日本語は四種類の文字と一種類の音を持った言語です。
(参照:四種の文字と一種の音)
表記する文字を四種類(漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベット)も持った言語は他には見当たりません。
複数の表記文字を持った言語は韓国語のように(漢字、ハングル)たまに見かけることはありますが、すべての文字が日常的に混在して表記されているような言語は日本語だけではないでしょうか。
四種類もの文字を日常的に使いまわしながらも同じ言葉に対して四種類の文字表記が可能である言葉がほとんどを占めている日本語は、他の言語話者から見たらとんでもなくややこしい言語と映るに違いないと思います。
もし私の母語が一種類の表記文字と一種類の音でできているものだとしたら日本語は触れたくない言語の最右翼だと思います。
こんなにややこしい言語ではありますが、生まれた時から母語として無意識のうちに身につけてきた私たちにとっては当たり前のように使いこなしているものとなっています。
日常的に無意識のうちに使用しているコミュニケーションのツールについて言語としてのややこしさなど感じることはないのではないでしょうか。
日本語だけの環境の中で生活している限りにおいては言語のことを考える機会すらないのかもしれません。
義務教育で英語という他の言語に触れた時に日本語よりもはるかに単純な言語であるにもかかわらず難しさを感じたのは、日本語というとんでもなくややこしい言語が当たり前の標準的なものとして身についてしまっていたことの証ではないでしょうか。
英語が世界の共通語としての地位を確保し続けているのは、経済的軍事的な影響力やラテン語という極めて裾野の広い言語を源流としているだけでなく言語としてのシンプルさにも要因があるのではないかと思っています。
さて、日本語の中でも四種類の表示文字のうちその文字だけでは完全な形で日本語を表記できない文字があります。
言葉の音としての日本語をすべて表記できるのは、ひらがな、カタカナ、アルファベット(ローマ字)の三種類であり、漢字だけでは日常的に誰もが読める表記はできません。
これは日本語が持っている音が「ひらがなの音」であるために、ひらがなとカタカナは当然のこと音に対応した表記のローマ字も完全表記が可能となっているのです。
しかし、漢字はひらがなの音に対応した文字になっていません。
「夜露死苦」(よろしく)のように当て字表記はできたとしても万人が共通して理解して日常的に使用できる文字とはなっていません。
文字が登場する以前に話し言葉だけで存在していた言語があったことは歴史が物語っています。
日本にも「古代やまとことば」として文字を持たなかった言語が存在していたことが確認されています。
「ことだま」(言霊)と呼ばれるように日本語は「ことば」の音によって、その感覚や意味を共有し継承してきた言語です。(参照:言語と「ことだま」)
それが漢語の導入によって文字による理解へと大きく変化していったのです。
それは形あるものとして具体的で理解しやすいものでした。
すぐに漢語による文化導入と表記方法を取り入れていきました。
しかし、そこには現実的に存在していた話し言葉だけの「古代やまとことば」とは大きな感覚的な隔たりがあったことが想像できます。
そうでなければあれほど便利な意味を持った文字である漢語から、意味を持たない音だけを表す仮名を大変な思いをして生み出す必要はなかったと思われるからです。
漢語が導入された当初の勅撰の書物は漢詩集でした。
勅撰漢詩集は三代で終わりを告げ、その後は「古今和歌集」に始まる和歌集に取って代わられていきます。(参照:原始日本語はなぜ残ったか?)
和歌は万葉集に見るように漢語導入以前より唄として広く存在していたものです。
漢語に傾いていた表記方法を追いやるようにひらがな表記がどんどんと出てくるようになります。
公式文書においては漢字を使用することは中国に隷属する国としての立場上仕方のないことです。
漢字は文字自体が意味を持っていることで記録化するためにはもってこいの機能を持ったものです。
それにもかかわらず、文字を持たなかった言語である「古代やまとことば」を駆逐しきることができなかったのです。
「古代やまとことば」の音と「ことば」がそれほど浸透し定着していたことをうかがわせるのではないでしょうか。
その結果、鎌倉時代頃より漢字とかなの混用表記が多く見られるようになります。
両方のいいとこ取りとも言えますしどちらの感覚も中途半端ということもできるのではないでしょうか。
日本語の感覚という観点から見れば漢字(特に音読みの音)によって元の「古代やまとことば」の感覚が伝わりにくくなったと言えます。
音としての「ことば」に替わって文字としての意味が前面に出るようになったのです。
しかもその意味の構造が形から極めて分かりやすいものとなっているので理解するためにはとても便利なものなのです。
明治期にはこの漢字の造語力を利用して非常にたくさんの新しいことばが生まれました。
今現在、私たちが使っている漢字のほとんどはこの時に生み出された漢字だと言えるでしょう。
これ以降、一般的にも漢字かな混用表記が広がるようになり音としての「ことば」よりも文字としての「言葉」の方が重要視されるようになりました。
音読み漢字の熟語を理解する時に私たちはどのように行なっているでしょうか?
