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2017年7月6日木曜日

ふところの広い日本語

文字としての漢語が伝わる前から音だけの「古代やまとことば」としての原始日本語が存在していたであろうことは何度も触れてきました。

だからこそ、漢語が導入されたときにその文字の持つ意味と同じような意味を持つ「ことば」が訓読みとして充てられたことになります。


漢語が伝わる前にどれだけの音しかない「古代やまとことば」が存在していたのかは、今となっては確かめることができません。

それは訓読みの中にも「馬」や「梅」のように漢語の読み(音読み)である「マ」「メイ」から派生した「うま」「うめ」のような例があるからです。
(参照:日本語ではなかった「馬(うま)」と「梅(うめ)」)

そのためにすべての訓読みが漢語の伝わる以前に存在していた「古代やまとことば」とは限らないことになります。

現在使われている訓読みからこれらの分類することはかなりの困難を伴う作業でもあります。


漢語においては文字が異なるということは違ったことであることを意味します。

「書」と「描」との違いは「飛」と「寝」との違いと同じことになるのです。

むしろ「描」と「猫」のほうが近い関係ということになります。


「かく」という動作を表す「ことば」に充てられている漢字は「書く」「描く」「画く」「掻く」「欠く」などがあります。

つまりは漢語が伝わる前には「かく」という音しか持たない「ことば」はこれらの漢字の意味をすべて包括的に持っていたことになります。

「古代やまとことば」が持っていた意味はとても広い意味があり「かく」の中での意味を分ける必要がなかったのではないかと思われます。


漢語が伝わってきたことによって日本で使っていた音しか持たない「ことば」としての「かく」にも多くの区別があることが確認されていったのではないでしょうか。


文明の高さのレベルはその文明が持っている言語の語彙の多さに比例するようです。

そしてのその文明が得意とする分野においては一段と細かいカテゴリが設定されておりより多くの語彙を持っているものとなっているようです。

文明の垣根がほとんどなくなった現代においても、言語によって特定の分野において持っている語彙が大きく異なっていることがきわめて基本的な言葉においても確認することができます。


たとえば、人が移動するときの様子(速度)を表す基本的な言葉は日本語では「あるく」「はしる」の二種類になります。

この言葉は極めて日常的に同じように使われており、これらの言葉をさらに形容して様々な移動する様子を表したりするものとなっています。

つまりは、日本語の文明においてはひとが移動する様子(速度)を表す区別は、この二つしか必要としていなかったことが伺えます。

「かける」という言葉がありますが、これは動物対して使われる言葉であり人に対しては用いないのが本来の使い方となっています。(現在ではひとに対しても使っていることもありますね)


同様に英語を見てみましょう。

同じカテゴリの言葉として walk, jog, run, sprint の四つの言葉が日常的に使われています。(dashのほうが私たちには馴染みがあるかもしれないですね)

英語を母語として使用している人にとっては教わらなくともこれらの違いは感覚的に理解されており使用場面を間違うことはありません。

英語の文明においては日常的に人の移動する様子(速度)を表すのにこれらの言葉を使い分けることが行われてきたことが伺えます。


あえて当てはめてみようとすれば「あるく」= walk、「はしる」= jog, run, sprint となるのでしょうか。

英語の文明においては日本語の「はしる」を細分化して表現することが日常的に行われていたのでしょうね。
(参照:「あるく」と「はしる」)


新しい文明は新しい言葉とともにやってきます。

日本語は「古代やまとことば」をベースに新しい言葉を作りながら新しい文明に対応して受け入れてきました。

その意味では、漢語が伝えられる前の日本にはきわめて基本的な動作や物を表す「ことば」しかなかったのではないかと思われます。


一つひとつの日本語の「ことば」が持っている意味もとてもふところが広いものですが、新しい文明(言葉)をどんどん受け入れることができる日本語の環境そのものもとてもふところの広いまた深いものではないでしょうか。

