに次いで世界で2番目に多くに人に使われている文字です。
日本語を母語として持っている者は、英語で思考することはできません。
しっかり考えるためにも、もう一度日本語を見直してみませんか。
自分の日本語と周りの日本語を比べてみるだけでも、参考になりますよ。
(参照:気づかなかった日本語の特徴)
2014年3月21日金曜日
言語技術と思考技術
思考が言語でなされていることについては何度か触れてきました。
その中では、言語の限界が思考の限界であることや、把握できること表現できることの限界であることについても述べてきました。
人の思考はどんな人であっても、後天的な経験によってなんらかの癖がついてきます。
得意な、使いやすい思考のパターンというものが自然と出来上がってきます。
うまくいった経験や失敗した経験から学んだ、独自の思考のパターンが出来上がってくるのです。
その思考パターンンも固定されたものではなく、何度も試され使われながら修正を繰り返して今のものとなっています。

誰しもが自分独自の思考のパターンを持っており、環境や経験によって磨きあげられています。
特に大きな強烈な経験をした場合には、思考においても大きな影響な与えられているものと思われます。
その思考パターンの基本にあるものは、脳がどう感じるかによって喜んで取り入れるものと避けたいと思うものによって作られているようです。
脳の反応は「快か不快か」に集約されます。
「快」の代表的な感情は「好き」であり、「不快」の代表的な感情が「嫌い」になります。
脳は五感のすべてからの感覚に対して、自然と「快か不快か」の反応をしています。
快から不快に至るまでの間にさまざまな基準がありますので、特に極端に「快」または「不快」の反応になるものが大きな要素となって影響することとなります。
この「快と不快」も経験によって変化してくる後天的なものです。
子どもの頃嫌いで食べられなかったラッキョウが、大人になって食べてみたらおいしくて好きになった、というようなことです。
人の思考パターンは「快」と感じることになった経験の因果関係に大きく由来しています。
さらに「不快」と感じることになった経験の因果関係を避けようとすることが、それに影響を及ぼしています。
得意な思考パターンによって考えることが「快」につながっていますので、よほど意識をしない限りは得意な思考パターンしか使わなくなります。
これが、型にはまった思考と言われるものです。
個人としての決まりきった思考パターンですね。

これだけで生きていければいいのですが、社会のなかで生活をしている限りは他人との思考のぶつかり合いを避けることはできません。
また、個人としての思考パターンの結果の行動が、常に最良の結果につながるとは限りません。
さまざまな状況変化のなかで、個人としての思考パターンだけでは望む結果を得られないことができてきます。
いくら思考を巡らせても、思考パターンが同じであればなかなか枠を破ることができません。
この時に役に立つのが言語技術です。
文字として書きだすことによって、自分の思考を客観的に見ることができます。
頭の中だけで考えていたことが、視覚からも入ってくるために自分の思考を整理することができます。
言語を理解しているのは左脳です。
思考は言語によってなされているのですから、思考の基本は左脳で行われていることになります。
これに刺激を与えるためには、言語以外での右脳を使ってあげることが一番の早道です。
言葉として書かれた文字を、言語と認識してしてしまうと、左脳で言葉として感じてしまいます。
これをイメージとして捉えることができると右脳を刺激することができます。
すると、今までの経験から離れて思考に集中している場合には、ちょっとしたことで思考パターンの枠を外すことが可能になります。
思考パターンが作られた経験を呼びおこしている場合は別ですが、その原経験は自分でも忘れていることが多いものです。
ほとんどの思考パターンは、言語技術としてちょっとしたことで枠を外すことができます。
その中では、言語の限界が思考の限界であることや、把握できること表現できることの限界であることについても述べてきました。
人の思考はどんな人であっても、後天的な経験によってなんらかの癖がついてきます。
得意な、使いやすい思考のパターンというものが自然と出来上がってきます。
うまくいった経験や失敗した経験から学んだ、独自の思考のパターンが出来上がってくるのです。
その思考パターンンも固定されたものではなく、何度も試され使われながら修正を繰り返して今のものとなっています。
誰しもが自分独自の思考のパターンを持っており、環境や経験によって磨きあげられています。
特に大きな強烈な経験をした場合には、思考においても大きな影響な与えられているものと思われます。
その思考パターンの基本にあるものは、脳がどう感じるかによって喜んで取り入れるものと避けたいと思うものによって作られているようです。
脳の反応は「快か不快か」に集約されます。
「快」の代表的な感情は「好き」であり、「不快」の代表的な感情が「嫌い」になります。
