(参照:日本語で伝えるための技術(1))
今回は次の段階として伝えるための言葉としてどのような言葉を選んだらよいのかということについて触れてみます。
文字によって意味を理解している言葉が多い日本語は、音としての「ひらがなの音」になった途端に意味を理解するのに苦労をすることになります。
それは聞いている方が「ひらがなの音」を聞いてから行なっている理解するための活動をよく考えてみると分かるのではないでしょうか。
自分でやっているときのことを思い出してください。
「ひらがなの音」からすぐに言葉としての意味を理解していますか。
そこには文字に置き換えるという過程が存在していませんか。
特に、同音異義語がたくさんある言葉などはどの漢字を使っている言葉なのか探していませんか。
使っている漢字を特定できたことによって意味を理解しているのではないでしょうか。
”ひらがなの音 ⇒ 文字への置き換え ⇒ 意味の理解” という過程が行なわれていることになります。
さらに、この「ひらがなの音」から文字への変換は聞いている人の中で持っている言葉で勝手に行なわれていることであり、伝えている方にはどのような変換が行なわれているのか全然わかりません。
つまり、伝えた方が意図している文字なり言葉なりに変換されている保証はまったく無いということになります。
また、伝える方が意図している言葉として発した「ひらがなの音」のアクセントや音の長短などから聞き手が同じ言葉を選んでくれる保証もありません。
伝える方が発した「ひらがなの音」が聞き手にとっては言葉の音として受け取られないこともあることになります。
「ひらがなの音」が文字に変換されたときに漢字にしなければならないから違ってしまう可能性があることになります。
「ひらがなの音」だけから文字を特定できる言葉はないのでしょうか。
そうです、音としてのひらがながそのまま言葉になっている「ひらがなことば」は間違えようがないものになります。
ひらがなでしか表記されない言葉こそ音と文字が一対一で対応しており、他に変換される候補すらないことになります。
ひらがなのすべてが一つの音しか持っていなければ間違えようがありません。
しかし、ひらがなにも使い方によって二つの音を持つものが存在しています。
例えば格助詞としての「は」や目的地や方向を表わす助詞の「へ」は、そのままの音以外に「ワ」や「エ」という音を持っています。
「わたしわ」という「ひらがなの音」は文字としての「私は」と変換されて意味が理解できていることになります。
この活動はあまりにも頻繁に行われているために話し言葉としての「わたしわ」は文字に変換しなくとも記憶されている意味に直接結びついていると思われます。
日常的に頻繁に使用している言葉においてはその変換行為が記憶されており、「ひらがなの音」から直接意味につながっているような感覚を持っているのではないでしょうか。
”ひらがなの音 ⇒ 文字への置き換え ⇒ 意味の理解”における「ひらがなの音」と「意味の理解」が直接的に記憶として結びついており、過程としての「文字への置き換え」がなくても困らない程度になっているのだと思われます。
すぐに意味を理解できない「ひらがなの音」に出会った時には確認するために文字への変換行為を改めて行っていることがよくあると思います。
同じ経験を繰り返すことによって学習されてしまい、過程が意識されることなく原因と結果が結びついて記憶されてしまうことは様々な分野でよく知られていることとなっています。
ここで種明かしをしなければいけません。
先ほど「わたしわ」は「私は」と文字になって理解しているといいました。
実はこれは文字として表記しているうえでだけのことなのです。
実は話し言葉としては、全く反対のことが起こっているのです。
文字として「わたしわ」と書いたものを見ているから意味が掴みにくいのです。
文字としての「私は」の意味は音としては「わたしわ」で理解しているのです。
口に出して言ってみてください。
音としての「わたしわ」は文字にすることなくそのまま理解しているのです。
音としての「わたしわ」は誰もが理解している純粋な日本語としての「ひらがなことば」ですので音そのものが意味を表しているのです。
ここでは話し言葉についてのことを文字で表現していますので実感としてつかみにくくなっていると思われます。
ぜひ、実際の話し言葉でも経験してみてほしいと思います。(参照:はなし方ときき方)
日本語は「ことだま」と言われるようにもともとは音によって意味を持っている言語です。
そこに新しい文化としての外来語をたくさん取り込んで今の日本語が出来上がっています。
もともとの音による日本語は母語として日本語を持っている人にとっては、聞きなれていない音であってもかなりの範囲で推測ができるものとなっています。
昔からの音による日本語が「やまとことば」と言われるものです。
漢語も外来語です。
その漢語に対して文字としての意味を利用しながら「やまとことば」が持っていた音と意味を与えたものが漢字の訓読みだと理解していいと思います。
音としての「やまとことば」に表記としての漢字を加えて日本語として取り込んでいったものが訓読み漢字になります。
同じ漢字を使っていても音読みとして利用しているものは日本語として取り込まれていない外来語として文字の意味を利用しているものだということができるのです。
音読み漢字による表現はカタカナによる外来語表記と同じことになるのです。
音としては日本語になり切っていないものとなるのです。
だから「ひらがなの音」として話し言葉になったときに文字を考えないと意味が理解できなくなることがあるのです。
それでも頻繁に使われている音読み漢字は、先ほどのように文字への変換行為が省略されて音と意味が直接結びついて記憶されていることが起きているのです。
これはすべての人が同じ音に対して同じ意味を結び付けているとは限りません。
その言葉に対しての経験と使われ方がすべての人に共通とは限らないからです。
話し言葉として伝えることが適した言葉はもう分かりますね。
「ひらがなの音」が直接意味をあらわしている言葉です。
文字に変換する過程を必要としていない言葉です。
「やまとことば」はもちろんのこと、現代の日本語の中でも音としての意味を持っている言葉がたくさん存在しています。
具体的に言えば「ひらがなことば」と訓読み漢字で表すことができる言葉たちです。
これらの言葉を「現代やまとことば」と呼んでいます。
「ひらがなの音」がそのまま日本語としての意味を伝えてくれる言葉です。
「ことだま」に結びつくことができる言葉たちです。
日本語を母語とする人にとっては誰もが同じ意味を感じ取ることができる言葉です。
音読み漢字による言葉も外来語も「現代やまとことば」だけを使って説明することができます。
ひとことで言い換える必要はありません、その言葉の持っている意味やその言葉で伝えたいことを「現代やまとことば」を使って説明すればいいのです。
自分で使いたい言葉が「現代やまとことば」で説明できないということは、その言葉に対して自分の持っている日本語でしっかりとした理解ができていないことになります。
そんな言葉を使って他の人に理解してもらおうとすること自体が無理なことではないでしょうか。
限られた紙面やスペースに書かれた言葉は略語や外来語や音読み熟語が多くなってしまいます。
それらの言葉を「現代やまとことば」で置き換えたり説明したりする練習はとても役に立ちます。
日本語で伝えるための技術の二番目はしっかりと日本語になっている言葉を使うということにほかなりません。
それが「現代やまとことば」ということになるのでしょうね。
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