「開閉」(かいへい)という熟議があります。二文字とも音読みです。
この熟語を理解する時には「開く(ひらく)ことと閉じる(とじる)こと」としていませんか。
これは文字が持っている意味を動作にして「やまとことば」にした音が「ひらく」であり「とじる」であるということです。
日本語が持っている音は漢語の導入前から変わることなく「ひらがなの音」だけなのです。
この音が日本語の感覚を作っている「ことば」なのです。
この「ひらがなの音」が意味を持った音だったのです。
文字としての「開閉」を見ただけで意味としては理解できますので「ひらく」も「とじる」も音として表現することはないと思われます。
音としては「かいへい」というひらがなの音ですが、これは「ことば」としては意味を持たない音なのです。
言語の伝達は文字によるものよりも話し言葉によるものの方がはるかに多いものとなっています。
その割合は80%とも言われています。
音として意味のない漢字の音読みによって伝達しても日本語の感覚としては伝わり難いものとなっていると思われます。
一般的な情報は視覚によるものが80%程度と言われていますが、言語の場合は同じようにいかないのですね。
目に見えることによって理解できる漢字は視覚に訴えることが多い現代においてはとても便利なものです。
しかし、言語は最終的には音によって感覚とともに理解するものであるようです。
日常的な感覚では漢字がメインでありひらがなが漢字を補っているように映っているのではないでしょうか。
それは文字としての言語情報に慣れすぎてしまった弊害かもしれませんね。
日本語の感覚は音としての「ことば」にこそ籠っているもののようです。
日本語の感覚としての原点である「ひらがなの音」を視覚的な意味として漢字が補っていると考えたほうが良いようです。
その意味では表記したときにも話したときにも同じ感覚として受け取ることができる訓読み漢字こそ和漢融合の傑作と言えるものかもしれないですね。
音読み漢字は日本語の感覚から外れた外来語として扱った方が分かりやすいかもしれません。
もともと漢語自体が日本語から見たら外来語だったことになります。
その漢語から日本語を表記するために生み出したものが仮名です。
さらに、もともと日本語が持っていた「ことば」に文字として持っている漢字の意味に近いものを充てたものが訓読み漢字ということになります。
そこには送り仮名まで生み出して便利な漢字を利用していたのですね。
訓読み漢字は文字としての意味を漢語から拝借した表記を使った「やまとことば」ということができます。
音読み漢字は外来語ですが訓読み漢字は「やまとことば」であると言えるのではないでしょうか。
表記としてたまたま漢語としての漢字の意味を借用したものと言えると思います。
同じ文字であったとしても音読みと訓読みがあることで同じ文字でも読んで意味のある音になるのかならないのかが分かれることになります。
見た目が同じだけに紛らわしいものですね。
音読み漢字の意味を考えているときはその漢字の訓読みをイメージしているのではないでしょうか。
訓読みとしての音を持っていなかったり思い浮かばなかった時に、部首などの文字の構成から意味するところを想像しているものと思われます。
慣れ親しんでいる漢字においては訓読みや「やまとことば」としての置き換えが省略されて、直接的に意味を理解できるようになっているということなのかもしれません。
音読み漢字がしっくりと来るのは専門用語や固有名詞として使用される場合ではないでしょうか。
ある種、外来語と同じ使い方になると思います。
その意味をしっかりと伝えるためには、日本語としての「ことば」で表現しなおす必要があるものと思われます。
文字が使えない口頭だけの環境においては覚えておきたいことですね。
便利な文字である漢字にも日本語の感覚にとっては功罪がありそうです。
特に話し言葉として使用するときには文字としての情報がないだけに漢字の使い方に気を付けたいものです。
訓読み漢字には「ことだま」が生きているのに、音読み漢字には関係のないものになっているということなんですね。
・ブログの全体内容についてはこちらから確認できます。
・「現代やまとことば」勉強会メンバー募集中です。