脳は五感のすべてからの感覚に対して、自然と「快か不快か」の反応をしています。
快から不快に至るまでの間にさまざまな基準がありますので、特に極端に「快」または「不快」の反応になるものが大きな要素となって影響することとなります。
この「快と不快」も経験によって変化してくる後天的なものです。
子どもの頃嫌いで食べられなかったラッキョウが、大人になって食べてみたらおいしくて好きになった、というようなことです。
人の思考パターンは「快」と感じることになった経験の因果関係に大きく由来しています。
さらに「不快」と感じることになった経験の因果関係を避けようとすることが、それに影響を及ぼしています。
得意な思考パターンによって考えることが「快」につながっていますので、よほど意識をしない限りは得意な思考パターンしか使わなくなります。
これが、型にはまった思考と言われるものです。
個人としての決まりきった思考パターンですね。
これだけで生きていければいいのですが、社会のなかで生活をしている限りは他人との思考のぶつかり合いを避けることはできません。
また、個人としての思考パターンの結果の行動が、常に最良の結果につながるとは限りません。
さまざまな状況変化のなかで、個人としての思考パターンだけでは望む結果を得られないことができてきます。
いくら思考を巡らせても、思考パターンが同じであればなかなか枠を破ることができません。
この時に役に立つのが言語技術です。
文字として書きだすことによって、自分の思考を客観的に見ることができます。
頭の中だけで考えていたことが、視覚からも入ってくるために自分の思考を整理することができます。
言語を理解しているのは左脳です。
思考は言語によってなされているのですから、思考の基本は左脳で行われていることになります。
これに刺激を与えるためには、言語以外での右脳を使ってあげることが一番の早道です。
言葉として書かれた文字を、言語と認識してしてしまうと、左脳で言葉として感じてしまいます。
これをイメージとして捉えることができると右脳を刺激することができます。
すると、今までの経験から離れて思考に集中している場合には、ちょっとしたことで思考パターンの枠を外すことが可能になります。
思考パターンが作られた経験を呼びおこしている場合は別ですが、その原経験は自分でも忘れていることが多いものです。
ほとんどの思考パターンは、言語技術としてちょっとしたことで枠を外すことができます。
- 今まで使ったことのない言葉を使ってみる。
- 並び方を変えて書いてみる。
- 関連する言葉を書き出してみる。
- 主体と客体を入れ替えてみる。
- 伝える相手を限定して考える。
いろいろな方法がありますが、すべて書き出すことに意味があります。
頭の中だけで考えていては、言語だけでしか考えられません。
書き出してみることによって初めて、イメージとして捉えることが可能になります。
実は、声に出してみても同じような効果があることがわかっていますが、声の場合はその瞬間に消えていってしまいますので記録することが難しくなりますね。
繰り返しになりますが、思考は言語でなされていますので、言語だけを使っているとなかなか今までの思考パターンから脱することができません。
頭の中だけの思考から一歩抜け出して、五感のどれかを刺激することによって枠を破るきっかけとなるようです。

既存の思考パターンは決して悪いことではありません。
今までの自分を作ってきたのも、この思考パターンのおかげです。
この思考パターンで考えることが、脳にとって「快」となっているのです。
それでもこの思考パターンで行き詰まったりうまくいかなかったりするときに、枠を破る方法を持っていることは大きな力になります。
そこで枠が破れた経験がまた次に「快」につながっていくことで、既存の思考パターンを破っていくことができるようになります。
個人としての思考パターンは必ずできてきますし、それがないと個人としての特性が発揮されません。
個人としての思考のパターンが足かせになる場面に出会うことはたくさんあります。
その時に、単なる回避をするのではなく、積極的に取り組むことによってより柔軟性を持った思考パターンになっていくのではないでしょうか。
環境変化が激しくなっており、過去の結果の再現性が限りなく低くなってきています。
同じ環境で同じ結果が出せる条件はほとんどないと言っていいでしょう。
言語技術を磨くことが、思考の柔軟性を高めることにつながっています。
色々な言語技術を試してみるのもいい刺激になるのでしょうね。
既存の思考パターンは決して悪いことではありません。
今までの自分を作ってきたのも、この思考パターンのおかげです。
この思考パターンで考えることが、脳にとって「快」となっているのです。
それでもこの思考パターンで行き詰まったりうまくいかなかったりするときに、枠を破る方法を持っていることは大きな力になります。
そこで枠が破れた経験がまた次に「快」につながっていくことで、既存の思考パターンを破っていくことができるようになります。
個人としての思考パターンは必ずできてきますし、それがないと個人としての特性が発揮されません。
