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2014年5月16日金曜日

世界を導く「あいまいさ」

欧米を中心として発展してきた近代文明に、あらゆる分野で限界が見えてきています。

二元論を元にしたクリティカルシンキングも、行き着くところがYES/NOになってしまうことによって実態をとらえきれなくなっています。

コーチングや制約条件理論なども論理の展開や手法としては理解できても、実際に使用する場面においては、ある種の割り切りによる定型化が必要になってきています。

人の生活が豊かになることによって生まれている価値観の多様化は、様々な価値基準を生み出しており、今までの考え方では現状を把握することすら難しくなってきているのが現状でしょう。

把握したと思った現状すらが、切り口が異なれば全く正反対の評価をせざるを得ないものとなっています。


二十世紀の前半には、自然科学の世界では革命的な変化が起きました。

その変化を引き起こしたのはアインシュタインの相対性理論と量子力学の発見です。

古典的な物理学の土台をなしていた、因果律と決定論が破綻しました。

一義的決定性や完全なる記述の可能性という幻想は過去のものとなりました。

つまり自然界は根底のところで、一義的な決定的な表現ができないことが明らかになってきたのです。

それによって、自然科学はあらゆる中間領域(=あいまいな領域)に焦点を合わせるようになってきたのです。


私たちの存在そのものの根本原理に関しての見解は、物理学を土台として成り立っています。

物理学が二十世紀前半に成し遂げた飛躍的な発展は、やがて私たちの考え方にも変化をもたらしてくることになります。

すでに、自然科学の革命的な転換を受けて西洋の哲学も「あいまいさ」に目を向け始めています。

古代ギリシャ哲学の「ファルマコン」や「老子道徳経」などがさまざまな角度から取り上げられています。


こうした変化の波がいつ日本に届いてくるのかはわかりませんが、世界のあらゆる分野で日本人の思考や言語との関係が取り上げられてきています。

日本文化にその波が及ぶ時期は予想できませんが、近づいていることは間違いのないことでしょう。

今現在は、過去のものとされている日本古典文学は、その「あいまいさ」において実は未来のものであると言うことができるのではないでしょうか。


古代日本人は、古代中国の哲学を自らの経験を通して認識し、その認識を日本独自の表現方法である和歌を通して発展させていきました。

その結果、和歌は文学表現のメディアであるとともに、当時の知識層による哲学的議論のメディアとして活用されていったのではないでしょうか。

そして、哲学の対象である「心」は、古代日本人の存在論の基本的な概念として定着していったと思われます。

言い換えれば、もともととらえどころのない「心」は、古代中国の思想を特徴づける「あいまいさの哲学」と関連付けられることによって、現実的な概念として定着してしていったと思われます。


世界のどの国においても、「心」についてこれだけ多くの階層が、これだけ気軽に表現することができた環境は、日本における和歌以上のものを見ることができません。

「心」は自然科学における象徴であるとともに、唯一自分で感じること確認することができるものです。

一部の哲学者だけがその閉ざされた環境の中で思考してきた「心」は、そのほとんどを和歌においてみることができるのです。

そこにあるのは、まさしく極端から極端まで揺れ動く、中間領域における「あいまいさ」に他ならないのです。


この「あいまいさ」の思想は、まさしく私たち現代人の考え方に合いません。

現代の私たちは、決定論的な考え方に基づいて、古典の文学の読み方についても「ただ一つだけの正しい解釈」をしようとします。

もちろんこうした読み方も可能ですし、こうした読み方こそが今の考え方に即したものだと言えるかもしれません。


和歌の変遷を見ていくときに、単なる文学論として「大変美しいが、形に囚われてテーマが狭くて、深みが感じられない」という評価がほぼ定着してしまっているのはそのためではないでしょうか。

和歌を考える時に、当時の表現の手段を考えてみれば、知識層の問答がそこに集約されているとみることができると思われます。

誰もが表現できるその形式は、日常語に近いものとしての意味も持っていたのではないでしょうか。

あらゆる階層や地域での和歌を意図をもって編集するためには、最高権力者としての力が必要であったのではないでしょうか。

勅撰集という、単なる趣味嗜好の域を超えた事業としての意味合いもそこから伺うことができると思われます。


特に平安時代の和歌を考える時に、哲学的な議論の手段という役割をそこに認めると、古代人の存在論としての「あいまいさ」が一段と浮かび上がってくるのではないでしょうか。