本当に基本的な少ない言葉しかもっていなかったからこそできたことかもしれませんね。


しかも、新しい文明に対応する新しい言葉は漢字、アルファベットを中心に作られていきました。

さらに音だけ利用とした場合にはカタカナという技を繰り出していったのです。

日本語の原点としての「やまとことば」は「ひらがなことば」として新しい文明によって一切侵食されることなく継承されてきているのです。


新しい文明という環境に対応する高い適応力を持ちながらも、自らの基本的な感覚は一切失うことなく数千年を継承し続けていることになるのです。

最近では外来語である漢字やアルファベットが利用される場面が多くなっていると思われます。

日本語本来の感覚を見失わないように、またしっかりと子供たちに継承してけるように「ひらがな」のチカラを改めて見直してみる必要がありおそうですね。

日本語のふところの広さの原点が「やまとことば」(「ひらがなことば」)にあると思われます。

日本文化の感覚そのものはすべて「ひらがなことば」で表現して伝えていきたいものです。

それこそが世界における大切な多様性の中で日本文化が生かせることではないでしょうか。

2020年に向けてますます海外の文明と接する機会が増えてくると思われます。

迎合することではなく、しっかりとした日本語文化で対応して受け入れていきたいものですね。



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2016年5月4日水曜日

基本語で話そう

基本語という表現は馴染みのないものかもしれません。

それぞれの言語が持っている動作や感情を表す基本的な言葉であり、古くから一般的に広く使われてきた言葉のことになります。

合成語や複合語は基本語をもとに新しく作られた言葉ということができるために基本語とは呼べない言葉になります。

「寒い」(さむい)は基本語ですが「肌寒い」や「うすら寒い」は基本語とは言えないものになります。


同じようなことを表そうとしても言語によって持っている基本語の多さの領域が異なっていることがあります。

そのことがその言語の特徴を表しており、歴史文化的により細かな区分に対してこだわってきたことを感じさせるものとなっています。


例えば、人が移動することを表す言葉としての基本語は、日本語では「歩く」(あるく)と「走る」(はしる)の二種類になります。

これに対して英語では、walk, run 以外にも jog, sprint, dash などの基本語を持っています。


基本語ですから特に意識をしなくともその言語を母語として持っている人にとっては同じような感覚で使い分けが可能となっています。

「歩く」とwalk は人の動作として表している内容や感覚がほとんど同じものとなっていますので、日本語の「走る」という動作の感覚に対して英語は四段階のカテゴリーとしての基本語を持っていることになります。

しかも基本語として持っている言葉ですので、この四段階の区分けをすべての人がほとんど同じ感覚で無意識のうちに行なうことが可能となっているのです。


私のように日本語を母語としている者から見ると、jog とrun の区別が分からないような微妙な状況であっても英語を母語とする人の間ではほとんど同じ感覚でしかも無意識に区分けをしているのです。

日本語としてはjog に対しては「小走り」(こばしり)といった表現が合うのかもしれませんが、これは基本語を利用した複合表現にしかすぎず「走る」のカテゴリーの中にある表現にすぎないことになります。

つまりはjog に相当する基本語は日本語には存在しないのです。

日本語では、jog もsprint もdash もすべてが「走る」という基本語で表現されることになるのです。


日本語には「駆ける、駈ける」(かける)という基本語もあるではないかと思う人もいるかもしれませんが、文字を見ればわかるようにこれはもともとは馬の走る様子を表した言葉であり人が移動する様子を表した言葉ではありません。

「走る」は基本語として人以外の動物や物が移動するときにも使われる言葉となっていますが、「駆ける、駈ける」は馬から転じて人や動物が移動することにしか使われない言葉となっています。

基本語は誰にでもわかりやすい言葉であるために本来の意味から広がっていったり複合語を構成する核となったりしていきます。


このようにして基本語を見てくると、日本語における基本語は「やまとことば」から継承されている「ひらがなことば」であることがわかってきます。

基本語は漢字を用いて表現する場合は全てが訓読みとなっている言葉なのです。

話し言葉としては全てが「ひらがなことば」であり漢字としての文字を思い浮かべることをしなくとも意味がはっきりと分かることばとなっているのです。


音読み漢字による熟語はまさしく合成語や複合語であり基本語とはなりません。

一文字漢字を利用した音読み言葉である「談ずる」「断ずる」(だんずる)や「食する」(しょくする)「減ずる」(げんずる)などの動作を表す言葉も基本語とは言えないものです。

