義務教育における外国語の教科が始まったのは、私が経験したのは中学生に入学してからの英語からでした。
現在では小学校五年生からが標準となっており、さらに実験的には小学校の三年生からの取り組みも始まっています。
また、日々触れている情報においても最早日本語だけでは成り立たなくなっているのが現状ではないでしょうか。
その中には日本語として取り込んできた外来語や和製〇〇語として作ってしまった見た目だけの外国語も多くなってきており区別がつかなくなっていると思われます。
明らかに外国語であるとわかる言葉であれば意識して避けることも可能ですが、普段使われる日常語の中にも数多く浸透しているのではないでしょうか。
その中でも日本語の語彙の一つとして単語として取り込まれているものについては、日本語に与えている影響はそれほど大きなものとはなっていないと思われます。
ご飯やみそ汁と同じ感覚で使われているスクランブルエッグやトーストは、外国語というよりはカタカナの日本語化し日本語の語彙の一つとなっていると思われます。
この状態になれば、元の外国語として持っていた感覚を離れて日本語の感覚として日本語の一つの名詞ということができます。
日本語が持っている文法や用法のなかで日本語として使用されている単語となっているからです。
この種の言葉はほとんどが名詞でありますが、一部の動詞は「ジョインする」のように「〇〇する」といった形で取り込まれているものもあります。
joinは英語では名詞としての使用法はありませんが、「〇〇する」という用法によって日本語としての動詞化したものと言えるのではないでしょうか。
このような状況は動詞であったとしても単語としての語彙が増えただけであって、日本語としての基本的な文法や用法・構造などに影響を与えているものとはなっていません。
したがって、日本語として持っている基本的な性格や傾向については変わっていないと言うことができます。
その意味では、日本語化したことによって単語として日本語の語彙を増やしたものとして扱うことができるものです。
動詞的な使い方をされる外国語を「〇〇する」という形で取り込んだのは、日本語が基本的な性格を維持するための工夫の一つではないでしょうか。
名詞は動作を表しませんので名詞だけで文章を構成することは出来ません。
反対に、動詞は命令形や主語が想定できればそれだけで文章を構成することができます。
単語の単体では言語の性格や傾向を表すことは出来ませんが、短くとも文章になってくると言語の基本的な性格が現れてきます。
それは文章に含まれている要素の関係によってその言語の持っている独特のものが現れてくるからです。
主語、動詞、修飾語などの並び方や関係性によってその言語が持っている基本的な性格が現れてくるからです。
漢字においても「開店」は店を開くことですが日本語としては名詞として使われます。
「開店する」という表現によって日本語の動詞になっているのですね。
基本的な文章の構造だけではなく、並び替えにおける表現がどこまで許されるのかや疑問や命令・強調の時の語順の入れ替えの仕方などによって言語としての個性が出てくるからです。
ひいてはそのことから単語同士の関係性を表すことから文章同士の関係や段落同士の関係性を表すことになります。
結果としてどのような論理を基本としているのかや状況に応じた論理の融通性や展開のバリエーションなどまでつながっていくことになります。
先ほどの「開店」は「開店する」と「店を開く」では語順が入れ替わっていますよね。
更には「開店」という名詞まで入れると同じことに対して様々な語順と感覚が存在することになります。
外国語を習得しようとするときに、単語は丸暗記で覚えることができても意見やニュアンスを伝える時の表現の仕方がなかなか身につかないのはこのことが影響しているのです。
単語を覚えているうちは、母語として持っている自分の言語の単語として覚えますので日本語を母語として持っている場合には日本語の単語として覚えていることになるのです。
どんなにアルファベットで表記してみてもそれっぽい発音をしてみても日本語の語彙の一つにすぎないのです。
母音の数や主語や述語の語順については世界の言語のなかで日本語は決して特殊なものではありません。
(参照:日本語って本当に特殊なの?)