個人としての思考のパターンが足かせになる場面に出会うことはたくさんあります。
その時に、単なる回避をするのではなく、積極的に取り組むことによってより柔軟性を持った思考パターンになっていくのではないでしょうか。
環境変化が激しくなっており、過去の結果の再現性が限りなく低くなってきています。
同じ環境で同じ結果が出せる条件はほとんどないと言っていいでしょう。
言語技術を磨くことが、思考の柔軟性を高めることにつながっています。
色々な言語技術を試してみるのもいい刺激になるのでしょうね。
2013年10月10日木曜日
母語と思考について
思考が言語によってなされていることは何回か触れてきました。
その中で、言語の限界が思考の限界であることも触れてきました。
人が身につけている言語は、基本的な伝承語である母語、学習言語によって身につけた第一言
語、後天的にコミュニケーションの道具として身につけた第二言語などがあります。
それぞれの言語の特徴を簡単に見てみましょう。
母語は読んで字のごとく、母親から受け継いだ言語です。
幼児期(2~4歳)に方言も含めて母親の個性をそのまま受け継ぎます、同じものは存在しないと
言えるでしょう。
例え兄弟であっても、まったく同じということはあり得ません。
個人レベルでの多様性はかなりなものだと思われます。
小学校に入ると、母語の上に知識を習得するための学習言語を身につけます。
画一的な教育による知識の習得が目的ですから、没個性的な共通言語となります。
全国的にほぼ同じカリキュラムで実施されますので、日本語の共通語的な位置づけになります。
これが第一言語としての日本語になっていきます。
したがって第一言語はほとんど画一的で個人差のないものになります。
差が起こるとすれば、吸収した知識量の差になります。
第一言語の知識量の差だけであれば、現実的な表現の違いにこれだけの多様性が生まれないは
ずです。
第一言語を道具として利用しながらも、母語の段階で存在する多様性(個性)が発現されているも
のと思われます。
通常の場合は、母語と第一言語は言語の種類として同じものになりますので、第一言語の習得は
その一部では母語の強化にもなっています。
第二言語は、通常は第一言語の習得後に必要に応じて身につける、種類の違った言語になりま
す。
イメージとしては母語、第一言語、第二言語はそれぞれ階層のようにして存在しており、それぞれ
の間では通訳が行われていると考えられています。
母語と第一言語が同じ種類の言語であったとしても、少ないながらも通訳がされていると考えられ
ています。
ただし、 バイリンガルの一部では時として、第二言語が第一言語を仲介せずに直接母語との通
訳を行っているとも考えられています。
さて、思考は言語によってなされていると述べてきました。
図からも想像できるように、思考に一番影響しているのは母語です。
ところが我々には、母語を使っている感覚や、どんな母語を身につけたのかの記憶がありません。
母語自体は感覚の中に取り込まれてしまっていて、ほとんど意識することがないものです。
母語を身につけている幼児期である2~4歳ころの記憶がほとんどないのと同じことです。
実際には「ものごころつく」と言われる学習言語を習得している期間となる10歳ころまでの記憶は、
よほど印象的な事でないと残っていないと言われています。
教わったことも聞いたこともない言葉に出会った時、何となくこんな意味合いかなと感じることはあ
りませんか。
とくに、ひらがなで表現された感情や情景を表す言葉に、意味は分からなくとも雰囲気を想像でき
たり、いいなあと感じたりすることはありませんか。
第一言語だけであればこんな感覚は発生しません。
母語として持っているものが感性として感じ取っているものと考えられます。
母語には母親から受け継いだ実際の言葉以外に、歴史的な言葉の持つ感覚が含まれていると考
えられています。
それが、母親の持つ感性からくるものなのか、また言葉そのものが持つものなのかはよくわかって
いません。
母語の代表的な物が「やまとことば」であるということはできると思います。
外にある刺激を思考の参考にしたり、そのものを考えたりするときに必要なものが言語です。
思考は言語でなされますので、写真や絵画は直接的には思考の対象にはなりません。
写真や絵画は言語で理解して初めて思考の対象となり得ます。
思考そのものは本来は感覚的・感情的なものです。
極端に言ってしまうと「快か不快か」だけです。
これについては、またどこかで詳しく触れたいですね。
しかし、感覚や感情においても理解のしやすさというものは存在します。
それが論理です。
論理が単純で整っていることが必要なわけではありません。
論理にするために言語が必要なのです。
入ってくるものを理解しやすくするために言語が必要であり、思考したものを表現するために言語
が必要なのです。
そしてその言語を使って、より自分が理解しやすくるために、また人に理解してもらうために論理が
必要となります。
その中枢を担っているのが母語なのです。
意識できないから厄介ですね。