「話す」「断る」「食べる」「減る」といった基本語に置き換わる言葉になります。


あらゆる言語がそれぞれの基本語だけで成り立っていた時代を持っているはずです。

そして歴史を重ねることによってその基本語を核として合成語や複合語を作ってきたことになります。

また、それらの言葉を使って外来語に対応する言葉を作ってきたということが言えるのです。


日本語における基本語は「ひらがなことば」として他の合成語や複合語とは区別しやすいものとなっています。

このブログで提唱している「現代やまとことば」はまさしくこの基本語のことであることになります。

基本語という言葉自体がとても抽象的で分かりにくい言葉でありますので「現代やまとことば」と言った方がいかにも日本語らしいので採用している表現になります。
(参照:「現代やまとことば」を経験する(1))

文字で表現するときには漢字による表意文字(表語文字)としての機能が生かされることになりますので、音による言葉よりは明確な意味を伝えることが可能になります。

ところが、話し言葉になってしまうと音が同じ場合には文字の違いが機能しなくなってしまいます。

基本語は話し言葉においても言葉同士の違いが明確になる言葉なのです。

話すときにこそ基本語=「現代やまとことば」を使用することでお互いの伝えたいことが分かりやすく伝わるものとなるのではないでしょうか。

「話しことば」の画像検索結果

「きく」という基本的な動作を表す言葉があります。

文字にすると「聞く」「聴く」「利く」「効く」「訊く」の五種類があることになります。

話しことばとしては「きく」の一種類であり基本語としても「きく」の一種類になります。

伝える側がどんなに「聞く」「聴く」「利く」などの違いを意識して伝えようとしても相手には「きく」としてしか伝わらないことになります。

相手にわかり易いように伝えるためにはそれぞれの「きく」の場面にふさわしい基本語に置き換えて話しをする必要があることになります。


あらゆる言語において基本語だけによる表現が可能になっています。

その方がその言語を母語とする人たちにとっては理解しやすい聞き間違いの少ない表現となっているのです。

基本語だけで表現ができないような状況や言葉については自分自身が人に伝えられるだけのきちんとした理解ができていないことの裏返しとなっていることになります。

このことは「現代やまとことば」を使う上での大きな効果となっています。


「現代やまとことば」で表現しきれない言葉や状況は、自分自身で明確にしっかりと認知できていないことの現れとなるのです。

試しに外来語などでやってみると面白いと思います。

何気なく使っている「IT技術」などという言葉もわたし自身が「現代やまとことば」では表現できないままに使っている言葉となっています。

言葉としての「IT技術」は伝わってもその言葉に込めた意味合いは全く伝わっていないことになります。


自分が日常的に使っている言葉を「現代やまとことば」に置き換えて棚卸してみると面白いと思います。

思っている以上にあやふやなままに使っている言葉がたくさん見つかると思いますよ。



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2016年3月28日月曜日

いつも使っている言葉を変えてみる

下書きや原稿を用意しない話の中でも、無意識に頻繁に使っている言葉というものがあります。

一種の口癖とも言えるかもしれません。

私の場合には「基本的には、、、」がいたるところで顔を出します。

言いたいことがまとまっていなかったり考えながら話をしている場合には、無意識のうちに使っていることが多くなっているようです。


直感に頼った話し方の多いわたしの場合は、その場の思いつきで話しが予定以外の方向に飛んで行ってしまうことが少なくありません。

思いついたことは溜めないですぐに発信してしまう方なので、聞いている方は何について話しているのかを把握することが大変になっていると思います。

このことは自分でもわかっているので気づいたときに修正するようにしています。

しかし、話し始めてしまうとなかなか気がつきにくくなってしまい、そのときに出てくる修正フレーズが「基本的には、、、」になっているのです。

横道に逸れた内容をひと通りまとめておくために使っている場面が多いと思います。


ですから、そこから続く内容はほとんどの場合は少しも言葉通りの基本的でもなんでもないものとなっていることになります。