これから世界を救うのはこの「あいまいさ」ではないでしょうか。

「もったいない」は世界を救ってきました。

「おもてなし」は世界の興味を引きました。

「あいまいさ」を感覚として持っている日本語を母語としているものとして、もっと日本語で表現を発信していってもいいのではないでしょうか。




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2014年5月7日水曜日

「あいまいさ」に込められたもの

「あいまいさ」の素晴らしさでは彼我の関係の捉え方の違いから、西欧の文化と比べた時の日本独特の「あおまいさ」を見てみました。

今回は「あいまいさ」は正反対の概念を取り込んだものであることを見ていきたいと思います。


「あいまいさ」は「いいかげんさ」につながる言葉として、決してポジティブな使い方はされない言葉ではないでしょうか。

「いいかげん」という言葉も二面性を持った言葉であり、「丁度いい」や「適切である」という意味で用いると、「風呂の温度がいい加減である。」と言うこともできる。

また、「でたらめ」や「思いつき」という意味で用いることもあり、「いい加減なことを言うな。」のような使い方もある。


「あいまいさ」が結び付く「いいかげん」は後者の方であり、「思慮が足りない」や「その場しのぎ」的なニュアンスが含まれるものと思われます。

「あいまい」は辞書的な解釈を見てみると、大きく二つの意味があります。

ひとつは、言葉や表現において複数の意味を持つもののこととあります。
「日本語のあいまいさ」と言われるゆえんはここにあると思います。

もう一つは、そのものや周辺が不明瞭であるさまとあります。
こちらの場合は、反対語として明瞭や明確が充てられるものとなるのでしょう。


「日本語のあいまいさ」は日本文化のあいまいさそのものでありますが、「あいまいさ」を使いこなせる言語においては、より正確さや明確さを表す表現を持っています。

他の言語との比較はいたるところで出てきますので、他の言語に合わせた表現の仕方はいくらでもできるものです。

「あいまいさ」を多く持っている言語の方が表現方法が豊かであると同時に、自ら持っている「あいまいさ」を拭い去った表現で正確さや明確さを伝えることも可能となっています。


日本語の持っている「あいまいさ」の特徴は、正反対の概念を取り込んだ複数の意味を一つの言葉が持っている、あるいは意図的に持たせていることにあります。

その技術の発展にはやはり和歌という文学表現が大きな影響を与えていると思われます。

呼び方はどうでもいいのですが、和歌でも歌でも川柳でも、五七五七七の三十一文字の中に情景を表し心情を映しこむ技法は文字のない時代より伝わっている表現方法です。

やがて、歌合せとして巧拙を競ったり、歌を評価しあったりしながらもその技術を磨いていくことになります。

身分の差もそれほど影響せずに、文字の読み書きができるものであれば誰もが簡単に取り組むことができた表現方法です。


基本をなす七五調の音は、長編文学においても反映され、切れの良いリズムの良い文章を構成してきています。

謡だけではなく、一般的な歌謡曲やJ-POPと言われる音楽分野においても、その歌詞には七五調が息づいています。

この感覚は、日本語を母語とする者においては極めて自然なものとして身についているのだと思われます。


先回も取り挙げた、紀貫之の辞世を例として「あいまいさ」を見てみたいと思います。

手にむすぶ 水にやどれる 月影の あるかなきかの 世にこそありけり

歌の解釈はそれこそ、言葉をどう読み取るかで変わっていってしまいます。

作者と同じ解釈ができるかどうかもわかりません。

そこに込められた心情を見ると言うスタンスを持てば、何かが見えてくるのではないでしょうか。


まずは、「むすぶ」は結ぶの意味で手にすくった水の上で月の像が結ばれることを意味していますが、両手を結ぶことや「すくう」と言う動作までもが含まれています。

ひとつの言葉にどれだけの意味を持たせているのでしょうか。

さらに、「みず」です。

濁点の表記はしませんので「みす」となりますが、読みは「みず」ともなります。

「水」は勿論のこと「見ず」(否定としての見えず)だけではなく、全く反対の「見つ」(見たという意味)までも読み取ることができます。


水面が揺れると見えたり見えなかったりする月影の映像は、目からも耳からもきわめてリアルに伝わってきませんか。

そこから、あるかなきかの命のはかなさをしみじみと心にしみこませてきます。


月の影という言葉自体が、月の光と影の両方を表す言葉となっています。

月の影を月の光と置き換えてもそのまま意味が通っているものがほとんどですが、月の影と表現することによって月そのものではなく映された月の光までも捉えることができます。

影は「光」と「影」という正反対の概念を一つの言葉の中に持っているのです。

まるで、月の見えない部分が太陽の光を遮っている地球の影であることをわかりきっているかのような表現ではないでしょうか。


これと同じことが「水」のところで見てみた「見づ」と「見つ」にも読み取ることができるのです。

複数の意味を持ったことを「あいまいさ」ということを見てきましたが、日本語の「あいまいさ」には正反対の概念が込められていることが多くなっています。

単なる「あいまいさ」に比べると、そのカバーする範囲はとんでもない広さになっていると言うことができます。


正反対の意味が一つの言葉によって表現されてしまうのであれば、どちらの意味として考えなければならないのかの手掛かりが必要になります。

そしてどちらの意味なのかを決めなければいけません。

しかし、和歌における日本語の「あいまいさ」は、その正反対の意味が同時に存在しているのです。

そのどっちつかずの「あいまいさ」を歌として表現しているのです。


目に見える月はこんなに鮮やかに水に映っているのに、あなたの姿を見ずに過ごすことは何と辛いことであろうか・・・

水に映る月を詠いながらも、心は合えぬあなたを思っていることが、そこはかとなく起こっている・・・

こんなことが「あいまいさ」に込められた思いではないでしょうか。


こんな「あいまいさ」を使いこなせる言語を持っていることは、なんと素晴らしいことでしょうか。

そこにはより的確な表現をしようとすればできるだけのものがあるのですから、さらに驚くべきことではないでしょうか。

使いこなすための努力はまだまだ足りないのかもしれないですね。



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