第一言語を通じてしか意識することはできないですね。
まだまだ役割や影響については研究の途中段階です。
もしかすると完全解明はないかもしれません。
でも「母語」というものが少しずつ見えてきているんですね。
一人でも多くの人に知ってもらいたいと思っています。
その中で、言語の限界が思考の限界であることも触れてきました。
人が身につけている言語は、基本的な伝承語である母語、学習言語によって身につけた第一言
語、後天的にコミュニケーションの道具として身につけた第二言語などがあります。
それぞれの言語の特徴を簡単に見てみましょう。
母語は読んで字のごとく、母親から受け継いだ言語です。
幼児期(2~4歳)に方言も含めて母親の個性をそのまま受け継ぎます、同じものは存在しないと
言えるでしょう。
例え兄弟であっても、まったく同じということはあり得ません。
個人レベルでの多様性はかなりなものだと思われます。
小学校に入ると、母語の上に知識を習得するための学習言語を身につけます。
画一的な教育による知識の習得が目的ですから、没個性的な共通言語となります。
全国的にほぼ同じカリキュラムで実施されますので、日本語の共通語的な位置づけになります。
これが第一言語としての日本語になっていきます。
したがって第一言語はほとんど画一的で個人差のないものになります。
差が起こるとすれば、吸収した知識量の差になります。
第一言語の知識量の差だけであれば、現実的な表現の違いにこれだけの多様性が生まれないは
ずです。
第一言語を道具として利用しながらも、母語の段階で存在する多様性(個性)が発現されているも
のと思われます。
通常の場合は、母語と第一言語は言語の種類として同じものになりますので、第一言語の習得は
その一部では母語の強化にもなっています。
第二言語は、通常は第一言語の習得後に必要に応じて身につける、種類の違った言語になりま
す。
イメージとしては母語、第一言語、第二言語はそれぞれ階層のようにして存在しており、それぞれ
の間では通訳が行われていると考えられています。
母語と第一言語が同じ種類の言語であったとしても、少ないながらも通訳がされていると考えられ
ています。
ただし、 バイリンガルの一部では時として、第二言語が第一言語を仲介せずに直接母語との通
訳を行っているとも考えられています。
さて、思考は言語によってなされていると述べてきました。
図からも想像できるように、思考に一番影響しているのは母語です。
ところが我々には、母語を使っている感覚や、どんな母語を身につけたのかの記憶がありません。
母語自体は感覚の中に取り込まれてしまっていて、ほとんど意識することがないものです。
母語を身につけている幼児期である2~4歳ころの記憶がほとんどないのと同じことです。
実際には「ものごころつく」と言われる学習言語を習得している期間となる10歳ころまでの記憶は、
よほど印象的な事でないと残っていないと言われています。
教わったことも聞いたこともない言葉に出会った時、何となくこんな意味合いかなと感じることはあ
りませんか。
とくに、ひらがなで表現された感情や情景を表す言葉に、意味は分からなくとも雰囲気を想像でき
たり、いいなあと感じたりすることはありませんか。
第一言語だけであればこんな感覚は発生しません。
母語として持っているものが感性として感じ取っているものと考えられます。
母語には母親から受け継いだ実際の言葉以外に、歴史的な言葉の持つ感覚が含まれていると考
えられています。
それが、母親の持つ感性からくるものなのか、また言葉そのものが持つものなのかはよくわかって
いません。
母語の代表的な物が「やまとことば」であるということはできると思います。
外にある刺激を思考の参考にしたり、そのものを考えたりするときに必要なものが言語です。
思考は言語でなされますので、写真や絵画は直接的には思考の対象にはなりません。
写真や絵画は言語で理解して初めて思考の対象となり得ます。
思考そのものは本来は感覚的・感情的なものです。
極端に言ってしまうと「快か不快か」だけです。
これについては、またどこかで詳しく触れたいですね。
しかし、感覚や感情においても理解のしやすさというものは存在します。
それが論理です。
論理が単純で整っていることが必要なわけではありません。
論理にするために言語が必要なのです。
入ってくるものを理解しやすくするために言語が必要であり、思考したものを表現するために言語
が必要なのです。
そしてその言語を使って、より自分が理解しやすくるために、また人に理解してもらうために論理が
必要となります。
その中枢を担っているのが母語なのです。
意識できないから厄介ですね。
第一言語を通じてしか意識することはできないですね。
まだまだ役割や影響については研究の途中段階です。
もしかすると完全解明はないかもしれません。
でも「母語」というものが少しずつ見えてきているんですね。
一人でも多くの人に知ってもらいたいと思っています。
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