特に意識することもなく何気無く発してしまう言葉は自分の中で固定概念化してパターン化してしまっていることが考えられます。

しかも、音としてなんとなく聞こえのいい音として感じられるものが多いのではないでしょうか。

いわゆる格好良く聞こえる言葉と言えるものかもしれません。


原稿やメモなしで話されている内容には話し手が意識していなくとも繰り返し登場してくる言葉があります。

その言葉を意識して他の言葉に置き換えをしてみることが分かり易さにつながります。

ほとんどの場合は置き換えたあとの言葉の方が言いたいことを的確に表しているはずです。

ぜひ、試してみてください。


今度は自分が話をするときの番です。

無意識に出てしまう言葉を意識していたら話ができなくなってしまいます。

また、無意識に発してしまったことを気にしても話しに集中できなくなってしまいます。

思わず発してしまったときがチャンスだと思ってください。

違う言葉で置き換えることをやってみるだけでいいのです。


すぐに置き換える言葉が見つからない場合もあります。

それはその言葉に対しての自分の理解が十分できていないことを示しているのです。

よく使う言葉はそれだけ使い方のバリエーションがあり広い意味があることになります。

使われる場面によっていろいろな言葉に置き換えられて当たり前の筈なのです。

それにもかかわらず置き換えの言葉が見つからない場合は、自分がその言葉の意味として理解している範囲を超えていることになります。

聞いている方にはさらに分かりにくいものとなっていることになります。

「言い換え練習」の画像検索結果

置き換える言葉はできるだけ易しい言葉がいいです。

置き換えた言葉がさらに難しい言葉では余計に聞いている方を迷わせることになるからです。

できることならば誰でもが間違いなく理解できる「ひらがなことば」に置き換えることができれば最高です。


私の場合であれば「基本的には、、、」を文字通りの意味として使っていることは稀だと思います。

言い換えるならば「横道をまとめると、、、」であったり「本題からずれましたが、、、」「どこでつながるのかと言えば、、、」といった程度の方がより適切な表現の場合が多いと思われます。

それにもかかわらず無意識に「基本的には、、、」が出てしまうのは、この言葉によってある種の思考のパターンが出来上がっていると思われます。

しかも、自分としてはとても使いやすい形で汎用性があるものとなっていることになります。


この思考パターンは私だけのものですのでこの思考パターンをそのまま人に話しても決してわかり易いものとはなりません。

分かってもらうためには様々な言い換えの中から聞き手にとっての分かり易いものを選択しなければなりません。

少なくとも一つの言い換えがあれば同じことに対して理解してもらえる人は数倍になることなります。


しっかりと伝えたい大切なことほど自分の解釈にこだわった言葉になってしまうことが多くなります。

強調したい言葉ほど何度も使うことが多くなります。

意識づけのために数多く使うことは一つの技術として成り立つと思いますが、その言葉が聞き手にとって分かりにくい言葉であったとしたらその言葉を何度も聞かされることはどのように感じるでしょうか。


いつも使っている言葉は自分のなかで勝手な理解と思考パターンに結びついていることが多いものです。

持論を展開するために自分の理解にもとずく言葉を使うことは避けられませんが、そのことによって分かりにくさが強調されてしまうことがあります。

いつも使っている言葉ほど自分にとっては意識することが少なくなっている筈ですので余計に注意が必要になるのです。


自分でも使いなれない言葉については使う場面での意味や使い方を考えるのが当たり前になっています。

ところが使い慣れた言葉は無意識に浮かんで発信されていってしまうことになります。

これが基本的な易しい言葉である「ひらがなことば」であれば問題は少ないのですが、ほとんどの場合は専門用語や特殊な言葉で人があまり使わない自分独自の言葉であることが多くなっています。


いつも使っている言葉を変えてみることは凝り固まった思考パターンから脱することにも役に立ちます。

固定概念や思考の固定化が人とのコミュニケーションにおいては妨げになる場合が多いことはよく知られたことです。

いつも使っている言葉を置き換えてみるだけで見えてくるものがたくさんありそうですね。


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