3年ほど前に同じテーマで書いていますが、新しい観点も出てきているので改めて触れてみたいと思います。
(参照:音声言語と文字言語)
言語の世界に実際にこんな分類があるのかどうかはよく分かりませんが、日本語の特徴を説明するためには良くできた観点ではないかと思っています。
日本語以外の言語と決定的に違っている最も分かりやすい点は表記文字の種類の多さです。
しかもそれらの表記文字のどれを使っても日本語をほぼ完全に表記することが可能となっているのです。
その中でも完全に表記するために一番難しいのが漢字ではないでしょうか。
漢字以外のひらがな、カタカナ、アルファベット(ローマ字)ではそれぞれ単独でどのような日本語でも完全に表記することが可能となっています。
漢字だけで表記するためには漢文表記の知識がなければできませんが、ある程度のことにつていは一般的な知識の中でも熟語の羅列程度は可能ではないでしょうか。
その意味では日本語を日本語として表記するためには漢字がいちばん相応しくない文字であると言えないこともありません。
実はこの漢字という文字の存在が日本語を分かり難いものとしている根源なのです。
最も標準的な日本語の表記スタイルは漢字とかなの混用による和漢混淆文(わかんこんこうぶん)と言われるものとなります。
呼び方など意識しなくとも日常的に何の抵抗もなく利用している表記方法です。
義務教育で徹底的に漢字を教え込まれた私たちは漢字を使用することに対して意識をしなくともできるまでに鍛え上げられているのです。
漢字という文字がない日本語を考えてみましょう。
表記文字はすべてが音としての「ことば」を表わすための文字だけであり、一文字ずつを見ただけでは「ことば」としての意味が分からないものとなります。
いわゆる表音文字と言われる文字だけになります。
世の中に存在する言語のほとんどが一種類の表音文字しか持たない言語です。
「ことば」の音を表わすための文字しか持っていない音声言語ということができます。
表記された文字は「ことば」としての音を表わすための記号であり、言語によってはそれを分かりやすくするために「ことば」単位でスペースを空けて表記するルールを持っているものもあります。
英語やフランス語、ドイツ語などのほとんどの先進文化圏の言語がそうです。
世界に現存する文字のなかで漢字だけが突出して特殊な文字ということができるのです。
文字そのものに意味がありその文字の成り立ちや構成における論理性を考えた時に、とても人間が作ったものであるとは思えないほどの創造性豊かな表記方法となっています。
しかし、この漢字を文字として持っている中国であっても日常的なコミュニケーションは音声言語としての「ことば」によって行なわれています。
話し「ことば」が通用しなかったりする場合に漢字という共通認識のための文字が登場してくることになります。
主な方言だけでも十以上存在しておりお互いには話し「ことば」として理解できない場面もたくさんあるのが中国語となっています。
その意味では、中国語は方言が通用する者同士の間では音声言語として機能しており、話し「ことば」として理解できない場合に限って文字言語としての機能が発揮されているということができます。
民族間闘争の末に統一されていった中国では話し「ことば」としての方言が敵味方を判断するための大切な要素として機能していました。
どの様な話し「ことば」を持っているかによって生死が分かれてしまうことになっていたのです。
しかも、旧勢力の影響は根絶やしにすることが当たり前に行なわれていましたので訛りを探して追及の手を緩めなかったことが記録されています。
日本語を見てみると漢字という意味を持つ文字に複数の読みを与えながらも四種類の文字を使い分けして表記していることになります。
物事を学習するときには「読み書き」を基本としており口伝はある程度の言語レベルを持った者同士に限られて行なわれていたと思われます。
どうやら、現存する言語の中では日本語は他の先進国の言語とは異なった文字言語として機能しているもののようです。
より正確なことを伝えようとするときは話すことよりも文字を書くことによって行なおうとします。
四種類の文字はたとえ同じ「ことば」を表記したとしても書かれたものではニュアンスが違っています。
感じ、ひらがな、カタカナ、アルファベットで同じ「ことば」を表記してもそれぞれのニュアンスやイメージが変わってしまうのです。
感覚的にこの違いを分かっていないとコピーライターという仕事は成り立たないものとなってしまいますね。
そして、これらの感覚の違いは話し「ことば」としてはすべて同じ音として扱われることになります。
話し「ことば」になったとたんに文字の種類による感覚の違いがなくなってしまうことになります。
世界の現存する言語の中でもこれほど極端な文字言語は存在しないのではないでしょうか。
他の言語においては日本人が思っているよりも話して伝えることは重要なこととなっているのです。
文字として表記し表現することよりも話して伝えることの方が需要視されていると言ってもいいのではないでしょうか。
言語は話し「ことば」から始まったことは歴史を見ても明らかなことでしょう。
幼児の言語の習得過程を見ていてもよく分かるのではないでしょうか。
日本語が持っているこの文字言語としての機能は、使いこなすためにはとんでもない習得過程が必要となります。
表音文字の一種類しか持たない音声言語に比べたら想像もできないくらいの学習要素を持ったものとなっていることは簡単に理解できることです。
この日本語という言語は日本語を母語として持っている者にとっても生涯使いこなすことができない言語なのかもしれません。
日本語という言語の中の一部で十分に生活をし研究をし娯楽をして生きていけるものなのかもしれません。
それほど大きな機能を持った言語ということができるのではないでしょうか。
なぜ、日本民族にだけこんなにも高機能の言語が継承されているのでしょうか。
それと気づかずに伝承されて、さらに新しい言語文化を取り込みながらも変化し続けているのでしょうか。
ますます日本語の中でも共通語としての国語としての役割が大切になっていくのではないでしょうか。
国語は日本語の中のほんの一部を限定的に共有しているものでしかありません。
しかし、あらゆる学習は国語によって行なわれているものとなっています。
しかも、どんな方言のある日本語の地域であろうとも義務教育において極めて厳格に統一的に学習されているものとなっています。
文字言語であるからこそ「読み書き、書き取り」が重要視されてきたのです。
日本語を最も生かすためには文章として表記することになりそうですね。
それでも日本語を母語として持っている人にしかそのニュアンスは伝わらないのかもしれませんね。
文字言語である日本語を知的活動で生かすためにはとにかく文字化することが大切になります。
音声言語である外国語との交渉においてはひと工夫もふた工夫も必要になることは当たり前ですね。
日本語を知ることによって相手の言語の特徴も知的活動も理解できていくのではないでしょうか。
どうやら日本語の研究はどこまで行っても終わりのない活動のようです。
また、新しい発見があるたびに報告していきたいと思います。
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