その日本語が先進国の言語の中に入るときわめて特徴的な特殊な言語となってしまうのは、世界の言語のなかで先進文化を作ってきた言語が特殊なものであったことを物語っていると思います。
世界の先進文化を作ってきた言語は、英語でありフランス語・スペイン語・ロシア語・ドイツ語であり古くはラテン語や中国語です。
いわゆる先進国の言語は決して世界に存在する言語としては平均的な標準的なものではなく、論理や効率や説明に適した性格を持った特殊な言語たちであるということができます。
先進国は戦勝国であり技術・経済において世界に影響を与え引っ張ってきた国です。
最後の大戦で戦敗国となったのが日本、ドイツ、イタリアであり世界の決定機関である国連における公用語の地位を与えられることのなかった言語です。
遅れてやってきた巨大な後進国だった中国も先進国の仲間入りをしつつあります。
中国語は国連創設時に公用語になっていた言語です。
日本語の持つ基本的な性格は自己主張をしないで理解しようとするものです。
この基本的な性格が言語の構造にも現れているのです。
自由度の高い語順でありながらも動詞(述語)は最後でなければならないのです。
他の先進国の言語で動詞(述語)が最後に来るものはありません。
むしろ、必ず主語を必要としそのあとすぐに動詞が来るものばかりです。
主語はほとんどの言語が必ず必要であり具体的な人や物でない抽象的なことを表すための代表的な主語までも存在しているものが多くなっています。
つまり、「誰が(何が)どうする」を極めて明確に伝えるために都合よくできているのです。
日本語は、省略の言語と言われるほど言語化されることが少ないものとなっています。
その中でも主語が省略されることは当たり前と言えるほどです。
さらには、語順の自由度が高く明確な表現を避けようとする性格を持ったものとなっています。
基本的な態度は自分を主張することよりも相手を理解しようとする言語となっているのです。
そして、理解しようとする中身は言葉や論理よりも相手の気持ちや感情・状況のほうに向かっているのです。
論理よりもその論理を展開している環境や状況においてどのような気持ちでその論理を展開しているのかが理解の中心となっているのです。
そのために、同じ状況であってもさまざまなニュアンスの違いを表わせる表現を持っているのです。
厳しい自然にさらされた後進国の中には、日本語と同じような性格を持った言語が多く存在しています。
日常的に使われている語順や単語の性格についても似たようなものが多くなっています。
しかし、彼らの言語は技術や経済の分野においては先進国とはなり得ませんでした。
世界に影響を与える言語とはならなかったのです。
日本語の持っている基本的な性格は、現在の先進国の言語よりは彼らの言語の方により近いものとなっていると思われます。
母語として持っている言語の基本的な性格や傾向は、あらゆる活動において影響を与えていますが意識することはないと思われます。
母語の環境にいる限りにおいては、その必要が全くないからです。
ところが、言語の基本的な性格の異なるものや環境に出会った時に、一種の理由のない違和感的なものとして感じる感覚的なものとなっているのではないでしょうか。
これを放っておくとストレスを感じることになるのだと思います。
今の日本社会は、アメリカ型英語の感覚によって作られた社会を模倣してきたものです。
とくに政治や企業の運営においてはその影響がかなり強いものとなっていると思われます。
世界でストレスを感じている社会人がいちばん多い日本の現状と無関係ではないと思っています。
具体的的な原因を探してみたところで、言語の基本的な性格の違いによる感覚的なところまで追及することは難しいのではないでしょうか。
理解することにおいては無意識に勤勉に行なうことが苦ではありませんので理屈で理解することは得意なのです。
しかし、理解していることと実際の活動における感覚の違和感とは別に存在しているのです。
これは無意識に起こっていることです。
言葉にすれば「訳もなくイヤだ」と感じることかもしれません。
理解出来るけどやりたくないことなどはその典型ではないでしょうか。
日本語だから持っている特殊な感覚ということではないと思います。
あくまでも相対ですので、他の先進国の言語に比べるとこのような特徴があるということです。
他の言語で触れることが多いのは先進国の言語であることに間違いはないでしょう。
それは好むと好まざるとにかかわらず日々行なっていることになります。
そんな見方をしていったら、もっと実用的な日本語の性格の利用の仕方も見つかるかもしれませんね。
ストレス対策にも役立つものが見つかるのではないでしょうか。
大切に持ち続けたい性格と傾向ではありますね。
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